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不老不死に関する考察

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B:「殺人についての考察」以来、2度目の対話篇です。……って、これシリーズになるんでしょうか?

A:対話篇第2弾は「自殺についての考察」の予定だったらしいんだが、「どうしても自殺を否定する論理展開が思い浮かばない!」という嘆きの声が、何処からか流れて来たらしいよ。で、第3弾に予定していた「不老不死に関する考察」が繰り上がった、という訳だ。

B:嘆きの声って、ど、何処から……?

A:“中”から、かな。

B:“中”? “中”に誰か居るんですか?

A:“中”には“中の人”が居る。

B:“中の人”……?

A:まぁそれはさておき。古今東西、「不老不死」という題材は至る所で使われている。その中でも最も多いのが“物語”だろう。

B:そうですね。「不老不死」が扱われる事が多い媒体――小説、昔話、漫画、ゲーム、伝奇、伝説、神話など、これらは全て“物語”にカテゴライズされます。

A:うん。そして物語に於いて「不老不死」は、常に否定的に描かれて来た。

B:「不老不死」は人間の手には余る、という事でしょうか?

A:恐らくそうだろう。少なくとも「不老不死」を扱っている物語の多くは、そういう意図が込められている筈だ。さて、常に否定され続ける「不老不死」だが、その否定のされ方は大別すれば主に2通りしか存在しない。1つ目は、「不老不死」を巡る人間の醜い所業を描いた物。2つ目は、「不老不死」を得た人間の悲劇を描いた物だ。

B:確かにそうですね。前者だと秦の始皇帝のエピソードが有名でしょうか?

A:所謂『徐福伝説』というヤツだね。始皇帝が統一王朝を築いた後、徐福という人物から現在の日本に「不老不死」の秘薬が有ると聞き、数千人にも及ぶ集団を渡航させたらしい。

B:確か始皇帝を唆した徐福自身も日本に渡ったんですよね? 結局、彼はどうなったんでしたっけ?

A:これは諸説有る。日本各地に徐福に纏わる逸話が残っていて、どれが本当かは判らない。最終的には日本の何処かに定住した、というのが一般的な見解のようだ。

B:「不老不死」の秘薬が見付からなくて、逃げたって事でしょうか?

A:その可能性は高いだろうね。ちなみに山梨県富士吉田市には“鶴塚の碑”というのが存在し、これが“徐福の化身”だと考えられている。


A:さて、秦の始皇帝から「不老不死」の秘薬を持ち帰る事を命じられた徐福は、最終的には日本に定住する事になった訳だが、途中で富士山に立ち寄った事が知られている。

B:何故、富士山に?

A:そこに「不老不死」の秘薬が有ると考えられていたからさ。かの有名な『竹取物語』に、そのような記述が有るらしい。さらに富士山は音から“不死山”――“死なない山”とも書け、これが富士山に「不老不死」の秘薬が有るという根拠となったようだ。

B:コジツケですねー。

A:昔の人は言葉に力が有ると考えていたからね。“言霊”ってヤツだな。このような同音異義語には、隠された強い力の結び付きが有ると思われていたのだろう。現代人には想像も及ばないが。

B:そう言えば秦の始皇帝はどうなったんですか? 徐福は秦に帰らなかった訳ですから、待ちぼうけですか?

A:そんな事は無い。始皇帝は徐福だけを信じて「不老不死」を求めていた訳じゃない。見事に「不老不死」の秘薬を持ち帰った家臣も居たんだ。しかし、その秘薬の正体は単なる水銀だった、と言われている。水銀は温度計などにも利用され割と身近な物質だが、人間にとっては毒でしかない。始皇帝は水銀を飲んで、大幅に寿命を縮める結果となった。

B:なんか始皇帝って……哀れですね。……あっ、そうか、それで良いのか!

A:そう。物語に於いて「不老不死」は否定的に扱われる。この始皇帝のエピソードは、見事に「不老不死」を巡る人間の醜い所業を描いている。

B:そう言えば「不老不死」の扱われ方には、もう1つ有るんでしたよね。「不老不死」を得た人間の悲劇を描いた物、でしたか。これはショートショートなんかで頻繁に用いられますよね。

A:悪魔物ショートショートの典型だな。悪魔に「不老不死」を望むと、確かにその願いは達成されるが、代わりにそれ以上の苦痛を味わう事になる。しかし死にたくても死ねない、というオチだ。この手の話には際限が無い。徐福伝説に似ているが、蜜柑が「不老不死」の薬だと考えられていた、という話も有る。

B:蜜柑が、ですか? 何故……?

A:日本に初めて蜜柑――正確には橘の木だが――を持ち込んだのは、田道間守(タジマノモリ)という人物なのだが、彼は元々は第十一代天皇の垂仁天皇に「不老不死」の薬を探すように命じられ、中国に渡っていたんだ。

B:うわー、徐福伝説と丸っきり同じ展開ですね。日本と中国が入れ替わっただけで。

A:導入部はね。徐福と違い田道間守が偉かったのは、ちゃんと祖国に帰って来た事だ。しかも“非時香菓”(トキジクノカグノコノミ)という「不老不死」の薬を持って。ところが田道間守が中国に居た十年程の間に、垂仁天皇は亡くなってしまっていた。その後の詳細な経緯は不明だが、田道間守は非時香菓を地面に植える事にした。これが結果的には橘の木となった訳だ。

B:当たり前ですけど、非時香菓は「不老不死」の薬なんかじゃなかったんですね。

A:当たり前だ。ただの蜜柑だからね。人魚の肉を食べると「不老不死」になる、なんて話も有るが……どういう発想なのかは全く不明だ。そもそも人魚なんて存在しないし。ジュゴンか? ジュゴンの肉を食べるのか!?

B:逆に寿命が縮まりますよ!


B:しかし、どうしてこんなに多くの「不老不死」に纏わる物語が存在するんでしょう? 徐福伝説と非時香菓の話なんかは極めて酷似してますし。

A:それだけ「不老不死」の魅力に捕り憑かれた人間が多かったって事さ。特に権力者にはね。金と権力と女を手に入れた男が最後に求めるのは、“永遠の命”と相場が決まっている。

B:思いっ切り偏見ですねー。

A:そうでもないと思うけどな。少なくとも「長生きしたい」という願望は多くの人に共通しているし、それが高じれば容易に「不老不死」に行き着く。ただ殆どの場合、「不老不死」は人間には辿り着けない高みだと考えられている。だから取り敢えず、手近な欲求を満たそうとするのさ。金とか、権力とか、女とか。

B:はぁ……そうですか。えぇと、そろそろ話を元に戻しましょう。

A:うん、そうしよう。ココまでは「不老不死」が物語に於いて、どのように扱われているかを見て来た訳だが、もう少し「不老不死」そのものについて考察を深めてみたい。そこで注目したいのは、「不老不死」は必ずしも一体となって語られるとは限らない、という事だ。

B:どういう事ですか?

A:「不老不死」は「不老」と「不死」に分割される、って事さ。「不老」と「不死」は全く異なる状態だ。この2つを合わせた物が「不老不死」となる。

B:なるほど。しかし、その2つを分割する事に意味は有るんでしょうか?

A:有る、と思う。「不老」と「不死」は、物語でも区別されて語られる事が多い。例えば手塚治虫の漫画『火の鳥』では、「不老不死」に纏わるエピソードが数多く盛り込まれている。シリーズを通した主役である火の鳥は、その生き血を飲めば「不老不死」になる、という設定だからね。

B:そう言えば『火の鳥』は、「不老不死」を巡る人間の醜い所業を描き、「不老不死」を得た人間の悲劇も描いています。つまり「不老不死」の2つの否定を、どちらも使用している事になりますね。

A:手塚治虫に限った話では無いけれども、一流の芸術家や科学者は世の中を儚む傾向が強いように感じるね。もしかしたら手塚治虫も、人類に対して何らかの負の感情を持っていたのかも知れない。

B:何かに絶望していたんでしょうか?

A:そこまでは分からない。ただ彼に関して書いた文章を読むと、そういう事実は有ったのではないかと思う。そして『火の鳥』では、「不老」と「不死」とが分割されて描かれてもいるんだな。これは注目に値すると思う。


A:「不老不死」は、「不老」と「不死」とに分割される。まずは後者の「不死」から見て行こう。やはり手塚治虫の『火の鳥 未来編』から。

B:えぇと、確か山之辺マサトという主人公が、火の鳥に「不老不死」を与えられるんでしたよね。

A:いや、「不老不死」じゃない。山之辺マサトに与えられたのは「不死」だけだ。

B:え? そうなんですか?

A:彼は火の鳥に、新たなる人類の進化を見届けるように命じられる。その為に永遠の命を授かったのだが、当初は若者として描かれていた山之辺マサトも、物語後半では老人として描かれている。永遠の命を持っているにも関わらず。即ち、山之辺マサトに「不老」は与えられていない。

B:なるほど、確かに「不老」ではないですね。一方で山之辺マサトは自分の心臓を拳銃で打っていますが、死にはしませんでしたね。彼が「不死」である事は間違いないようです。

A:その時点で山之辺マサトは、次のような独白をしているね。

ア、ア、ア、ア、アーアアーッ!! ぼくは…ぼくは……な、なんてからだになったんだ!! ぼくは死ねない……どんなにからだをさいなんでも……永久に死ねないんだ!! 助けて……くれ。助けてくれっ! 人類も…動物も……生きるものがひとつ残らず死んでしまったあとで………ぼくだけが生き残って……いったいなんの楽しみがあるんだ? なんの生きがいが? 一千年……一万年……一億年も死なないとしたら………ぼくは、そのあいだになにをしたらいいんだ。生きたミイラじゃないか!!

A:この種の絶望は通常はもっと後半になってから描かれる事が多いと思うんだけれども、手塚治虫は普通の人間が絶望に到るまでの途中経過を全て吹っ飛ばして、いきなり山之辺マサトを絶望させている。今ほど漫画文化が確立していなかった――というよりも手塚治虫が自身で確立させた、と言っても良いかも知れないが――時代に、このように大胆なストーリー展開の飛躍を行ったのは凄い事なのではないか、と感じる。

B:そこまでの主人公の思考展開を、読者が一方的に脳内で補完しなければいけない訳ですからね。現在では割と幅広く使われている手法ですけど。

A:それが出来るのは、読者側にある程度の予備知識が有るからなんだよね。山之辺マサトの例で言えば、読者の多くが「不死」の持つ悲劇性を知っている、という仮定の下で描かれなければならない。そういう予備知識を読者に要求するのは、珍しい事だったんじゃないかと思うんだ。現在は長編ストーリー漫画が主流だけど、昔は一話完結漫画が主流だったしね。となれば当然、予備知識無しで気軽に読める漫画が多かったハズだ。

B:段々と“漫画論”になって来ましたね。

A:あぁ、いけない。そろそろ話を先に進めよう。


A:山之辺マサト以外の人類全てが滅んだハズの世界で、彼は一つの冷凍睡眠装置を見つける。その装置には以下のような文章が書かれていた。

私は五千年眠る。もし生きているだれかがこの箱をみつけたとしても五千年は開けないでほしい。放射能の危険がなくなったとき、私は自動的に冬眠からめざめるだろう。

A:この言葉を唯一の拠り所とする事で、彼は五千年もの長い時間を孤独と共に生き抜いた。しかし現実は残酷で、五千年後に冷凍睡眠装置を開けた時には、中の人物は既に風化してしまっていたんだ。

B:このエピソードが語りたい事は何なのでしょうか?

A:単純に見れば、「不死」が孤独と切っても切り離せない運命である事を示している、と言えるだろう。この場面で山之辺マサトは再び絶望している。

五千年…わしは待つのが楽しかった!! 次の五千年…その次の五千年………わしはなにを期待して生きればいいのだ?

A:ただ一方で、もう少し穿った見方をする事も出来そうだ。「不死」というのは所詮、絵空事に過ぎない。そういう状態の人間の悲劇を直接的に読者へ訴えかけても、それは読者の心まで届かない。

B:では手塚治虫は何を言いたかったのだと思う訳ですか?

A:恐らく……話し相手の必要性だ。使い古された言い回しを用いるなら、“人は独りでは生きて行けない”と言っても良い。そこまで来て初めて、限り有る生命である僕達は、自己を山之辺マサトに投影できる。

B:つまり、生とは完全なる歓びではない、と?

A:そう。泰然なる生は孤独という恐怖を生み出す。ただ一方で、人間は死も恐怖するという二面性を持っている。これについても『火の鳥 未来編』は言及している。ストーリーはさらに進み、山之辺マサトの肉体は滅び、魂だけの存在となってから数十億年が経過した世界での事だ。一度は滅んだ地球が再び生命を生み出し、神と化した山之辺マサトが新たなる人類を見守ろうという時、何故か地球では哺乳類が進化せず、ナメクジが人間のように直立歩行して凄まじい進化を遂げてしまう。

B:あんまり長い説明を続けないで下さい。僕の発言が無くなってしまうじゃないですか。喋らない僕なんて、存在しないのと同じなんですよ。実体が無いんだから。そうなったら怖いですよ。

A:あぁ、悪かった悪かった。

B:えぇと、では続きを。その進化したナメクジは、しかし嘗ての人間のように人種(ナメクジ種?)差別などが原因で、結局は滅んでしまう事になる訳ですね。そして最後の生き残りであるナメクジが地表に残る僅かな水を発見し束の間の休息を取っている時、そのナメクジと神である山之辺マサトとの会話が始まります。

私はおまえの先祖の下等なナメクジを知っているが、おまえのように未練がましくはなかったし、グチもいわずに死んでいった。はずかしくはないのかね。
イヤダイヤダ。わたしゃそんな下等動物じゃない!! 死ぬのがこわいんだ、助けてくれェ。
助けたいが私にはできない。その水も、もうすぐかれるだろう。この暑さでは三時間ともつまい。
ウフ……ウ。……あなた……聞いてますか……私に最後のグチをいわせてください。なぜ私たちの先祖は、かしこくなろうと思ったのでしょうな………。もとのままの下等動物でいれば、もっとらくに生きられ……死ねた……ろう……に……………進化したおかげ……で……………。


B:このナメクジの最後の台詞で、もとのままの下等動物でいれば、もっとらくに生きられ……とあるのが興味深いですね。死の恐怖だけでなく、生きる事にも恐怖感を抱いているというのが。

A:即ち、進化は生命に恐怖を与える訳だ。

B:ちょっと待って下さいよ。「不死」は確かに生の恐怖を生み出しますが、死の恐怖は排除します。となれば、死の恐怖も生の恐怖も味わう事になる通常の生命よりも、「不死」の生命の方が優れているという事になってしまいませんか?

A:いや、通常の生命の生の恐怖と「不死」の生命の生の恐怖とは全く異質なものだからね。死の恐怖の有無だけで単純に比較する事は出来ないさ。ただ、このような事は言えると思う。即ち――進化も「不死」も、その生命体が持つ恐怖を変質させる。その意味で進化と「不死」は同列なものだ、と。

B:手塚治虫は「不死」を否定していなかった?

A:肯定もしていないけどね。手塚治虫が否定したかったのは、「不老不死」が絶対の幸福である、という幻想だけだったんじゃないかな。しかし絶対の不幸である事は敢えて肯定しなかった。それを肯定する事は、進化を否定する事に繋がってしまうからだ。――さて、そろそろ残りの「不老」についても考えてみる事にしようか。


A:「不死」が基本的には現実に存在しないのに対して、「不老」という特性を持った生命体は幾つか存在する。単細胞動物など、非常に簡単な身体構造をしている生物は「不老」である事が多い。例えばバクテリアは死なない限り、永遠に細胞分裂を繰り返して自己を増殖させていく。

B:なるほど、それだけを見ても「不死」と「不老」が大きく異なる事が解りますね。

A:「不死」と「不老」のもう一つの違いは、「不老」は結局は死の運命からは逃れられていない、という事だろうね。そういう意味で「不老」は、「不死」ほどには絶対的な特徴ではない。

B:では「不老」の意義とは何でしょうか?

A:「不死」の欠陥の補完だろうな。『火の鳥 未来編』の山之辺マサトが「不死」でありながら長い年月の後に肉体が風化し魂だけの存在になったように、「不死」は所謂「不老不死」を望む者の理想とは異なった形質を持っている。簡単に言えば、死ななくても老いぼれては仕方無い、といった所だろうか。

B:そこで初めて「不死」と「不老」とを組み合わせる事に価値が産み出される訳ですね。

A:まぁ既に議論してきたように完璧に見える「不老不死」も、それが本当に幸福と成り得るかは別問題だけどね。

B:……ここでもう一つ疑問が沸いたんですけど。

A:なんだい?

B:地球上に原始的な生命が生まれた頃――何十億年も前の話になりますけど、その頃の生命体は殆どが単細胞生物で細胞分裂などを行っていた訳ですよね? つまり地球上にはバクテリアみたいな「不老」の生物ばかりが蔓延っていた事になります。そして彼らが次第に進化して現在のような生態系が出来上がった訳ですが、その中には「不老」を持続している生物は多くありません。つまり、多くの生物は進化の過程に於いて「不老」を捨て去った事になる訳です。これは何故なんでしょうか?

A:敢えて「不老」を選択しなかった理由か……。なるほど、興味深い。「不死」は無理でも「不老」は不可能な話じゃなかった訳だから、老いるという事に何らかの価値が存在する事になるハズだね。さて――


B:「不死」を得る事は不可能だとしても、どうして我々人間を初めとする多くの生物達は、「不老」までも捨て去ろうとしたんでしょうか?

A:一つには個体数調整の目的が有るだろう。仮に人間が「不老」になったとする。一部の先進国を除いては現在でさえ人口爆発が大問題になっているのだから、人間が「不老」化したら益々その問題が大きくなる。「不老」となっても種の個体数が一定に保たれる為には、食物連鎖に於いてかなりの下位に位置しなければならない。人間には、それは無理だ。

B:食べられてしまうのは……確かに嫌ですねぇ。まぁ他の生物達も嫌でしょうが。

A:自然界に於いて上位に位置する為には、「不老」は必然的に捨て去らねばならなかった訳だ。

B:でも……よく考えてみると、「不老」となって寿命が大幅に延びたとしても、その分だけ子供を生む周期も長くなれば、人口爆発は防げるんじゃないですか?

A:それは一理有る。確かにその通りなのだが、そうなると今度は別の問題が発生するんだな。これが「不老」を捨て去った二つ目の理由にも繋がる事だが――余りにも長い寿命は、遺伝子の多様化を抑制してしまう。

B:あ、なるほど。有性生殖をする生物にとっては、新規個体の作成は種の保存の他にも、遺伝形質を変化させる目的が大きい訳ですね。

A:その通り。遺伝子を多様化させないと、例えば一種類の新型ウィルスによって人間が絶滅しかねない。それを防ぐ為には常に新しい遺伝配列を組み上げていく必要が有る。それもなるべく短期間サイクルで、だ。

B:「不老」によって人間の寿命が延び、個体数維持の為に生殖の頻度を抑えると、遺伝的に不利な結果となってしまう。だから人間は「不老」でないのだと?

A:そう。誤解を恐れずに言えば、人間はセックスをする為に「不老不死」を諦めたんだ。

B:誤解されそうな言い方ですねー。

A:有性生殖をする生物が「不老」を捨てた理由としては、小説『あなただけのかまいたちの夜2』に以下のような言及が有る。

私は思うんだがね、もしかしたら生物は『不老不死』を諦める代わりに『出会い』を手に入れたんじゃないだろうか。バクテリアは確かに永遠に生きるかもしれない。しかし彼らに出会いはない。彼らは単に分裂増殖するだけだ。しかし、人間は違う。人間には『出会い』がある。巡り会って、そして新しい世代を作り上げていくのが人間だ。
ロマンチックすぎる考えかもしれない。でも、もし私の考えが正しいなら、『出会い』というのはそれだけ大切なものだと言えるんじゃないかな。生き物が『不老不死』を諦めてまで手に入れたもの。『不老不死』と等しいくらい大切なもの。それが『出会い』だと思う。


B:こういう結論を待っていたんですよ! セックスじゃない。出会いです。出会いの為に「不老不死」を諦めた――「不老不死」を捨て去った代償が“出会い”だなんて素敵じゃないですか!

A:しかしなぁ、出会いというのは結局セッ――

B:あー、もう良いですから。という訳で、「不老不死に関する考察」は以上で終わりです。最後まで読んでくれた方々、ありがとうございました!

A:では次回の対話篇で、またお会いしましょう。“中の人”は「対話篇は疲れるから、もうしばらくはやらない」とか言ってるようですが、どうせ口だけの人間ですから問題無いでしょう。それでは!


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