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BSE問題

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アメリカがBSE感染牛の追跡調査を打ち切った。結局感染牛と一緒にカナダから輸入された80頭の内、28頭しか居場所を突き止められなかった事になる。調査打ち切りの理由は「(感染牛がみつかる)リスクは非常に小さい」からだった。

アメリカは日本が求めている全頭検査には応じないとは思っていたが、追跡調査を打ち切るとは意外だった。背景には牛肉の国内消費量が全く衰えそうもない、という実情がある。マクドナルドは前年比で10%以上も売上げを伸ばしたし、米国内で数十店舗を展開する牛丼屋の吉野家も好調だ。米ギャラップ社の世論調査によれば、BSEで実際に被害を受ける事を心配しているアメリカ人は16%に過ぎず、84%が「あまり心配していない」「全然心配していない」と回答している。

こうした国内での牛肉消費の堅実さが、このBSE問題でもアメリカ政府が強気に出られる理由である。「国内は大丈夫でも輸出は落ち込むだろうから、アメリカは困るのではないか?」と思う人が居るかも知れないが、実は米国内での牛肉生産量の内、輸出用は約1割に過ぎないのである。つまり輸出用は無視してもそれほど(恐らく多くの日本人が思っているよりは)アメリカの牛肉生産者には影響が大きくないのだ。アメリカの農務省は今年の農家の収支見通しを発表したが、牛肉の販売収入は5.8%落ち込むに留まる、と予想している。

アメリカが全頭検査を此処まで拒むのには他の理由もある。コストの問題だ。

アメリカには1995年のデータでは約1億頭の肉用牛が飼育されており毎年約3000万頭が出荷される。BSE検査には1頭当たり50ドル掛かると言われており、取り合えず今年出荷する分だけで3000万×50=15億ドルが必要だ。日本円にして1600億円。全頭検査の年間費用が40億円で済む日本とはあまりにも大きく異なる。(実際には此処までは掛からないと言われている)

これは日本人とアメリカ人との牛肉消費量の差が非常に大きい事が原因だ。2000年の一人当たりの牛肉消費量はアメリカ人が44.9kg、日本人は11.7kgである。

「全頭検査が無理なら日本向けだけでも全て検査しろ」という意見が出ている(←非常に日本人的な発想だ)が、実はこれも難しい。確かに日本向けの輸出は米国生産全体の僅か3%を占めるに過ぎない。しかし一部分だけでも日本に輸出される牛は全体の9割を占めるのである。アメリカの農務省の試算では日本向けだけの検査でも年間約9億ドル(約1000億円)のコストが掛かる。対日本輸出牛肉の市場規模は年間10億ドル程度に過ぎず、この検査に9億ドルも掛けるのは馬鹿らしい、という訳だ。アメリカ農務省特別顧問ヘグウッド氏は全頭検査する事を「経済的にも科学的にも正当化できない」と評している。アメリカ産牛肉は日本産に比べて単価が低いのも大きい。

取り合えずアメリカは年間出荷3000万頭の内、検査対象を4万頭に拡大する方針を打ち出している。アメリカは再三に渡り、「全頭検査は科学的に言って正しくない」という発言を繰り返してきた。これがまた多くの日本人には共感出来ないだろう。「全体の0.1%しか検査しないのなら、感染牛が居ても殆どが出荷されてしまうではないか」と感じる人が多いのではないだろうか。

ただ真実がいずれにせよ、消費者心理がそれを信じなければ全く意味が無い。また、現在は楽観的なアメリカ人達も別に科学的に理解している訳ではないだろう。このような大衆心理はちょっとした事ですぐに大勢が大きく変化してしまう。今のままでは日本国内でアメリカ産牛肉を食べられる日が来るのは全く先が見えないが、このままで終わるとはとても思えない。もう一度“何か”が起こった時に、アメリカの消費者がどのように考えるのかが非常に大きいと思う。

ところで、何故こんなにも専門家と一般消費者との間に意識の差が有るのか、を考えてみようと思う。

消費科学連合会では『科学的とはどういうことか〜米国BSE牛発生に寄せて〜』という文章を2004年1月29日に発表している。これを一部抜粋させてもらうと、

清浄国といわれていた米国で、BSE牛が発生したことを受けて、わが国のメディアによると「全頭検査」は非科学的であるという論調が目立つようになっている。(中略)では、翻って科学的とは一体どんなことを指すのであろうか? これまでは新聞紙上で目にする限り、または有名な先生方の言葉を聞く限り、それは確率論でしかなかったように記憶している。(中略)一方おいしく牛肉を食べた人が、何万分の一、何百万分の一の確率でBSEに感染したとしたら、誰がどれだけの支援をしてくれるというのか? またそれで罹患者が苦痛を癒すことができるのか、そんなことは「絶対」にできることではないだろう。食の安全とは、万人が食しても大丈夫なものを言うのであって、「もしもの時はごめんなさい」では済ますことのできないものであると考える。その昔、それこそ科学的知見の少なかった時代であったら、少ない確率のその一つに当たって発症した人がいてもその人の体質とか環境のせいにすることもできたことであろうが、残念ながら現代は科学が発達しているのである、泣き寝入りはだれもしない。

これは一般的な、所謂“普通の”消費者の声をかなりのレベルで代弁している文章だと思う。ただ、『全頭検査をしない事』に対する反論としては問題が幾つもある。先に箇条書きにしておくと、

といった処か。順序良く見て行こう。

まずは『科学的』という言葉についてだ。消費科学連合会は科学的とは一体どんなことを指すのであろうか? これまでは新聞紙上で目にする限り、または有名な先生方の言葉を聞く限り、それは確率論でしかなかったとしているが、確率論は正に科学的としか言いようが無い。人間的でないだけだ。注意して欲しいのは確率論、つまりは科学的である事が全てだ、と言っている訳ではないという事である。しかしながら「確率論が全てではない」というのは感情論であり、それを以て「科学的」と言うのはおかしい。「全頭検査はしない」という意見に反対したいのであれば、こんな言葉の問題などに構うべきではない。「確率論は認める。しかし感情論はどうするのだ?」という事を問題にすべきだ。

次にBSEに人間が感染する(←この言い方は不正確だが分かり易いので敢えて採用する)確率の問題だ。消費科学連合会は牛肉を食べた人が、何万分の一、何百万分の一の確率でBSEに感染したとしたらと書いている。東京大学教授の吉川泰弘氏は『BSE牛の発生から1年、原因究明はどこまで進んだか?』で、日本の場合vCJDの確率は、0.017〜0.026人と推定される。すなわち今回のような規模のBSEの侵入を40〜60回受けると、1人が発症する可能性があるということになると書いている。これは言い換えると牛肉を食べてBSEに感染する確率は百億分の一より少し高いという事になる。消費科学連合会は実際の感染確率の1万〜100万倍の数値を、悪意は無いにしろ表記している。「BSEの感染確率は数万分の一」と聞けば日本国内だけで数千人が感染する事になり、これでは「全頭検査は科学的でない」という意見こそが科学的でないと思えてしまうのも無理は無い。故意でなくとも読者をミスリードするのは、それこそ「ごめんなさい」では許されないだろう。

さて、掲示板で次のような点を指摘された。

吉川氏が言及しているのは日本国内のBSE問題であって、今回の米国産牛に関しては何も述べていないのでは? 一方で消費科学連合会はアメリカのBSE問題についてコメントしているわけで、まぁ挙げられている確率に根拠はないのかもしれないけれども、ミスリードと断言するのはどうかな

なるほど、もっともな意見だ。

指摘の箇所は僕としては『日本でのBSE感染確率』そのものを念頭に書いていて、実は発祥地の区別は全く気にしていなかった。一方で引用した文章は確かに発祥地を意識した文章になっている。吉川氏の文章は米国での問題が発生するよりも以前に書かれた物だし、消費者科学連合会の文章はタイトルに「米国BSE牛発生に寄せて」とはっきりと記されている。これを考慮していないのは重大な問題である。僕の文章が読者をミスリードしてしまった。

一つ言っておきたいのは、吉川氏にしろ消費者科学連合会にしろ、該当の箇所で述べているのは『日本でのBSE感染確率』である、という事である。となれば適切に誤差を修正してやれば両者を比較する事自体は不可能ではない。

まず吉川氏の試算によれば日本で発生した、或いはこれから発生するBSE感染牛は30頭前後になるという事だ。そしてその結果、日本人が感染する人数の期待値は0.017〜0.026人であるとしている。これを僕は言い換えて牛肉を食べてBSEに感染する確率は百億分の一より少し高いとした。これを必要な要素だけ纏めると、次のようになる。

30頭程度のBSE感染牛が日本国内に出回ったとすると特定の国民がBSEに感染する確率は百億分の一より少し高い

次に消費者科学連合会の文章についてだが、こちらは具体的なデータがまるで書かれていないので、少々難しい。幾つか調べてみたが、「米国でBSE感染牛が何頭いるか?」というデータが存在する筈も無く、なかなか実情を推察する事は難しい。一応イギリスでのデータが見付かったので記載しておく。

感染確率は、狂牛病が18万頭発症した英国で、1000万人に3人

人間のBSE感染率は30頭発生すると100億分の1、18万頭発生すると1000万分の3という事か。さて、ここまで来ると人間への感染率を考える上で重要なのは、BSE感染牛が何頭いるか、という事が分かるだろう。(←当然か。)しかし先に述べた通り、「米国でBSE感染牛が何頭いるか?」というデータが存在する筈が無い。そこで一つの仮定を立ててみる事にする。それは、米国の牛へのBSE感染確率はイギリスを上回らないという仮定だ。これはBSE発生国であり対策が後手に回らざるを得なかったイギリス以上にBSEが拡大する事はないだろう、という予想の基に立てている。

という訳で最悪のシナリオを考えてみる。それは米国の牛へのBSE感染確率がイギリスと同程度だった、という場合だ。

イギリスが飼育する牛の頭数は約4000万頭であるから、年間の出荷頭数は1200万頭程度だと考えられる。米国の年間出荷頭数は3000万頭なので、イギリスの2.5倍だ。という事はアメリカでは18万×2.5=45万頭程度のBSE感染牛が発生している、或いは今後発生する事になる。という事はアメリカ人がBSEに感染する確率は1000万人に7.5人という事になり、人口を2億5000万人と考えると200人近くが感染してしまう事になる。これは危険だ。

一方、日本にはこの内、約3%が輸出される。単に重量比を考えれば13500頭分のBSE感染牛が日本国内市場に出回る事になる。これを人間への感染確率に直すと3000万分の1前後という事になる。

以上より、取り合えず結論。

アメリカでイギリス並にBSEが蔓延したとして、輸入制限も全く行わなかった場合、日本人のBSE感染確率は約3000万分の1。日本人には4人程度の感染者が出る。この数字を大きいと見るか小さいと見るかは各人次第。


最後に最も問題の根が深いのが『ゼロリスク』に対する考え方だ。

最近しばしば言われるのは「“安全”と“安心”は違う」という事だ。吉野家の社長も言っている。そして叩かれている。再び吉川泰弘氏の『BSE牛の発生から1年、原因究明はどこまで進んだか?』を引用させてもらうが、彼も次のように書いている。

ここ1年間、BSE問題を大学以外で説明する多くの機会に恵まれた。リスク・コミュニケーションとして一般の人に説明する時、最も戸惑ったのが安全と安心感の相違であった。

吉川教授によれば、「安全」とは、個々に起こる事象の危険率の積を1から引いた数値である、という。これも僕の言葉で言い換えさせてもらうと、「安全」とは「総合的に危険でない事」であるとなる。一方で「安心」とは、個々に於ける安全率の積である、という。これを言い換えると「安心」とは「個々に於いて危険でない事」であるとなる。

これらを分かり易く言うと、例え何処かで危険な可能性が在っても、他の手法で危険性が否定されれば「安全」であるが、例え他の全てで安全であっても、1箇所でも危険性が否定されなければ「安心」は得られないとなる。従って「安全なのに不安」という事が有り得る。「安心なのに危険」という事は有り得ない。(但し、必要な情報が秘匿された場合に限り、「安心なのに危険」も有り得る)

一般に専門家は「安全」を重視し、一般消費者は「安心」を重視する。だからこそ両者には決定的な意見の食い違いが生じている。BSE問題のような環境リスクに関する世界では、前者のような結果的に低いリスクを見逃すことに繋がり現状肯定的な態度を「低リスク容認論」と呼ぶのに対し、後者のような「安心」をより重視する態度を「ゼロリスク探究症候群」或いは「ゼロリスク論」と呼ぶのだが、この両者の間の溝は想像以上に大きい。

「低リスク容認論者」は基本的に次の命題を仮定している。

世間には、その存在が広く知られたリスク、発見されているリスクに満ち溢れている。そしてまだ誰も指摘していないリスクもそれ以上にたくさんあることだろう。これらすべてを避けることは不可能である。

しかし「ゼロリスク論者」は、この命題を否定する。そしてそんな「ゼロリスク論者」に対して「低リスク容認論者」の中には「社会的に不当な差別の域に達している」とまで評する人も居る。

分かり易い例を挙げよう。例えば数年前に問題になったダイオキシン問題では、「低リスク容認論者」は徹底して「ダイオキシンの対策など、するだけ無駄だ」という理論を展開した。横浜国立大学教授の松田裕之氏は自分の著書の中で、環境問題の危険は,個人が被る危険に比べて桁違いに高額の費用をかけて避けるよう努力されている.ダイオキシンを取り締まるくらいなら,喫煙を禁止したり、自動車のエアバッグを取り付けたり、自転車専用道路を作る方がはるかに低い費用で多くの人命を救うことができるだろうと書いている。ところがこれに対して「ゼロリスク論者」から反発があったらしい。「人命を金銭で評価するとは何事か」という訳だ。これに対して同氏は次のような感想を述べている。

私が言いたいのは、何が優先されるべきかということであって、この本でも明記したとおり、金を払えば人を殺してもよいということではない。たしかに、すべてのリスクを削減できれば、それに越したことはない。しかし、物事には優先順位があると主張した。喫煙が本人だけでなく、周囲の人の健康を害することが統計的に証明されているにもかかわらず、禁止されてはいない。少なくとも喫煙者を登録制にし、新たな喫煙者を禁止することは可能である。自転車専用道路を作ることは、大気汚染を減らす上でも有効であり、交通事故回避だけでなく、環境にもやさしいだろう。これらの点は、ゼロリスク論でも異論はないと期待する。優先順位をつけないということは、結果的に現実に存在する不合理な優先順位を肯定することになる。

ダイオキシンを規制する金が有ったら使い方次第でより多くの人命が救えるが「ゼロリスク論者」はそれに反対する、という訳だ。

思うに、「ゼロリスク論者」は一つ新たな問題が起こるとそれに固執し、従来からの問題との重要性を比較しようとしない。「そんな事よりも今、問題になっているのはこちらだ」と言わんばかりに発生時期を最重視する。

池田正行氏によれば、「ゼロリスク論者」の問題点はもう一つある。彼は「ゼロリスク論」を「ゼロリスクを求めるあまり,その行動が大きな社会問題を起こすことに気づこうとしない心理」と定義している。これについて松田裕之氏は、以前問題になった所沢の農家にせよ、BSE騒動で閑散としている焼肉業界にせよ、彼ら自身が犯罪者ではない。ホームから転落した人を自らの命を省みずに助けようとした人が美談とされるのに、なぜほとんど無視できるダイオキシンやプリオンのリスクを避けるために、社会の一員が破産するようなことを避けないのだろうか。BSEの失政については、日本政府の責任は重い。しかし、牛肉を食べなくなっても彼らが失業するのではない。失業するのは関連業者である。彼らのことを可哀想だとは思わないのだろうかと述べている。

この話を聞いた「ゼロリスク論者」は間違いなく「しかしBSE騒動が起きた時に“牛肉を食べない”権利はある筈だ」と言うだろう。全くその通りだ。しかし、それこそが、ゼロリスク論は自分が悪いことを一切していない、あるいは一切すべきではないという崇高な誤解から生まれるという事実を示している。『一つの人命を助ける為にホームに下りる』という極めてリスクの高い行動は賞賛されるのに、『数多くの焼肉業界関係者(中には自殺した人もいただろう)を助ける為に危険部位を取り除いた焼肉を食べに行く』というリスクの低い行動は避けられるのは、矛盾している。

以上より結論。

BSE騒動が起きた時に“牛肉を食べない”権利を、一般消費者は当然有する。しかしそれは他人に多数の犠牲を払わせる行為である事を自覚する必要がある。無知は時として罪だ。


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