MENU TOP ABOUT DIARY COLUMN HOBBY NOVEL WORD BBS

傷口にレモン果汁を塗って勝手に痛がってる、みたいな

COLUMN MAIN

ツラい時に「誰かに話せば少しは楽になるよ」とか言われたりする事が有るが、というか僕も言うが、『誰かに話す』という行為は、その『ツラい事』を反芻するように正確に生々しく思い出す必要が有り、それを寧ろ忘れ去りたかったり、それは無理でも何とか記憶の片隅に追いやりたかったりする時には、まるで逆効果になったりしてしまうような気がしてならない。それは例えば、傷口に薬を塗ると、一時的に滲みたりするかのように。

しかも『誰かに話す』は常に薬だとは限らない。単に傷口の痛みを増すだけのレモン果汁だったりするかも知れない。時と場合によって、正解である薬の『誰か』は変わるのであるが、それを論理的に導くのは困難極まりない。だから通常は「何となく頼りになりそうだ」という酷く感覚的な選定を行わなければならず、まぁそういう手法が絶対的に悪いワケでもないのだが、しかしその不安定な棒切れの上に立っているような状態は、なるべくなら避けたいものである。

ではツラい時というのは、どうしてこんなにも道が少ないのか? それはそもそもツラいと思っている時点で何かに敗北してしまっており、そのビハインドを背負っているからに他ならない。つまりツラい状態というのは、100メートル競争で30メートルのハンデを与えているようなものであり、こういう逆境を乗り越える為には、余程その人に実力が有るか、もしくは競争相手が転んでくれたりするような運の良さが必要になってくる。

従って『ツラい』というのは、挽回の可能性が残っているにしても、基本的には既に負けてしまっている。まずはそこを認めないと、「どうして自分はこんなにツラいんだ?」という、答を得たいんだか逆に目を反らせたいんだか分からない状況に陥ってしまう。多分それは『アキラメ』よりもさらに悪い循環であり、きっとツケが後の自分自身にバウンドして返って来る。


今日今日のアクセス数/昨日昨日のアクセス数/累計累計のアクセス数
Read me! ページ最上段へ