MENU TOP ABOUT DIARY COLUMN HOBBY NOVEL WORD BBS

人間を“葦”に例えたパスカルの意図

COLUMN MAIN

何故、人間が“葦”なのか?

「人間は自然の内で最も弱い一茎の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である」という、あまりにも有名な言葉が有る。哲学者であり数学者でもあった、パスカルの言葉だ。

パスカルは1623年にフランスで生まれ、8歳の頃から数学者の会合に出席するようになり、16歳の時には既に「円錐曲線試論」という本を出版している。有名な『パスカルの三角形』を考案したのは、彼が31歳の時だった。また、『数学的帰納法』という重要な論証法や、物理学や気象学で重要な『パスカルの法則』の発見、計算機の発明など、様々な分野で功績を残している。正に“天才”と称するに相応しい人物である。

そんな彼は、人間を葦に例えた言葉を残した。しかし、どうして“葦”なのか?

パスカルは哲学や数学の分野では有名だが、一方では熱心な宗教者だった事が知られている。少なくとも彼が31歳の時には、「私は神と出会った」という(無宗教の僕から見ると、ちょっとアブナイ)発言をしていたのは確かなようだ。パスカルは39歳という若さで亡くなっているが、彼の最期の言葉は「神が私を捨てたまわぬように」だったという。

そんなパスカルの晩年(と言っても30代だが)は、「宗教を前提としない人間学の立場から、如何に信仰の必要性と正当性を示唆するか」という事に没頭していた。「人間は考える葦である」は、そんな時代の言葉である。

従って「人間は考える葦である」とは、単に「“考える”という事の重要性を説いた」という直截な意味だけでなく、非常に宗教的意味合いの強い言葉だったと考える事が出来る。

大橋良介の『「考える葦」の場合』では、パスカルは新約聖書に於いてイエスが群衆に向かって言った、以下のような言葉を念頭に置いたのではないか、という解釈を紹介している。

「汝らは何を見ようとして野に出て来たのか。風に揺らぐ葦であるのか」

これは群集が洗礼者ヨハネよりも、ただ風に揺らぐ取るに足らない葦を気にしている状態を、イエスが嗜めた場面である。パスカルは、これを意識して“葦”という言葉を使ったのではないか、というのだ。

以上より結論。

「人間は考える葦である」という言葉は、パスカルが熱心な宗教家であったからこそ、そうなった。もしも昔の人間がバラに気を取られていたら、「人間は考えるバラである」という言葉が残されていたかも知れない。


今日今日のアクセス数/昨日昨日のアクセス数/累計累計のアクセス数
Read me! ページ最上段へ