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話法と論法

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――たとえば、よ。
たとえば誰かが優秀な脚を持っていて、百メートルを十秒台で走れるものとする――となると、彼は二百メートルを二十秒で走れるかしら?
三百メートルなら三十秒? フルマラソンだったら、四千二百十九・五秒――一時間ちょいで走れることになるかしら?
……そんなことはない。駆けっこの目的は少しでも早く走ることだけど、距離が伸びれば伸びるだけ、どんどんスピードそのものは遅くしていかざるを得なくなる――あるところでの達成は“そこ”までしかなく、それ以上を望むなら、そこまでやっていたことを抑えなくてはならない。そうでないとその先には行けない――何でこんな話をしているかって?   ――雨宮 世津子 (ビートのディシプリン SIDE1[Exile] 319頁)


これは2002年12月17日にWORDで引用した台詞なんですが、ここで強調したいのは何でこんな話をしているかって?の部分ですね。つまり、この雨宮世津子という人物は一見本論とは関係なさそうな話をしていて、実は核心を突く――という話し方をしているわけです。現実的な問題として、言語で対象物を的確に表現する、という事が難しい場合というのが多々あるわけですが、そんな時どうすれば良いかと言うと、「例えばこんな事があるよね。で、こんな事もあるよね。さらにはこんな事もあるよね。さぁ、ここから共通点を見出して、言いたい事を感じてよ」という手法が採られたりするわけです。つまり抽象的なAという事象が真である事を伝える時に、Aを含みつつしかも真である事が明白である事象のBやCやD……を提示して、さてB∧C∧DであるAを感じてもらう、という事です。勿論B・C・DがAを含んでいるからといって、B∧C∧D=Aとなるわけではないですが、まぁそこは厳密な数学をやってるわけではないので許してもらうとして、しかし、このような論法は確かに現実に存在してると思うんですよ。僕も家庭教師で数学教えてて、ついやってしまうんですが(←本来ならば数学でそのような事は絶対にすべきでない筈なのだが、最近はこれに拘らない方が“成績的には”良くなることが分かったので、少し規制緩和しました)、生徒の方がこの言い方が分からない、という事は無いですね。

というわけなので、BやCやDを提示して、それでも「こっちはAを知りたいんだけど」って言われると、激しい脱力感に見舞われますね。さんざん問題を解説した後に、「これとこれを掛ければ良いの?」的な質問をされると非常に腹が立つのと一緒ですね。(って、こういう論法ですね)

別に僕は、何回説明しても分かってくれないとか、さっぱり問題が分かりませんとか、知ってて当然な基本的な記号の意味が分からないとか、そういうのには極めて寛容なんですが、「これとこれを掛ければ良いの?」的な、『問題の意図を読み取ろうとしないで表層的な部分(この場合は出て来てる数字など)だけに囚われて為される行動』は物凄く嫌いなんですね。簡単に言えば『何にも考えてないのに何かしようとするのが許せない。何にも考えてなくて何にもしないのは良いけど』って事になりますかね。


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