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アナログとデジタルは対立構造を為しているか?

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僕は何処か物事を二極化して考えてしまう癖があり、ちょっと困っている。2003年7月1日にWORDで、
問題の要素を二極化して考える事は、それが極論になりやすい事など大した問題ではなく、単に相対的な思考に陥ってしまう可能性が高いという事の方が余程危険である。相対的な思考は数々の重要な要素を無効化してしまう上に、微細な問題に対応出来ないという致命的な弱点が在るからだ。
という言葉を紹介していたが、これはかなり自戒の意味が強い。

もっと具体的に言ってしまえば、例えば「こいつは良い奴か悪い奴か」とか。どちらかに振り分けようとする傾向が強い(気がする)。
勿論、僕の中にだって「普通の人」っていうカテゴリーは存在させてるのだが、所詮それだって、その人の要素を細分化していけば「(自分にとって)良か悪か」を一つ残らず分類出来る筈だという確信のような物の下に在るに過ぎない。

分かりやすく言うと、100点満点の試験をすれば、当然ながら0点や100点以外の点数を取る事だってあるわけである。30点とか67点とか。じゃあ0点や100点以外のような「極端ではない点数」は「曖昧な存在」なのかというと、そうではない。中をよく見てみれば、第1問は正解していて第2問は不正解で・・・等と、やはり二極的な分類が可能なのである。(「いやいや三角というのがあるだろう」と言う人は、さらにその問題の採点基準という物を考えてもらいたい。)

このように一見曖昧な存在も要素を細かく分けて行けば必ず二極化して考える事が出来るのではないか、いや、きっとそうに違いない、というように考えていたわけである。極めてデジタリックな考え方だ。(デジタリックなんて言葉は在るのだろうか?)

ところが1年位前から、その考えは間違っているような気がしてならなくなってきた。例えば「デジタルとアナログ」という対立構造が在るが、これは本当に対立しているのだろうか?

例えば家庭用ゲーム機『プレイステーション2』のコントローラ『デュアルショック2(別名、アナログコントローラ)』は方向キーや左右のスティック、各ボタンに至るまで全ての入力を256段階に検知して、限りなく「動作をアナログに見せる」為の機能が備わっている。これにより、どのくらいの強さでボタンが押されたか等が分かるので、それに応じた出力が為されるわけだ。ところでこれは商品名などでは「アナログ」と言われているが、256段階な以上、実際はデジタルである。

上の例えだと何だか拍子抜けされそうだ。違う例にしよう。このサイトを読んでいる層は学力的に極めて高いレベルだと思うので僕の無知が広く知れ渡りそうで怖いのだが、それを承知で言うと「時間はアナログか?」という問題についてアナタはどう思うだろうか? 普通は「当然だ」と思うんじゃないだろうか? 「時の流れ」という言葉が有るくらいだから切れ目無く連綿と続いてるんだろうと僕の本能だって言っているのだが、物理学に因れば驚くべき事に時間には最小単位が存在するんだそうである。時間に最小単位が有るんだって、そんな事を突然言われても困ってしまうが、そういうもんなんだそうだ。ちなみにその時間とは10の−43乗秒だそうで、これは1秒の1兆分の1の1兆分の1の1兆分の1の1000万分の1に相当する。物理学ではこれを「プランクの時間」と言うらしい。光速度・プランク係数・重力定数から導けるそうだが、どういう仕組みでそうなってるのかは、さっぱり分からない。しかし時間に最小単位があるという事は、長さにも最小単位ってあるのか? 4次元なら時間と長さは等価なわけだし。

他にも例えば中学・高校でニュートンの運動方程式を学んで「この世の物質は全てこれに従って運動してるんだ」なんて言われて何だか薄気味悪い思いをした人は多いと思うのだが、その後にハイゼンベルクの不確定性原理の話を齧ったりすると妙に安心したりとか。

ゲーデルの不完全性定理も「デジタルとアナログ」という二項構造の崩壊を示唆しているように感じる。簡単に定義を引用すると、
算術を公理化しようとすると、それが真実であることが我々には“わかる”にもかかわらず、事実である事を形式的には決して証明できない事があることを証明した。第1不完全性定理は「いかなる論理体系において、その論理体系によって作られる論理式のなかには、証明する事も反証することもできないものが存在する。」というもの。第2不完全性定理は「いかなる論理体系でも無矛盾であるとき、その無矛盾性をその体系の公理系だけでは証明できない」というものである。
という事である。命題は「真か偽か」どちらかで有るにも関わらず、そのどちらとも証明出来ない事がある、という事が証明されてしまったわけだ。

つまり、「命題とは『真か偽か』というデジタルな物であるのに人間にはどちらかが絶対に分からない揺蕩った状態が存在する」というわけだ。そういう意味では既に命題はアナログな世界である。(しつこく言うが「命題の真偽はデジタルだ」という事を我々は知っている。)

ここまで来ると、完全に「デジタルとアナログ」という対立構造は崩壊しているように思える。しかし「デジタル」や「アナログ」という概念そのものが無用かというと、そうでもない。

要は「対立構造」ではない、という事なんだろう。この結論に至ると何故か「光は波動性と粒子性を併せ持つ」という事を思い出す。両者には何らかの共通点が潜んでいるように思えるのだ。此処に来てようやく、
問題の要素を二極化して考える事は、それが極論になりやすい事など大した問題ではなく、単に相対的な思考に陥ってしまう可能性が高いという事の方が余程危険である。相対的な思考は数々の重要な要素を無効化してしまう上に、微細な問題に対応出来ないという致命的な弱点が在るからだ。
の説明を終わる。「光は波動か? 粒子か?」という考えに囚われていると、「波動でもあり粒子でもある」という結論を見出す事は出来ないんだろう。

――というわけで今回の結論は「もっと素直に生きた方が人生巧くやってけるんだろうなぁ」って事でした。そういうようにはとても見ないかも知れないけど、そういう事なのですよ。以上。


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