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“言語化”と“認識”との差異

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犬は何を以て“犬”と成り得るのか?

僕が中学生の頃、美術の教師が僕達生徒に対して、「今ココに一匹の犬が居たとする。しかし君達は何を以て、それを“犬”と判断したのだろうか?」という質問を投げ掛けて来た事が有った。

そういう時に必ず出て来る答えの一つに、「足が4本で、尻尾が有り、ワンワンと吠える」というような、“特徴列挙型”の意見が有る。即ち、散々色々と犬の特徴を挙げた後に、「それらの条件を全て満たすモノが“犬”なのだ」と言う訳である。

勿論この答えは間違っている。例えば“犬”の必須要素として「足が4本」という条件が含まれるなら、犬は足を1本でも失ったら最早“犬”ではない――少なくとも僕達は、その犬を“犬”と判断出来ない、という事になってしまう。しかし恐らく僕達は、その犬を“犬”と判断する事が可能であるハズだ。

次に出て来る答えが、“辞書的説明型”だ。何かの辞書で“犬”の定義を調べ、それに拠って僕達は犬を“犬”と判断する、と言う訳である。当然これも間違いだ。

『goo 辞書』に拠れば、“犬”とは「食肉目イヌ科の哺乳類。オオカミを家畜化した動物と考えられている。よく人になれ、番用・愛玩用・狩猟用・警察用・労役用などとして広く飼育される。品種が多く、大きさ・色・形などもさまざまである」という説明が為されている。しかしこれは、「食肉目イヌ科の哺乳類」という第一文はまだしも、それ以降の説明は“犬”の定義とは言い難い。確かに“犬”の特徴ではあるけれども、それが僕達人間にとって“犬”の定義にはならない事は、既に説明した通りである。そして「食肉目イヌ科の哺乳類」というだけでは、余りにも説明不足過ぎる。

一方、『ウィキペディア』“犬”の項では相当に厳密な定義が為されているけれども、ここまで来ると逆に「僕達がそこまで把握して犬を“犬”と判断しているとは思えない」と感じられてしまう。

――以上のような“特徴列挙型”と“辞書的説明型”の意見が否定されると、大抵の生徒はもうお手上げ状態である。実際、中学のその授業では、それ以上の意見は出なかった記憶が有る。

取り敢えず結論。

僕達が犬を“犬”と認識する仕組みは、“特徴列挙型”や“辞書的説明型”などの考え方では、説明不可能である。


認識の言語化は、必ずしも可能ではない。

中学時代の美術教師の「今ココに一匹の犬が居たとする。しかし君達は何を以て、それを“犬”と判断したのだろうか?」という問い掛けに対し、僕達が犬を“犬”と認識する仕組みは、“特徴列挙型”や“辞書的説明型”などの考え方では、説明不可能であると書いた。

もっと言ってしまえば、そもそも僕達が犬を“犬”と認識する仕組み――即ち“犬”の定義を言語化しようとする事自体に、根本的な無理が有るように思える。多分、例の美術教師は言語の限界を、そして逆に想像力(≒認識力)の雄大さのようなモノを、生徒達に訴えたかったのではなかろうか。(というのも、その美術教師は明確な答えを教えてはくれなかった為、僕は想像するしかないのである。)

となると問題は、対象の“言語化”と“認識”との差異へと議論の場を遷す。

ひとくち飲めば、そのワインが高品質かどうかたちどころに理解できるのに、「高品質なワインとはどういうものか」を定義するのは非常に困難だ。   ――メイナード・アメリン (ソムリエ 第7巻 102頁)

この言葉は、認識の言語化が必ずしも可能ではない事を端的に表している。今回のケースに置き換えさせて貰えば、「一目見れば、その動物が犬であるかどうかたちどころに判断できるのに、『犬とはどういうものか』を定義するのは非常に困難だ」となるだろう。メイナード・アメリンは「非常に困難」という表現をしているが、僕としては敢えて「完全に不可能」と表現したい処だ。

言い換えれば、言語で定義不可能なモノでも我々は認識可能だ、という事だ。実際、僕は“犬”を定義出来なかった。しかし、“犬”を認識している事は確かなのである。

以上より結論。

犬は“犬の定義”を以て、“犬”となるのではない。我々の“犬の認識”を以て、“犬”となるのだ。それは認識の言語化が、必ずしも可能ではないからである。


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