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長い髪が自慢の少女は本当に自分の髪の毛が好きなのか?

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とてもとても微妙な問題なんですけど、最近とても気になるので。

此処に例えば自分の長い髪の毛が自慢の少女が居たとして、では彼女は何を気に入っているのでしょうか? 髪の毛が好き? そんなわけないですね。多分彼女は鬘とか貰っても全然嬉しくないでしょう。自分の髪の毛が好き? うーん、「君は自分の髪の毛が好きなのかい?」と訊いたら彼女は「好きよ」と答えるかも知れないけど、そこで僕が魔法使いだったとして、彼女にどんどん髪の毛が伸びてくる魔法を掛けたらどうででょうか? 駄目ですね。じゃあ彼女は「今の自分の髪の毛の状態」が好きなのか? これがかなり良い線に来ている様な気がするんですが、その“状態”っていうのが何処から何処までの範囲なのか、という事と、少女には他の髪型を好きになる可能性が在る、という2つの言葉の定義上の問題が引っ掛かります。

年を重ねるに連れて様々な考え方を身に着けていく中で、『唯我論』(下記註1参照)というのは自分を納得させる手段として究極のものである一つですが、でも上記のような事を考えると唯我論は自分の中だけですら完結させられていない、という気がします。少女は「自分の髪の毛が自慢なのは私の勝手でしょう。貴方なんかに分析されたかないわよ」とか言うかも知れない(此処では同時に『本当に勝手か?』という疑問も発生しますが、それについては今回は省略)ですけど、でもきっと少女自身にも何で自分の髪の毛がこんなに好きなんだろう、という事は分からないに違いなく、そうすると“自分が全て”の唯我論は全然自分について語れてないじゃねーかって事になると思うんですね。

じゃあ唯我論って一体なんだ? ってずっと考えていくと、結局はこれですら他者を納得させるための辻褄合わせの議論に過ぎないんじゃないか、という結論になると思うんですよ。「私の勝手」という言葉に如実に表れているような・・・。

しかしさらに考えてみると、もしも少女が唯我論を体現していたとしたら、僕の分析に対しては『沈黙』で返すのが正しい形なんでしょうか? 「お前が何を言ってようと、私には関係ない」というように。確かに一人の人間が常に一貫した行動を取り続けるのは(創作上ですら)難しいですが、そうなると何処までどうやって仮定したら『正しい議論』ってヤツが出来るのか、さっぱり分からなくなるなぁ。

どちらにしても“実生活では全く役に立たない癖に理論的な穴を見つけるのは不可能である”唯我論はとても魅力的な思考対象だったわけですが、所詮は自身ですら納得させられない、『自愛』(下記註2参照)すら出来ない代物だったのでしょうか? 非常に残念です。


註1:『唯我論』……独我論ともいう。ラテン語のsolus(ただ一つ)とipse(自身)からつくられた語。すなわち、ただ自己自身ひとりだけ、という意味。すべての主観的観念論が徹底的にその立場をおしすすめると、自己自身とその意識があるだけであるという結論、つまり唯我論にいたる。しばしばその代表者にあげられるのは、バークリである。主観的観念論は、感覚的経験をもとにして出発し、そこから感覚にあらわれたものとしてのみ、周囲の世界もほかの人びとも存在するのであり、本来存在しているのは、このように感覚している自己だけとなるので、唯我論にほかならなくなる。イギリスのプラグマティスト、F.C.S. シラーは、唯我論は理論上ではまったく成立するが、実際生活ではこれは不都合なものであるといっているが、これはほかならぬ、理論の真偽は実践によってためされることを告白しているにほかならない。そこで、主観的観念論者は、唯我論にまでおちいっていくことを避けるために、超個人的な意識とか神とかをもちだして、自己個人の意識にあらわれることによって事物(他人もふくめて)存在するという主張を和らげようと試みる。それによって、客観的観念論と同一の立場に帰着する主張にもなる。 【哲学事典(森 宏一編集、青木書店 1981増補版)】 http://web.sc.itc.keio.ac.jp/~funatoka/pavlov/solipsism.html

註2:『自愛』……自身だけを大切にし、対象を大切にしないこと。 http://www.netbeet.ne.jp/~fumitti/philosophy/seimeiai/041.htm


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