――1990年9月28日(金)
私は平松泉。小学校5年生。女子としては背が高い所為か、よく中学生と間違われる。でもランドセルを背負った中学生なんて居ないから、そういう時に声を掛けて来る人の多くは、単なるお世辞を言っているだけ。こういう年頃の女の子に「大人っぽく見える」なんて言っておけば、取り敢えず誉めた事になると思ってるんだわ。
私は、いつまでも子供のままで居たいのに――
私には弟が一人いる。名前は悟。平松悟。まだ小学校3年生。少し前までは、「僕、将来はお姉ちゃんと結婚するんだ」というのが口癖だった、可愛い奴。最近では『僕』が『俺』に、『お姉ちゃん』が『姉ちゃん』になるなど、生意気な処も出て来たが、私にはそれはそれで愛らしく感じられる。
言葉使いがどんなに変わっても、彼が私の可愛い弟である事に変わりは無いのだから。
そんな弟が、今日はダンボールを抱えて学校から帰って来た。中には子猫が二匹入っている。
「悟、それどうしたの?」
「帰り道で拾ったんだよ。捨てられてたみたいでさ、可哀相だろ? だから俺が飼ってやろうと思ってさ」
私の問い掛けに満面の笑顔を応える悟。その表情は、私には余りにも眩しい。私は目を逸らすように箱の中の仔猫に視線を送った。
二匹の仔猫。とても可愛らしく、でも、だからこそ憎らしい。
――あなた達は捨てられたのよ。惨めで、可哀想な境遇。その不幸が、あなた達を愛らしい存在と化しているに過ぎないの。
あぁ、私は何を考えているのだろう。どうして仔猫を相手に、こんな事を思ってしまうの。どうして……?
「でも……お母さんが飼っても良い、って言うかしら?」
「えっ……」
途端に曇る悟の表情。どうやら、そこまでは考えていなかったらしい。
思った事をすぐに行動に移す直情径行タイプの悟。それが私には羨ましい。私には出来ないから。思った事を素直に表現し、行動するという事が、私には出来ない。きっとそこには醜い私が顕れるだけだから。
赤。視界が一瞬、赤に染まる。あぁ、これはきっと、醜い私……。醜く、汚く、そしてこれから、さらに穢れて行く私。それが、この赤なんだわ。
「駄目って言われるかなあ? 言われたらどうしよう、姉ちゃん」
でも悟は――無垢な悟は、こんなに醜い私を頼ってくれている。なのに私には仔猫への憎らしさから、こんな返事しか出来ない。
「どうしようって言われても……駄目なら元の場所に返してくるしかないよ」
どうして、どうして私は……こんなに醜いのだろう。ねぇ、答えて。ちゃんと答えて。確かに私に聴こえるように、誰か私に答えて――
「そんな可哀相じゃないかよ。放っといたらこいつら、死んじゃうかも知れないんだぜ?」
しかし悟の正義感は、さらに私の精神を岸壁に押し詰める。このまま、飛び降りて壊れてしまえれば良いのに。“私”という存在が壊れてしまえば――きっと私は幸せになれる。
捨てられた猫を憐れむ悟。それに協力的な態度を取れない私。
私は、いつからこんなにも子供じゃなくなっていたんだろう? もう後戻りは出来ないの? もう少し、せめて1年前――いえ、半年前でも良い。時間よ、逆向きに廻り始めて……!
「いけません」
ま、とにかくお母さんに訊いてみなさいよ――という私の言葉に従った悟だったが、あまり動物好きとは言い難い母は、案の定の反応を示した。なおも悟は母に喰い下がっていたが、『お許し』が出る事はまず無いだろう。
リビングに置かれたダンボールの中では、二匹の子猫が「ミャア、ミャア」と、か弱そうな声で鳴いていた。
――まるで自身の愛らしさを精一杯に表現して、何としてでもこの家で飼ってもらおうとしているみたい。
「馬鹿ね。そんなわけないじゃない」
自分で自分に向けて、そう呟いた。何故か自然と笑みが零れた。
赤。どす黒い、とても鮮やかとは言えない、暗い赤。再び視界が、その赤で覆われる。あぁ、これは3ヶ月前の――
いつまでも子供でいたい私の――
子供でなくなってしまった私の――
そんな自分に対して何処となく不気味さを感じている現実に、私は気付いた。どうして私は嗤ったのだろう?
結局、悟は仔猫を飼う事を諦めた。勿論、本意ではない筈だが。彼の表情を見れば、そんな事は簡単に分かる。
――それで良い、と私は思った。
悟が仔猫たちを元の場所に返しに行く時、私も一緒に附いて行った。
仔猫を置き去りにした時、何だか私自身の一部も失ってしまったような気がした。
青。先程の赤とは対称的な、空をも突き抜けるような神聖な青。私の中で、赤と青が交じり合った。そしてそれは、さらなる変貌を遂げて……。
ああ、これは私なんだ。赤も、そして青も私の一部。そして、そこから新たな私が――生まれる?
いえ、そんなのじゃなく、例えばそれは、大空を羽ばたく鳥達のように――
高く、高く、空よりも高く――
――あぁ、空を突き抜けた、その先に視えるのは……一筋の……赤と、青の、饗宴が……。