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『危険はあるが、ま、いいか』という心理

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人は基本的に“低リスク容認論者”だが、時に“似非ゼロリスク論者”へと変貌する。

後輩に薦められて、土屋賢二の『ツチヤの軽はずみ』というエッセイ集を読んだ。ジョークが少々ワンパターンだが、気軽に読めるのは確かである。

さて、その中の「『ま、いいか』の論理」というエッセイで、次のような一節が有る。(長いので普通のフォントで。文中にO‐157が流行した昨年という表記が有るが、これが書かれたのは1990年代後半だと思われる。)

ほとんどの人は、やがて地震が来ると信じている。だが、「地震が来るのは今日明日のことではない」と、毎日、何の根拠もなく思っており、「地震はずっと来ない」と信じているのと同じ結果になっている。
もし今日明日のうちに来ると思っていたら、食料を確保し、家具を固定し、懐中電灯やラジオを入れたリュックを背負って避難場所で寝起きしているところだが、実際には家具に囲まれた狭い部屋でビールを飲みながらテレビを見ているのだ。
これを見ると、「いつ来てもおかしくない。今日来てもおかしくない」→「いつ来るか分からない。今日来るかどうかは疑問だ」→「今日来る可能性はほんのわずかだ」→「いくらなんでも今日は来ないだろう」→「今日来るはずがない」→「今日は絶対来ない」と無茶な推論をしているとしか思えない。
われわれが物事に動じないのなら話は分かる。だが一万円落としただけでも顔色を変えるのだ。もしかしたら一万円には執着するが生命には執着しないのかもしれないが、一方では、ちょっとでも生命の危険があれば極端な拒否反応を示すのだ。
たとえばバンジージャンプのロープが一万回に一回は切れる、ということが分かったら、だれもジャンプしようとしないだろう。O‐157が流行した昨年、寿司屋の売り上げが大幅に減ったし、エイズが日本に上陸したとき、風俗店では閑古鳥が鳴いたのである。
それほど生命の危険には敏感に反応するものなのだ。それが、何も問題が解決していないのに、時間がたったというだけで、何事もなかったかのように寿司屋や風俗店に再び客が集まるようになっているのである。
喉元すぎれば熱さを忘れるというが、O‐157の力は依然として衰えず、地震の危険性はいっそう高まり、エイズも増加の一途をたどっている。むしろ事態は悪化しており、心配がつのっても良さそうな状況なのだ。
地震のことを忘れているわけではない。現に転倒防止器具を買いに行ったりしているのだ。
また、覚悟を決めたわけでもない。相変わらず生命は惜しくてたまらないのだ。
やけになっているわけでもない。きちんと会社に出勤し、税金も納めているのだ。
「危険はあるが、ま、いいか」という心理だとしかいいようがない。これを論理的にどう分析できるのか、不可解でならないが、ま、いいか。

この「危険はあるが、ま、いいか」という心理を分析してみようと思う。僕が最初に思ったのは、数年前に始まり現在も収束していないアメリカでのBSE問題だ。僕は2004年2月に「BSE問題」というテキストを書いているが、この中で“ゼロリスク論者”と“低リスク容認論者”との対立について触れている。以下、再び通常フォントで引用する。

最近しばしば言われるのは「“安全”と“安心”は違う」という事だ。吉野家の社長も言っている。そして叩かれている。再び吉川泰弘氏の『BSE牛の発生から1年、原因究明はどこまで進んだか?』を引用させてもらうが、彼も次のように書いている。
ここ1年間、BSE問題を大学以外で説明する多くの機会に恵まれた。リスク・コミュニケーションとして一般の人に説明する時、最も戸惑ったのが安全と安心感の相違であった。
吉川教授によれば、「安全」とは、個々に起こる事象の危険率の積を1から引いた数値である、という。これも僕の言葉で言い換えさせてもらうと、「安全」とは「総合的に危険でない事」であるとなる。一方で「安心」とは、個々に於ける安全率の積である、という。これを言い換えると「安心」とは「個々に於いて危険でない事」であるとなる。
これらを分かり易く言うと、例え何処かで危険な可能性が在っても、他の手法で危険性が否定されれば「安全」であるが、例え他の全てで安全であっても、1箇所でも危険性が否定されなければ「安心」は得られないとなる。従って「安全なのに不安」という事が有り得る。「安心なのに危険」という事は有り得ない。(但し、必要な情報が秘匿された場合に限り、「安心なのに危険」も有り得る)
一般に専門家は「安全」を重視し、一般消費者は「安心」を重視する。だからこそ両者には決定的な意見の食い違いが生じている。BSE問題のような環境リスクに関する世界では、前者のような結果的に低いリスクを見逃すことに繋がり現状肯定的な態度を「低リスク容認論」と呼ぶのに対し、後者のような「安心」をより重視する態度を「ゼロリスク探究症候群」或いは「ゼロリスク論」と呼ぶのだが、この両者の間の溝は想像以上に大きい。
「低リスク容認論者」は基本的に次の命題を仮定している。
世間には、その存在が広く知られたリスク、発見されているリスクに満ち溢れている。そしてまだ誰も指摘していないリスクもそれ以上にたくさんあることだろう。これらすべてを避けることは不可能である。
しかし「ゼロリスク論者」は、この命題を否定する。そしてそんな「ゼロリスク論者」に対して「低リスク容認論者」の中には「社会的に不当な差別の域に達している」とまで評する人も居る。
分かり易い例を挙げよう。例えば数年前に問題になったダイオキシン問題では、「低リスク容認論者」は徹底して「ダイオキシンの対策など、するだけ無駄だ」という理論を展開した。横浜国立大学教授の松田裕之氏は自分の著書の中で、環境問題の危険は,個人が被る危険に比べて桁違いに高額の費用をかけて避けるよう努力されている.ダイオキシンを取り締まるくらいなら,喫煙を禁止したり、自動車のエアバッグを取り付けたり、自転車専用道路を作る方がはるかに低い費用で多くの人命を救うことができるだろうと書いている。ところがこれに対して「ゼロリスク論者」から反発があったらしい。「人命を金銭で評価するとは何事か」という訳だ。これに対して同氏は次のような感想を述べている。
私が言いたいのは、何が優先されるべきかということであって、この本でも明記したとおり、金を払えば人を殺してもよいということではない。たしかに、すべてのリスクを削減できれば、それに越したことはない。しかし、物事には優先順位があると主張した。喫煙が本人だけでなく、周囲の人の健康を害することが統計的に証明されているにもかかわらず、禁止されてはいない。少なくとも喫煙者を登録制にし、新たな喫煙者を禁止することは可能である。自転車専用道路を作ることは、大気汚染を減らす上でも有効であり、交通事故回避だけでなく、環境にもやさしいだろう。これらの点は、ゼロリスク論でも異論はないと期待する。優先順位をつけないということは、結果的に現実に存在する不合理な優先順位を肯定することになる。
ダイオキシンを規制する金が有ったら使い方次第でより多くの人命が救えるが「ゼロリスク論者」はそれに反対する、という訳だ。
思うに、「ゼロリスク論者」は一つ新たな問題が起こるとそれに固執し、従来からの問題との重要性を比較しようとしない。「そんな事よりも今、問題になっているのはこちらだ」と言わんばかりに発生時期を最重視する。
池田正行氏によれば、「ゼロリスク論者」の問題点はもう一つある。彼は「ゼロリスク論」を「ゼロリスクを求めるあまり,その行動が大きな社会問題を起こすことに気づこうとしない心理」と定義している。これについて松田裕之氏は、以前問題になった所沢の農家にせよ、BSE騒動で閑散としている焼肉業界にせよ、彼ら自身が犯罪者ではない。ホームから転落した人を自らの命を省みずに助けようとした人が美談とされるのに、なぜほとんど無視できるダイオキシンやプリオンのリスクを避けるために、社会の一員が破産するようなことを避けないのだろうか。BSEの失政については、日本政府の責任は重い。しかし、牛肉を食べなくなっても彼らが失業するのではない。失業するのは関連業者である。彼らのことを可哀想だとは思わないのだろうかと述べている。
この話を聞いた「ゼロリスク論者」は間違いなく「しかしBSE騒動が起きた時に“牛肉を食べない”権利はある筈だ」と言うだろう。全くその通りだ。しかし、それこそが、ゼロリスク論は自分が悪いことを一切していない、あるいは一切すべきではないという崇高な誤解から生まれるという事実を示している。『一つの人命を助ける為にホームに下りる』という極めてリスクの高い行動は賞賛されるのに、『数多くの焼肉業界関係者(中には自殺した人もいただろう)を助ける為に危険部位を取り除いた焼肉を食べに行く』というリスクの低い行動は避けられるのは、矛盾している。

当時の僕は、その是非は別として、多くの日本人が“ゼロリスク論者”であると考えていた。しかし土屋賢二のエッセイ「『ま、いいか』の論理」を読んで、その考えは改めるべき所が有るように感じた。

まず日本人に限らず、人間は基本的に普段は“低リスク容認論者”である、という事だ。と言うのも、例えばスポーツをすれば骨折などの怪我をする確率が高まる。飛行機に乗れば墜落する危険性が発生する。もっと言えば、外出すれば交通事故に遭うかも知れないし、逆に建物の中に居れば、それこそ地震で建物が崩れて圧死するかも知れない。人間は生きている以上、そのような危険から離れる事が出来ない。

しかし殆どの人間は、そうした危険をそこまで心配せずに、安心して暮らしている。危険発生確率が低いからだ。つまり人間は、或る程度のリスクを日常的に容認している事になる訳だ。即ち、彼らは“低リスク容認論者”である。

ところが“低リスク容認論者”が、いつまでも“低リスク容認論者”であるとは限らない。時に彼らは“ゼロリスク論者”へと変貌する。

阪神大震災が起こった時、「次は近い内に関東大震災が来るんじゃないか?」と不安に思った関東在住者は多かった筈だ。実際には阪神大震災が起こったからと言って、関東大震災が起こる確率が高まった訳ではないにも関わらず、である。(もしかしたらプレートの関係などで、危険性が高まったという事実が有るのかも知れないが、そういう話は聞いた事が無い。)

関東大震災が本当に発生確率の低い“低リスク”か否かは別問題として、それまで多くの人が“低リスク”と考えて容認してきた関東大震災を、阪神大震災をキッカケに“低リスク”として容認出来なくなってしまった訳だ。先に書いたように関東大震災の発生確率が変化した訳ではない以上、この変化は人間の心理的変化に拠るものである、と言う事が出来る。つまり、それまで地震に関しては“低リスク容認論者”だった人達が、“ゼロリスク論者”へと変貌した訳である。(繰り返すが、この変化が悪い事だとか、そういう事を言うつもりは無い。)

ところが「『ま、いいか』の論理」に書かれているように、それが、何も問題が解決していないのに、時間がたったというだけで、何事もなかったかのようになっているのだ。関東大震災はまだ起きていない以上、阪神大震災が起こった頃よりも確実に危険性は増している筈である。にも関わらず、あれだけ阪神大震災で心配になった“ゼロリスク論者”の多くは、(新潟中越地震が起こるまでは)そんなに関東大震災を心配していなかった。“低リスク容認論者”に戻ってしまった訳だ。

「BSE問題」で僕は、「ゼロリスク論者」は一つ新たな問題が起こるとそれに固執し、従来からの問題との重要性を比較しようとしない。「そんな事よりも今、問題になっているのはこちらだ」と言わんばかりに発生時期を最重視すると書いたが、これは微妙に誤りだった。少なくとも普通に暮らしている人の中に“低リスク容認論者”は居ても、本来の意味での“ゼロリスク論者”は存在しない。そう呼ばれる彼らの多くは、何か問題が起こると一時的に“ゼロリスク論者”へと変貌する“似非ゼロリスク論者”だった訳だ。

以上より結論。

人は基本的に“低リスク容認論者”だが、時に“似非ゼロリスク論者”へと変貌する。“似非ゼロリスク論者”とは、本来の意味での“ゼロリスク論者”ではなく、何か問題が起こると一時的に“ゼロリスク論者”へと変貌し、時が経過すると再び“低リスク容認論者”に戻る人間の事である。「危険はあるが、ま、いいか」という心理は、彼らが保有している特殊な思考だ。


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