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“異常である”ということ

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教え子に「先生は何で数学好きなの?」と聴かれる事はよくありますが、このような時、嘘を付くのが大嫌いな僕は必ず「そうだね、他の科目よりは好きだね」と応える事にしています。そしてさらに「君も何か自分の好きな科目を見つけると良いよ」と続けます。やはりやっても苦にならない科目があるというのは大きい事だと思います。多分、他の科目にも好影響を与えるでしょう。

さて、今日は「先生は何で数学をやってるの?」という事を言われました。まぁ生徒としては「先生は何で数学好きなの?」と大差無い意味で訊いたのでしょうが、僕は少し考えてしまいました。
以下は全て、今日の帰宅途中の電車内で『それについて』考察した事です。時間にして約23分間。

不思議なのは“異常である”という事の定義である。考察の仕方に依って意味が全く変わって来てしまう。

或る人(A)を別の或る人(B)が「異常だ」と言う。
するとBが「正常だ」と認めているさらに別の人(C)が「“異常”というものは我々が勝手に判断しているもので、それは『我々と違いが在る』という事に過ぎない。本質的に“異常なもの”など、この世には存在しない」と主張する。
また、Bが「正常だ」と認めているさらに別の人(D)は「そもそも“我々”という枠組みに意味が存在するのか? 我々の何処までが“我々”で、何処からが“我々でない”のか、その判断の根拠は何なのだ? それこそ極めて主観的な『異常・正常論』に過ぎないのではないか? 私は宣言する。私は“我々”など存在し得ないと宣言する。私は“我々”などというものに属してはいない。強いて言うならば、私は“私”である。私が“私”というカテゴリー以外の何の要素になる事があろうか。だからAは“A”であるし、Bは“B”である。それ以上でもそれ以下でもない。よって、『Aが異常か正常か』或いは『“異常とは何か?”という命題を追求する事』は余りにも無意味である。つまり、“異常”というのは概念からして既に無為のものであると言える」と話す。

この辺りの事は多くの人達によって既に議論されて来た事だ。
そしてBが「正常だ」と認めているさらに別の人(E)は、こう思う。

「では、確かに『Aは異常だ』と思ってしまう、この感情は何なのだ?」と。

恐らく上のB・C・D・Eの4人の主張の中ではDが最も『正解に近い』。最も考察が進んでいるし、少なくとも僕には議論に穴が見えない。
ただ、「これでも何かおかしい、何か足りない」と感じるのは『正常な事だと思う』。それをEが端的に表している。

「では、確かに『Aは異常だ』と思ってしまう、この感情は何なのだ?」

多くの人がこう感じているのではないかと、『僕は考える』。そして一瞬、不覚にも

「これって何か、議論がループしているな」

と『感じてしまう』。

そして思い直す。

「いや、そんな事は無い」と。




その時、“時間の流れは絶対ではない”という事――この事に何故か引っ掛かりを感じた。

“時間の流れは絶対ではない”事の証明としてよく用いられるのは『電車内に於ける光の反射実験』であろう。電車の床に光源を置き、ほぼ同じ位置に光源と連動させた『光に反応する装置』(←名前はよく分からない)を、光源の真上の天井には鏡を設置する。これで光源から出た光が鏡で反射して装置に到達するまでの時間を計測する事が出来る、というわけだ。
ここで上記の時間をt、電車の高さをh、光速をcとすると、t=2h/cであるが、これを電車の外から観測したとすれば、電車の速さをvとして、t=2√(h^2+(v*δt)^2)/cとなる。h、c、vは全て定数だから前者のtと後者のtは値が異なる事になる。“同じ期間を計測した筈なのに、異なる時間が計測される”という事は即ち、“両者に於ける時間の流れの速さが異なる”事を意味している――とまぁこんな処である。

この議論は様々な問題を孕んでいると思う。その中でも気になるのは、
・地球上の大地が絶対座標のように書かれている事
である。(アインシュタインの相対性理論を証明する等の行為にとっては(多分)問題ではない事である事に注意して欲しい。あくまでも現在の主題はタイトルの通りである)
この宇宙に絶対座標など存在しない。在るのは相対的な位置関係だけであり、例えば中学数学でやる直交座標系などにしても同様だ。辛うじて『仮想的に位置を絶対視する事も出来る』に過ぎない。
気になるのは、これが『容易に盲点に成り得る』という点だ。宇宙に於ける座標の問題などは、誰もが知っているにも拘らず、先のような議論を訊くと特に違和感も感じない。


恐らく僕たちが本能的に感じ取れる“世界の関連性”など、本当に明らかなものばかりなのだろう。多くの“関連性”は無意識の内に秘匿され、僕たちはそれに、『気付けていない』か『気付いていても意識出来ていない』か『活用し切れていない』のだ。


きっと“異常である”事についても同様だ。

僕は『何かを見落としている』。

それは“関連性”(=“条件”)そのものかも知れないし、その重要性かも知れないし、活用方法だけかも知れない。

とにかく、“僕は『何かを見落としている』。”




ああ、嗚呼――僕は“それ”を見つけたかったのか。


――とまぁ、こんな処でした。文章にすると1分で読めてしまう事を考えるのに23分も掛かっています。情けない・・・


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