MENU TOP ABOUT DIARY COLUMN HOBBY NOVEL WORD BBS

2004年3月

DIARY MAIN

2004年3月31日(水) 六本木ヒルズの回転扉での事故確率

六本木ヒルズの回転扉で死亡事故が起こる可能性は10年に1件程度である。

六本木ヒルズは2003年4月にオープンした。丁度1年経った訳だ。その間の回転扉での事故は、死亡事故1件・軽傷事故2件・無害事故29件が発生している。果たして六本木ヒルズの回転扉はどの程度“危険”なのだろうか?

「1年の間に1人の死者が出たのだから、そのくらいの危険度なんだろう」というのは正確さに欠ける。サンプル数が1では偏差が大き過ぎるからだ。何とか別の角度から危険度を考えてみたい。

そこで出て来るのがハインリッヒの法則だ。これは「1件の重大災害(死亡・重傷)が発生する背景に、29件の軽傷事故と300件のヒヤリ・ハットがある」という法則である。これを使えば比較的サンプル数の多い無害事故(ヒヤリ・ハット)から死亡事故の発生確率を割り出す事が出来る。

ハインリッヒの法則を逆に使えば、300件の無害事故が起これば1件の死亡事故が発生する、と言える。この1年の間に六本木ヒルズの回転扉では29件の無害事故が発生しているから、約10年で300件になるペースだ。つまり、六本木ヒルズの回転扉で死亡事故が起こる可能性は10年に1件程度である。

もう少し事故確率を検証してみる。ここからは議論の正確さを欠く部分が多いので気を付けて欲しい。

六本木ヒルズの来場者数はオープンから半年で2500万人に上ったそうだ。となると、1年間の来場者数は(ペースが多少落ちたとしても)5000万人近い数になるだろう。なんとディズニーランドの数倍にもなる。この中でどれだけの人が回転扉を利用するのかちょっと分からない(行った事も無いので想像も付かない。)のだが、1割くらいの人が通るのならば1年で500万人が使用する。つまり10年で5000万人が回転扉を使用する事になり、その内1人が事故により死亡する事になる。

これを言い換えると、貴方が六本木ヒルズの回転扉を1回使用して不幸にも死亡事故に遭う確率は5000万分の1という事になる。5000万分の1という確率はどのくらい高いのだろうか?

例えば日本人が1日生活していて交通事故に遭って死亡する確率は、人口1億3000万で1日に約250人が交通事故で死亡している事から約50万分の1である。また、ジャンボ宝くじの1等当選確率は500万分の1らしい。

従って、六本木ヒルズの回転扉を1回使用して死亡する確率は、1日の内に交通事故で死亡する確率の100分の1、1枚のジャンボ宝くじが1等に当選している確率の10分の1である、という事だ。

「六本木ヒルズの来場者の1割が回転扉を利用している」という何とも曖昧な仮定の下での議論だが、取り合えずこういう事だ。(もしも「あの回転扉は殆どの人は使ってなくて、0.1%くらいじゃないの?」というのであれば話が大きく変わる。推測で良いので行った事の有る人は教えて欲しいです。)
この仮定を信じるならば、回転扉を1日に100回以上利用する人以外は交通事故を心配した方が賢明なようだ。

仮定が曖昧過ぎるので今日の結論は無し。


2004年3月30日(火) 回転扉の事故

六本木ヒルズの回転扉で起こった事故。そりゃあ確かに回転扉は普通の自動ドアよりも危険だとは思うんですが、「どのくらい危険なのか?」という事が全く議論されないままに「回転扉は撤去すべき!」という論調が強まっているのは如何なものなんでしょうか? BSE問題で書いたように、今回も低リスク容認論者(多少の危険性は許せる人)とゼロリスク論者(僅かな危険も許せない人)との不毛な意見対立が起こるような気がします。ちなみに僕は低リスク容認論者です。もしも100億円掛けて10年に1人の割合で命が助かる、とかいう政策ならやるべきではない。人命は尊いし金には換えられないですが、だからこそ同じ金を使うならより多くの人命が助かる政策(交通か医療関係が良いでしょう)を採用すべきな訳です。回転扉の撤去は、それに見合うだけの多くの人命が助かるのか、まずはそれを検証すべきな訳ですよ。「回転扉は自動ドアより危険」という事自体には何の意味も無いように感じられます。

ただ六本木ヒルズは回転扉を撤去した方が良い事は確かでしょう。今回の事件では管理がかなり杜撰だった事が明らかになりましたし、そして何より残しておくのは印象が悪いですから。しかしこれはあくまでも営利を求める企業としての選択であり、このような動きが日本全体に波及するのは望ましくないと思います。(六本木ヒルズだけ回転扉を撤去するのは大した費用じゃないから良いが、日本全国となると膨大な費用な筈だから)

折角なので回転扉の撤去にどの程度の有意性が有るのかを計算してみようと思ったのですが、「回転扉の死亡事故」で検索した処、今回の事故しか出て来ませんね。もしかして今回が初めてのケースなのでしょうか? では回転扉は何時から出来たのかを調べてみると……これもよく分からない。仕方ないのでどうにか別の角度から考察出来ないか考えておきます。

P.S.
六本木ヒルズは回転扉を撤去するらしいですね。


2004年3月29日(月) イノセンス

映画『イノセンス』を見て来た。僕は原作の『攻殻機動隊』なるアニメはテレビでも映画でも全く見た事が無い。世間の評判では「相当な“予習”をしてから行かないと理解不能」と言われていたので、逆に敢えて何も知らないままで見る事にした。(そう言えば『劇場版エヴァンゲリオン』も何も知らないままに見た。衝撃を受けた。)

半分機械で半分人間の“サイボーグ”や完全な機械である“アンドロイド”(人形)で溢れかえる近未来世界。しかし或る時から少女型アンドロイド“ガイノイド”が殺人を犯した後に自殺するという事件が多発するようになる。事件の捜査に主人公が所属する公安が乗り出して――という導入。

基本的には「人間と機械(人形)との差は何か?」という、割と語られ尽くした感の有るテーマを扱っている。しかし理論展開は非常に分かり易く、それでいて面白い。惜しいのは今一つ新鮮味の有る発展的思考が見られなかった事か。正味90分ちょっとでは、それも仕方なかったかも知れない。一部、人物説明で理解出来ない箇所が有ったが“予習”は必須ではないだろう。

「人間と機械との差は何か?」というテーマは映画『ブレードランナー』を思い出す。あの映画は人間や人造人間(レプリカント)達が皆で必死になってその答を探しているような感じだったが、『イノセンス』は全ての登場人物が既に何らかの結論を持っており、後は皆で議論して理論を完成させて行っているような印象を受けた。『ブレードランナー』の時代からはもう相当な時間が経っているから、これで良かったと思う。『イノセンス』の主人公が未来に希望を抱きながら現実とのギャップに葛藤するような人物だったら、まどろっこしくて堪らない。

という事で僕は非常に分かり易い映画だと思った。少なくとも『エヴァンゲリオン』等よりは親切に作ってくれている。後はこの手のテーマに蕁麻疹が出なければお薦めしたい。とは言え原作を知っていれば、また新しい謎も出て来るんだろう。原作を知らなかったからこそ分かり易かった可能性も有る。原作アニメはDVDとか出てるのかな? ちょっと買ってみたい。

そう言えば誰かが『イノセンス』を「登場人物達が格言だけで会話しているみたい」と評していた。これは正にその通り。聖書やデカルトを初めとする哲学者、諺などの引用には事欠かない。膨大な量だ。

映画を見ていて一つ気になった点を。サイボーグがハッキングされたのは無線で行われたのだと思うのだが、無線機能がサイボーグに埋め込まれているなら通常の情報伝達を有線で行っているのは何故なのだろう? 『攻殻機動隊』に詳しい人が居たら教えて下さい。


映画を見た後は新宿御苑で花見。花を見て「綺麗だ」と思った事が無い僕には非常に気の重いイベントなのだが、今日は花を見てるだけでもなかったので何とか紛れた。それでも随分不機嫌そうに見えたそうだ。難儀な性格だよ、全く・・・。


2004年3月28日(日) 射精時の精子量

スタイルの良い仲良し夫婦ほど、子供は出来難い。

女性は妊娠し難くなっている可能性が有ると昨日書いた。これは男性にとっては大変な事だ。より多く自分の子孫を残す、という大いなる使命を果たせなくなってしまう。しかも今の社会制度ではパートナーが妊娠し難いからと言って、他の女性に妊娠させようとするのは非常にマズイ。(浮気は良くない!)
パートナーを増やせないならば、やはり妊娠し難いパートナーの妊娠確率を何とか上げるしかない。この時に男性が出来るのは、射精時の精子量を増やす事だけだろう。ではどうすれば精子量を増やす事が出来るのか?

男性が射精するのは主に性交と自慰による。自慰の時には前回の射精からの時間が経つ程に精子量が増す事が知られている。所謂“溜まる”という状態だ。しかし性交の時の射精の精子量は、それだけで決定される訳ではない。

性交時でも確かに前回の射精からの時間が長い程、精子量が増えるのは確かである。しかし一日に複数回の性交を行う場合はともかく、そうでない場合はそれ程これは重要な要因ではない。代わりに重要になるのが『パートナーの体重』と『前回の性交からどれだけパートナーと共に過ごしたか』だ。

これから書くのは、あくまでも男性側の本能(遺伝子)がそう判断するという話で、男性が個人としてそう考えるという訳ではない事に注意して貰いたい。

一般的に動物のメスは身体が大きい程、繁殖力が高い。人間でも「お尻の大きな女性は出産が(比較的)楽だ」とされる。従って男性も身体の大きな女性に対して行う性交は重要度が高いと判断する。その為に性交による射精の精子量が普段より多くなる傾向が有るのである。
従ってパートナーの体重が大きい程、精子量は多くなる。

また悲しい事に男性は、パートナーと一緒に居なかった時間を“パートナーが他の男性と性交する事が可能な時間”と判断してしまう。この時間が長いと男性はより多くの精子を放出しようとするのである。ライバルによりパートナーに送り込まれた精子量よりも、さらに多くの精子をパートナーに送ろうとするからだ。
つまりパートナーと出会っていない程、精子量は多くなる。

念の為にもう一度書いておくが、これは男性の本能であり、理性でどうにかなるものではない。以上より結論。

スタイルの良い仲良し夫婦ほど、子供は出来難い。逆に妻が太っていて夫が単身赴任していたりすると、子作りチャンスが少なくとも妊娠確率は高い。


2004年3月27日(土) 女性の進化

女性はセックスで快感を得られないように進化している可能性が有る。

生殖行為が快感を伴うように出来ているのは進化的に言って当然のように思える。気持ち良い行為は繰り返し行われるからだ。しかし社会性の高い動物ほど、メスは生殖行為で快感を得難くなっている、という調査がある。その中には人間も含まれている。

一般に生殖行為が快感を齎すのは、個体毎により多くの生殖行為を繰り返させる為だ。ところが基礎的な進化生物学では女性が陰核(所謂クリトリス)で膣と同様かそれ以上の快感を得られる事に関しては説明が出来ないという。クリトリスは生殖には必要ない器官だからだ。強いて言えば性的快感を高める器官を持つ事でより活発な生殖行為を促すという可能性が考えられるが、そうなると今度はわざわざ皮で覆って外からの刺激を弱めている事が説明出来なくなる。
これに一つの回答を与えるのが、社会性の高い動物に於いてはメスは性的快感を得難い方が進化的に優位だ、という考え方だ。

メスが性的快感を得難いならば生殖行為が積極的に行われなくなり、妊娠機能が退化する。つまり性的快感が減じる事は、メスが妊娠し難くなる事を意味する。

妊娠し難いメスが進化的に有利なのは、オスがメスを大切に扱うようになるからだ。オスはメスに自分の子供を産ませなければ意味が無いので、交尾した後でもメスがしっかりと妊娠した事を確認する必要が有る。逆に言えば、妊娠したメスにオスは興味を持たない。従ってメスにとっては交尾しても妊娠さえしなければ、再び交尾して妊娠が確認されるまでは特定のオスに守って貰える事になる。妊娠せずに特定のオスに常に守って貰えば、さらに強いオスと出会える可能性が有る。(戦いになれば、より弱い方が負けるから)

もしもメスが一度の交尾で簡単に妊娠してしまえば、オスはメスを守る必要が無く、他のオスと競争をする必要も無くなり、強いオスの選別が出来なくなる。この状態はオスの天国でしかなく、メスにとっては最悪だ。だから逆にメスが妊娠し難い程、オスはメスに奉仕せざるを得なくなる。

この理論には以下のような仮定を満たしている必要が有ると考えられる。

人間はこの2つの仮定を共にクリアしている。

一つ目の『オスがメスを守る制度が確立している』は夫婦制度がこれに当たる。一夫一妻制でない地域も有るが、基本的に身体的能力に勝る男性が女性を守る構造は変わらない。
二つ目の『オスが見放す程に妊娠確率を落とさない』に関しては、人間は哺乳類の中でかなり妊娠確率が低い部類に入るが、しかし他に子孫を作る手段が無い以上、確率が0でなければ問題無い。
以上より、人間を含めた或る程度高い社会性を持つ動物のメスは、生殖行為で快感を得難くなるように進化した方が有利な訳だ。

という訳で今日の結論。

女性はセックスで快感を得られないように進化している可能性が有る。


2004年3月26日(金) ダラダラ日記

久し振りにダラダラと日記っぽい日記で。

引き続きドラクエ5をやっている。最初はドラクエ7以上にポリゴン化したグラフィックや微妙に伸びたロード時間に違和感が有ったが、3時間もしたら気にならなくなった。僕はリメイク版のドラクエ3をやった時、「これは間違いなくオリジナルを超えている」と思ったが、それは今回も全くの同様。あらゆる点でスーパーファミコン版を越えている。既にドラクエは(FFにも負けなかった事から)RPGの唯一の王者と言えるが、リメイクの上手さも他を圧倒していると思う。堀井雄二の才能の凄さを改めて思い知らされた。

家庭教師で何人もの生徒を持って分かったのだが、概して男の子は最初、警戒心が強い。その代わり、1時間も教えれば段々心を開いてくれる。逆に女の子は、最初からいきなりタメ口の子もいるし、あんまり話してくれない子もいる。そして、それがずっと変わらない。なんでこんなに違うのかな?

まだ外は寒い。家の中も寒い。

本来なら今日が卒業式。現実は来月で三年生。さっさと就職したい。


2004年3月25日(木) 予習復習は必要無い?

子どもが予習・復習をしなくても「別に良い」と思う親が5割近く――。こんな結果が、くもん子ども研究所の保護者調査でわかった。
回答したのは、47都道府県の小学4年生から高校3年生までの子を持つ父と母765人ずつ。
具体的な授業態度を挙げ、「絶対に良くないと思う」か「別に良いと思う」かを選んでもらったところ、「予習・復習をしない」に「別に良い」と答えたのは46%に上った。「居眠りしたり、他の事などを考えたりしている」に「別に」と答えたのは25%。「宿題をしない」は16%、「他の教科の勉強をしている」が14%、「先生に注意されると、反抗する」「塾の勉強をしている」はそれぞれ13%だった。
(一部省略)

こういうデータは読み方が色々有って面白いのだが、「予習・復習をしない」に「別に良い」と答えたのは46%に上ったというのには驚いた。確かに学校の勉強くらい予習復習をしなくても出来る生徒は沢山居るだろう。しかし46%の中には子供の成績が悪い親が相当数居るはずなのだが・・・?
自分の子供が成績が悪いのに「予習復習は必要無い」と言う親は、どういう考え方をしているんだろう? やはり「勉強なんか出来たって何の役にも立たない」という立場なのだろうか? 甲子園を目指して毎日猛練習している高校球児みたいに、既に何か打ち込むモノを見付けているならそれでも構わないかも知れないが、そうでないとしたら理解に苦しむ回答だ。

こうした親の態度は子供の学習態度に如実に表れている。2002年11月に全国の高校3年生10万5000人を対象にした大規模な学力調査で、「学校以外では全く(殆ど)勉強しない」という生徒が41%にも達する事が明らかになった。しかも36%の学生は「分からない事はそのまま放置する」と回答したという。この41%、36%という数値を見ると、「予習復習は必要無い」と言う46%の親の影響が非常に大きいのではないかと思える。DQNは再生産されるからだ。

教育に関しては一昨日で打ち切ろうと思っていたのだが、これからも何か題材が有れば積極的に書いてみようと思う。



ドラクエ5。カジノで苦戦中。スロットが当たらない。


2004年3月24日(水) 巨乳は馬鹿じゃない

最近は非常に欲求不満なのでセックスの話。あんまり真面目に読まないように。

「巨乳は馬鹿だ」という認識に対して嫌悪感を覚える女性は当然ながら多い。こうした意見に対してグラビアアイドルのMEGUMI小池栄子などはテレビで公然と反論している。確かに彼女たちは強かで世渡りが上手そうだ。

(主に男性が)こうした認識を持ってしまうのには幾つか理由が考えられる。例えば「栄養が全て胸に行っているのではないか?」という誤った(でも有りそうだと思えてしまう)考え方。勿論、最初は誰も信じていないのだが、冗談半分で「巨乳のヤツは栄養が胸に行って頭に行かないから馬鹿なんだよ」という発言をする人は多い。結果、「巨乳は馬鹿だ」という認識は、信じている人は少なくとも誰しもが知っている状態になってしまった。つまり、「巨乳は馬鹿だ」論は市民権を得ているのである。

一度市民権を得た意見は、そう簡単に消えない。それどころか信憑性を増す。人間は複数のルートから同じ情報を受け取ると、どんなに怪しい情報でも多少は「そういう事も有るのかな?」と思ってしまうものだからである。

もう一つ大きいのは、「巨乳な女性は馬鹿であって欲しい」という男性の願望だ。巨乳というのは女性の性的魅力を大きくしている。動物的本能からすると巨乳な女性は格が高いのだ。ただでさえ性的魅力に溢れる巨乳女性が知的とあっては、まさに完璧な存在である。しかし男性にはこれが我慢ならない。

憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々「結婚と学歴の関係」によれば、女性は、自分と同じかそれ以上の学歴の男性と結婚するとあるが、これには逆も成り立ち、男性は自分以下の学歴の女性を求めると言える。

男性は性的魅力が高い女性は歓迎するが、知的な女性は歓迎しない。性的魅力は性が異なる以上は自分と比べようがないが、知的さは男女の違いが有っても直接比較出来てしまう。男性はそこに劣等感を感じてしまう。だから「巨乳な女性(自分が性的にお世話になりたい女性)は馬鹿であって欲しい」のである。

ところで「巨乳は馬鹿だ」という認識からは容易に「セックス好きは馬鹿だ」という新たな認識が生まれ得る。ところがこれを否定するデータが有るので紹介したい。(今日はこれを書きたかっただけ)

ドイツのマシアス・ブンダーライン医師の調査では知能指数の高い女性ほどセックスが好きだという統計結果が出たという。調査項目は幾つか有ったようだが、その中の一つに「フェラチオの経験の有無」というのが有る。その結果、高卒女性のフェラチオ経験率は52%、大卒女性のフェラチオ経験率は72%である事が分かったという。

以上より結論。

セックス好きや巨乳は馬鹿じゃない。誤った認識は我々男性の願望の現れ。



今日は家庭教師のバイト(代講)で麻布十番の元麻布ヒルズへ。道を歩く人全てが金持ちに見えた。実際にそうなんだろうな。
生徒の母親に「先生は○○に中学から入ったんですか?」と聞かれ「そーです」と答えると、子供に向かって「ほら、先生は雲の上に居る様な人よ」と言われた。いや、どう考えても逆だろう・・・。
建物の凄さに放心させられたままドラクエ5を買って帰宅。まずは特典のドラクエ8の映像を見る。戦闘シーンは言われてるほど変更してなさそう。それよりも通常画面の変化の方が大きい。キングダムハーツっぽいな。ストーリーは全く語られてないけど、映像から読み取れる限りは昔のFFっぽい感じ。ドラクエっぽくはない。ドラクエ5は読み込みが速い事は早いんだけど、「全てであと0.1秒早ければな」という処。ドラクエ7より時間が掛かってるのには疑問。僕のPS2が悪いのか?


2004年3月23日(火) 見習うべきはシンガポール

今日の日記は昨日の続きです。

日本では小学生から中学生になる間に数学が苦手になる学生が、他国に比べて多い。これは韓国・香港といった成績上位国に共通の傾向である。しかしただ一国、シンガポールだけは異なる傾向を見せている。

国際教育到達度評価学会(IEA)の1995年の国際数学教育調査ではシンガポールが小学4年生でも中学2年生でも2位以下に大差を付けての1位だった。ところが小学4年生の算数の標準偏差は大きい方から26ヶ国中1位であり、これまた2位に大差を付けている。(日本は26ヶ国中16位)
つまり、シンガポールでは小学4年生の時点でかなりの学力格差が発生している事になる。

しかし中学2年生のシンガポールの標準偏差は大きい方から41ヶ国中20位と、小学生4年生と比べて分散が小さくなっている。(日本は41ヶ国中3位)
シンガポールでは小学4年生も中学2年生も平均点が高い事を考えると、これは小学4年生では低成績だった層が中学2年生では好成績の層に移っている事を意味する。

どちらが望ましいかは言うまでも無いだろう。

ちなみに日本が目指していると思われる欧米のアメリカ・イギリスがIEAの調査では低成績である事は数日前に書いたが、この2ヶ国は小学4年生・中学2年生共に標準偏差の値が大きい。つまりアメリカ・イギリスは平均成績が良くない上に学力格差が激しい。

以上より結論。

日本の教育は、欧米よりもシンガポールを見習うべきである。


補足:ここ数日の日記は「学力低下」でも「学力格差」でもなく、「IEAの調査から読み取れる事は何か?」という事を主眼に置いていたので各国の具体的な教育方法・教育事情などは考慮に入れていません。「どんな教育が行われているかも知らないのに、シンガポールを見習え、と言うのはおかしい」という意見もあるでしょうが、その辺りについてはいつか機会が有れば書きたいと思います。
無論、何か意見等があればIEAの調査なんて関係なく何でも掲示板に書き込んだり感想フォームで送ってくれて構いません。というか歓迎します。


2004年3月22日(月) 学力格差

日本人の数学の学力格差が拡大するのは中学生からである。

国際教育到達度評価学会(IEA)の国際数学教育調査では各国の平均点だけでなく標準偏差も算出している。標準偏差の算出方法は高校2年生の数学の教科書を参照して欲しい。ここでは基本的に「各人の学力が拮抗していれば小さくなり、出来不出来が激しいと大きくなる数値」という理解で充分である。

1995年の調査によれば、日本の小学4年生の標準偏差は大きい方から26ヶ国中16位で、学力は平均している方である。平均点自体が非常に高い事を考えると、日本の小学4年生は学力が高い層に集中していると言える。

一方、日本の中学2年生の標準偏差は大きい方から41ヶ国中3位で、学力が非常に分散している事が分かる。しかし依然として平均点は高い。つまり、日本の中学2年生は高学力者が多い一方、低学力者も相当数が存在している事になる。

問題なのは、この二つの結果を並べて見た時に分かる。

これらから導かれるのは、日本では小学生から中学生になる間に数学が苦手になる学生が、他国に比べて多いという事実だ。

僕は数学に限らず他の科目でも、学年が上がるに連れて苦手な(所謂、落ちこぼれ)学生が増えるのは仕方無いと思う。段々と内容が難しくなるのは確かだし、加齢に従って自分の適性を知る事も有るだろう。しかしそれが「他国よりも多い」となると話が別である。ちなみにこの傾向は韓国と香港でも顕著に見られる。

ではどうすれば良いのか? 明日はそれについて考えたい。取り合えず今日の結論。

日本では小学生から中学生になる間に数学が苦手になる学生が、他国に比べて多い。


2004年3月21日(日) 数学に於ける電卓の使用

今日は一昨日・昨日からの続きです。

小学校では円周率を3.14とすると問題が作成出来ない筈なのに、実際にはそのような問題は教科書に載っている。これは“電卓の使用”を推奨した問題である。現在の教科書の一部の問題には電卓のマークが記されており、電卓の使用が薦められている。

煩雑な計算に対しては筆算ではなく電卓を使用すべき、という流れが日本でも根付いて来ている。確かに社会に出て3桁×3桁の掛け算を筆算で解いている人は殆どいないだろう。電卓や何らかのコンピュータを用いるのが常だ。それを考えると現在の指導要領の「2桁×2桁、3桁×1桁まで出来れば良い」という方針は現実に即していると言える。

しかし「計算能力がその程度でそれから先の数学をやっていけるのか?」という問題は有りそうだ。多分無理だろう。ただ「中学・高校の数学なんか全く役に立たない」という意見が根強い事は事実で、そうなれば「その先の数学なんか出来なくても構わない」という主張も出来る。僕は全然そうは思わないが。

さて、日本の小学校の算数教育で電卓を積極的に取り入れ始めたのは、欧米各国を見習ったからだと思われる。国際教育到達度評価学会(IEA)の1995年の調査では、小学校4年生(又はそれに相当する学年)の学校の授業に於ける電卓使用率は、アメリカが71%、カナダが63%、イギリスが92%だった。対して日本は6%に過ぎない。

興味深いのは、これら電卓使用率の高い国々の殆どがIEAの国際数学教育調査で低成績だった事である。小学4年生の国際成績は24ヶ国中、アメリカが12位、カナダが13位、イギリスが15位だった。一方、成績上位5ヶ国(シンガポール・韓国・日本・香港・オランダ)の電卓使用率は全て15%を下回っている。特に大差で1位となったシンガポールの電卓使用率は僅か3%で、日本よりもさらに低い。

これが何を意味するのかは分からない。「小学校での電卓の使用は寧ろマイナスに作用する」と結論付けたい処だが、同一条件の比較でない以上は断定出来ない。単に偶々アジア系民族が算数に強かっただけかも知れない。

もう一つ興味深いのは中学生の電卓使用率だ。やはり1995年の調査だが、この時に日本の中学2年生の数学の授業に於ける電卓使用率は21%だった。実は中学校でこんなに電卓を使わないのは日本と韓国くらいで、世界の殆どの国々は90%以上の学校が電卓を使用している。小学校での使用率が低かったシンガポール、香港、オランダの中学校での使用率はそれぞれ順に99%、92%、100%である。ちなみにこれらの国々は中学2年生の国際数学教育調査でも上位を占めている。(シンガポールは小学4年生以上の大差で1位)

以上より結論。

電卓の使用が算数&数学の成績に影響を与えるかどうかは不明。しかし世界に習うのなら電卓を用いるのは中学校からにすべきである。


2004年3月20日(土) 円周率

昨日、「日本の中学生の数学の学力は低下している訳ではない」と書いた。しかし「日本の中学生の数学の学力が伸びている」訳でもない。となれば、「これだけ長い期間の間に学生の平均的学力が伸びていない事に問題は無いのか?」という問題提起は可能だろう。
しかしこの手の議論は感情論に流され易く、正直僕自身は自分独自の意見を持っていないに等しい。よって、この話題は回避し、別の側面の問題点を指摘してみる。

「学力低下」は「ゆとり教育」方針の結果だと言われている。確かにその面はあると思う。そしてそれに関連して話題に上るのが小学校に於ける「円周率を3とする」問題だろう。

実は誤解が激しいのだが、現在の小学校では「円周率は3である」と教育している、という事実は無い。しっかりと「円周率は約3.14である」と教えている(筈だ)。では「円周率は3である」というのは何かというと、実際に問題を解く際に「円周率を3とする」という注意書きがあるのである。

これは2つの理由からなる。
現行の指導要領では掛け算は“2桁×2桁”又は“3桁×1桁”までしか教えられない事になっている。だから円周率で3.14を使ってしまうと、円の半径は1cmか2cmか3cmにするしかなくなってしまうのだ。(4cmだと半径×半径で16になってしまうから。)これでは実質的には問題が作れない。
もう一つの理由は決定的である。小数点第2位以下の数値の計算を現在の小学校は扱わない。従って3.14を用いた計算は全てアウトとなる。

つまり現在の小学校では、「円周率を3とする」というよりは「円周率が3.14だと問題が作れない」のである。このような桁数で仕切りを作るやり方は数学的には全く本質的ではないのだが、小学校だけではなく中学・高校でも、この規則が平然と用いられている事を知っているだろうか?

中学・高校では“高次多項式”というものを習う。“高次多項式”とは3次以上の多項式の事を言うが、やはりここでも4次以上の多項式を扱う事は禁止されているのである。確かに因数分解などは4次以上をやらせる必要は殆ど無いと思うが、積分の分野では少々困った事になっている。3次式を積分すると4次式になってしまうからだ。よって高校の教科書の積分は2次(又は1次)関数に対してしか行われていない。これでは積分が、放物線や直線で囲まれた面積しか求められない、という印象を与えてしまう。
ただ、高校まで来れば指導要領はかなり無視される傾向にあるので、この問題はそれほど表面化していない。

以上より結論。

小学校では現在でも「円周率は約3.14」と教えている。しかし円周率を3.14とすると問題が作れない、という事態に陥っている。

しかし実際は小学校の教科書には「円周率を3.14とする」問題が掲載されている。この事については明日。


多くのサイトに倣ってABOUTというページを作ってみました。既にこのサイトを見てくれている方々には必要無いとは思いますが。
また、それに合わせて上のMENUから更新履歴リンクをトップページのカウンター下に移動させました。何か不具合が有れば教えて下さい。


2004年3月19日(金) 中学生の数学の学力

日本の中学生の数学の学力は低下している訳ではない。

「学力低下」という言葉が声高に叫ばれるようになったのは何時からなのだろうか? 僕が記憶する限りではここ10年くらいなのだが、「最近の若者は・・・」という言葉のように昔から言われ続けて来たのかも知れない。受験戦争が最も激しかったと言われる80年代〜90年代初め以前の時代には「学力低下」という言葉は無かったのではないかと思うが、その辺りは22歳の僕にはちょっと判断出来ない。
取り合えず、ここで言う「学力低下」とは、「ゆとり教育」が実践されはじめた最近の事だと思ってもらいたい。さらに特に断らない限り、数学の話とする。(←数学が最も問題視される事が多いから)

数年前に「学力低下」論争でしばしば話題に上ったのが、国際教育到達度評価学会(IEA)による国際数学教育調査である。特に中学2年生を対象とした試験が注目を集めた。この調査は調査は約70問の問題を90分で解く形式で行われたが、それまで国際順位で常にベスト3を保って来た日本が、1999年に初めて5位まで落ちたのである。マスコミはこれを以て「日本の中学生の学力が落ちている」と報道した。

この調査によれば、“中学校2年の国別の数学の認知的な学力の順位”は
1964年 1位イスラエル・2位日本・3位ベルギー
1981年 1位日本・2位オランダ・3位ハンガリー
1995年 1位シンガポール・2位・韓国・3位日本
1999年 1位シンガポール・2位・韓国・3位台湾・4位香港・5位日本
となっている。“認知的な学力”とは、試験の点数の事だと思ってもらって問題無い。

なるほど、確かに日本の成績は落ちている。1995年にはシンガポールと韓国に抜かれ、1999年はさらに台湾と香港にも抜かれている。この調査のサンプル数が1ヶ国当たり約5000人もあり、偏差の問題は考えなくても良いだろう。つまり日本の国際順位が落ちたのは「偶然」ではないという事だ。

ところが実は香港以外の3ヶ国は日本が1位になった後から調査に参加した国々なのである。つまり、日本はこの3ヶ国に「抜かれた」訳ではない。それらの国は元々日本よりも高い学力を有していた可能性がある。また、この調査結果を見ると参加国が殆どアジア地域だけのように感じられるかも知れないが、アメリカやイギリス等の先進国もしっかり調査に参加している事は念頭に置いておきたい。

さらに注目したいのは“異なる年に於ける同一問題の正解率”である。国際数学教育調査では一定の問題をその前の調査問題と同じにして、なるべく公平な年代間比較を出来るようにしているのである。

これによれば例えば1964年と1981年の調査では37問が同一の問題であり、平均正答率は1964年が65%、1981年が64%であった。殆ど変わっていない。
次に1981年と1995年の調査では21問が同じで、平均正答率は1981年が60%、1995年が62%である。僅かながら正答率はアップしている。
そして1995年と1999年では48問が同じで、平均正答率はどちらの年も78%だった。

以上の事から言えるのは、世界一の成績を記録した1981年よりも1995年の方が僅かながら正答率は高く、1999年は1995年と同程度であるという事だ。

以上より結論。

日本の中学生の数学の学力は低下している訳ではない。低下したのは国際順位だけである。


2004年3月18日(木) フランス式の九九

橋本裕さんのサイト『橋本裕の日記』の3月17日の日記「九九の得意な日本人」を読んで、自分が九九を覚えるのに非常に苦労したのを思い出した。どれくらいで九九を覚えられるのが平均的なのかはちょっと分からないが、僕は丸3ヶ月掛かった。かなり遅い方に入る気がする。幸いな事にそこで算数嫌いにならなかったので今でも数学をやっている。

九九には81種類もの計算が含まれている。それらを全て覚えるのは大変な苦労だ。なんでこんなに沢山覚えなければならないのか? それは僕達が10進法を用いた社会に生きているからに他ならない。10になれば桁が上がるので「そこからは筆算をして、それまでの演算は全て覚えてしまいましょう」という事だ。
もし世界が5進法だったら4×4までの16種類を覚えていれば良かった事になる。今の1/5だ。残念。
逆に20進法だったら19×19までの361種類となる訳だ。無理。

しかし世界は広いもので、例えばイギリスでは貨幣で12進法を使っていた(1シリング=12ペニー)ので、掛け算は11×11、或いは12×12まで覚えさせるそうだ。お金の計算というのは社会生活で必須のスキルだから頷ける話だ。

これと逆を行くのがフランスである。フランスでは非常に変則的な九九を用いる。今日はその方法を紹介しようと思う。

まずは日本で言う4の段までは覚える。4×9までだ。そして8×3などは3×8と同じだとする。しかし、ここまでだと両方の数字が5以上だと計算できない。そのような場合はどうするのか? 実は両手を使って計算するのである。

例えば7×8という例を取って説明する。まずは両手の指を全て広げておく。そしてまずは左手で親指から折り曲げて数字を7まで数えていく。「1」で親指、「2」で人差し指・・・「5」で小指になる。もう曲げられる指が無い。そこで次は小指から伸ばして行く。「6」で小指、「7」で薬指。

今の処、左手は親指・人差し指・中指が折り曲げられ、薬指・小指が伸ばされている筈である。次に右手でも同様に親指から数字を8まで数えていく。すると、親指・人差し指が折り曲げられ、中指・薬指・小指が伸ばされている筈だ。

ここで伸ばされている指の数の総数を数える。全部で5本有る筈だ。その数字が答えの10の位となる。次に折り曲げている指の数を左右別々に数える。左手が3本、右手が2本になっているだろうか。そこで、その2つの数字を掛ける。3×2=6で、これが答えの1の位となる。
以上より7×8=56.

これがフランス式九九の方法である。他の数値でも出来るかどうか、是非。

以下、この計算が正しい事の証明を。

やりたい九九の計算をa×bとする。この時a≧5且つb≧5とする。
この時、左手の指は曲がっているのが10−a、伸びているのがa−5であり、右手の指は曲がっているのが10−b、伸びているのがb−5である。
よってフランス式九九より10の位は(a−5)+(b−5)=a+b−10で、1の位は(10−a)×(10−b)=100−10a−10b+a×bである。
よって、フランス式九九により導かれる数値は、(a+b−10)×10+(100−10a−10b+a×b)=a×bとなる。
これは求める数値である。
証明終わり。


P.S. 日記の選択式アンケート、辞めようと思います。どんな日記が良いのかなぁと思って取り付けたんですが、アンケートの結果を日記にフィードバックさせるのは(僕の力では)無理でした。毎日アンケートに答えてくれる方も居るようで、このままだと本当に申し訳ないので外します。これからは何か意見がある方は感想フォーム掲示板でお願いします。勿論、通常のメールでも構いません。(返信を希望するなら、出来ればメールで。)
また、日記才人での投票は(面白いと思ったら)これからも是非ともお願いします。ちなみに日記才人はホームページを持っていなくても登録可能です。投票ボタン等は残しておきますし、一度登録してクッキーを使用しておけば煩わしい手間は無いと思いますので、よろしくお願いします。(「投票されるとやる気が上がります」って書いている人が多いですけど、確かにその通りなんですよ。)


2004年3月17日(水) 赤球が出ると打ち止め説

今日の日記は12歳以上推奨。でも小学生も読んだ方が良いのかも知れない。

僕が小中学生の頃、「射精を3000回繰り返すと赤球が出て来て、もう射精を行えなくなる」という噂が頻繁に流れていた事がある。3000回という数字はともかく、「一生の内に作られる精子の数には限界が有る」という考え方はある程度の説得力を感じさせるものだ。恐らく今の小中学生の間でも真しやかに囁かれているのではないか?

「射精を3000回繰り返すと赤球が出て来て、もう射精を行えなくなる」という噂は、結果的には嘘だった。医学的には何の根拠も無い。ただ、「赤球が出る」という可能性は有る。精液中に血液が混じってしまう『血精液症』という症状がそれだが、通常は2,3週間もすれば自然治癒する。しかしそれで射精が出来なくなる、という事は有り得ない。

しかし「射精を3000回繰り返すと赤球が出て来て、もう射精を行えなくなる」という噂は最初に言ったように、「一生の内に作られる精子の数には限界が有るのではないか?」という説得力を有しており、その所為で3000回という数字も何となく信じてしまう人が多いのではないか。

実はこの“3000回”という数字がまた絶妙なのである。

ウィキペディアというサイトに寄れば、若い男性の平均的な自慰行為頻度は3〜4日に1度であるが、性的衝動や自制心による個人差が大きく、毎日行う者もいれば全く行わない者もいる、という事らしい。確かに自分や周りを鑑みると、それくらいが平均的な処だろう。中学生くらいだと1日1回のペースで行う者が割と多いと思う。僕もそうだった。

1日1回自慰行為を行う人間にとっては3000回という数字は8年掛かって達成出来る数値であり、噂が本当かデマかをすぐには確かめる事が出来ない。しかし3000回は間違いなく生きている間には到達してしまう数字でもある。12歳から自慰を始めた人は20歳で3000回だ。しかし当然ながら20歳で射精が出来なくなってしまっては非常に困る。

つまり3000回というのは、「すぐには確かめられない回数」だが「比較的若い年齢で達してしまう回数」でもある。小中学生はここに大きな不安を感じるのではないか。いつか書いたが、不安はデマを呼ぶ。よってここでデマが流行するスパイラルが形成される訳だ。デマが流れる→不安→デマがさらに流れる→さらに不安増大→・・・・・・

以上より結論。

「射精を3000回繰り返すと赤球が出て来て、もう射精を行えなくなる」というデマは、3000回という数字が持つ不気味な怖さが流行の一因である。


2004年3月16日(火) つむじ

僕は昔から髪の毛の事で悩んでいます。と言っても薄いって訳ではありません。実はですね、僕の頭には“つむじ”が4つ有るんですよ。調べた所、日本人の90%の人はつむじが1つしかないそうじゃないですか。2つ有るのが7%、3つ以上は3%。僕は3%の中にいる訳か・・・。

でも3%って、33人に1人じゃないですか。学校で1クラスに1人はいる計算になる。そんなにいますか? 僕は今まで自分以外に3つ以上有る人って見た事ないんですが。しかも『占い資料館』というサイトに依れば、中には、つむじが7つもあった人も!とあります。7つ・・・? 上には上がいるものです。

でもまぁ別に、つむじが多い事自体は構わないんですよ。何かの邪魔になる訳でもないし。問題は僕のつむじは右巻きと左巻きが混在しているという事です。4つの内、3つが右巻き、1つが左巻きです。分かりますか? 右巻きと左巻きが隣同士に存在してるんですよ。髪の毛が一方では右に行こうとして、一方では左に行こうとしてるんですよ。何処にも行きようが無いじゃないですか。

いや、一つだけ在る訳ですよ。もうお気付きだと思いますが、『上』と『前』です。







下からの角度でもう一枚。







言っておきますが、僕はお笑い芸人のはなわを目指したりしてませんし、リーゼントに憧れたりもしてません。髪の毛に整髪剤の類は全く使用してません。素です。何もしないとこうなるんです。

毎日これをどうにか寝かせるのが大変なんです。というのも単なる寝癖と違って原因がつむじですから、髪の毛を持ち上げようとする力が持続的に働くんですよ。しかも僕は整髪剤の類は嫌いなので使わないんです。まぁ何とか毎日ごまかしてますが。

しかしそうなると、つむじが7つも有る人は物凄い事になってるんですかねぇ・・・。全部同じ向きなら問題無い訳ですけど。


2004年3月15日(月) 反省しています

昨日『実績』を考慮しなくても高橋尚子は代表に選出されると書きましたが、現実に選出されたのは野口みずき・坂本直子・土佐礼子の3人。しかも補欠には千葉真子、という事で全然予想が外れてしまいました。すいません。全く読みが甘かったです。ごめんなさい。騙すつもりは無かったんです。(←言い訳になってない)

高橋が選ばれると思ったんですけどね・・・。まぁ記録を重視したって事ですね。意外だったのは補欠が千葉真子になった事です。勿論、彼女も実力の有る走者ですけど。ところで僕は、代表者から外れてその勢いで補欠にも選出されなかった高橋尚子を見て、サッカーのフランスワールドカップで日本代表に残れず帰国させられてしまったカズと北沢を思い出しました。何故だろう?

まぁでも日本陸連の会見を聞く限りでは、世間で言われてる程「基準が曖昧」とは感じなかったですね。決定までの経緯を割と詳しく説明していたと思います。ただ文章化されている基準は確かに書き換える必要は在るかも知れません。でも「選考レースでのタイム重視」とかそういう事を書いてしまうと弾力的な選考が出来ないと思うしなぁ。「基準が曖昧」だったからこそ決定段階では色々な議論が出来るという面が在りますからね。ニュースでは盛んに「皆が納得できる基準で」と言われてますが、それは必要無いでしょう。結果が悪かったら日本陸連を批判する、で良いんじゃないでしょうか?

難しいのは、高橋尚子が名古屋国際に(出られるのに)出場しなかったのは誰の責任かって事です。「日本陸連が出られるか出られないか、はっきりしなかったのが悪い」という意見にも一理有るとは思いますが、しかしあの段階で陸連が「出られる」と言える筈はないし、「出られない」という訳でも無かったんだから、どうしようもないんじゃないかとも思いますね。一方で高橋尚子サイドの読みが甘かったと言えばそれまでですが、それはそれでマラソンというスポーツに“読み”が影響してくるってのも厭な話ではあります。(“レース中の駆け引き”は必要ですよ)

選考レースを1回に絞るっていう案も在るようですね。アメリカ方式です。これだとシンプルはシンプルで、分かり易い。ただ将来、高橋尚子のような有力選手が選考レース前に(オリンピックには充分に間に合うような)軽い怪我をしてレースに出られなかった場合にどうするのかという問題が出て来ます。どれもこれも上手く行きそうも無いですねぇ・・・。

上で少し書きましたが、結局の所決定権は日本陸連に在るんだから、オリンピックの結果次第で判断するしかないと思うんですよ。誰かがメダルを取れれば誉める。取れなければ批判する。出来れば責任者を交代する。これもシンプルでしょう。

高橋尚子は選出されなかったら引退すると思ってましたが、まだやる気は在るようですね。その発言はスポンサー対策かも知れませんが、頑張って欲しいものです。


2004年3月14日(日) 女子マラソン

今日の名古屋国際女子マラソンは土佐礼子が好タイムで優勝してしまった為、明日の日本陸連のオリンピック出場者発表が注目の的になる事は間違いない処だろう。(今日、好タイムを出す人がいなければ、野口・高橋・坂本で決定的だった)
明日は誰が選ばれるのだろうか? ちょっと予想をしてみた。

野口みずきは既にオリンピック出場者に内定しているので、実質残り2つの枠を高橋尚子・坂本直子・土佐礼子で争う訳だ。そこで選考レースの記録を見てみると、次のようになっている。

高橋尚子:2時間27分21秒・東京国際2位
坂本直子:2時間25分29秒・大阪国際1位
土佐礼子:2時間23分57秒・名古屋国際1位


ちなみに参考までに、野口の記録は、

野口みずき:2時間24分14秒・世界選手権2位

である。

これを見ると高橋尚子は圧倒的に不利に見える。3人中、タイムも順位も最低だからだ。それ故、「もしも高橋尚子がオリンピック代表に選ばれるとしたら、それは実績を評価したということ」だという論調が強い。明日、もしも日本陸連が高橋尚子を代表に選んだならば、間違いなく「不透明な選考基準」と揶揄されるだろう。

しかし実は『実績』等という曖昧な基準でなくとも、高橋尚子が代表に選ばれる明確な理由が在るのである。

今日の土佐礼子の2時間23分57秒という記録は素晴らしかった。名古屋国際女子マラソンの過去10年の優勝タイムを並べてみると、

2004年 2:23:57(土佐礼子)
2003年 2:25:03
2002年 2:25:35
2001年 2:30:30
2000年 2:22:19
1999年 2:27:43
1998年 2:25:48
1997年 2:29:30
1996年 2:27:32
1995年 2:27:29


であり、土佐礼子の記録は歴代2位だ。ちなみに2000年の記録は高橋尚子の物であり、今日の土佐はあの時の高橋尚子に次ぐ走りを見せた事になる。これはもうオリンピック代表に決定的と言って良い様な気がする。

次に渦中の高橋尚子の記録について考える。東京国際女子マラソンの過去10年の優勝タイム/日本人最高タイムは以下の通りである。

2003年 2:24:47/2:27:21(高橋尚子)
2002年 2:24:59/2:25:02
2001年 2:25:08/2:28:13
2000年 2:24:02/2:24:47
1999年 2:22:12/2:22:12
1998年 2:28:29/2:28:29
1997年 2:27:45/2:27:45
1996年 2:28:58/2:28:58
1995年 2:28:46/2:28:46
1994年 2:30:09/2:30:30


やはり高橋尚子の記録は芳しくない。東京国際女子マラソンの日本人の2位以下の記録もチェックした所、高橋尚子の記録は日本人歴代4位であった。高橋の全盛期を思うと寂しい限りである。

最後に坂本直子の記録を見てみよう。大阪国際女子マラソンの過去10年の優勝タイムは以下の通りである。

2004年 2:25:29(坂本直子)
2003年 2:21:18
2002年 2:23:55
2001年 2:23:11
2000年 2:22:54
1999年 2:23:24
1998年 2:28:31
1997年 2:25:57
1996年 2:26:04
1995年 阪神・淡路大震災のため、大会中止


なんと、坂本直子の優勝タイムは1999年以降では過去最低なのである。しかも大阪国際女子マラソンの日本人記録を調べた所、坂本直子の記録は日本人歴代8位である事が分かった。

こうなると高橋尚子と坂本直子の評価は逆転する。高橋尚子の記録はお世辞にも良いとは言えないのだが、坂本直子の記録はそれを下回っていると言える。

以上より、僕はオリンピック出場者には、野口みずき・土佐礼子・高橋尚子が選出されると予想する。この予想には『実績』は全く考慮に入れていない。という訳で今日の結論。

『実績』を考慮しなくても高橋尚子は代表に選出される。


これが外れてたら、明日の日記で謝ります。これが当たってたら、有頂天になってると思います。


2004年3月13日(土) 無知のヴェール

今日の日記は一昨日・昨日からの続きです。

国民が自分の事しか考えない意見を主張したとしても、大数の法則が働く事により、世論は常に正しい傾向を表す。一方、政府や有識者と呼ばれる人達が我侭な主張をするのはマズイ。母集団が小さい(政府なら1)ので、大数の法則が働かないからだ。では、どのようにして意思決定を為すべきなのか?

政治哲学者のロールズは“無知のヴェール”という思考実験を提唱した。ロールズは自らの著書『正義論』の中で次のように語っている。

当事者たちはある種の特定の事実について無知であることが前提とされる。まず第一に、当事者は、社会における自らの位置、すなわち、階層あるいは地位を知らない。また、自然的資源そして能力の配分における自らの財産、すなわち[自らの所有している]知性、力そういったものを知らない。おなじく、自らが何を善とみなすのか、自らの人生の合理的な計画の細部、自らの心理的な特性(たとえば危険を嫌う傾向であるとか、楽観的あるいは悲観的になりやすい)さえも知らないのである。さらに、私は次のことを前提とする── 当事者は彼ら自身の社会がおかれる特殊な状況についても知らない、と。すなわち、彼らはその社会の経済的状況あるいは政治的状況、あるいはその社会が達成した文明・文化のレベルについて無知なのである。原初的状況におかれた人間は自分がどの世代に属すかも知らないのである。

これが“無知のヴェール”である。ロールズは平等な社会を構成する為には“無知のヴェール”に包まれた状態が必要であると説いた。現在では“環境倫理”との齟齬など、幾つも問題が在る事が分かっている“無知のヴェール”だが、基本的な社会規則を制定する際の一つの重要な考え方である事は確かである。

今回の事例の場合、“無知のヴェール”に包まれた人間は被害者の親族の立場を考えなければならない。加害者の少年の気持ちを考えなければならない。事件と全く関係の無い傍観者である場合を考えなければならない。なぜなら“無知のヴェール”に包まれたアナタは、被害者家族かも知れないし、加害者そのものかも知れないし、傍観者かも知れないからだ。

“無知のヴェール”に包まれた状態では、全ての立場が重要視される。

これが政府が取る基本的なスタンスである。(繰り返すが“無知のヴェール”には問題が多く、常にこれだけしか考えていない、という事は無い。あくまでも基本として。)

話を戻して、世論は大数の法則により“正しい傾向”ではあるが、それは逆に少数意見を排除する事も意味する。今回で言えば被害者家族や加害者少年の立場は圧倒的少数なので、圧倒的多数を占める“傍観者という立場”に席巻されてしまう。但し、「傍観者が被害者家族の心情を察して、そのような主張をする」という事は充分に有り得る。「被害者家族の気持ちを考えたら7年で退院なんて早過ぎる!」という意見は正にそれだ。ただ、これはこれで“傍観者という立場”である事に変わりは無い。

世論は大数の法則により、“傍観者という立場”のみが重視される。

――以上が行政の対応と世論との間の格差の原因であると思う。

この問題については今日で終わり。(多分)


hasepさんのサイトじぶん更新日記で『前後期制入試の問題点』と題した日記がアップされてます。国立大の分離分割方式を否定する内容なんですが、非常に面白いです。僕は先月20日の日記で「分離分割方式は機能している」と書いていて結論が全くの正反対ですけど、こういう考え方も出来るなぁと。


2004年3月12日(金) 世論は我侭で良い

酒鬼薔薇聖斗の仮退院に対して「時期尚早だ」という否定的な意見を持つのは仕方ない、と昨日書いた。社会が不安発生の悪循環に陥っているからだ。

この手の事態の時、「行政は犯罪者の人権ばかり考えていて、被害者の気持ちを考えない」という主張がしばしば見られる。どうして行政の対応と世論との間にはこんなにも大きな溝が出来てしまうのか。これは一般的な社会原則を決定する際のスタンスの違いが大きく影響していると考えられる。

基本的に世論は自分勝手であるべきだ。自らの立場を向上させる物には賛成し、そうでない物には反対する。当然、個々の意見は自分の事しか考えていない、他愛の無い物になる。しかしその偏った意見が大量に集まる事によって、全体としての正しい傾向が形成される、という考え方だ。

これは数学の「大数の法則」と呼ばれる原理に近い。詳しく知りたい人はリンク先で勉強してもらうとして、ここでは簡単な説明を引用すると、
ある事象が一見、偶然や、不規則的に見えても、同じ属性を持った事象データを大量に集めれば集めるほど、その事象が一定割合で発生しているという法則が観測できる。これを「大数の法則」と呼び、事故の発生する確率を求める保険数理にも活用されている。
という事である。

つまり、一般人である僕達は我侭な意見を言っても良いのである。それと同じように思う人が多ければ世論で重視されるし、殆どいなければ無視されるだけの話だ。(だから「自分の意見がどうして世論に反映されないんだ!」と主張するのは無意味である)

世論とは、個々の勝手な意見を統合する事によって形成された、正しい傾向である。

しかし行政の様な組織が同じように我侭な意見を主張するのはマズイ。これについては明日。


2004年3月11日(木) 酒鬼薔薇聖斗の退院

神戸市須磨区で1997年に起きた児童連続殺傷事件で逮捕され、関東医療少年院(東京都府中市)に収容されていた当時14歳の男性(21)が10日、同少年院を仮退院した。法務省は退院したことを遺族側に通知、被害者側へ異例の対応を取った。男性は実社会と接しながら保護観察下に置かれ、社会復帰に向けた最終段階へ移った。

二十歳より上の世代なら鮮明な記憶として残ってる事件でしょうね。インパクトだけならオウム真理教関連の事件と同レベルでした。そんな事件をたった一人の中学生が起こした訳で、当時の混迷ぶりには凄まじいものがありましたね。

あれから7年。あれだけの事件を起こして「たった7年で世間に出て来てしまうのか」という声が出て来るのは仕方のない事でしょう。酒鬼薔薇聖斗とほぼ同世代の僕としては、子供時代の7年はとてつもなく長いようにも思えますが。今の僕は7年前の僕とは別人と言っても良い位に違いますし。逆に充分な大人なら例え10年、20年経ったとしても、そんなに人格とかは変わらないんじゃないでしょうか?
だから7年という期間だけを取って「短過ぎる」とか言ってもしょうがないのかも知れません。最大のポイントは「本当に酒鬼薔薇聖斗は更生したのか?」なのは明らかです。

まぁ、そんな事は誰でも分かってる事ですね。でも一般人には「本当に酒鬼薔薇聖斗は更生したのか?」なんて確かめようが無い。だから僕たちは不安に感じる訳です。それで「7年なんて短過ぎる。もっと隔離しておくべきだ」なんて意見を言う人が多発する訳です。あぁ悪循環。

何が悪いんでしょうか? ちょっと考えてみましょう。

酒鬼薔薇聖斗が更生しているかどうかなんて分からない。→僕達は不安になる。→酒鬼薔薇聖斗を自分達に近付けたくない。→近くに来るなら拒絶する。→不当な差別があるとマズイので、政府は酒鬼薔薇聖斗に関する殆どの情報を公開しない。→情報が無いので僕達はさらに不安になる。→酒鬼薔薇聖斗を自分達に近付けたくない気持ちが上昇。→酒鬼薔薇聖斗探しが始まる。→政府はさらに情報管制。→…………

この悪循環を断ち切る方法は幾つか有ります。

1.僕達が酒鬼薔薇聖斗に対して不安を感じないようにする。
2.僕達が酒鬼薔薇聖斗に対して不安を感じても拒絶しないようにする。
3.政府は酒鬼薔薇聖斗が不当に差別される事を覚悟しつつ情報公開する。
4.政府は酒鬼薔薇聖斗が退院した事すら知らせない程の徹底した情報管制を敷く。
5.そもそも酒鬼薔薇聖斗を永遠に退院させない。

今回は既に4と5は不可能になってしまいましたが、このような手法も考えられた、という事です。
今回のような事態に対しては果たして、どれがベストなんでしょうか?

多分、明日に続きますが、取り合えず今日の結論。

酒鬼薔薇聖斗の退院に関して我々は不安発生の悪循環に陥っている。これを断ち切るには上の5つの方法がある。


2004年3月10日(水) ジュンク堂書店

2日も続けて駄目な日記を書いてしまったようです。下の様なメールが多い事、多い事。



いや、まぁ自分でやってる事なんで良いんですけど。でも頑張らないとなぁ。

昨日は家庭教師の生徒用に数学の問題集を買いに行ったんですよ。ところが池袋西口の芳林堂書店で買おうと思ったら、去年閉店したそうじゃないですか。全然知りませんでした。仕方なく東口のジュンク堂書店に向かったんですね。ジュンク堂は前から場所は知ってたけど、入った事はなかったんですよ。

いや、広くて良いですね。本の数も多いし。しかしあそこは立ち読みを推奨してるんでしょうか? 椅子とか机が大量に置いて在るんですね。しかも学習参考書を売っている階に行ったら学生服を着た高校生たちが机で商品の本を読みながら勉強してるじゃないですか。え? そんな事もアリなの? 最早、図書館と化してますな。

しかし思った通り、棚に並んだ本は少し傷付いたりしてるのが多かったですね。今回は自分用のじゃなかったし、家庭教師の時間が迫っていたので仕方なく買ってしまいましたが、自分用の本をそこで買いたいとは思えなかったです。気にしない人は気にしないんでしょうけど。

そう言えばレジが1階にしか無いのも変わってますね。コスト削減なのかな? その割には1階のレジはやたらと豪華でしたが。まぁそれは良いんですが、参考書の有る8階から1階まで本を抜き身で持って行くのは、自分が万引きしてるみたいで落ち着かなかったです。まぁ、こっちは慣れか。

取り合えずジュンク堂は“立ち読み用”という事で。

(↑そう言えば後輩がバイトしてるんだった。危ない危ない。)


2004年3月9日(火) 浅田会長の自殺に関する様々な見解

浅田会長の自殺について書いた昨日の日記は実に評判が悪かった。日記才人での閲覧数は自己最高を記録したのに得票数が少なかったし、選択式アンケートの方なんて回答が殆ど来なかった。(←回答するに値しない、と理解している。何人かからは“面白い”の評価も頂いたが)

浅田会長の自殺については色々と書いている人が多かった。その内容は大体、

という2つに分類されるようだ。中には大激論を交わした人たちもいるらしい。→『さくら迷路』

昨日の日記では、僕がこのいずれの態度も取らなかったので意図が伝わり難かったかも知れない。僕としては「自殺が卑怯」とか「追い詰めたマスコミが悪い」とか、そんな議論では問題が解決しないと思って、敢えてそれを無視して昨日のような日記を書いたつもりだったのだが・・・。
というのも、どっちも悪い部分は有ったと思うのだ。

僕は「死んだ事が卑怯だ」とか「自業自得だ」とは、とても思えない。昨日書いたように、浅田会長はリスク計算が出来ない人間だった可能性が有り、悪意が無かったかも知れない。悪意が仮に有ったとしても、それによりまだ人命被害が出ていない以上は、自らの死を以てすら償えない、という事も無かった筈だ。(但し、これからどうなるかは分からない)
しかし浅田会長は自殺するにしても、事実関係の説明をしたメモなり何なりを残すべきだっただろう。仮に真実が浅田会長にとって最悪の物だったとしても、「全て気付きながら出荷してしまいました。ご迷惑をお掛けしました」とだけでも書いていれば随分と印象が違った筈である。

一方、マスコミにも問題が無い訳ではない。マスコミの取材というのは多くの人達が思っている程に冷静ではなく、このような事件では必ずと言って良い程、「人殺し!」等の野次同然の怒号が響く。これが本当に野次馬から発せられた言葉なら受け流す事も出来るかも知れないが、正義の象徴の様な振る舞いをする報道陣から浴びせられる言葉には大きな重みが有る。普段から批判される事に慣れていないような人間であれば耐えられない苦しみかも知れない。
難しいのは、そのような暴力的とも言える取材攻勢が、時に真実を看破するという成果を挙げる所だろう。疑惑の人物に対して強い態度で臨む事自体は悪とは言い切れない。

浅田会長の自殺に関して「浅田会長の逃げなのか? マスコミの横暴なのか?」という議論に意味が持てないと考えるのは、このようにどちらか一方が決定的に悪い、とは言えないと思うからである。(一応言っておくと、浅田会長のしでかした事自体は浅田会長が悪いに決まっている。今言っているのは、あくまでも彼の自殺についてである)

鳥インフルエンザを放置したのは明らかに浅田会長(と、その他数人)が悪いに決まっている。しかし「自殺は無責任」と言っている人は、浅田会長のした事が死ぬに値する(或いはそれ以上)の罪だったのか、という視点が欠けている事が多い。
マスコミの取材に問題が在る事は、松本サリン事件の頃から周知の事実だった。しかし「マスコミが悪い」と言っている人は、それが一般的に考えて本当に自殺に追い込むような取材だったのか、という視点が欠けている事が多い。


「じゃあお前はどういう考えなんだよ?」と言うと、昨日の日記になる訳である。

浅田農産は近日中に廃業する可能性も在る。もしそうなったら今まで以上に不毛な議論が展開されてしまう気がする。注意していきたい。


2004年3月8日(月) 浅田会長の自殺

鳥インフルエンザ関連騒動の渦中になっていた浅田農産の浅田会長とその妻が自殺した。

浅田会長は鳥インフルエンザの可能性を知りながら公的機関に報告をせず、鶏肉や卵を出荷し続けた。僕は浅田会長は明確な悪意の元に、このような行為を行っていたのだと思っていた。しかし今回の自殺の報を聞き、少し疑問を持った。

もしかしたら浅田会長はリスク計算が出来ない人間だったのかも知れない。自社の鶏が鳥インフルエンザに感染している事を知り、単純に「鶏を出荷出来なくなるのは勿体無い」という発想の元に、このような行為を行ったのかも知れない。

ちなみに僕は浅田会長に悪意が無かったから責任が無い、などと言うつもりは全く無い。寧ろ、悪意が無かったからこそ新たな問題が発生する、と考えている。

「浅田会長が鳥インフルエンザの危険性を知らなかった筈はない。明確な悪意があった筈だ」と考える人もいるだろう。しかし鳥インフルエンザは本当に危険なのだろうか? BSE騒動でもそうだったが、食品安全に関する報道では、一方では「大変に重大な問題だ」とされつつも、もう一方では「仮に食べたとしても安全である」という論調が常に付いて回る。今回の鳥インフルエンザ問題でも同様で、「食べても問題なし」という報告が清水恒広・京都市立病院感染症科部長により為されている。

鶏肉や卵を食べ続けても大丈夫なのか。

大丈夫と思われる。人のインフルエンザと同じく、気道を通した飛まつ感染や接触感染が基本なので、通常の清浄な環境で生産された製品で、排せつ物や血で汚れていない限り食べても感染しない。
WHO(世界保健機関)によると、中心温度が70度以上になるように加熱処理したものを食べるように薦めている。今のところ、食べ物を介して感染した報告例はないので、毎日食べ続けたとしても心配する必要はほとんどない。


昨今、食品安全に関する関心は確かに高まっているのだが、牛丼切れ目前の吉野家が大繁盛したのを見ると分かるように、元々気にしなかった人は気にしないままな印象が有る。浅田会長もそのタイプの人間だったのではないか?

無論、食品業界で重要な地位に立っている人間がそのような態度ではマズイ、というのは確かだ。しかしそうなると、いくら浅田会長に対して「どうしてあのような行為を行ったんだ!?」と詰問しても問題解決には至る可能性は低かった事になる。浅田会長のようにリスク計算が出来ない人間が食品業界に蔓延っているとすれば、例えば今回のような事例に対して厳罰化するという対策を取ったとしても、「出荷出来ないと勿体無い」という理由だけで行動されれば何の効果も無いからだ。

最近『はてな?』のアンケートで牛丼を「BSEを気にせずに食べたい」か「怖いから食べたくない」かのアンケートが行われ、300人中224人が「BSEを気にせずに食べたい」と答えた。となれば食品業界に同様の認識の人間が相当数いる事は想像に難くない。

ただ、「BSEを気にせずに食べたい」という人間でも、きちんとしたリスク計算が出来る人間ならば正しい判断が下せる筈である。(或いは、個人の問題と組織の問題は違う、という事が理解出来ているかどうか)
この辺りは教育でどうにかするか、或いは資格制度を確立するしかないと思う。リスク計算が出来なければ、モラルの問題ですらなくなってしまう。


2004年3月7日(日) 家庭教師を付けるべき学生

昨日会ったサークルの後輩に「最近の先輩の日記を読んでいると、どんどん先輩の事が好きなってくるんですよ」と眼に怪しげな光を湛えながら言われた。その後輩は男。僕も男。残念、すいません。僕は異性が好きなんだ。


今日も家庭教師ネタで。書く事が他に無い、という切実な事情が。

家庭教師は高い。果たしてそれに見合う効果が家庭教師にあるのか? 僕は基本的に数学しか教えないので、それに限った話として読んで欲しい。

家庭教師を付けるのが最も効果的なのは、学力的に中の下くらいの生徒である。「全くやる気が無い訳ではないけれど、そこまでマジメな訳でもなく、それでも今までは良かったが最近は成績が下がり始めてきた」といった生徒だ。中学3年生〜高校1年生くらいに多い。

あまりにも成績が下の生徒は元々やる気が殆ど無い事が多く、家庭教師が付いても中々成績は上昇しない。これは他の教育手段(塾など)でも同じである。このような生徒はまずは性格を改善する必要が有るだろう。(人間の才能は学業に対する物だけではない、というのは別の議論)

一方、成績上位者の成績をさらに伸ばすには本人の適正の問題が大きくなって来る上、数学の場合は誰かに教えて貰うだけでは実力を伸ばすのが難しくなって来る。どうしても自分の力だけで問題を解く必要が有るからだ。

学力的に中位の生徒は、普段はあまり勉強しなくてもテスト前にはそれなりに頑張る層が多い。これらの生徒は潜在的には勉強に対するやる気は有り、家庭教師など見ている者が居れば、それなりに真面目にやってくれる。ただ、学校での授業を受けて分からない事を自分から積極的に聞きに言ったりする程やる気が顕在化している訳でもないので、勉強内容が一筋縄ではいかなくなる中学生後半からは成績が落ちてくる。

学校の定期テストは真面目に勉強していればかなり簡単に出来るようになっている。問題はどれだけの時間を“真面目に”勉強するかだ。だから直接見られてさえいれば真面目に勉強する学力中位者は家庭教師の効果が高いと考えられる。

では、どれくらいの時間“真面目に”勉強する必要が有るのか? 数学では1回の定期テストまでに30時間程度の授業時間があると思う。その場合、僕は3〜4時間程度の指導で一通りの範囲が終わる。これくらいやれば、普通の生徒は平均点より少し上くらいは充分取れる。基本的に集団指導は授業の進度に無駄が多い上に遅いのだ。

今日の結論。

家庭教師を付けるのが最も効果的なのは、学力的に中の下くらいの生徒である。

「最近学校の成績が下がって来た」という生徒を持つ両親の方は、取り合えず2,3回だけでも家庭教師を付けてみるのも良い。成績改善する可能性は高い。(但し、その効果は持続しないので注意が必要)
ちなみにテスト対策だけの契約を認めず、数ヶ月或いは1年単位の契約しか出来ない家庭教師センターは危険。


2004年3月6日(土) 家庭教師をやってて思う事

家庭教師をしていて思うのは、各家庭は教師に気を使い過ぎである、という事だ。例えば昨日の日記で書いたような万単位の額の贈り物は(貰えるのは嬉しいが)全く必要無い。しかし結構な家庭がやっているようなのである。

僕は家庭教師のバイトを始めて4年弱だが、1年以上の期間を教えた生徒だけで7人になる。この中で高額な贈り物をして来た家庭が3つも有るのだ。1つは昨日書いたように6万円近いデジタルカメラ(←まだ使い方が分からない)。1つは2万円分の図書カード(←1ヶ月で使い切った)。そしてもう1つは現金10万円(←あっと言う間に使い切った)。

家庭教師というのは非常に不経済な教育方法だと思う。僕の登録しているセンターならば、大学生教師の場合で1時間3800円の料金が掛かる。週1回2時間やれば、月に3万円以上の出費になる。この金額は普通の学習塾の1ヶ月の月謝とほぼ同じだろう。しかし学習塾ならば週3回4時間程度の授業を受けられる。

必然的に家庭教師というのは経済的に余裕のある家庭が雇う事になるのだろう。実際その通りで、僕の経験だと半数以上の家庭が父親が医者をやっている。ちなみに図書券と現金10万円をくれた家庭はどちらも父親が東大病院所属の医者だったし、デジカメをくれた家庭は日本どころか世界中で知られる有名企業の創業者の家だった。

家庭教師を雇う家庭は経済的に裕福であり、実際に費用も安くはない。これは間違いない。

しかし「あまり余裕は無いけれど学習塾は効果が無いので子供に家庭教師を付けたい」という家庭もあるだろう。そういう家庭に一応軽くアドバイス。

1.前述のように、家庭教師に贈り物は要らない。初めての回、最後の回、或いはお中元やお歳暮の時期、全てひっくるめて何も要らない。それで指導態度が変わるような教師なら変えた方が良い。旅行のお土産も必要無し。

2.毎回のオヤツも要らない。食事はもっと要らない。特に指導が終わってから出されるのは最悪(←でも多い)で、教師にとっては帰れる時間が遅くなるだけ。何か特別に相談毎が有る時だけで充分。殆どの家庭は教師だけでなく生徒(自分の子供)にもオヤツを出すから、毎回1000円以上掛かっているんだと思う。無駄な費用です。

3.但し、飲み物は用意して欲しい。教師にも依ると思うが、僕なんかはやたらと喋る量が多いので、どうしても喉が渇くから。でもお茶で良い。

↑当たり前と言えば当たり前なのだが、こうしてる家庭は皆無に近い。


2004年3月5日(金) 収賄しました

昨日は家庭教師のバイトで或る生徒の最後の指導日だったのだが、授業を終えて帰ろうとすると、そこの母親から袋を渡された。中にはラッピングされた直方体の箱状の物が入っている。「お菓子かお酒かな」と思った。その生徒には2年間程教えてきたので、まぁ数千円の物ならあまり気兼ね無く貰える。

僕は家庭教師センターを介してバイトをしているのだが、こういう事は割と多い。この家庭からは今までにもお中元やお歳暮の時期に実家で製造している日本酒を貰っていた。他の家庭でも図書カードとか、現金とか、結構貰う。僕の場合、何か貰ったからといって指導方法を変えたりする訳ではない(←全部マジメにやっている、という意味ね)ので、その家庭は全く無駄な支出をしている事になる。「だったら受け取るなよ」と言われるかも知れないが、でも貰える物は貰う主義なのだ。僕はきっと公務員になっちゃマズイだろうな。

で、昨日は帰宅した後は日記を更新して寝てしまったのだが、今朝思い出してラッピングを開けてみた。生菓子とかだったらヤバイし。



……何やら機械っぽい物が見える。



……デジカメだった。ソニーのサイバーショットDSC-T1である。光学3倍ズーム搭載で510万画素。はっきり言って超高性能。ヨドバシカメラで56800円もする。うーむ、こう来たか。

これは学生のアルバイトが余禄として貰うには大き過ぎる金額だろう。ちょっと戸惑った。でも、ここで計算してみた。

僕は大体1回の指導で既定の時間を15分程オーバーして教えている。そして回数は週1回で2年間だが、この生徒は休みが多かったので合計80回くらいか。そうなると2年間で15分×80回=1200分=20時間のサービス残業していた事になる。僕の時給は2600円。2600円×20時間=52000円。56800円−52000円=4800円=数千円=気兼ね無く貰える金額。


気兼ね無く貰う事にしました。


余談。昨日の日記は日記才人の投票や選択式アンケートを見る限り、割と評判が良かった。政治家擁護っぽい事(実は全然擁護してないが)を書くと噛み付く人が多いかと思っていたのだが、意外だった。このサイトを結構冷静に読んでくれてるんだな、と思った。嬉しい。


2004年3月4日(木) 政治家の給料

政治家や公務員に対して「お前たちの給料は私達の税金から出ているんだぞ!」と主張する国民は多い。確かにその通りだが、政治家の方が大多数の国民よりも多くの税金を納めていると思う。勿論、今回の佐藤議員みたいな場合は論外だが、別に普通に働いている政治家までひっくるめて「お前たちの給料は〜〜」と声高に叫ぶのは如何なものか。一体どうしろと言うのだ? 政治家や公務員はアルバイト禁止なのに。もしも政治家たちに「お前らの給料は日本銀行が刷ってるんだぞ!」と言われたら、どうやって反論するんだろう? っていうか絶対にそういう風に思ってる政治家は多いと思う。言ったら議員生命オシマイだから言わないだけで。

なんでこんな事を書いたかというと、「お前たちの給料は私達の税金から出ているんだぞ!」という発言を(テレビとかで)聞く度に、僕が国立大学に通っている事まで批判されている気になるから。だから議員の働きが不満なら、なるべく「お前たちの政党に投票しねぇぞ」とか言って欲しい。

ちなみに僕が好きな政治家は福田官房長官。あの人は凄い。モロに「本音は全然別で、建前を話してますよ」って喋り方を人を馬鹿にしたような態度でするでしょ。あれが良いんですよ。ウチの母親は新潟県出身なので福田官房長官が一番嫌いなんですけど。まぁそれが普通か。

(↑今日の日記は滅茶苦茶非難されそうだな)


2004年3月3日(水) 続・数学の答案の書き方

今日は昨日の続きです。

昨日、数学で求められている“厳密性”とは、厳密に解釈すれば、『論理の厳密性』だけであると書いたが、実際の数学の試験によっては『表記の厳密性』も無視出来ない。試験というのは学問として要求されている要素を試している訳ではないからだ。

では、どのような試験が『表記の厳密性』も要求し、どのような試験は要求しないのか。この差は採点者が数学を専門としているか否かだと考えて良い。数学を専門的にやっている人は『論理の厳密性』だけを重視するからだ。一方で数学の専門的な教育を受けていない人の多くは『表記の厳密性』と『論理の厳密性』の両方を重視する教育しか受けていない可能性が高いので、採点時にも同様の立場に立つ。

「数学を専門としている」というのは「大学で数学を専攻したかどうか」と考えるべきだろう。中学校や高校の数学の教師は大半が数学を専攻していた訳ではないだろうから、この意味では数学を専門としている訳ではない。従って基本的に中学・高校の定期試験では『表記の厳密性』を遵守しなければならない。
大学に入っても理系や経済学部なら教養科目として数学が有る事が多い。ここでも教官が数学系の学科に所属している訳ではないなら『表記の厳密性』に気をつけておいた方が良い。

判断が難しいのは大学受験の場合だ。塾や予備校では受験生に対して“『表記の厳密性』は必要無い”という立場で数学を教えている所も割と多い。 確かに受験先の大学に数学科やそれに類する学科が有る大学では“『表記の厳密性』は必要無い”と思う。そういう大学では数学を専門としている教授が数学の採点をするからである。しかし数学科が無い大学では“『表記の厳密性』は必要無い”とする塾や予備校の言う事を鵜呑みにするのは危険だと思う。(ただ数学科が無い大学では、そもそも記述式の試験でない可能性が高いと考えられる。)

という事で今日の結論。

世の中の大半の数学の試験では『表記の厳密性』を無視するのは危険。

ちなみに“『表記の厳密性』を無視した答案”というのがどんな物かは『お玉ヶ池種痘所』というサイトの“数学答案の書きかた・実戦編”を参考にすると良い。(←無断リンク)


2004年3月2日(火) 数学の答案の書き方

しばらく数学ばかりの日々だったので、今日は数学の話。(これからはもっと数学ばっかりの日々が続くんだけど)

数学の答案を書く時によく「数学は厳密性に注意して解答を書きなさい」と言われる。数学が学問の中で最も厳密性が要求される事に異論がある人はいないだろう。だからこそ、数学の答案に厳密性が求められるのは当然の事である。しかし僕はこの“厳密性”という言葉が“曖昧に”使われているように感じる。皮肉なものだ。

数学の答案に於ける厳密性というのは2種類に分類出来る。即ち『表記の厳密性』と『論理の厳密性』である。

『表記の厳密性』というのは例えば『証明問題は仮定・結論・証明の順に書く』とか『問題で設定されていない文字を使う場合は答案内で設定する』とか『解は最後に分かり易いように書く』といった物だ。中学生になるといきなりそんな事を言われて「なんで数学の答案に日本語なんか書かなきゃいけないんだ?」とか思いつつも仕方なくそれに従ったりするのである。
『論理の厳密性』というのは言葉での説明が難しいが、強いて言えば『どんなに小さく些細な物でも確率が0%でない限りは全て考慮に入れる事』とでもなろうか。僕はよく『どんなに頭の良い奴にも突っ込みを入れられない状態を作る事』という表現をしている。『どんな屁理屈も通させないようにする事』と言う方が通りが良いとは思うのだが、一般には“屁理屈”という言葉にはネガティブな意味合いを含むので、僕は使いたくない。(←個人的にはネガティブな意味での理屈など存在しないと考えているから)

実は学問としての数学が要求している“厳密性”とは、『論理の厳密性』だけである。表記というのは表層的な物でしかなく、数学的には全く価値が無いからだ。
例えば数学的には「僕は〜〜だと思う」という情報は全くの無価値である。但し、メタレベル、つまり『「僕は〜〜だと思う」という情報が有る』という情報には数学的にも価値が有る。

数学には表記法は全く必要無い。しかし現実には数学をやる事に於いては“情報の伝達”が不可欠である。数学の試験であれば採点者に「自分はこれだけの事が分かっている」という事を伝えなければならない。そこで初めて数学にも表記法が必要となってくる。が、そこで必要な表記には『表記の厳密性』は必要無い。それは数学の範疇ではないからだ。強いて言えば「相手に分かれば良い」となる。

以上より、「数学は厳密性に注意して解答を書きなさい」の中の“厳密性”という言葉を“厳密に”解釈すると、「数学はあなたが『論理の厳密性』をきちんと守っている事が採点者に伝わる様に注意して解答を書きなさい」となる。ところが日常言われる「数学は厳密性に注意して解答を書きなさい」という言葉は明らかに『表記の厳密性』と『論理の厳密性』の両方を求めている。僕が“厳密性”という言葉が“曖昧に”使われていると感じるのは、この部分である。

以上より結論。

数学で求められている“厳密性”とは、厳密に解釈すれば、『論理の厳密性』だけである


2004年3月1日(月) 内容無し

明日で今期の試験は最後です。って事は今日は忙しい訳ですよ。という訳で今日は何も無いですよ。あまりに何にも無いので各リンク集への更新報告も今日は辞めます。

そう言えばリンクページを大幅に変更しました。っていうか廃止して、トップページの下に置いておきました。で、ですね、もし暇ならですね、その中に有る『ランキング』というカテゴリのサイトをちょっとクリックしてみて欲しいんですよ。取り合えず日記リンクだけでも良いんで。ここが一番手軽そうなんですが、どれくらい効果が有るのか知りたいんですよ。“僕の知り合い”又は“暇な人”は今日だけでも、“僕の知り合い”且つ“暇な人”は一日一回お願いします。


・・・内容が無い癖にお願いは有るって最悪な感じですね。段々罪悪感が高まって来ました。


今日今日のアクセス数/昨日昨日のアクセス数/累計累計のアクセス数
Read me! ページ最上段へ