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“極める”ということ

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何かを極めるという事は本当に難しい事だと思う。自分はその気になってても、実は全然そうじゃなかったって経験のある人はかなりいるのではないか?

例えば、ここにちょっと傲慢な小学生がいて、「僕は足し算を極めた」と言ったとする。なるほど確かに彼は“5+3=8”というのは瞬時に計算できるし、“7398+3791=11189”という計算も紙に書けば出来る。もっと桁が多くても時間を掛けて筆算をすれば、答えを出す自信がある。しかし、だ。それで“足し算を極めた”とは言えない事は中学生以上なら明らかだ。多分その小学生は“3+(−5)=”という式を見ても答えが分からないだろう。いや、そもそも彼にとっては「これを足し算と言うのか?」という思いを抱くのではないだろうか?

これは全く仕方の無い事である。普通の小学生の言うところの“足し算”とは『正の有理数同士の足し算』であるからだ。でもこれは中学生になれば『実数同士の足し算』を習うし、高校生になれば『ベクトル同士の足し算』も習う。つまり、その世代によって“足し算”の定義は変わっていくわけである。

ところでこれは容易に感じられる事だが、“数字”というのは今の所『複素数』で全てが表せるはずであるが、これが将来に渡ってもそうか、というのは非常に微妙な処だ。基本的に僕たちが実生活で感じられる数字と言うのはせいぜいが自然数どまりな筈で、ある意味でそれ以外の数字(分数、小数……)は全て「存在自体が不自然である」と言える。(事実、インドでは自然数の概念が確立されてから“0”が発見されるまでには1000年もの年月が掛かっている。)複素数を例に取ってみれば、これは例えば判別式の値が負になる二次方程式の解に出て来るが、じゃあだから複素数が必ず必要か、というと決してそんな事は無いわけだ。「解無し」とすれば良い訳だから。

さて冒頭の小学生の話に戻るが、彼が「足し算を極めた」気分になるのはもっともな事である。しかし、現実がそうではない事は明らかだ。これは簡単に言えば“小学生が無知”なわけであるが、しかしこの種の問題は日常生活の至る所に転がっていると思うのである。そしてこれの厄介な所は“自覚症状が無い”事に尽きるだろう。

何かについて全てを把握したつもりになったとしても、それはとんでもない勘違いかも知れない。何かの目標に向かって頑張って来たとしても、その方法は間違っているかも知れない。そもそも目標自体が見当違いかも知れない。それを防ぐ方法は、常に疑い続ける事しかないような気がする。長い時間を掛けて考えていく事によって初めて少しずつ正解に近付いていけるような気がする。


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