MENU TOP ABOUT DIARY COLUMN HOBBY NOVEL WORD BBS

象徴的な“死”

COLUMN MAIN

“死”を経験した事の無い人間など存在しない。

サイトの更新を休んでいる間、“死”というモノについて考えていた。この場合の“死”とは、所謂「生命が消え失せる」という意味ではない。

僕達は既に何らかの形で自身の一部を失っている。例えば23歳である僕には、もう「未成年の僕」は返って来ない。永遠に戻らない。「未成年の僕」は既に“死”んでしまったと言える。

このような“死”を、便宜的に“象徴的な死”と呼ぶ事にする。世の中を見渡すと、“象徴的な死”は至る所で散見される。そして、その“死に方”は様々だ。

例えば「プロ野球選手」の場合は、自らが死にたくなくても、成績やらチーム事情やらの関係で、死なざるを得なかったりする。それは正に、他者に拠る強制的な“象徴的な殺人”。

一方で、自らが“象徴的な死”を選ぶ事も有る。例えば「携帯電話のメールアドレスを変更する」という行為は、それまでの人間関係の一部を破壊するという意味で、“象徴的な自殺”と呼ぶ事が出来る。その後、大抵の人には新しいメールアドレスを教えるだろうから、多くの場合は“象徴的な再生”を遂げる訳だが、中には今後付き合いたくない人が居たりすると、その人には新アドレスを教えなかったりする。すると、やはり自分の一部を失うという意味では、その人は“象徴的な死”に達していると言える。

面白いのは、このような“象徴的な自殺”は自らをより有利な状況へ導いてくれる、という事だ。他者に拠る強制的な“象徴的な殺人”は嫌なものだが、“象徴的な自殺”は上手に利用すれば有益な結果を齎す。

例えば何か余計なモノに縛られて苦しい時、自身の一部を失う事で“象徴的な自殺”を遂げ、身軽になってみるのも良いかも知れない。「毎日欠かさず日記を更新するサイト管理人」という僕の一部を失った今の僕は、確かに何処と無くホッとした気分になっている。

以上よりイイタイコト。

何かで苦しい時、自身の一部を失う“象徴的な自殺”を行うのが良いかも知れない。“象徴的な死”を経験した事の無い人間など存在しないのだから。


今日今日のアクセス数/昨日昨日のアクセス数/累計累計のアクセス数
Read me! ページ最上段へ