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行政と世論との齟齬 〜酒鬼薔薇聖斗の退院

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神戸市須磨区で1997年に起きた児童連続殺傷事件で逮捕され、関東医療少年院(東京都府中市)に収容されていた当時14歳の男性(21)が10日、同少年院を仮退院した。法務省は退院したことを遺族側に通知、被害者側へ異例の対応を取った。男性は実社会と接しながら保護観察下に置かれ、社会復帰に向けた最終段階へ移った。

酒鬼薔薇聖斗の仮退院に対して「時期尚早だ」という否定的な意見を持つのは仕方ない。酒鬼薔薇聖斗が更生しているかどうかなんて分からない。→僕達は不安になる。→酒鬼薔薇聖斗を自分達に近付けたくない。→近くに来るなら拒絶する。→不当な差別があるとマズイので、政府は酒鬼薔薇聖斗に関する殆どの情報を公開しない。→情報が無いので僕達はさらに不安になる。→酒鬼薔薇聖斗を自分達に近付けたくない気持ちが上昇。→酒鬼薔薇聖斗探しが始まる。→政府はさらに情報管制。→…………という不安発生の悪循環に社会が陥っているからだ。

この悪循環を断ち切るには以下のような方法が考えられる。

1.僕達が酒鬼薔薇聖斗に対して不安を感じないようにする。
2.僕達が酒鬼薔薇聖斗に対して不安を感じても拒絶しないようにする。
3.政府は酒鬼薔薇聖斗が不当に差別される事を覚悟しつつ情報公開する。
4.政府は酒鬼薔薇聖斗が退院した事すら知らせない程の徹底した情報管制を敷く。
5.そもそも酒鬼薔薇聖斗を永遠に退院させない。

しかしどれも現実的には難しい事は否めない。

ところでこの手の事態の時、「行政は犯罪者の人権ばかり考えていて、被害者の気持ちを考えない」という主張がしばしば見られる。どうして行政の対応と世論との間にはこんなにも大きな溝が出来てしまうのか。これは一般的な社会原則を決定する際のスタンスの違いが大きく影響していると考えられる。

基本的に世論は自分勝手であるべきだ。自らの立場を向上させる物には賛成し、そうでない物には反対する。当然、個々の意見は自分の事しか考えていない、他愛の無い物になる。しかしその偏った意見が大量に集まる事によって、全体としての正しい傾向が形成される、という考え方だ。

これは数学の「大数の法則」と呼ばれる原理に近い。詳しく知りたい人はリンク先で勉強してもらうとして、ここでは簡単な説明を引用すると、ある事象が一見、偶然や、不規則的に見えても、同じ属性を持った事象データを大量に集めれば集めるほど、その事象が一定割合で発生しているという法則が観測できる。これを「大数の法則」と呼び、事故の発生する確率を求める保険数理にも活用されているという事である。

つまり、一般人である僕達は我侭な意見を言っても良いのである。それと同じように思う人が多ければ世論で重視されるし、殆どいなければ無視されるだけの話だ。(だから「自分の意見がどうして世論に反映されないんだ!」と主張するのは無意味である)

世論とは、個々の勝手な意見を統合する事によって形成された、正しい傾向である。

国民が自分の事しか考えない意見を主張したとしても、大数の法則が働く事により、世論は常に正しい傾向を表す。一方、政府や有識者と呼ばれる人達が我侭な主張をするのはマズイ。母集団が小さい(政府なら1)ので、大数の法則が働かないからだ。では、どのようにして意思決定を為すべきなのか?

政治哲学者のロールズは“無知のヴェール”という思考実験を提唱した。ロールズは自らの著書『正義論』の中で次のように語っている。

当事者たちはある種の特定の事実について無知であることが前提とされる。まず第一に、当事者は、社会における自らの位置、すなわち、階層あるいは地位を知らない。また、自然的資源そして能力の配分における自らの財産、すなわち[自らの所有している]知性、力そういったものを知らない。おなじく、自らが何を善とみなすのか、自らの人生の合理的な計画の細部、自らの心理的な特性(たとえば危険を嫌う傾向であるとか、楽観的あるいは悲観的になりやすい)さえも知らないのである。さらに、私は次のことを前提とする── 当事者は彼ら自身の社会がおかれる特殊な状況についても知らない、と。すなわち、彼らはその社会の経済的状況あるいは政治的状況、あるいはその社会が達成した文明・文化のレベルについて無知なのである。原初的状況におかれた人間は自分がどの世代に属すかも知らないのである。

これが“無知のヴェール”である。ロールズは平等な社会を構成する為には“無知のヴェール”に包まれた状態が必要であると説いた。現在では“環境倫理”との齟齬など、幾つも問題が在る事が分かっている“無知のヴェール”だが、基本的な社会規則を制定する際の一つの重要な考え方である事は確かである。

今回の事例の場合、“無知のヴェール”に包まれた人間は被害者の親族の立場を考えなければならない。加害者の少年の気持ちを考えなければならない。事件と全く関係の無い傍観者である場合を考えなければならない。なぜなら“無知のヴェール”に包まれたアナタは、被害者家族かも知れないし、加害者そのものかも知れないし、傍観者かも知れないからだ。

“無知のヴェール”に包まれた状態では、全ての立場が重要視される。

これが政府が取る基本的なスタンスである。(繰り返すが“無知のヴェール”には問題が多く、常にこれだけしか考えていない、という事は無い。あくまでも基本として。)

話を戻して、世論は大数の法則により“正しい傾向”ではあるが、それは逆に少数意見を排除する事も意味する。今回で言えば被害者家族や加害者少年の立場は圧倒的少数なので、圧倒的多数を占める“傍観者という立場”に席巻されてしまう。但し、「傍観者が被害者家族の心情を察して、そのような主張をする」という事は充分に有り得る。「被害者家族の気持ちを考えたら7年で退院なんて早過ぎる!」という意見は正にそれだ。ただ、これはこれで“傍観者という立場”である事に変わりは無い。

世論は大数の法則により、“傍観者という立場”のみが重視される。

――以上が行政の対応と世論との間の格差の原因であると思う。


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