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小説や対話篇という表現形態のメリット

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綾辻行人というミステリー作家が居る。結構売れているので、知っている人も多いだろう。僕の好きな小説家の一人だ。最近では構想から完成までに8年を要した、原稿用紙2500枚にも及ぶ大作である『暗黒館の殺人(上)』『暗黒館の殺人(下)』が話題になった。

綾辻行人が書く推理小説は、現代日本を舞台としていながら幻想的な雰囲気で満ち溢れていたり、読者に対する大掛かりな叙述トリック(それは時に、作中の登場人物まで巻き込む!)を多用したり、全体が奇抜な構成で組まされていたりする事が多い。綾辻行人という作家の魅力の何割かは、そういう言葉で表現される筈である。

勿論そのような点が僕も好きなのだが、僕が綾辻行人の小説で最も好きなのは、彼の作品の登場人物が語る特殊な考察の数々なのである。綾辻行人の代表作『時計館の殺人』から2箇所ほど例を挙げてみよう。

“現実”は決して強固な実体じゃない。極論すればそれは、社会というシステムが人々に見せている一つの巨大な幻想にすぎないわけでね。“現実”という名の巨大な幻想を造り出し、これを確かな実体として万人に認めさせ、信じさせるような圧力を加え続けることが、この社会というものの最大の役割なんだと思う。そうすることによって初めて、人々に安定が供給されるわけだ。古代から現代に至るまで、基本的にこの図式は変わっちゃいない。   ――鹿谷 門実 (時計館の殺人 382頁)

お前にとって時間の本質とは何か、と質問された時、僕はいくらか考えあぐねた末、多分に自嘲的な気分でこう答えざるをえない。つまりそれは、時計の動きであると。この機械によって初めて、僕たち現代人は“時間”を明確な形として捉えることができる。僕らは時計によって時を計り、時を支配しているつもりでいるけれども、実のところは逆に、時計の動きが創り出す“時間”によって肉体と精神を拘束され、支配されているのに他ならない。   ――鹿谷 門実 (時計館の殺人 555頁)

鹿谷門実というのは『時計館の殺人』に於ける主人公なのだが、綾辻行人の作品では主人公に限らず、様々な登場人物が様々な物事に対する独自の見解を語る事が多い。上記の“現実”や“時間”に対する考察などは極めて僕の好みな分野でもあり、このような主張を味わいながら好きなミステリーも読めてしまうというのは、堪らない幸福感に浸る事が出来るのである。

以上よりイイタイコト。

綾辻行人の作品の魅力は、幻想的な雰囲気・大掛かりな叙述トリック・奇抜な構成だけではなく、登場人物たちが語る物事に対する膨大な考察にも存在する。


小説という表現形態は、“エッセイ”や“コラム”としては書けない考察を書く際に用いられる事が有る。

綾辻行人の作品の魅力は、幻想的な雰囲気・大掛かりな叙述トリック・奇抜な構成だけではなく、登場人物たちが語る物事に対する膨大な考察にも存在すると書いたが、彼の作品の登場人物たちの主張は、何となく作者自身の脳内が透けて見えるかのような印象を受ける。つまり、『「登場人物たちの主張」=「綾辻行人の主張」』という図式が成立するのではないか、と思うのである。勿論それは僕の勝手な想像に過ぎないのだが、やはり幾つか例を挙げながら根拠を示してみる。


殺人は犯罪である、と断言してみても、異論を唱える者は少ない。人並みに社会化された人間なら、それは常識だと考えるだろう。けれども、人を殺すという行為そのものが“犯罪性”なる属性を持っているわけではない、と云ったら、首を捻る者は多い筈だ。一世紀も前に、フランスのエミール・デュルケールっていう社会学者がこんなふうに云っている。『ある行為は、それが犯罪であるから非難されるのではない、我々がそれを非難するから犯罪になるのだ』とね。
つまり、例えば殺人という行為にしてみても、それ自体は『ヒトヲコロス』という単なる行為でしかないというわけさ。善いことでも悪いことでもない。価値として全くニュートラルなものである、とでも云ってしまおうか。当該社会の成員の意識の総体――デュルケームは“集合意識”という名称で括っているが――、これがその行為に対して“犯罪性”というネガティブな価値を認め、それに応じた反応を示すことによって、そこで初めて人殺しは犯罪となる。突き詰めて云えば、“犯罪性”というものは実体としては存在しないってことだね。飽くまでもそれは、社会――集合意識の認識の枠組みであり、反応の仕方に過ぎない。
だからね、これは云ってみれば、犯罪は社会によって作られるものだ、という極端な議論にも繋がっていくわけさ。事実、六〇年代以降になって持て囃されたラベリング論なんていう犯罪理論は、その辺の、ある行為に犯罪という名前が貼り付けられて行くプロセスをクローズ・アップし、分析しようとしたりするんだが。
こんな極論はどうだろう。この世の中から犯罪というものを完全になくす為にはどうすればいいか。答――それは法律をなくすことである。要するにね、こんなふうに考え始めると、僕は痛感せざるを得ないわけさ。探偵という行為、その存在の無粋さ、みたいなものをね。
ミステリは秩序回復のドラマだ、としばしば云われるよね。その通りだ。探偵というものの役割は、そうやってネガティブな価値を与えられた他人の行為を暴き、集団の秩序を回復させることにある。そこには必ず、その集団――この社会の“正義”という、これもまた社会的に作られた価値が拠り所として存在するわけで、更にその背後には、民主的多数という言葉で飾られた無粋な権力構造が控えてるってことになる。探偵自身がそれを意識するしない、好む好まざるに拘らず、だ。嫌な図式じゃないか。
こうして僕自身が探偵の立場に立たされてね、その犯罪を暴こうという時、自分が自動的に、普段からほとほと嫌気の差しているこの社会の権力構造を背景に物を云うことになるのかと思うと……。   ――槍中 秋清 (霧越邸殺人事件 337頁)


綾辻行人はミステリー作家であるにも拘らず、その肝とも言える探偵役の立場や役割を批判するような台詞を、探偵役とならざるを得ない状況に置かれてしまった登場人物を通じて語らせている。

彼の作品に探偵役が存在しない訳ではない。例えば代表作の『館』シリーズには、鹿谷門実という探偵役が居る。しかし、だからと言ってそれは、この槍中秋清なる探偵役の思考と作者たる綾辻行人との思惟とが矛盾している事は意味しない。

というのも、綾辻行人の作品の探偵役は、しばしば殺人犯の責任を追及しないのだ。探偵役は真相に迫ろうとはするが、例えばアニメ『名探偵コナン』のように、ラストが殺人犯の逮捕で終わるという“お約束”が存在しないのである。

つまり綾辻行人が描く探偵は、正に槍中秋清が言うような「探偵の無粋さ」(≒真犯人を見付け出して逮捕に至らせる、という「社会的正義」)を極力排除した存在のように思えるのである。となれば、綾辻行人は自らの理想の探偵像を、槍中秋清という作中の人物に代弁させた事になる。

もう一つ例を挙げてみよう。


自分は近代科学精神の下僕であることから逃れられない人間だと、基本的にはそう思っているんだよ、僕は。つまり、超科学的な現象や神秘主義的な思想には否定的な立場にいる筈なんだ。けれども一方で、その自分の拠り所に対して頗る懐疑的になってしまうこともあるわけでね。
パラダイムっていう言葉は知ってるよね。『科学者たちが共通に活用する概念図式やモデル、理論、用具、応用の総体』――そもそもは、科学史家トーマス・クーンが『科学革命の構造』という本の中で提唱した概念だ。自然科学だけでなく、社会科学においても、研究者は皆、その時代の支配的なパラダイムから自由であることは出来ない。けれども、例えば天動説が地動説に取って替わられたように、あるいは、ニュートン力学から相対性理論、そして量子力学へといった具合に、この枠組み自体が大きく転換されることもある。パラダイム・シフトというやつだね。
更にこの用語は、科学の分野に留まらず、それらを全てひっくるめたレベル――僕らの世界観や意識、日常生活のあり方といったところにまで敷衍して用いられる。この場合、メタ・パラダイムという云い方がされたりするが。
要するに、僕らは常に、その時代や社会を支配する何らかのパラダイムに乗っかって物事を見、考えている――いや、考えさせられている、ということだ。ま、当たり前の話だけどね。で、近代以降、現在に至るまでのそれは何かと云えば、いわゆる近代科学精神――機械論的世界観であり、要素還元主義であるってことさ。“科学性”“客観性”“論理性”“合理性”……僕らはこういった諸々の言葉や概念に“正しい”という価値を前提して、物事を把握し、思考する。オーギュスト・デュパンを初めとして、シャーロック・ホームズにしろエラリイ・クイーンにしろ、古典的なミステリで活躍する名探偵なんていうのは、その権化みたいなものだろ。この中でも、例えば“客観性”などというものは、理論物理学じゃあとうの昔に否定されているらしいが、だからと云ってそれが一般人の世界観、価値観を揺るがすには至っちゃいない。
要は、観測には必ず観測主体としての“私”が存在するっていうことさ。従って、肝要な問題は客体としての実存そのものじゃなくって、主体と客体との相互作用である。もうちょっと砕いて云えば、僕らが見ている世界は取りも直さず、僕ら自身の認識の構造である、と。これは無論、粒子という極小の世界に関しての話なんだけれども、こういった考え方の後を追うようにして、他の学問分野でも同じ方向へとパラダイムが動いて行くんだな。相互作用論とか解釈主義だとか、そっちの方向へね。
例えばね、極端な話こんな考え方も出来るな。幸島の猿の逸話は知ってるかい。有名な話なんだがね。宮崎県の幸島に生息している日本猿に、砂で汚れた薩摩芋を与えたところ、猿たちは最初、それを食べようとはしなかった。ところが、一匹の若い雌猿が、汚れた芋を水で洗って食べることを思い付いたんだ。云ってみれば、そこで、猿たちの社会に“芋洗い”という新しい文化が生まれたわけだね。やがてこの文化は同じ島の猿たちに広がって行く。そうして何年か経って、芋を洗う猿がある頭数に達した時、一つの異変が起こったって云うのさ。
便宜上、この『ある頭数』を百匹ということにする。百匹目の猿が芋洗いを修得した、正にその日の内に、島に棲む猿の全てが芋を洗い始めたんだ。まるで、その百匹目の猿の出現によって何かが臨界点を越えてしまったかのようにね。ロールプレイング・ゲームで云う、『レベルが上がった』ってやつさ。そればかりじゃない。それを境に、この“猿の芋洗い”は、海を隔てた全国の他の場所でも自然発生するようになったって云うんだな。
ライアル・ワトソンの『生命潮流』で紹介された事例だよ。どの程度信頼出来るデータがあるのか、疑問を投げ掛ける声は多いらしいが。
ある事柄を真実だと思う人数が一定の数に達すると、それは万人にとっても真実となる。思想や流行なんかの社会現象においては明らかなことだけれども、これが自然界においても広く存在するというわけだ。ワトソンは“コンティンジェント・システム”という知られざるシステムを想定して、この現象を理論的に説明しようとする。
よく似たもので、『形態形成場の理論』というのもあるね。ルパート・シェルドレイクっていう学者の説だ。同じ種の間には時空を超えたある繋がりが存在し、“形態形成場”という場を通して、種同士の共鳴現象として反復的に現われる――と、彼はこれによって種の進化を説明しようとする。ある種から進化して発生した新しい種は、自分たちの“形態形成場”を持つ。そしてその新しい種の数が一定量に達した時、離れた場所に棲む、未だ進化せざる同種に対して同様の進化を促す、というわけさ。分かるかな。
面白いのは、これが生物だけでなく、物質についても起こるというところでね。ワトソンも触れているが、グリセリンの結晶化に纏わる有名なエピソードがある。
グリセリンという物質は、二十世紀に入るまでは、固体としては存在し得ないものだと信じられていたらしい。結晶化に成功した化学者がいなかったんだ。それがある時、たまたまいろいろな条件が重なって自然に結晶化したグリセリンが見付かってね、これをサンプルにしてあちこちの化学者が結晶化に成功し始めた。そんな中で異変が起こった。ある実験室である化学者が結晶化を成功させた、その途端、同じ部屋にあったグリセリンの全てが自然に結晶化してしまったって云うのさ。しかも、この現象はいつの間にか世界の各地に広まっていたと云う。
シェルドレイクは説明する。『グリセリンは結晶化する』という命題が、その時点で、グリセリンという物質の“形態形成場”において成立したのだ、とね。   ――槍中 秋清 (霧越邸殺人事件 212頁)


ここまで来ると最早ただの“登場人物の台詞”ではなく、“エッセイ”や“コラム”である。僕だったら内容を分割して水増しし、日記5日分くらいにしてしまう処だ。しかし綾辻行人はこれを、途中で僅かなト書きや他の登場人物達の相槌などを挟むものの、殆ど一息の台詞として成立させているのである。

だが綾辻行人は有名な作家とは言え、ミステリー作家である以上はエッセイを書く機会は非常に限られるだろう。彼がエッセイのようなテキストを全く書かない訳ではないが、しかし上記のような内容のエッセイを“エッセイ”として出版するのは難しいと思われる。非常に示唆に富んだ内容ではあるのだが、論点が肥大化していたり一定していなかったりするからだ。

しかしながら綾辻行人は心の何処かで、この槍中秋清の台詞のような内容を信じているのではないか、少なくとも多くの人に知って貰いたいという願望が有ったのではないか、と思うのである。そこで自らのテリトリーたるミステリーという舞台の登場人物たちに、その思想を語らせたのではないか。

そのように考えると小説という表現形態は、少々偏った思想や思考を語るには絶好のメディアであるように感じられる。なぜなら『作家≠登場人物』という常識に護られながら、『「登場人物たちの主張」=「綾辻行人の主張」』という図式を用いる事により、自分の主張を自由に語る事が出来るからだ。

以上より結論。

小説という表現形態は、“エッセイ”や“コラム”としては書けない考察を書く際に用いられる事が有る。作家は『作家≠登場人物』という常識に護られながら、自分の主張を自由に語る事が出来る。


小説という表現形態は、“エッセイ”や“コラム”としては書けない考察を書く際に用いられる事が有る。作家は『作家≠登場人物』という常識に護られながら、自分の主張を自由に語る事が出来ると書いたが、対話篇という表現形態でも似たような事が言える。

僕は2004年の11月29日から12月2日までの4日間、「殺人についての考察」というテキストを短期連載した。頑張って書いた割には論理を巧く展開できなかった部分が有って、自分としては不満足な出来だったのだが、意外にも細く長く反響が有り、今では書いて良かったと思っている。

その「殺人についての考察」についてだが、これは僕の日記では初めて、2人の人物の会話で進行する“対話篇”という形式を採用している。実は最初は「殺人についての考察」を対話篇にする予定は無かった。事実、下書きの段階では、初めの2日分までを通常の日記と同様に書いていた。しかし「殺人についての考察」を書き進める内に、自分が段々と恐怖を感じているのに気が付いた。

その“恐怖”とは何だったのか――その全てを言葉で表現するのは、今でも難しい。しかし、確かに一部分を構成している要素を言い当てる事は出来る。それは即ち――「自分が何処か“偏っている”のではないか?」と思われてしまう事への恐怖である。

恐らく僕は普段から“偏っている”事を書いているし、それを自覚してもいる。だから通常の話題で自分が“偏っている”のは平気だ。しかし“殺人”というのは、道徳・倫理・思想・宗教など、様々な分野が関与してくる事象である。その余りにも大き過ぎるテーマに対し、自分が何処か“偏っている”という事に対して臆病になってしまった、というのは想像に難くない。

そして、もう一つ。そのように僕を“偏っている”と思うのは誰だろうか。勿論このサイトの読者が居る。だが僕が真に恐れていたのは、「僕自身が、自分が何か決定的な部分で“偏っている”と認めてしまう事」だったように思う。

つまり小説と同じような『筆者≠登場人物』という隠れ蓑を着る事により、僕は無意識の内に自分自身に対して自己防衛を図っていたように思うのだ。対話篇を用いる事により「これは主観ではない。客観なのだ!」と他の誰に言うでもなく、内なる自分に対して精一杯叫んでいたのではないか、と。

対話篇という形式は、敢えて一方に反証させ、もう一方にさらなる反証をさせるという手法で、その文章に説得力を持たせる効果が期待できる。有効活用の道が多い表現形態である事は間違い無い。その一方で、書き手である自分を一歩引いて見せる事で、何か呪縛のようなモノから逃れようとしているような気がするのである。

以上より結論。

対話篇という表現形態も小説と同様、自らを安全な立場に置きながら、自分の主張を自由に語る事が出来るというメリットを有している。しかし一方でそれは、「自分が何処か“偏っている”のではないか?」という懐疑を捨て切れない自分の為の自己防衛手段であるようにも感じられる。


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