月末ですので恒例(?)のダイエット結果報告です。ちなみにホームページ存続を賭けたダイエットのルールは以下の通りでした。
午前中に日記を更新するとメリットが多い。
僕は以前は午後9時前後に日記を更新する事が多かったのだが、最近は午前中に更新する事が多い。これには幾つかのメリットが存在する。今日はその中の2つについて書いてみようと思う。
1つ目は、更新時間に余裕が出来る事だ。このサイトは日記を毎日更新している。しかしそれだと、夜に更新しようとしても、なかなか書く事が思い当たらない場合が有る。(正確に言うと、昼間に「書きたい」と思っていた内容を、夜には忘れてしまっている。)
そうなると結構焦ってしまい、精神衛生上よろしくない。午前中の更新を基本とすれば、仮にその時に書きたい事が見付からなくても、半日の余裕が有る。半日も有れば、何かしらについて考察する事が2,3はあるものだ。僕は「その日に考えた事」を日記にしているから、それをネタにすれば良い。
2つ目は、このサイトも登録している『日記才人』対策だ。『日記才人』には、アクセス数や得票数を1日毎に集計するシステムが有り、午前5時前後を境に1日が区切られている。
『日記才人』経由で日記を読みに来てくれる人は、僕が更新報告をしたらすぐに全員が来てくれる訳ではない。従って、このシステムで夜に更新すると、前日と当日の日記に対する集計が混じってしまう。すると、例えば得票数で高評価を得ても、どちらの日記が高評価を受けたのか、分からなくなってしまう。(逆に、低評価の場合も同様。)
数日前も書いたが、僕はアクセス数を気にするタイプなので、良いテキストを書きたい。アクセスアップの為には、どのようなテキストが読者に喜ばれるのかを知っておく必要が有ると思うのである。
以上より結論。
午前中に日記を更新するのは、精神的に余裕を生み、個々の日記に対する評価を、より正確に知る事が出来る。
今日は軽い話題で。
高校時代の友人が『モナー党』という政党を立ち上げている。これは名前から分かるように『2ちゃんねる』関連のサイトだが、主張している事は的を射た内容が多いと思う。
例えばマニフェストでは、
主張系テキストサイトが、一つのメディアとして自立していく為には、どうしたら良いのか?
今月24日の「アクセス数」というテキストが、
数値計算を行う日記は嫌われているのだろうか?
僕の日記は意図的に内容を一貫させていない。本来は一つに絞った方がアクセス数を増やし易い筈だが、流石にそれでは毎日の更新が難しくなるだろうと思って、敢えて単に「その日に考えた事」を日記にしている。
日記の内容は『時事問題』、『日常生活』、『数学教育』が三本柱で、たまに馬鹿なテーマについて真面目に考察したりもする。『数学教育』について論じる事が多いのが、このサイトの特徴と言えるかも知れない。
逆に『政治』、『恋愛』の話題は敢えて避けている。絶対に書かない訳でもないが、それでも書く時は真っ向勝負をせず、変化球気味の内容にしている。『政治』や『恋愛』に興味がない訳ではないが、あまり得意な分野でもないからだ。従って考察がどうしても浅くなるので、日記が書き難い。
――とまぁ、このサイトの特徴を述べて来た訳だが、本来僕が書きたい日記というのは、昨日の様な日記なのである。つまり、「データを用いて具体的な数値計算を行い、何かしらの結論を出す」という日記だ。こういう日記こそ、怠惰な理系大学生によるエッセイ風日記&分析系コラムが中心のテキストサイトと言うに相応しいと思う。
しかし毎回思うのだが、この種の日記は、得てして日記才人の得票結果が芳しくない。例えば一昨日の日記に対しては44アクセス中23票を得ているが、昨日の日記に対しては38アクセス中12票しか得ていない。これは今回だけでなく、常に見られる現象である。となれば、そこには何らかの理由が存在する筈である。
これには2つの原因が考えられる。
1つ目は、僕の考察が甘いのが読者に見抜かれている、という事だ。これは僕の能力の問題なので仕方ない。僕は『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々』のYasさんに倣って、なるべく日記を短くしようとしているが、その為に分かり難くなってしまっている部分も有るかも知れない。これらの問題は、これから自分の文章力が向上する事を期待するしかない。
2つ目は、一般的な読者は数値計算を行うような日記は嫌いだ、という事だ。これも十分に考えられる。日本には算数・数学を嫌いな人が多い。例えば僕は、同じく『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々』の「予知夢の確率計算」のような日記(特に後半部分)が大好きなのだが、これも一般にはあまりウケない日記だったそうだ。一般的な読者が数値計算を嫌う(少なくとも好きではない)のは確かなようである。
以上より結論。
一般的な読者は具体的な数値計算が行われる日記を敬遠する傾向が有る。但し、それを文章力でカバー出来るかどうかは、これからの自分への課題とする。
ところで、今日のような自己分析型日記の評価はどうなるのか、非常に興味深い所だ。僕の日記才人からのアクセス数と得票数はhttp://www.nikki-site.com/index.pl?id=606;nid=33865でチェック出来る。興味の有る方はどうぞ。
今日の呟き。
最新サウンドノベル『3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』を買ったが、これって“サウンドノベル”というよりは昔ソニーで出してた“やるドラ”シリーズに似てるのね。まだ少ししかやってないけど、イマイチかなぁ……。
携帯電話は“危ない”のか? (今日の日記は追記しました。)
警察庁は24日、中学生と高校生の携帯電話の使用状況についてまとめた。検挙されたことのある非行少年の方が、検挙されたことのない一般少年より、携帯電話の所持率や使用頻度が高かった。
携帯電話の所持率は、検挙されたことのある少年が72%、ない少年は57%だった。高校生の所持率は90%前後で差はなかったが、中学生では検挙されたことのある少年がない少年よりも男子で32ポイント、女子で26ポイント高かった。
この手のデータには数字のトリックが存在する。僕は2年前に「癌と診断されたら癌なのか?」というテキストを書いているが、非行少年の数が一般少年の数よりもかなり少ない以上、上記のデータはこれと似たような構造を持っているのである。検証してみよう。
ここに一般少年が100万人、非行少年が1万人居たとする。一般少年は携帯電話の所持率が57%なので、「携帯電話を持つ一般少年」は57万人、「携帯電話を持たない一般少年」は43万人である。また、非行少年は携帯電話の所有率は72%なので、「携帯電話を持つ非行少年は7200人、「携帯電話を持たない非行少年は2800人である。
以上を表にまとめると、こうなる。
× | 携帯電話所有 | 携帯電話非所有 | 計 |
---|---|---|---|
一般少年 | 57万 | 43万 | 100万 |
非行少年 | 7200 | 2800 | 1万 |
計 | 57万7200 | 43万2800 | 101万 |
個人サイトなのに、書きたい事が書けない場合が有る。
僕は割とアクセス数を気にする方だ。カウンターは3つも付いている(累計・今日・昨日)し、アクセス解析も使用している。
このホームページは、今年の1月までは完全に内輪向けの、僕の友人しか見ていないようなサイトだった。1日の平均アクセス数は30程度。ところが2月から、一般向けに日記を書く事にした。これには幾つかの目的が有るが、最も大きい理由は、単純にアクセス数を増やしてみたくなったから。自分のテキストでどのくらいまでアクセス数を伸ばす事が出来るかを試したくなったのである。一種の腕試しみたいなものだ。
一般向けの日記を書き始めて5ヶ月近く経つが、今では1日に200前後のアクセスがある。この数値が多いのか少ないのかは、僕には判断が付かない。が、少なくとも既に、僕が直接知らない読者の方が多くなっている事は確かだ。
僕は今でもアクセス数が気になる。アクセス数を減らしたくない、と思っている。だから下手な事は書けない。従って、個人サイトなのに書きたい事が書けない場合が存在する。
このような「アクセス数に縛られて、個人サイト本来の意義を見失う」という現象は、一般的にはネガティブに捉えられている。自由に書きたい事が書けるのがホームページの利点なのに、それを生かしていない事になるからだ。
しかし僕は「アクセス数を気にする」という事は、ネガティブな意味だけではないように思う。例えば最近では、実は僕は知り合いの悪口を書きたくて書きたくて堪らなくなっている。多分、未だに友人しか見ていないような状態であったなら、実際に書いていただろう。しかし、僕の知らない読者の存在が、その衝動を押し留めている。有名人に対する悪口ならいざ知らず、僕の個人的な知り合いに対する一方的な悪口なんて書いても、僕を直接知らない読者は離れていくだけだろう。
以前のサイトは、内輪だけで集まった飲み会みたいなものだった。悪口だろうが何だろうが、何でも気軽に言える。極めてプライベートに近い状態だ。そして今はパブリックである。人数はそんなに多くないかも知れないが、僕は公衆の面前に立たされている。このようなパブリックな空間では、社会的常識やマナーを遵守する事が求められる。
インターネットとは、本来はパブリックなものだと思う。いや、そうあるべきなのは確かな筈だ。しかし現実的には、自分の知り合いしか見ないようなサイトを作る事によって、極めて閉鎖的なプライベート空間を演出する事も可能である。
もう一度書くが、インターネットとはパブリックなものであるべきだ。これは別に「ホームページには大層な事しか書いてはいけない」という意味ではない。単に「電車内では携帯電話はマナーモードにしましょう」といった、ごく基本的なルールは守られるべきだ、という事である。インターネットの世界で言えば、「他人を中傷するのは止めましょう」などだ。パブリックな空間では様々な社会性が求められる。そしてアクセス数を気にする事は、一定の社会性を保つ事に役立っていると思う。
今日の結論。
アクセス数を気にする事は、一定の社会性を保つのに役立っているという、ポジティブな側面も持つ。
今日は昨日の続きです。
昨日、家庭教師を雇う生徒を以下のように5つに分類した。
家庭教師をしていると、殆どの生徒は以下のいずれかに分類できる。
中学受験も随分様変わりしたものだ。
僕が中学受験した10年前には、「算数の問題を解く時には方程式を使って解いてはいけない」という制約が存在した。中学受験である以上、小学校で習う事以上の知識を用いた解答は減点されてしまうというのだ。だから一次方程式は“逆算”、連立方程式は“鶴亀算”や“消去算”や“和差算”といった手法で解かねばならなかった。
ところが現在の中学受験用学習塾では、小学生に連立方程式を教えている処が多い。しかも○とか□といった記号を用いるのではなく、xやyというアルファベットを使ったものだ。つまり、中学で学ぶ連立方程式と全く相違無い。
中学受験で学ぶ“○○算”というのは全部で20〜30種類ほど存在する(実は最近少し増えている)が、実は本質的には殆どが同じモノである。だから、「連立方程式という汎用的な手法で解ける問題は、全てそれで解いてしまおう」という考え方には合理性が有ると言える。
一方で連立方程式で解く手法は、立式さえ出来れば後は機械的に解いていくだけで答えが出せるので、途中式の意味が分からなくなってしまうというデメリットが存在する。一つ一つの式の意味を考えるという意味では、従来の“○○算”が優れていると言わざるを得ないのである。
今日の結論。
小学生が連立方程式という汎用性の有る手法を用いて算数の問題を解くのには、一定の合理性が認められる。しかし、それは式の意味を考えなくなり、思考力が伸びなくなる可能性も存在する。
困った事態である。今月中に3キロ痩せなければホームページ閉鎖なのに、未だ1キロしか痩せていない。あと10日で2キロ痩せなければ……。
今の所、とにかく食べ過ぎだけはしないように心掛けているのだが、それだけではそろそろ限界なのかも知れない。先月から5キロ落ちている。特別な運動をせずにこれだけ落とせたのだから、御の字なのかな。
あと実は密かにやっているのは、足踏みである。ただ、単なる足踏みでは負荷が小さいので、右足を上げたら、右足が地面に付く前に左足を上げ、そして左足が地面に付く前に右足を上げ……という感じでやっている。“その場ジョギング”とでも言おうか。
「そんなんだったら普通にジョギングしたら?」と思われるかも知れないが、屋外でのジョギングは、何となく公衆の面前で「僕は今ダイエットの為にジョギングしてます!」と公言しているような感じがして嫌なのである。「このデブ、必死だな」とか思われるのは耐えられない。だからダイエットの為に運動出来るのは自宅の中。自宅は走り回れるほど広くないので“その場ジョギング”になるのだ。
これだとテレビを見ながら出来るので良い。最近はアニメ『攻殻機動隊』をDVDで見ているのだが、一話分を見ている間、ずっと“その場ジョギング”をしている。歩数計を付けているが、30分で5000歩くらい稼ぐ事が出来るので、それなりにカロリーを消費出来る。
ただこれは毎日行っている訳ではない。1週間に2日くらいか。これをこれから増やそう。目標は1日15000歩に設定してみる。
何にせよあと10日。暑くなってきた事だし、ダイエットに最も適した季節な筈だ。今日からまた頑張るぞ!
昨日の巨人・阪神戦は素晴らしい内容だった。今ではめっきり珍しくなってしまった投手戦だった上、ファインプレーも多かった。仁志のグラブトスに痺れた人は多かったのではないか。放送局がNHKだったのも良かった。
今日は昨日の続きです。今日は“電車男”のネタバレを少しだけ含みます。未読の方でも分かるように書いているつもりですが、「ネタバレは少しでも嫌だ」という人は最初のMission.1だけ読んでおけば大丈夫です。
“電車男”の魅力の一つは、可能な限りリアルタイムで書き込まれ続けた事により生み出された、圧倒的なリアリティである――と昨日書いた。しかし“電車男”の魅力はそれだけではない。
「ヒットマン事件簿」にしても、『夫は限りない敵』にしても、従来の長編ドキュメンタリー系テキストは一般的な文学と同じように、書き手が読み手に対して一方的に文章を発信しているだけだった。付設している掲示板などで管理人と読者が交流する事もあるだろうが、作品それ自体は書き手側のみで完結しているのである。
ところが“電車男”は、これとは全く異なる成立の仕方を見せている。
例えば“電車男”の最初の山場である、助けたエルメスさんから御礼の品(ティーカップ2個)が届き、それに対して電車男氏が電話をするか手紙を出すに留めるかで苦悩するシーン。ココで面白い現象が起きている。電車男氏は限りなくリアルタイムに近い状態で書き込んでいる為、「電話するか手紙を出すかで悩んでいる」と書き込まれた時には、その時点で実際に本当に悩んでいる訳だ。すると2ちゃんねるの住人達は様々なアドバイスを電車男氏に与え始めるのである。
「もう一回、勇気を出す場面だな」
「電話は失礼すぎるだろ?」
「電話だ。電話を汁! 届きましたって報告はしておいた方がいい」
「普通は手紙で返事だろ。いきなり電話は引かれると思う」
という感じで、様々な意見が交わされるのである。そして皆の意見を参考にして、結果「電話は無理」と結論付ける電車男氏。ところが、そんな中で一つの書き込みが事態を急変させる。
「カップ2個は誘ってる様にしか思えない訳だが」
「普通食器やマグカップ類はツインで送るよ、常識として。他意はないとおもう」
「一個のものもいっぱいあるだろうにな。なぜかペアのものでしょ。深読みは禁物だが、なんかちょっと考えてそうではあるよな」
「カップに意味なんかないだろ。深読みしすぎじゃないか? お礼の品としては凄く無難なチョイスだと思うけど」
「カップ深読みか? どこのブランドとかである程度わかんねーのかな? ガイシュツ?」
そして電車男氏のレス。
「HERMESって書いてあるけど。どこの食器メーカーだろ」
ここで周囲は一気に盛り上がった。HERMESと言えば超有名&高級ブランド。「これだけ高価な品を貰ったなら電話をしてもおかしくない」という論調が大勢を占め始める。そして勇気を振り絞り、電話する事を決意する電車男氏。
すると今度は電話の内容を吟味する2ちゃんねらー達。今後に繋げる為にはどうしたら良いか、意見を交換し合う。
「カップのお礼に食事に誘え」
「がっつくなって。『会ってお礼が言いたいのですが、いかがでしょうか?』もしくは『会ってお礼が言いたいのですが、ダメですか?』で逝くべき。メシか茶店か映画館かなんか、後で考えようや」
「私女だけど。。。食事の方がいいと思う。458(↑)だとなんか会いたいってのが前面に出ててむしろイヤ。食事のほうがおいしいもの食べたいから私なら釣られるw」
「『すみませんこんなに良いもの貰っちゃって。これじゃあ逆に悪いです。なんかお礼できないでしょうか? そうだ、今度食事でもご一緒しませんか?』までもっていけ」
そしてエルメスさんを食事に誘う事にした電車男氏。すると暫くして、「めしどこか たのむ」という電車男氏の書き込みが行われる。何処で食事をするかで困って、エルメスさんとの電話の真っ最中に書き込みを行っているのである。すぐさま良い店を探し始める2ちゃんねらー達。これに対しても、色々な情報が寄せられている。そして電車男氏はエルメスさんと食事の約束を取り付ける事に成功する。
ここで非常に興味深い事が起こっている。間違いなく“電車男”のエピソードは、電車男氏やエルメスさんといった登場人物だけの物語にはなっていない。不特定多数の2ちゃんねらーという存在が必要不可欠な要素となっているのである。2ちゃんねらーの書き込みが無かったら電車男氏はエルメスさんを食事に誘うような事はしなかっただろう。となれば物語はそこで終了である。
このような現象は“電車男”のエピソードの最後まで見る事が出来る。読み終えた後の感動は、なかなか言葉にし難い。
以上より今日の結論。
“電車男”は間違いなく、書き手である電車男氏と、読み手である多数の2ちゃんねらー達双方によって成立している、従来の文学の枠組みを超えた稀有な作品である。
“電車男”というエピソードを読んだ。感動して泣いてしまった。単なる2ちゃんねる内の書き込みが、どうしてこんなにも面白いのだろう。
“電車男”は先月かなり話題になったので、知っている人も多いかと思う。読んだ事の無い人の為に簡単に説明すると、「彼女が出来た事が無い22歳の秋葉原系童貞男(電車男)が電車内で暴れる男性から若い女性(エルメス)を救った事がキッカケで始まった恋愛成功譚」と言う事が出来る。これが実況中継のように、今年の3月から5月までの約2ヶ月間、進展状況が2ちゃんねるに書き込まれ続けたのである。
僕は“電車男”を読んで、恋愛小説を読んでいるような感覚を覚えた。しかし、電車男氏の文章は素人としては巧い(状況描写がしっかりしている)と思うが、プロの作家と比べたら明らかに見劣りがする。では、“電車男”が多くの人間に支持されたのは、何故だろうか?
それは“電車男”のエピソードが持つ圧倒的なリアリティだと思う。“電車男”は、ほぼ間違い無く実話だ。実話が持つリアリティは、プロが描く虚構が持つリアリティを上回る。物語としては時代遅れ的なストーリーではあるのだが、リアリティが読者を惹きつけて離さないのだ。
「長編ドキュメンタリー系」とでも言える、この種のテキストは以前から存在した。最も有名なのは『侍魂』の「ヒットマン事件簿」だろう。今ではそれほど「長編」とは言えないかも知れないが、3年前に初めて見た時は、「うわ、長!」と思ったものだ。最近、日記才人では『夫は限りない敵』というサイトも人気を集めているようだ。(『夫は限りない敵』はまだ未完。)
ただ“電車男”が「ヒットマン事件簿」や『夫は限りない敵』と異なるのは、長期間に渡ってリアルタイムで書き続けられた、という事だ。後者の二つは実話ではあるものの、全ての出来事が終了してから書かれている。ところが“電車男”はリアルタイムだ。しかも、電車男とエルメスとが正に電話をしている真っ最中にも書き込みが行われていた事すら有る。
どちらかと言えば、後者の「ヒットマン事件簿」や『夫は限りない敵』の方が内容がきちんと纏まっていて読み易い。しかし、やはり「長編ドキュメンタリー系」のテキストはリアリティが持つ効果が非常に大きいと思う。となれば、徹底的にリアルタイムで書き込まれた“電車男”に勝るテキストは無いのではないかと思う。
以上より今日の結論。
“電車男”の魅力の一つは、可能な限りリアルタイムで書き込まれ続けた事により生み出された、圧倒的なリアリティである。
ところが“電車男”の魅力はこれだけではないと思う。ココからはネタバラシを含みたいので、まだ読んでいない人の為に明日に続く。
2回目の精神科(大学保健センター)に行って来た。前回は心理テストと面接だけだったので、実質的には今日が初めての診療。
相手は男性の医師だったのだが、最初は少し冷淡な感じで焦った。“冷淡”というのは言い過ぎかも知れないが、人当たりが良さそうではなかった。
僕の勝手なイメージとしては、精神科の医師というのは取り合えずニコニコして、患者に喋り易い環境を作ろうとするものだと思っていたのだが、意外と普通の医者と変わりない。
しかし向こうからしてくる質問は、僕は素人だけれども、的確だなぁと思った。こちらの返答に対して、きちんと理解してくれているとも感じた。ただ人当たりが良いだけの人よりは、こういう人の方がずっと良い。ただ患者によっては、こういう人が駄目な人も居そうだ。
あらかた症状の話などが終わると、予想通り「薬を使っていきましょう」との事。ただ、どの薬を処方するかで少し悩んでいるようだ。
「高い薬と安い薬、どっちが良い?」
「えーと……どう違うんですか?」
「安い薬はね、良く効くんだけど眠気が強くなるとかの副作用が強いんだよ。高い薬は副作用が弱い」
「うーん……お任せします」
という訳で、処方される薬が決定。
今日は昨日の続きです。
絶叫マシーンは不快感の無い、緊張と興奮だけを伴う恐怖を演出する。だから面白い、と昨日書いた。しかし全般的には絶叫マシーンは男性よりも女性に好まれている。これは何故だろうか。
一般的に言って、男性は女性よりも緊張に弱い。これは昔、男性の方が危険の多い環境で過ごす事が多かった為だと考えられる。NHKのテレビ番組の調査で、初対面の相手に遭遇した時にどのような反応を示すか、という実験が行われた事が有るが、男性は脳波が乱れ易く、発汗が多かったのに対し、女性は脳波・発汗に変化が少なく、しかも冷静に相手を観察する事が出来た、という結果が出た。
男性は緊張状態に置かれると動揺してしまうが、女性は寧ろ逆にリラックスして状況を把握出来る。だから絶叫マシーンの生み出す緊張状態は、男性は脳波の乱れによりストレスを感じてしまうが、女性はリラックス出来るので恐怖の中の興奮の感情のみを味わう事が出来るので有る。
今日の結論。
男性は緊張状態に弱いので絶叫マシーンが楽しめない。女性はリラックスして絶叫マシーンを楽しんでいる。
新宿ヨドバシカメラで、関西弁の中年女性が『冬のソナタ』のDVDを一括購入しようとしていたのだが、
「コレ、もっと安くなんないの!?」
と、店員に詰め寄っていた。
……関西では値引き交渉はアタリマエとは言っても、DVDまで値引くんだろうか?
女性が絶叫マシーンを好むのは何故だろうか?
僕はジェットコースターが苦手だ。左右に傾く分には全く何とも無いのだが、高速で落下する時の“反重力感”が堪らなく気持ち悪い。だから東京ディズニーランドで言えば、ビッグサンダーマウンテンは平気だが、スペースマウンテンやスプラッシュマウンテンは駄目だ。1日でスペースマウンテンに2回乗った時は、本当に気絶するかと思った。
まぁ僕は極端としても、一般的に言って、絶叫マシーンは男性よりも女性が好む物だと思う。絶叫マシーンに乗ると、女性は「キャーキャー」言う割に、とても楽しそうだ。これについて、今日と明日で考えてみたい。
そもそも絶叫マシーンの魅力とは何か。それは絶叫マシーンが生み出す恐怖そのものだ、という説が有る。
人間は様々な状況で恐怖を感じるが、常に共通しているのは緊張と興奮を伴う、という点である。怪談話を聞いた時とか、断崖絶壁に立った時とか、うっかりして事故に遭いそうになった瞬間とか、そういう恐怖しそうな場面を考えてみると、確かに緊張と興奮が恐怖とセットになっている事が分かる。
しかし同時に、恐怖は不快感も持っている。誰だって怖いのは嫌な筈だ。基本的に恐怖という感情が嫌われるのは、不快感を伴うからだ。
恐怖は、緊張と興奮と不快感から構成されている。
しかし実は、“不快感の無い恐怖”というのが存在する。それが絶叫マシーンの恐怖だ。
不快感を除去する為には、
僕は以前、サークルの先輩の女性から「(ラブ)ホテル代は男が払うものだ」という話を聞き、「まぁそういうもんかなー」と漠然とだが、ずっと思っていた。しかし先日、サークルの後輩の女性からは「ホテル代を男が全部払うのは(金銭的には助かるが)、金で買われてる感じがして嫌だ」という話を聞いた。それはそれで「なるほどなぁ」と思った。
個人の感性の問題だから様々な意見が有って当然だが、この辺りで悩む人は多いらしい。事が事だけに、どうするか相手と相談して決めるというのが、困難な場合も有るだろう。
関連リンク:ホテル代の割り勘は?
ホテル代というのは、デートの食事代などとは大きく性質が異なるようだ。「食事代は割り勘で良いけど、ホテル代は男性持ち」と言う女性は多い。それは「金銭の問題ではなく、気持ちの問題」だと言う。だから「ホテル代は奢ってもらって、後でお茶代などは奢る」と。
「奢ったり奢られたりして、結果的に割り勘(くらい)にする」という手法は面白いし、合理性がある。毎回毎回割り勘にするのは、手間も掛かるし面倒だ。
しかし「気持ちの問題」というのが、実は僕にはどういう事なのかよく分からない。「ホテルで行うような行為は、大抵は男性から誘って来るものだから、男性持ち」という訳ではないのだろう。(←先輩は多分こういうつもりだった筈。)
後輩のように「ホテル代を奢られるのは、金で買われているようで嫌だ」という気持ちは理解出来るのだが、「ホテル代を割り勘するのは、気持ちの問題で嫌だ」というのは、どういう事なのだろうか? 食事代は割り勘で良いらしいので、「割り勘自体が嫌」という訳でもないようだ。
この辺りはよく分からないので保留。
今日のイイタイコト。
ホテル代をどう負担するべきかは、女性によって考えが様々。円滑な交際を続ける為に、男性側には相手がどのように考えているかを巧妙に察知する能力が要求される。
それにしても、「ホテル代は割り勘か、男性持ちか?」という議論に対して、「いや、女性持ちだ!」と主張する人がいないのは不思議。「割り勘もいるし、男性持ちもいるし、女性持ちもいる」という状態が真のジェンダーフリー社会ではないのかなぁ。……ちょっと違うか。
今日は短く反省。
昨日はサークルの後輩の内定祝いでした。まぁ“お祝い”と称して皆で飲んだだけですが。
1次会での会話は『中学・高校生時代に愛読していた成年向け雑誌&漫画』、『初めて裏ビデオを見た時の感想』、『膝枕が気持ち良さそうな女性』についてだけで終わってしまいました。中学生並ですね。参加者の半分は女性だったのに、これで良かったんでしょうか?
僕は普段、酔っていなくても下ネタばかり言うようなキャラですが、酔うとさらにその傾向が強まります。いつもいつも「今日の飲み会は大人しくするぞ」とは思ってるんですが、駄目なんですねぇ。完全にセクハラ中年のノリです。どうにかしないと、このままでは将来訴えられてしまう……。
ちなみに2次会では、初対面の女性と『WinMX』、『Winny』、『攻殻機動隊』について熱く語りました。これもまたおかしい。
誰か僕に適切な話術を伝授して下さい。
昨日、「出生率低下問題は子供を産まない人に対して冷遇政策を取れないからだ」と書いた。しかし、この手法は問題も多い。これだと「ただ子供を産みさえすれば良い」という発想が現在以上に根付いてしまう可能性が高い。となれば、今でさえ大きな社会問題になっている子供への虐待などの事件が増大してしまうのは目に見えている。
優遇政策の強化(援助金の追加)や冷遇政策の導入(罰金の徴収)では、出生率低下問題は解決しても、虐待の問題は解決しない。両方を解決する為には、別のアプローチが必要なようだ。
しばらく考えてみると、
出生率が大幅に低下している。
この問題の難しい処は、「個人としては子供を産まない権利を全員が持っているが、国民全員が実際にその権利を使用すると、その国が成り立たなくなる」という性質だろう。これは、「個人としては少しでも安い物を求めるべきだが、全体がそれをするとデフレーションに陥ってしまう」という、“合成の誤謬”の構図に非常に似ている。(“合成の誤謬”とは、経済現象に於いて個人が選択する行動が社会全体に対する結果と矛盾する事。詳しくはリンク先で。)
経済活動に限らず、個人の善なる(正確には非悪な)行動が社会的に広がると全体に悪影響を及ぼしてしまう、というケースは数多い。その中の一つが「子供を産まない」な訳だ。「子供を産まない」という行動は、個人個人としては全く非難されるものではないので、出生率低下問題の解決は、非常に困難になる。
こういう問題に対しては、社会全体としての取り組みが重要になる。具体的には、「子供を産む」という行為が「子供を産まない」という行動よりも、相対的にメリットが大きくなるようにすれば良い訳である。
これには二つの方法が有る。一つは「子供を産む」人を優遇する事。もう一つは「子供を産まない」人を冷遇する事だ。
本当ならば、この二つを弾力的に組み合わせた政策を取るのが、出生率低下問題を解決する為には最も望ましい筈だ。しかし現在の日本では前者は行われているが、後者は行われていない。これは後者の政策を取れば、明らかに国民の大反発が予想される為だろう。
日本と全く反対の「子供が多過ぎる」という事情を持っている中国では、1970年代から“一人っ子政策”を展開していた。“一人っ子政策”は地域によって内容が異なるが、基本的には「一人っ子の家庭には援助金を支給」と「二人目の子供を産んだ家庭は一定期間賃金カット」という、優遇政策と冷遇政策の二つを組み合わせた事によって成功した。(但し、“一人っ子政策”には戸籍を持たない子供が増加するなど、問題点も多い。)
日本が出生率低下問題を解決出来ないのは、優遇政策は出来ても冷遇政策は出来ないからだ。実は政府が支持率など無視して、冷遇政策を含めた対策を立てれば、割と簡単にこの問題は解決出来ると思われる。
以上より今日の結論。
日本が出生率低下問題を解決出来ないのは、「子供を産まない」人に対する冷遇政策を取れない為である。
勘違いして欲しくないのだが、僕自身は「子供を産まない」人に対する冷遇政策を支持している、という訳ではない。そうすれば出生率低下問題を解決出来るというだけで、冷遇政策をしなくて済むならその方が良いに決まっている。
という訳で、明日は冷遇政策を取らずに出生率低下問題を解決するにはどうしたら良いかを考えてみたい。
そう言えば今日は23歳の誕生日でした。もう他人に祝って貰えるような年齢じゃないので、自分で自分に「おめでとう」と言っておきました。
ついでに(無断)リンクに1件追加。『フクトラ日記 〜黒猫&トラ猫の生活日記〜』
毎日の写真に癒されます。動物を触るのは嫌いだけど、見るのは好き。
日本人女性1人が産む子どもの平均数を示す「合計特殊出生率」が、02年の1.32から03年に1.29へ低下し、戦後初めて1.2台に落ち込むことがわかった。
出生率の低下は極めて危険な問題だ。(今日の日記は計算が嫌いな方は流し読みで。)
出生率とは「女性1人が15歳〜49歳までに産む子供の数」である。子供を産む事が出来るのは女性だけであるから、男性の数と女性の数が同数だとするなら、出生率は2.00以下だと人口が減少していく事になる。(夫婦2人で2人の子供を育てれば人口は減らない。)
現実的には49歳以前に亡くなる方もいるので、人口維持の為には2.10程度の数値が必要であると考えられている。
「ちょっと待て。今でも日本の人口は増加しているじゃないか」と思う人が居るかも知れないが、これは「寿命が延びているから」という、ただ一点に尽きる。出生率の低下以上に高齢化が進んでいるからである。しかし高齢化は永遠には続かない。続かれても困る。高齢化が止まった時は、順調に人口が減っていく事になる。(2007年には人口が減り始めると予想されている。)
人口維持に2.10が必要にも関わらず、現在の数値は1.29だ。これは現状の約60%の人口しか維持出来ない、という数値である。
ところで出生率の定義から、子供を産む世代は(49−15+1=)35年で一回りすると考えられる。(どうして1を足すかは分かりますよね?)
ココで少々荒っぽい考察をしてみる。これから出生率が1.29のまま推移していくと考えると、日本は35年間で人口が0.6倍に低下してしまう。(現実には35年で世代が完全に入れ替わる訳ではないので、ここまで下がらない。しかし長期的に見ればこのペースで下がっていく筈である。)
現在の日本の人口を1億3千万人とすると、2039年には7800万人まで減少するのである。
恐ろしいのはこれからだ。105年(35年×3)後には、人口は(0.6×0.6×0.6=)0.216倍にまで低下する。つまり、2109年には日本の人口は3000万人弱になってしまう、という事だ。さらに105年後の2214年には僅か600万人程度になる。現在の東京23区の人口より少ない。
さらに絶望的なのが、出生率は下げ止まりの傾向すら見せていない、という事だ。最近の出生率の変化を表したグラフを見てみよう。
現在は1980年代ほどではないにしろ、それでも1990年以降は殆ど一定して出生率が下がっているのが分かる。傾きが緩やかにすらなっていないのである。これは極めて危険な兆候だと言えるだろう。
(グラフには政府予測も掲載されているが、今見ると「どうしてそんな予測になるんだ!?」というくらい不自然なカーブを描いてますなぁ……。)
今日のイイタイコト。
出生率が今の水準のままだと2214年には日本の人口が600万人になる。しかも出生率は現在の所、下げ止まる気配すら無い。
明日に続きます。(明日は計算しません。多分。)
丁度1ヶ月前の5月9日に、僕はこんな日記を書いている。(一部省略&修正)
選挙権が与えられてから、選挙が近付く度に創価学会に所属する知り合いが自宅まで訪問して来るようになった。その知り合いとは単に幼稚園が同じだった、というだけの縁である。それだけで毎回毎回「公明党の○○議員をよろしく」と延々と散々喚いて行くのである。
今日(5月9日)、その知り合いが今年7月の参議院選挙の為に早速来た。まだ2ヶ月以上前の、この時期に。「公明党の沢ゆうじ議員を宜しく」との事だ。
この創価学会に所属している知り合いは、1回の選挙に付き、3,4回は自宅訪問をしてくるのである。今回もこれから2週間に1回くらいのペースでウチに来るに違いないのだ。正直言ってかなりウンザリですよ。
あれから1ヶ月。既に3回目の訪問を受けている。本当に2週間に1回のペースで来ている。
しかも前回は手土産を持って来た。応対したのは母親で普通に受け取っていたが、僕は「おいおい、流石にそれはマズイんじゃないの?」と思った。公職選挙法違反ではないのか?
――という訳で、公職選挙法について調べてみた。
これに拠れば、自宅に来る人間は立候補者や、それに直接関係している人ではないから問題無い、という事のようだ。どう考えたってバックグラウンドでは繋がっていると思うのだが。う〜ん、残念……。
しかし他に面白い記述を発見した。公職選挙法第138条。
1.何人も、選挙に関し、投票を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて戸別訪問をすることができない。
2.いかなる方法をもつてするを問わず、選挙運動のため、戸別に、演説会の開催若しくは演説を行うことについて告知をする行為又は特定の候補者の氏名若しくは政党その他の政治団体の名称を言いあるく行為は、前項に規定する禁止行為に該当するものとみなす。
これは「誰であっても戸別訪問した先では候補者や政党名を言ってはいけない」という事だ。ってオイオイ。彼らは「公明党の沢ゆうじ、公明党の沢ゆうじ」と来る度に言ってるぞ。という事は、これは立派な違法行為ではないのか?
しかし選挙までまだ1ヵ月半。彼らは一体あと何回訪問してくる気なのだろう……。
P.S.
1ヶ月前に創価学会を批判するような日記を書いた時は、直後に数箇所のサイトでリンクを外された。時の偶然なのか、それとも「恐るべし、創価学会」なのか……。
ちなみに、もしも僕の法律解釈が間違っているという部分が有ったら教えて下さい。訂正します。
今日は昔話。佐世保の事件とは関係無く書くが、これを書くキッカケとなったのは、やはりあの事件である。
別に「殺意が有った」とか、そういう訳ではないのだが、僕は小学生の頃、危うく友人を殺してしまいそうになった事が有る。
小学校4年生くらいだっただろうか。その日、学校から友人と2人で一緒に帰っていた時の話だ。途中、信号待ちをしていた僕たちは、普通に談笑しながら信号が変わるのを待っていた。
その途中、何の弾みかは忘れてしまったのだが、僕はその友人の背中を強く押してしまったのである。恐らくは冗談を言った友人に対する“ツッコミ”のような意味合いだったのだと思うが、まぁ何にせよ、それによって友人は前のめりになるようにして数歩、前進してしまった。モロに車道に出てしまった訳だ。
間近では大型トラックが猛スピードで迫って来ていた。
轢かれる――!?
僕はその瞬間、比喩無しで、本当に心臓が口から飛び出すんじゃないか、と思った。
意識の方では「え?」という感じで呆然としていたのだが、一方で無意識下では色んな事が体中を巡っていたに違いない。結果として心臓がそれに反応した――そういう感じだった。何にも考えられないのに、全身には一瞬で鳥肌が立った。
幸いな事にタイミングが微妙にずれ、友人はトラックの側面に頭をぶつけただけで済んだ。トラックのスピードが速かった事が逆に幸いした。トラックがもう少し低速で走っていたら、友人はマトモに轢かれていただろう。
そのトラックは急停車し、運転手の方が降りて来て「大丈夫か!?」と聞かれ、全く怪我が無い事が分かると、今度はこっ酷く叱られた。何を言われているのか、さっぱり頭の中には入って来なかったが。しかし、そのトラックの運転手も、僕と似たような感覚に襲われたんじゃないだろうか。
殺意が有った訳ではない。というか、その友人に対して悪意すら無かった。ただふざけ合っていただけだ。しかし、僕は確かにあの瞬間、“殺人”という行為を疑似体験していた。
これがとんでもなく嫌な気分なのだ。今でも「本当に心臓が口から飛び出すんじゃないか」という感覚を忘れる事は無い。そして友人が全くの無事だと分かった後でも残る、「友人を危険な目に遭わせてしまった」という後悔や自責の念。
これで友人が僅かでも怪我をしていたらどうなっていただろうか。ましてや、重体、或いは死亡だったとしたら――僕はとても耐えられなかっただろう。
そんな経験が有って、僕は“他人を傷付ける可能性が有る物事”に対して非常に敏感になった。例えば、単なる悪ふざけも時と場合をしっかり考えないと大変な事になる。例えば、他人を傷付ける行為はいけない。
ただ、大人ならまだしも、子供がこれを“実感”として受け止めるのは非常に難しいと思う。言葉として何となく理解していても、それは非常に弱い拘束力に過ぎない。「悪ふざけはいけません」と言われて納得しても、何か熱中している状態では、それが頭からすっかり抜け落ちてしまう事はよくある。
何かしら“実感”として受け止めていないと、「他人を傷付けてはいけない」という事も、他に強烈な感情が有ると、簡単に押し流されてしまうのではないだろうか。
だからと言って、僕のような体験なんかは、しないで済むならしない方が良いのは確かなのだが……。
先週の木曜日(6月3日)に大学の学生相談所でカウンセリングを受けて来たのだが、今日は大学保健センターの精神科に行って来た。先日は心理テストも詳しい身辺情報の聞き取りも行われなかったので少々期待外れだったのだが、今日は概ね想像通りの調査が行われた。
まずは何枚か書類の書き込みが有り、その後は早速、心理テストをやった。5択問題が60〜70問くらい有ったか。何故か点数計算もこっちでやらされた。最後に点数をグラフ化して線で結ぶと、これ以上無い程グラフが乱高下しているのが判明。各項目がそれぞれ何を診断してるかは分からないが、僕は一番上か一番下付近にしか位置していない。異常って事だろうか? 少し心配だ。
心理テストの最中に、僕と同じ学生らしき男性が精神科の受付に来て、物凄く無愛想に「12時! ○○!(←名前)」とだけ言って、診察室に入って行った。何なんだ、あの社会性の無さは。「もしかしてココは、あんな奴ばっかりなのか?」と不安になった。多分そんな事は無いんだろうが、あーゆー人が居るから精神的な病に苦しんでる人は不当な偏見を抱かれるんじゃないか?
その後は面接になる筈だったのだが、すぐには時間が空いていないと言われ、3時間待つ事に。ってか、長ぇ……。仕方ないので本屋で時間を潰した。
再び保健センターへ行き、面接。まだ相手は医師ではなく、それどころか見た目は何処にでも居そうな普通のオバサン。ちょっと不安だったが、応答は割と的確だったんじゃないかと思った。こちらの現在の状況を話し終えると、意味深な事から「そんなの関係有るのか?」というモノまで、色々と質問された。
「父親の最終学歴は?」「高卒です」「母親は?」「中卒です」「弟は?」「大学中退です」
関係有るのか?
そして面接も1時間ほど行い、もう最後という所で、
「最後に○○っていう(←名前忘れた)心理テストの一種なんだけど、この紙を縦に使っても横に使っても良いから、木を描いて下さい」
と言われ、B5の紙を1枚渡された。
「え!?」
僕には苦手な事が数多く有るが、
好きなサイトの管理人に対して親近感を抱いてしまう事が有るのは何故だろうか?
かなりの数のテキストサイトを閲覧するようになった。友人が運営している一部のサイトを除いては、各サイトの管理人に会った事は1度も無い。しかし、それなのに何故か親近感を抱いてしまうサイトの管理人さんが存在する。
好きなサイトは数多い。しかしその全ての管理人に親近感を抱く訳でもないから不思議だ。
そもそも特定のサイトを好きになる原因は沢山有る。幾つか挙げてみると、
『好き』と『愛する』とはどう違うのか?
恋愛論ほど人によって解釈が大幅に異なる考え方は珍しいと思う。そもそも『愛』とは何なのか――これを定義する事さえ難しい。今日は僕が「なるほど」と思った考え方を紹介したい。
アメリカの心理学者のルビンは、『好き(友愛)』と『愛する(恋愛)』を明確に区別しようとした。
彼の主張は、『友愛』は「好意的評価」、「尊敬と信頼」、「類似性の認知」から構成され、『恋愛』は『友愛』の構成要素に加え、「親和欲求」、「援助傾向」、「独占欲」から構成される、というものだった。
それぞれの要素について具体例を交えて簡単に説明しておくと、
佐世保市の小6女児同級生殺害事件を受けて、「もっと子供にネチケット(ネット上のマナー)を身に付けさせるべき」という意見が相次いでいる。全くの同感だ。
しかしその“ネチケット”として、「他人を中傷してはいけない」という事を第一に挙げる人が多い。僕はこれでは駄目だと思う。勿論、「他人を中傷してはいけない」というのは正論だ。しかし、2ちゃんねるを見ていれば分かるように、大人だってそんなルールは守れていない。それを子供が守れる訳が無い。
もう一つの問題は、「他人を中傷してはいけない」というのは加害者側を矯正する手法であり、被害者側が自衛する手法ではない、という事だ。これでは善良なネット利用者は傍観しているしかない。
『中傷』というのは辞書で調べると「根拠のない悪口を言い、他人の名誉を傷つけること」という意味である。この「根拠のない」という部分がポイントで、だからこそ中傷に対して反応する必要は全く無いのである。所謂、「煽りは無視しろ」というヤツだ。
「中傷は気にするな」というのは、善良なネット利用者が講じられる、唯一の自衛策だと思う。
「他人を中傷してはいけない」というのはネットに限らず、日常生活上でも浸透している考え方である。しかしそれは事実上は守られていない。となれば、これから急に守られるようになる可能性は低いだろう。
一方で、「中傷は気にするな」というのは既に一部のネット利用者の間では“常識”であるが、全体から見ればまだまだ浸透しているとは言い難い。特に低年齢の世代に伝わっているとは思えない。これから“ネチケット”として広めるならば、後者の方を勧めた方が良いと思う。
以上より今日のイイタイコト。
「他人を中傷してはいけない」は守られない。「中傷は気にするな」が唯一の自衛手段だ。煽りは無視しよう。
ちなみにこのサイトでは、誹謗・中傷も(僕に対しては)OKなのだが、そういう書き込みはまだ無いなぁ。
カウンセリングを受けて来た。
最近どうも精神的に落ち着かない日が続いている。その為か、集中力が削がれたり、やる気が起きなかったりして、日常生活に支障が出るようになった。「このままではいけない」と思い、思い切って大学の学生相談所でカウンセリングを受けてみた。
相談員の方と40分ほど話して、「軽い初期の鬱状態かも知れない」と言われた。鬱というのは近年は拡大解釈され過ぎな筈で、初期の軽いものなら問題無いかと思ったが、しかし精神科へ行き、薬を服用する事を勧められてしまった。
僕はどちらかというと完璧主義で、そして一つの物事に対して深く考え込む傾向が有る。このような性格は鬱状態に陥り易いようだ。しかし僕の場合は比較的冷静に自分を認識しているので、症状は軽くて済んでいるという。まぁこれから悪化する可能性は有るようだが。
心理学は興味の有る分野なので、カウンセリングは具体的にどのように行うのか、割と楽しみにして行ったのだが、普通の表層的な事しか聞かれないので拍子抜けした。もっと心理テストのような事を聞かれるのかと思っていた。ちょっと残念。
正直な所を言うと、僕は精神的な部分というのは全て自分自身でコントロール出来るものだという認識が有るので、薬の服用がどれだけ効果が在るのか非常に懐疑的なのだが、仕方ないので取り合えず来週の初めにでも精神科へ行ってみる事にする。
日記は続けるが、少し傾向が変わるかも知れない。(変わらないかも知れないが。)
長崎県佐世保市の小6女児同級生殺害事件で、佐世保児童相談所は2日、加害者の女児(11)を家裁に送るかどうかを決める判定会議を開催。長崎県警佐世保署も殺害の動機など詳しい調べを進めた。 死亡した御手洗怜美(さとみ)さん(12)と女児は、仲の良い友人同士。インターネットによるパソコンの「チャット」もする仲だったという。 ――共同通信より
警察や学校によりますと、怜美さんと女子児童はふだんから仲が良く、それぞれがインターネット上に持っているホームページに互いに書き込みをしていましたが、警察の調べに対して、女子児童は「自分のホームページに怜美さんが行った書き込みをめぐってトラブルになり、呼び出した」と話していることがわかりました。警察はホームページへの具体的な書き込みの内容を分析するとともに、学校の教師から話を聞くなどして動機についてさらに詳しく調べることにしています。 ――NHKニュースより
事件の真相はまだまだ不明ですが、もしも本当に原因がホームページへの書き込みに関するトラブルだったとするなら、これは今までに無い事件だったかも知れません。
掲示板やチャット、メールというのは、文字だけで意思の疎通を行う特殊なメディアです。インターネットが普及する以前だと、手紙や交換日記がこれに当たると思いますが、これらは大多数が行うようなものでは有りませんでした。
このような文字だけで意思を表現する行為は、大人でも難しく感じる時が多いと思います。真正面に相手がいる訳ではないので、思わず言い過ぎてしまう事も有りますし、話し言葉よりも冗談が通じ難いので、要らぬ誤解させてしまったりする事も有ります。ですから、相手にメールを出す時などは、細心の注意を払って文章を書いている人が多い筈です。
ところが小学生くらいでは、そこまで注意して文章を書く事は出来ないでしょう。恐らくは自分の思った事を、そのまま書いているだけの文章になっていたと思われます。となれば、被害者の少女が(無意識の内に)何か言い過ぎてしまった、或いは、冗談だと思って書いた事が真に受け取られてしまった、という可能性は十分に考えられます。
さらには掲示板は第三者が自由に見られるという特徴も有ります。状況の詳細は分かりませんが、小学生が一般向けのホームページを運営していたとは考え難いですから、恐らくは友達同士が交流する内輪向けサイトだったのではないかと思います。となれば、被害者少女の書き込みを見た加害者少女が「“友達皆の前で”恥を掻かされた」といった類の感情を抱いた可能性も考えられます。
この年代は特に、友人達の前で恥を掻く事に対する耐性が有りません。もしかしたら、これが殺意(或いは単に「脅してやろう」くらいだったかも知れませんが)に結びついてしまったのかも知れません。
以上は、あくまでも「ホームページへの書き込みに関するトラブルが原因だったとしたら」の考察です。事件の真相の解明を待つと共に、被害者少女の冥福を祈ります。
江戸時代の恋愛は現代以上に奔放だった。
男性には独占欲の強い人が多い。『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々』の「性的嫉妬の男女差」にあるように、男性はパートナー(妻や恋人)を他の男性から隔離したがる傾向に有る。
「浮気はいけない」という社会的風潮は、この辺りから生まれて来た物だと思う。現代では恋愛に関して、それなりの制約が存在する。
ところが江戸時代には、このような風潮は無かった。タブーとされたのは妻の浮気だけで、未婚の男女と既婚男性の浮気は容認されていた。
例えば性行為は結婚前であっても禁忌的な行為ではなく、両者の合意さえ有れば日常的に行われる行為だった。実は同性愛も認められており、特に男性同士の行為を描いた絵が“春画”として数多く売られていた。(それを買っていたのが男性なのか女性なのかは分からないが。)
この時代の恋愛に最も重要だったのは“容姿”で、家柄が気にされる事は無かった。これは「セックスする=結婚」という図式が成り立っていなかったからだ。江戸時代でも結婚相手には家柄が重視されたが、それとセックスをする事は無関係だったのである。(現在でも「セックスする=結婚」は成り立っていないが、かと言ってこの2つは全くの無関係でもない。)
以上より今日の結論。
江戸時代の恋愛は現代以上に奔放だった。気が合えばセックスをし、同性愛でさえ社会的に認められていた。
ちなみに既婚女性の浮気だけが許されなかったのは、血筋を重視する日本文化の為である。家を継ぐのは、家主(夫)の血を引く正統な息子でなければならなかった。しかし当時は、生まれて来た子供が夫の血を引いているかを確認する手段が無かった為、妻の浮気を禁止するしかなかったのである。(だからこそ、既婚男性が未婚女性と浮気するのは問題無い訳だ。)