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ゲームに於ける“死”

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人が生き返っちゃ、そんなに悪いのか?

長崎県佐世保市の小6同級生殺害事件を受けて同県教委は24日、小中学生約3600人を対象に実施した「生と死」のイメージに関する意識調査の結果を発表した。「死んだ人が生き返ると思うか」の問いに555人(15.4%)が「はい」と回答。一部の児童・生徒は人の死を現実的にとらえられていないことが浮き彫りになった。   ――毎日新聞より

調査方法自体に疑問の声が上がっているが、「人が生き返ると思っている小中学生が、それなりの割合を占めている」という結果に対しては、今の子供達の見識を心配する人が多い。しかし、これは果たして憂慮するべき事態なのか?

例えば人は飛べないが、「飛びたい」という強い意志が、ライト兄弟の成功を産んだ。例えば「地球は不動だ」という天動説全盛の時代に、コペルニクスやガリレオは自らの人生を犠牲にしてまで「地球が太陽の周りを回っているんだ」と主張し、後にそれが認められた。

となれば「人は生き返る」という想いが、将来的に何らかの科学的成功を収める可能性は、無いとは言えない。いや、そんな成功を収められずとも、そもそもどうして「人は生き返る」と考えてはいけないのか?

それが現実を反映していないと言う理由なら、例えばサンタクロースの逸話は全て禁止されるべきである。百歩譲ってサンタクロースの存在を認めるとしても、「プレゼントを置く為とは言え、人の家に勝手に入り込むのは住居不法侵入だから、絶対に真似をしてはいけないよ」という教育が為されるべきである。

「生きている間に良い事を沢山すれば、天国に行って生まれ変わる事ができるけれども、悪い事をすると地獄に行かされて、ずっと苦しい罰を与えられるんだよ。だから、皆さんも良い事をしましょうね」という道徳的説法も危険である。全然、現実を反映していない。

しかしサンタクロースの逸話や、輪廻転生のような“生まれ変わり”の考え方を否定する人は少ない。それらの話には夢が有るし、信じたからと言って、何らかの問題行動を起こす子供は居ない(もしくは極度に少ない)からだ。「僕はサンタクロースだ」と言って、他人の家に勝手に入り込む子供は居ない。「貴方は良い事を沢山したから、死んでも生き返れるよね」と言って、善人を殺す子供も居ない。

ところで「人は生き返る」という話にも夢が有る。少なくとも現代科学の一つの大目標として、生命の長期維持、或いは生命の復活といった類いの到達点が有るのは事実だ。

となれば「人は生き返る」と信じる事で考えられる唯一の弊害は、「まぁ教会には僕が連れて行って、費用も負担してあげるからさ」(※)とか言って、殺人を犯す子供が発生する事である。さて、そんな子供が一人でも現れるかどうか……僕には甚だ疑問だ。

以上よりイイタイコト。

「人は生き返る」と考えるのって、そんなに悪い事なのか?

(※)ゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズでは、死者を教会に連れて行き一定の料金を支払う事によって、その死者を生き返させる事が出来る。


世間では「テレビゲームが“死”を軽く扱い過ぎている為に、子供に悪影響を与えている」とか、「いや、そんな事は無い」とか議論されているが、ここでは「そういう議論とは全く関係無しに」ゲームに於ける“死”について考察してみようと思う。

ゲームに於いて“死”が最も記号化されているのは、『スーパーマリオブラザーズ』に代表されるアクションゲームと、『スターソルジャー』などのシューティングゲームだと思われる。このジャンルのゲームでは、我々プレイヤーが操作するキャラクターに“残り人数”や“残り機数”が設定されており、それが0になるまでは何度でも死ぬ事が出来る。これらは生命を記号化する事が殆ど必須事項になっている一方、映画や小説のようなドラマ性は皆無に近く、操作キャラクターの“死”がプレイヤーに対して悲しみの感情を与えないようになっている。“死”が持つ独特の生々しさを極力排除した造りになっている訳だ。

また『グランツーリスモ』や『リッジレーサー』などのレースゲーム、『実況パワフルプロ野球』や『ウイニングイレブン』などのスポーツゲーム、『いただきストリート』などのスゴロク型ゲーム、『ぷよぷよ』などのパズルゲーム、『ビートマニア』や『パラッパラッパー』などの音楽ゲームでは、基本的に“死”が扱われる事は無い。

意外に“死”と無縁なのが『ケルナグール』や『ストリートファイター』を初めとする対戦格闘ゲームで、これらのゲームでは戦いが“試合”としての形式を採用している事が多く、やはり登場キャラクターが“死”ぬというケースは殆ど無い。例外としては『ブシドーブレード』などが挙げられる。これは対戦キャラクター同士が真剣を使用して戦うゲームで、対戦格闘ゲームに付き物の“体力ゲージ”というシステムが存在しなく、手を切り付ければ手が使えなくなるし、足を切り付ければ足が使えなくなるし、頭を切り付ければ一撃で“死”んでしまうという、極めて異端なゲームであった。その余りの異色さ故か、スクウェア(現スクウェアエニックス)という超大手ソフトメーカーから発売されたにも関わらず、殆ど売れなかった。

逆に“死”という要素が極めて重要視されるのが、『かまいたちの夜』や『逆転裁判』、『街』などのアドベンチャーゲームである。アドベンチャーゲームは小説のようなストーリー形式を為している事が多く、例えば殺人事件を扱うならば登場キャラクターの“死”は必須である。しかしこのジャンルのゲームで扱われる“死”は、アクションゲームやシューティングゲームで扱われる記号的な“死”とは性質が大きく異なり、一度“死”んだキャラクターが生き返る、というケースは殆ど無い。つまり小説や映画など他のエンターテイメントメディアで扱われる“死”と変わりが無い。勿論ゲームを最初からやり直せばそのキャラクターに再び出会える訳だが、それだって小説の再読や映画の再観賞と全く同じ構造と言える。

シミュレーションゲームは“死”の扱いが様々だ。例えば『ダービースタリオン』はアドベンチャーゲームと同様に、“死”が絶対的な物として扱われるが、『アストロノーカ』のように淡々と野菜作りをしていくだけの、“死”とは全く関連性の無いゲームも有る。

以上のように見てみると、ゲームには大別して二種類の“死”が存在している事が分かる。一つはアクションゲームなどの「記号化された死」で、もう一つはアドベンチャーゲームなどの「絶対的な死」である。後者は他のメディアでも扱われる“死”だが、前者はテレビゲーム特有の“死”であると言える。

さて、ゲームに於ける“死”という物について簡単に見て来たが、実は重要なジャンルを残している。それは、ロールプレイングゲーム(RPG)だ。しかしRPGが扱う“死”は、他のジャンルの追随を許さないほど複雑さに満ち溢れている為、これについては明日の日記で考えてみたい。

取り敢えず以上より結論。

ゲームに於ける“死”には、「記号化された死」と「絶対的な死」という2つの“死”が存在する。ゲーム特有の“死”は前者だ。


ゲームに於ける“死”には、「記号化された死」と「絶対的な死」という2つの“死”が存在すると書いたが、これを踏まえてロールプレイングゲーム(RPG)に於ける“死”について考察してみる。

好きな人は知っていると思うが、RPGは同一の作品の中で、上記の2種の“死”を混在して扱っているケースが有る。主に通常の戦闘に於ける“死”は「記号化された死」であるのに対し、ストーリー展開上に於ける“死”は「絶対的な死」であると言える。これはRPGというジャンルが、アクションゲームとアドベンチャーゲームを融合して作られた事を示唆している。

ところが同一作品内で「記号化された死」と「絶対的な死」という2つの“死”を扱うと、決定的な矛盾を産み出す結果となる。それは即ち、「戦闘で死んだキャラクターは生き返す事が可能なのに、どうしてストーリー上の都合で死んだキャラクターは生き返らせる事が出来ないんだ?」というものだ。これはゲームをやっていて、誰もが突っ込みたくなる部分だろう。勿論「ゲームだから」という言い訳が絶対に許されない訳ではないが、やはり何となくモヤモヤとした感情が残る。

この矛盾に対し、多くのソフトメーカーでは或る対策を行っている。

「実は多くのRPGでは、キャラクターは生き返らない」と言ったら驚く人は多いのではないか。しかし実際、キャラクターは生き返っていないのだ。正確に言えば、通常の戦闘でキャラクターが“死”ぬ事が無いのである。

RPGに於いて「記号化された死」と思われているモノ――それは多くのソフトに於いて、“戦闘不能”と表現されている。例えば『ファイナルファンタジー』シリーズでは、ヒットポイント(HP)が0になると、そのキャラクターが倒れるが、そこに表示される文字は“戦闘不能”だ。この“戦闘不能”は「魔物と戦えない瀕死の状態」を示すだけで、“死”とは大きく異なる。だからレイズやアレイズといった魔法、或いはフェニックスの尾といったアイテムは、生き返りの効能を持っている訳ではなく、“戦闘不能”状態を解除する効果が有るだけなのである。

その他の多くのRPGも、『ファイナルファンタジー』に追随して“戦闘不能”という表現を用いている。これにより同一作品内から「記号化された死」を取り除き、「絶対的な死」のみを扱う事になる為、2種の“死”が存在するという矛盾を解消している。

この矛盾を放置しているのは『ドラゴンクエスト』シリーズくらいで、こちらは戦闘でHPが0になるとハッキリと“しに”と表示される。仲間内で“死”者が発生すると、フィールド画面では生き残った仲間が棺桶を引っ張って移動する事になり、寧ろ「記号化された死」を出来る限り「絶対的な死」に近付けよう、という意志さえ感じられる。事実、『ドラゴンクエスト』は他のRPGと比べ、HP0状態から復帰させる手段が限定されている傾向に有る。

ただ生死を賭けて戦闘をしているのに、敵が何故“戦闘不能”状態のキャラクターを見逃すのか、という疑問は残る。そこで『サガ・フロンティア』シリーズなどは“戦闘不能”状態のキャラクターにも敵が攻撃を仕掛けて来て、ライフポイント(LP)を削り取って行くというバトルシステムを採用しているが、これはかなり例外的なシステムであると言わざるを得ない。ちなみに『サガ・フロンティア』ではLPが0になると、そのキャラクターは消失し、絶対に生き返る事は無い。つまり「絶対的な死」だ。

そこで多くのRPGは“全滅”という概念を用いる事で、やはり矛盾を解消しようとする。つまり、仲間キャラクター全員が“戦闘不能”となったら、それは「記号化された死」ではなく「絶対的な死」として扱う、という事だ。あくまでもRPGは「記号化された死」を認めないのである。

以上より結論。

殆どのRPGは“戦闘不能”という概念を用いる事により、同一作品内で「記号化された死」と「絶対的な死」とが混在するという矛盾を解消している。『ドラゴンクエスト』のみが矛盾を内包しつつ、しかし「記号化された死」からの生き返りの手段を限定する事で、「記号化された死」を「絶対的な死」としてプレイヤーに認識させようという意図が感じられる。

さらに全てを踏まえての結論。

ゲーム特有の“死”である「記号化された死」は、アクションゲームやシューティングゲームなど、非常に限定されたジャンルでしか見られない。ゲームに於ける多くの“死”は、小説や映画と変わらない「絶対的な死」である。


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