先日、読者の方々に関するアンケートを実施しましたが、その結果発表です。
Q1.あなたの性別と年齢を教えて下さい
物事には有る程度の制約が課せられていた方が取り組み易い。
僕は日記で『(笑)』を使わないように、心の中で決めている。同様に『w』や『(涙)』や様々な顔文字の類も、日記では使わない事にしている。
これらの記号が嫌いな訳ではない。また、いつだったか「『(笑)』を使うと、その文章全体の重みを一気に損なってしまう」という文章を読んだ事が有るが、そういう弊害を気にしている訳でもない。
単に“日記では使わない”と決めているだけで、他では普通に使う。『(笑)』なんかは掲示板へのレスやメールの返信には、ほぼ確実に入っていたりする。
僕は無意味な制約を日記に課しているのだ。が、無意味な制約は、実は無意味ではない。
ショートショート作家の星新一氏は、自作に次の3つの制約を課していた。
後輩2人と飲み明かした。その場に集まった3人は、全員が彼女にフラれてしまった“負け犬”同士だった。
当然3人居れば恋愛感は三者三様だが、幾つか3人に共通していた箇所が見付かった。その一つは「デートの時に食事をする店を決められない」というものだった。
僕の場合は19日の日記『“考え過ぎてしまう”という事』で書いたように、普段から余計な事を考えてしまう所為で決断力が鈍く、優柔不断に見られがちなのだが、後輩の2人もデートの食事の時は似たような状況に陥っていたようだ。
もうちょっと言えば、“負け犬”の3人は「別に何か新しい場所に行ったりしなくても、“普段どおり”がずっと続いたって良いじゃん」という傾向が強く、これが彼女との付き合いに悪影響を与えていたようだ。
後輩の一人が「ずっと前から彼女に横浜中華街に行きたいって言われてたんですけど、結局は行きませんでしたよ」と言い、全く同じ状況だった僕は思わず苦笑してしまった。
「二人で居るだけで幸せ」なんて言葉は、如何にも女性が口にしそうな台詞だが、実際には男性の方が、そう思ってるものなのかも知れない。
「取り合えず“優柔不断”からは脱却しよう」と硬く誓い合った“負け犬”3人組だった。
意図せずに他人を傷付けてしまった、という経験の無い人はいないだろう。
例えば1日200アクセス程度のこのサイトでも、たまに読者を傷付けてしまう。もっと大きなサイトになったら(なれたら)、より多くの読者を傷付けてしまうかも知れない。
これが現実の人間関係なら、さらに複雑だ。現実では1日に何百人という数の人間とは接さない代わりに、サイト運営よりも遥かに密度の濃い人間関係が構築されている。当然、僕だって意図せずに友人や知り合いを傷付けてしまった事は、今までに1度や2度ではない。
僕が友人を傷付けてしまった、としよう。それが僕の意図しない処だったとしても、結果的に友人が傷付いたならば、僕は友人に謝罪するべきだ。――と、僕は考えている。
意図しないで傷付ける、というのは相互間の理解不足が原因である事が多い。だから大抵の問題は、謝罪すれば解決してしまうものだ。昔はちょっとばかり気まずさを感じたりもしたが、最近はそういう事にも慣れた。
ただ最近難しいと思う事が有る。それは傷付いた人間が必ずしも「お前の所為で私は傷付いた!」と言ってくれる訳ではない、という事だ。また、言わなくても傍から見ていて明らかに傷付いたと分かるなら、まだ良い。しかし、そのいずれでもない場合に悩む。
つまり、僕の言動に拠って友人が傷付いてしまった“かも知れない”、という状態。周囲の環境を考慮しても、どちらなのか(傷付いているのか否か)判断付かない――そういう状況。
謝罪というのは、わざわざ当時を掘り返す事にもなる訳で、寧ろそれによって相手が傷付いてしまう、という可能性も有る訳だ。何か問題が起きた時、ただ謝れば良い、というモンじゃない。だからこそ人間関係は難しい。
以上より今日のイイタイコト。
何でもかんでも謝罪すれば良いというものではない。だからこそ人間関係は難しい。
さて、僕は誰に謝ろうか。
他人の気持ちを簡単に知る事が出来たら、どんなに楽だろうか。
電車内で若者が老人に席を譲ろうとするのは、比較的よく見る光景だ。そして、その老人が「いえ、どうせすぐ降りますから」と言って席に座ろうとしないのも、結構ありがちだ。
そういう場面では、何となく気まずい雰囲気が漂うものだ。特に席を譲ろうとした若者が気まずい。「このまま席に座り直すのも、なんだかなぁ」という思いがヒシヒシと伝わったりして来て、周りに居る僕までが、何とも居た堪れなくなる。
こういう時に、「他人の気持ちが事前に分かったらなぁ」と感じる。その老人が席を譲って貰いたいと思っているのか否か、それくらいどうにかして分からないものか、と。
このようなケースは、仮に可能になったとしても、倫理的に問題が少ないだろう。比較的健全な欲求だからだ。しかし、「他人の気持ちを知りたい」という感情そのものは、危険な感じもする。
例えば日常的な人間関係の中で、「こいつは俺の事を、本当はどう思ってるんだろうか?」など、考え出すとキリが無かったりする。キリが無い上に、他人の本当の気持ちを知る事など、現実には不可能だ。
そんな事は分かっているのだが、それでもどうしても相手の気持ちを聞き出したい事が有る。そういう時は、お互いに腹を割って話し合うのがベター(多分ベストではない)な方法だろう。考えてみると、“異性に告白する”という行為も、一種の“腹を割った話し合い”と言う事が出来るように思う。告白する事により、相手の自分に対する率直な気持ちを聞き易くしている。
僕は精神的に弱い人間で、よく他人の気持ちを知りたがる。『他人の気持ちを知りたい症候群』だ。しかし、そこからの脱却は、なかなか難しいものだ。
以上より今日のイイタイコト。
「他人の気持ちを知りたい」という感情は危険な場合が有る。どうしても知りたいならば、取り合えず腹を割ってお互いに話し合うのが簡潔な方法だ。“告白”という行為も、多分それと同じ事だと思う。
明日には試験が終わるのですが、諸般の事情で本格再開(読み日記など)は来月上旬まで遅れそうです。なんでこんなに忙しいんだろ?
何か困った事になった時に、すぐに相談できる友人が居るのは良い事だ。
僕には“どんな問題でも相談できる”とまで言える友人は居ないのだが、極めて私的な悩みは○○、人間関係での悩みは○○、というように、どんな問題が起きても誰かしら相談できる相手が一人や二人いる。これは非常に心強い。昨日の夜もプライベートで問題が発生し、90分後には友人に直接会って相談していた。
僕はあまり他人から好かれる人間ではないだけに、結果的にこのように信頼できる友人に恵まれた事は、幸運だったと言うしかない。
悩みというのは、その人を強制的に思考させるから、必ずしも悪い物ではないと思う。悩んで悩んで、それを後で良い経験にすれば良い。そして自分で考え抜いた後に他人に相談すると、新たな考え方が出来るようになったりする。
昨日は早急に解決したい問題だったのですぐに友人に相談したが、まぁそれはそれで有益だった。突発的な問題の場合は、独りだとパニックに陥ってしまう事が多く、早急に解決し難い。
以上より今日のイイタイコト。
相談できる友人、愚痴れる友人、困った時に助けになってくれる友人――様々な友人達が居る。そんな友人達に支えられて生きているんだ、という実感が湧いた昨日だった。
ところで昨日の日記について、友人から「恋愛について語ってる時間が有ったら勉強しろ」と叱られた。あまりに尤もな意見で、反論できなかった。
しばらく前に「このサイトでは恋愛の話題は敢えて避けている」と書いたばかりだが、今日は少し。
数週間前から、最近フラれた友人達(←勿論、僕も含む)とチャットで恋愛論を語る事が多くなった。名付けて『負け犬恋愛論』。
この『負け犬恋愛論』は、まずは自虐ネタから始まる。で、お互いに傷を舐め合う。正に負け犬に相応しい所業だ。
しばらくすると、やたらと前向きな意見が出て来る。「やっぱり、こっちから積極的に行かないと駄目だよね!」とか。これでちょっと明るい雰囲気が醸し出される。が、すぐに負け犬達は気付くのだ。「でも積極的に行くべき相手がいないじゃん」と。
負け犬達は語り出す。「どうして積極的に行くべき相手が見当たらないんだ?」「まず出会いが無いしな」「いや、前の相手に未練が残ってんじゃねーの?」「未練なんて無くても駄目だけどなー」「やっぱ出会いか」などなど。負け犬の、負け犬による、負け犬の為の会話。
そして負け犬の内の一人が言い出す。「勝ち組のヤツラに秘訣を聞いてみよう」と。この辺りが如何にも負け犬らしい行動だ。
勝ち組の人間をチャットに強制的に呼び出す。彼らはきっと、あまりのネガティブな雰囲気に内心動揺している筈だ。きっと「アドバイスしたくても、こんな状況ではどんな言葉を掛けたら良いんだ!?」と困惑しているに違いない。
仕方無く、なのだろう。いきなり出会い系サイトを提示してくる勝ち組人間。「いや、違うんだ! 俺達は、そういう出会いが欲しい訳じゃないんだ!」と必死に喚く負け犬達。所詮、負け犬は負け犬なのだ。
負け犬達の夜は、こうして何の進展も無いままに更けていく……。果たして、負け犬達に明日は有るのか!?
試験期間が終わったら、『理系のための恋愛論』でも読んでみるか。
このサイトはエッセイ風日記&分析系コラムをウリにしているのだが、両方を書いていて思うのは、書く楽しみがそれぞれ違う、という事だ。
エッセイ風日記を書く時は、頭の中で漠然と“書きたいもの”が浮かんだら、それを早速テキスト化する。下手な文章なので推敲が必要だが、推敲している内に、自分が書きたかった事(漠然と頭の中で考えていた事)が段々と、はっきりとした形を現わして来る。そして書き終わると、「俺ってこんな事を考えていたのかぁ」と妙に感心してしまったりする。
思考を言語化する事により、より強固な思考を形作る事が出来る。この作業が面白い。だからエッセイ風日記は、書いている間が楽しい。
分析系コラムは、何らかの新情報を得た時に、ふと気付いた事を逃さずに煮詰めて考えてみる。すると表面的なデータからは普通は読み取れないような、“新しい見方”を出来る事が有る。それをさらに頭の中で理由付けて行き、その“新しい見方”に根拠を持たせてやる。「おお、こんな事が言えちゃうんじゃないの!?」みたいな結論が出せれば万々歳だ。(←いつもこう巧くいく訳ではない。)
だから分析系コラムを書く時は、書く事は既に頭の中で固まっている事が多い。なので、『以上より今日の結論』の後の文章を先に書いたりしている。分析系コラムの場合は、エッセイ風日記のように推敲しながら色々と意見を変化させていくと、巧くまとまらない事が多いので、結論をしっかりと固めておくのだ。
あらかじめ設定した結論に向かって、証明を組み上げて行く感覚。これが面白い。だから分析系コラムは、考えている間が楽しい。
どちらの日記も僕は結構、楽しみながら書いている。「書く時間が無くて苦しい」という事は有るものの、これは締め切り前の作家の心情に似ているのかも知れない。(小説を書く事が嫌いな作家は居ないだろう。締め切りが嫌いな作家は多いだろうが。)
以上より今日のイイタイコト。
エッセイ風日記も分析系コラムも、作り上げていく過程は楽しい作業だ。その両者の楽しさが異なる所が、また面白い。
2日前に明日から試験。1週間ほどは短い日記になる予定と書いているが、全然短くなってないな。日記依存症かも知れない。
僕は「趣味は読書です」と言えるくらいには本を読むが、それで「どんな本を読むの?」と言われると、あまり親しくない相手には「小説の類を」と言う。僕が読むのはライトノベルとミステリーとショートショートが大半なのだが、それを言うとイタイという反応をされる(特にライトノベルでそういう反応をされる事は以前に書いた)ので、まだ親しくない相手には少し曖昧に「小説を」と言う事にしている訳だ。
ところがそれでも「え? 小説(なんか読んでるの)?」という反応をされる時があり、非常に困惑する。どうもそういう人に言わせると、真の読書家というものは、啓蒙書や学術的専門書の類を読んでいる人の事を指すらしい。
恐らくその人が言いたいのは、読書に限らず身近なエンターテイメントは、何らかの形で自分に益をもたらす物に限るべきだという事なんだろう。
僕は、それ自体には反対しない(特に賛成でもないが)。しかしそれは別に啓蒙書を読まなくたって、単なるミステリーやライトノベルからだって、様々な事を読み取る事は出来ると思う。
例えば僕の大学の『応用倫理学』という教養科目を教える教官の中には、講義中に『金田一少年の事件簿』のアニメを見せる人がいる。『金田一少年の事件簿』というのは、『名探偵コナン』と同様の子供向け推理漫画であるが、そのアニメ版を大学生に見せる訳だ。
そのアニメでは、殺人事件が起こり、その際に少し奇妙な画家が被害者の死体を見て、「こんな経験は滅多に無い」とばかりに死体の絵を描き始め、主人公達がそれを「こんな時に何をやってるんだ!?」と咎める、というシーンが有るのだが、その『応用倫理学』の講義では「どうして死体の絵を描いた画家は糾弾されなきゃならんのだ?」という事を考えさせたりするのである。
よく考えてみると、このような経験は実体験では殆ど有り得ないと言って良い。不幸にも他人や身内の死体を目の当たりにしてしまった事の有る人は多いだろう(僕も見た事が有る)が、その傍で急に黙々と絵を描く人がいたという経験は無いだろう。
『金田一少年の事件簿』というのは商業的には大成功したが、決して内容は示唆に富んだ話ではない。しかし見方によっては、日常では考えも付かないような事を考えさせられる作品にもなるのである。
これは勿論ミステリーやライトノベルにも言える話で、要は読み手側がどう受け止めるかが問題なだけだ。完全にエンターテイメントとして読んでも良いだろうが、読み方によっては非常に興味深い考察が出来る場面はたくさん登場する。いや、小説だけではない。「薄っぺらい」と言われがちなハリウッド映画だって、見る側の意識の違いで如何様にも受け取る事が出来る筈だ。
以上より今日のイイタイコト。
僕はライトノベルばっかりしか読まないけど――まぁ良いじゃん。
僕は少年時代、作文や読書感想文は大嫌いだったし、国語で「〜〜なのは何故か。200字以内で説明せよ」なんて問題が有ると、「げ、200字かよ、30字で充分だよ」とか思うくらいの人間だったのだが、今ではこんな日記を毎日毎日飽きもせずに書くようになった。人間、変われば変わるもんだ。今では「200字じゃ、何にも書けねーよ」と思う。
日記を書いていて思うのは、1つのテーマについて1000字程度でまとめるのが(以前よりは)巧くなったかな、という事だ。しかし残念ながら、現実世界でこういう能力を使う場所が思い当たらない。今年2月の中国語の試験で「この授業を受けて感じた事を自由に書きなさい」というボーナス問題が出たが、その時はスラスラと有る事無い事を並べ立てて感想文をでっち上げる事が出来た。が、役に立ったのは、その時くらいの物だ。文系ならまだしも、数学科ではこれからも役に立ちそうに無い。
ただ日記を書くという行為が、間接的に役に立っていると思われる場面は幾つか思い当たる。例えば他人との会話の場面。僕は理系の割には、頭で考えるよりも前に口が開いてしまう人間で、その所為で支離滅裂な事を言い始めて止まらなくなる事が多かったのだが、日記を書き始めてからは少しそれが減ったかな、と思う。後は自分で勝手に理解して、他人をほったらかしにしないように、と心掛けたり。
つまり、日記を書く事による文章力の向上は確かに有るかも知れないが、それによる恩恵よりは寧ろ、自分の言動が他人に対してどのような影響を与えるか、といった精神的な面での成長の方が大きいような気がするのだ。なんか知り合いには「今でもお前はガキだ」とか言われそうだが、その時は「いや、前よりはマシだよ」と返したい。
以上より今日のイイタイコト。
僕は日記を書いていて良かったと思う。これからも出来る限り書いていこうとも思う。
日本人は死から遠ざかっていない。
先日、日本人の平均寿命が男女とも過去最高を記録したというニュースが有った。日本人女性の平均寿命の長さは、世界でもぶっちぎりの第1位であり、「日本は長寿大国である」と言う事に疑問を呈する人はいないだろう。
ちなみに比較の仕方にもよるが、日本人男性の平均寿命は世界第3位である。頑張れ、日本男児!
ところで“平均寿命が延びる”事と“死なない”という事とは、必ずしも一致しない。死亡率は既に悪化しているのである。
人口10万人当たりの内、1年間に死亡する人数を死亡率というが、この死亡率は昭和60年辺りから悪化の一途を辿っている。昭和60年には625.5人だった死亡率が、平成15年には804.7人にまで悪化した。
この数値は昭和30年の776.8人という数値すら超える。少々短絡的な言い方だが、現在の日本人は、カラーテレビ放送が始まった時代(昭和35年)以前よりも、死に易い世の中を生き抜いている事になる。
以上より結論。
日本人の寿命は延びているが、死亡率も同様に延びている。
明日から試験。1週間ほどは短い日記になる予定。
23才にもなると、周囲では既に結婚していたり、近々結婚する予定の有る友人が増え始めてくる。僕には今、そういう相手はいない。別に結婚願望が強い訳ではないのだが、なんか悔しいので、『離婚』について調べてみた。
まず離婚総数だが、これは明らかに増加している。1950年には83689件だったのが、1998年には243183件と、約3倍にまで増えている。
また最近では「熟年離婚が増えている」と言われているが、これは確かに事実である。20年以上の同居期間を持った夫婦の離婚件数は、1950年は2925件だったのに対し、1998年には39614件まで増加した。なんと13倍以上である。
一方で若年層の離婚は減っているのかと言うと、決してそんな事は無い。同居期間が1年未満の夫婦の離婚件数は1950年の14255件に対し、1998年は16791件と、やはり増加している。
全体的には同居期間の長い夫婦の方が離婚件数の増加率が高いが、それは決して新婚夫婦の離婚件数の低下を意味している訳ではない。
以上より結論。
熟年離婚は確かに増えている。しかし全ての世代で離婚件数が増加している以上、あらゆる既婚者は油断禁物だ。充分に気を付けた方が良い。勿論これから結婚する人も同様だ。
……こんな日記を書いても、虚しいだけなのに気付いた。やっぱり彼女が欲しい。
僕は“考え過ぎてしまう”癖が有る。それで鬱病になった。今日は“考え過ぎてしまう”というのが、具体的にどういう事なのかを書いてみたい。
例えば、「1円でも安い商品を買う為に、自転車で30分も掛かるスーパーまで行く専業主婦(専業主夫でも良い)について、どう思うか?」と聞かれたとしよう。
同一の商品をより安い価格で購入する事は、家計的に考えてメリットである。一方で、その為に近所のスーパーを利用せずに、わざわざ遠くのスーパーを利用する事は、時間的に考えてデメリットである。
普通ならばこの時点で、「ロスする時間に見合うだけの金額的な差が存在するか否か?」を考える事で結論が出る。例えば「往復で50分もロスするのに100円しか浮かないならば、人生の無駄遣いだ」とか。判断基準は人それぞれだろうが、大抵の人は、この時点で結論が出るだろう。
しかし僕は思考がここで終わらないのだ。というか、終わってくれない。止め処も無く色々な事を判断材料に加えてしまうのだ。
日常的に長時間、自転車で移動するという事は、かなりの運動量を稼いでいる事になる。という事は、その人はより健康的な身体になり、将来的に必要な医療費が少なくなるのではないか? いやしかし、それだけ自転車を使っていたら、その自転車が故障する可能性が高くなる。となると修理費やら自転車の買い替え代金などが余計に掛かってしまうだろう。だが少しでも安い商品を求めるというのは、その人の密かな楽しみになりはしないか? そうなれば心理的に良い影響が出るだろう。でも移動時間が長いという事は、道端で知り合いに出会う確率が増す。その知り合いが他愛無い無駄話好きの人間だったら、余計に時間をロスしてしまう…………という感じ。こういう事を雪崩式に考えていって、その全てを総合して判断しようとしてしまう。
しかも突き詰めていくと、「このような思考は時間に見合うだけのメリットを有しているのか?」というメタ的なレベルまで考えが発展していって、本当に膨大な思考量となってしまい、最終的には収拾が付かなくなったりする。
このような癖は、学問(特に数学や理科)に於いては寧ろ有利に働いたりする。『想定外のケース』が許されないからだ。徹底的に「こういう場合はどうなるんだろう?」と考えていく事によって、自分の知識や論理の穴を発見できるようになる。
しかし大学に入った辺りから、この癖が日常生活にも頻繁に出るようになってしまい、状況が変わった。簡単に言えば“余計な事を考え過ぎている”状態で、頭の休まる時間が極端に減った。常に「自分や他人の行動が、後にどのような影響を与えて派生していくのだろうか?」という事を考え続けてしまうのだ。
結果として集中力が失われ、鬱病になってしまった。鬱病になる原因は多種多様であるだろうが、全般的には“考え過ぎてしまう”事がキッカケになる事が多いようだ。何か嫌な事が有ったりすると、それについて思い詰めてしまう、というケース。僕の場合は嫌な事が有った訳ではないが、どうでも良い事を思い詰めてしまうようになった。
以上よりイイタイコト。
“考え過ぎてしまう”という事は学問に於いては有利に働く事も有るが、日常的にやるべきものじゃない。ちゃんと頭を休ませる事が必要だ。
今日はただの独り言です。
ええ、分かってるんです。もうすぐ追試なんです。だから昨日の夜は、軽く飲むだけのつもりだったんです。
……気付いたら2人でワインボトルが4本も空になっていたんです。1人2本?
僕はサワー2杯で酔っ払い、4杯で限界になる人間でした。昔は。そんな人間が、ワインボトル2本? 有り得ない。
だから今日は、激しい二日酔い。エッセイ風日記&分析系コラム? 無理です。今日は勘弁して下さい。
ちなみに某所(2004年07月16日)で『騎乗位促進委員会青年部』と命名されました。それ自体は全く構わないのですが……僕には今、相手がいませんから! 残念!!
……でも、このネーミング良いな。サイト名を変更する時には、これにするか。
出生数は減っているのに、双子や三つ子は増えている。
今の日本で出生数が減り続けているのは周知の事実だ。が、実は双子や三つ子といった、所謂“複産”は増加している。
厚生労働省の調査によれば、昭和50年の総出生数は約190万人で、平成12年の総出生数は約119万人だった。30年足らずで出生数が4割も減った事になる。
一方で双子や三つ子などの複産の出生数は、昭和50年は20933人だったのに対して、平成12年は23621人と、逆に1割ほど増えている。これは意外な結果だ。
特に三つ子以上に限ってみると、昭和50年は318人だったのに、平成12年は934人と3倍近くまで激増している。繰り返し述べるが、この間に総出生数は4割も減っているのだ。
総出生数は減っているにも関わらず、複産、特に三つ子以上の出生数は激増している。
母親の年代別のデータを見ると、さらに興味深い事実が存在する。20代女性の複産は総出生数と同様に4割ほど減っているのだが、30代女性の複産だけが異常に増えているのである。30代の女性に限ってみると、昭和50年の複産による出生数は3466人だったのに対し、平成12年には12001人まで増加しているのだ。
確かに晩婚化などの影響で高齢出産そのものは増えつつあるのだが、この複産の増加率は、それを遥かに上回る割合である。これが何を意味するのかは分からない。しかし少子化問題の陰で、実は以上の様な事態が進行している事だけは事実である。
以上より結論。
出生数は減っているにも関わらず、複産は増加している。特に30代女性の複産の増加率が異常に高い。
将来は双子が珍しくなくなったりするのだろうか?
現在の所、「医療技術の発達により、複産時の間引きが減少したからではないか?」や「不妊治療時に複数の受精卵を子宮に入れるからではないか?」という意見を頂いております。恐らくは、これらが複合して引き起こされた現象なのでしょう。
貴重な意見をくれた御二方には感謝感謝。
男性は『高尿酸血症』に気を付けよう。
先週、(注射をする所為で)物凄く嫌いな血液検査をしたが、その結果が出た。全般的には健常だったものの、『尿酸値』だけが異常に高い数値を記録した。正常値は7.0mg/dl以下らしいのだが、僕は9.6mg/dlだった。
医者:「肉類の多い食生活をしていませんか?」
僕:「いえ、そんな事は無いと思うのですが……」
医者:「じゃあビールをよく飲んだりする?」
僕:「ビールは苦手なので殆ど飲まないです」
医者:「ふーむ……」
僕:「あの、家では殆ど魚ばかりなのですが」
医者:「あ、魚も肉と一緒だよ」
以前、僕は自宅での食事が「3食に2食は魚料理」と書いたが、実は最近はその傾向に拍車が掛かり、「1日全て魚(しかも焼き魚ばかり)料理」という日々が続いていたのだ。ここ3日で焼き魚以外は、1食(食パン)しか食べていない。
『尿酸』というのは、『プリン体』という物質が体内で分解されて出来る物なので、『プリン体』を多く含む食品には気を付けねばならない。『プリン体』を多く含むのは、
日本では複合的な原因により、騎乗位が普及しない。
ここ数日のセックス体位論には、かなり多くの反響が有った。ひょっとしたら、今までの日記の中で最も反響が大きかったかも知れない。これまで学力低下論など、色々と真面目な話題を取り上げる事も多かった筈だが……複雑な心境だ。
しかし気になるのは、この件に関するメッセージは全て女性からだった、という事だ。男性からのセックス体位に関する言及は、一つも無かった。僕は問いたい。ここで、敢えて問いたい。「どうしたんだ、日本男児! お前達は正常位で満足なのか!?」と。
――さて。
女性読者から頂いたメッセージの中には、『日本で騎乗位が普及しない理由』について考察してくれている物が幾つか有ったので、それらを紹介してみる。取り合えず箇条書きで。(文体などは変えてあります。)
セックス時の体位は、少子化問題に影響を与えている可能性がある。(予告通り、修正してあります。)
7月11日の日記『頑張れ、日本男児!』で、正常位よりも騎乗位の方が優れた体位なのに、日本人の多くは男性側に肉体的負荷の大きい正常位でセックスをすると書いたが、これは男女間でのセックスの満足度に大きく影響している。
Durex社の2003年の調査に拠れば、日本人の各年代に於ける男女別のセックスの満足度は以下の通りだった。
× | 男性 | 女性 |
---|---|---|
10代 | 56% | 53% |
20代 | 47% | 71% |
30代 | 44% | 59% |
40代 | 56% | 65% |
50代 | 50% | 63% |
今日は一昨日の『頑張れ、日本男児!』の続編である『負けるな、日本男児!』というタイトルの日記を掲載するつもりだったが、読者の方から貴重な意見を頂いたので、予定を変更する。(下の方に大幅に追記しました。)
一昨日の日記『頑張れ、日本男児!』については、不快に思った女性が多かったかも知れない。僕としては「日本人男性はセックスの時に、女性にもっと(騎乗位を)要求しても良いんじゃない?」というつもりで書いた(だからタイトルを『頑張れ、日本男児!』とした)のだが、日記内の記述を改めて見てみると、そうとは受け取れない箇所が多い事に気付いた。
「疲れる事は男性に任せ、自分は快感だけを享受する――そういう女性が多い」とか、「日本人女性の多くは、自身がマグロでいられる正常位を好む」とかは、明らかに女性の大半を挑発した言い方に見える。「日本人女性全体が、このようなカテゴリに当て嵌まる」という意識は無く、「日本は他国よりも、そのように考えている割合が多いのではないか」という意味合いだったのだが、結果的には不快に思われても仕方ない。
あの日記で言いたかった事は、以下の2点であった。
最近の出口調査が民主党寄りになってしまうのは、日本人に「通ぶりたい」という欲求が有るからである。
今回の参議院選挙でも、昨年の衆議院選挙同様、各テレビ局の出口調査では、現実以上に民主党有利な予想が為されていた。各局の予想と実際の議席数とをまとめた表は、以下の通りである。
× | 自民 | 公明 | 民主 | 共産 | 社民 | 他 |
---|---|---|---|---|---|---|
NHK | 43〜52 | 9〜12 | 48〜55 | 2〜4 | 2〜3 | |
日本テレビ | 47 | 11 | 53 | 3 | 2 | 5 |
TBS | 48 | 10 | 52 | 4 | 2 | 5 |
フジテレビ | 48 | 10 | 53 | 4 | 2 | 4 |
テレビ朝日 | 46 | 11 | 52 | 4 | 2 | 6 |
実際の議席数 | 49 | 10 | 50 | 4 | 2 | 5 |
セックスの体位の世界標準は騎乗位である。
昨日同様、Durex社の調査結果によれば、世界で最もよく行われるセックスの体位は騎乗位で、全体の29%を占める。以下、後背位が28%、正常位が20%と続いている。昨日も書いたが、この調査は15万人を対象に行われたもので、かなり信頼できる数値が出ていると思われる。
これは意外な結果だと思う。日本では圧倒的に、正常位が多数派だからだ。この日本と世界との乖離は、何なのだろうか?
正常位と騎乗位との最大の相違は、男女の位置関係だ。正常位では男性が、仰向けに寝ている女性に覆い被さるようにして、腰を動かす。対して騎乗位は、男性が仰向けとなり、女性がその上に跨るような姿勢をとって、腰を振る事になる。
ところが正常位と騎乗位は、男女の位置関係が入れ替わっただけの、シンメトリー(対称的な形状)ではない。騎乗位では男女共に両手が自由に使えるのに対し、正常位では男性側は少なくとも片手が自重を支えるのに使用される。
となれば、お互いの愛撫行為を考えた場合、明らかに騎乗位の方がやり易い。しかも騎乗位は正常位以上に、男性器をより深く女性器に挿入する事が可能である。
愛撫はやり易い。深い挿入も出来る。となれば、これはもう正常位よりも騎乗位の方が優れた体位であると言わざるを得ない。これが世界で最も行われている体位が騎乗位である理由だろう。
しかし、ここで重要なのは、正常位では男性側が、そして騎乗位では女性側が主導権を取っている、という事だ。セックスに於いて主導権を握るのは、自らの意思によって自身の身体を動かし、双方が快感を得られるようにしなければならない事を意味する。
経験者なら分かる事だが、これは割と大変な作業だ。「本当に相手が快感を得ているのか?」というのを別問題としても、純粋に肉体的な負荷が大きい。
セックスで主導権を握ると疲れる。これは事実だ。
ところで『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々』の「女子高生はマグロか」によれば、日本人女性は女子高生に限らず、マグロ(セックスの時に仰向けに寝ているだけの人)が多いという。
つまり、日本人女性はセックス時に肉体的負荷を掛けたくない、という欲求が有る事になる。疲れる事は男性に任せ、自分は快感だけを享受する――そういう女性が多い訳だ。
従って、多くの日本人女性はセックスで疲れたくないので、主導権を取れる騎乗位を行わず、マグロでいられる正常位を好むのではないだろうか。
以上より今日の結論。
正常位よりも騎乗位の方が優れた体位である。しかし日本人女性の多くは、自身がマグロでいられる正常位を好む。
そして今日のイイタイコト。
だが、敢えて言おう。セックスで、女性ばかり楽をさせては駄目だ。世界標準の体位は、騎乗位なのである。頑張れ、日本男児!
……今日は参議院選挙です。これから投票に行ってきます。
アメリカは“性に開放的な国”というイメージが有るが、実際はそうでもない。
数日前の日記に「セックスの頻度は、どのくらいが平均的なのか?」という事を書いたので、今日はそれについて。
日本人はどのくらいセックスをしているのだろうか。2001年の朝日新聞のアンケート「夫婦の性1000人に聞く」では、次のようなデータが示されている。
× | 週2以上 | 週1 | 月2〜3 | 月1 | 年数回 | 1年以上無し |
---|---|---|---|---|---|---|
20代 | 23% | 23% | 25% | 18% | 9% | 2% |
30代 | 9% | 20% | 25% | 20% | 15% | 11% |
40代 | 6% | 18% | 22% | 18% | 16% | 20% |
50代 | 3% | 3% | 25% | 23% | 13% | 33% |
参議院選挙が近いので、その話題を。
以前、「低投票率のデメリット」で書いたように、今の選挙制度では絶対に選挙に行って投票をした方が良い。そうしないと、某宗教団体の思う壷である。
ところで最近、「出口調査は民主党に清き一票を」キャンペーンというのが盛り上がりを見せている。「実際の投票先に関わらず、出口調査では“民主党”と答えて、マスコミの選挙報道を撹乱してやろう」という意図らしい。
これは以前、「“対マスコミ”と“対インターネット”」で書いた中の、正に“対マスコミ”の部分が色濃く現れた現象であると言える。いや、これは明確な“反マスコミ”か。まぁいずれにせよ、そういう意味では、非常に興味深い。
ところが僕は、主張系テキストサイトは、“対マスコミ”という構図を持つだけでは、マスコミに過剰に依存している事になるとも書いている。そこで、ココでこのキャンペーンについて考察し、“対インターネット”の要素も取り入れておこうと思う。
さて、このキャンペーンは、結果的には成功する確率が高いと思う。昨年の衆議院選挙では、出口調査の結果から各放送局は、民主党は200議席近くを獲得すると予想していた処が大半だった。が、実際に民主党が獲得したのは、177議席であった。
日本の出口調査は、他国と比べてサンプル数が圧倒的に多く、信頼出来るというのが常識だった。が、それが覆されたのである。これにより、既に昨年の衆議院選挙の時点で、出口調査で「自民党に投票しました」とは言い難い情勢が形成されていた事は明らかだ。
あれから大して時期も経っていない。だからこそ、「出口調査は民主党に清き一票を」キャンペーンをやらずとも、今回も出口調査の結果は外れる可能性は高いと思う。
以上より結論。
各放送局の選挙速報は、今回もハズレる可能性が高い。が、それに対してインターネットがどの程度の影響力を与えたかを計る事は、不可能である。
関連リンク1:「選挙予測で選挙結果は変わらない」
僕も選挙に行く予定だ。が、実はまだ、どの政党に投票しようか迷っている。絶対に投票しない政党は決まっているのだが。
僕は選挙権を得て3年しか経っていないが、ずっと自民党支持者だった。というのも、好きな政治家が自民党以外にいた例が無かったからだ。僕が今までに好きになった事の有る政治家は3人いる。宮沢喜一・小渕恵三・福田康夫の3人である。
宮沢喜一は頭の良さに、小渕恵三は人柄の良さに、福田康夫はマスコミへの対応の巧さに惹かれた。しかし現職は福田康夫しかいなく、しかも彼の将来性は年金問題で閉ざされてしまった可能性が高い。となると、僕には魅力的な政治家が見当たらないのである。
僕は政治には疎いので、選挙では好きな政治家のいる政党(の候補者)に投票したいのだが、今回はなかなか難しい。出来れば白紙投票はしたくないので、もう少し考えてみる事にする。
関連リンク2:「白紙投票の価値は」
昨日の気絶の原因は、貧血というよりは熱中症だったのかも知れない。全国各地で何人か亡くなった方がいたようだ。僕も危ない所だった。
熱中症には3段階が有り、最も軽い症状として数秒の失神が有るらしい。僕は、これか。また、肥満者は熱中症になり易いそうだ。ダイエット中の為、外出中に水分を摂るのを控えていたのだが、これから気を付けよう……。
毎月3キロのダイエットなんて簡単だ。(計算間違いがあったので修正&追記しました。申し訳ありません。)
このサイトは毎月3キロ痩せないと閉鎖されるのだが、考えてみると今までにダイエットについて考察した事が無かった。という訳で、今日はそれについて。
「3キロ痩せる」と聞くと、体から3キロ分の肉(脂肪)が減るのを想像する人がいるかも知れない。が、それは間違いだ。人間の体の70%近くは水分である。従って3キロ痩せるとすると、その内の2.1キロは水分であり、実質的には0.9キロの脂肪を落とせば良い事になる。
ところがNHK番組『ためしてガッテン』によれば、太った人間の体の水分の割合は50%しかないらしい。不本意だが僕は太った人間なので、こちらの数値で計算する事にしよう。となると3キロ痩せる為には、1.5キロの脂肪を落とさなければならない事になる。
脂肪を1キロ燃焼させる為には、7000キロカロリーのエネルギーを消費すれば良い。1.5キロの脂肪なら、10500キロカロリーだ。ちなみに1キロカロリーとは、水1リットルを1℃上げる熱量の事である。(←カロリーについては、いつもこんな説明がされるが、あんまり判り易くないな。)
以上より、僕が毎月3キロ痩せる為には、毎日350キロカロリーを余分に消費すれば良い事になる。(そんなに太っていない人ならば、毎日210キロカロリーで良い。)
「毎日350キロカロリーを余分に消費すれば良い」と書いたが、これは別に消費カロリーを増やすだけでなく、供給カロリーを減らす(食事制限をする)事でも構わない。というか、両者を組み合わせる事が最も望ましい。
意外に知られていない事だが、カロリーを持つ栄養素は、タンパク質・炭水化物・脂質の3種類しか存在しない。だから、これらを三大栄養素と呼んだりする。そして、それぞれ1グラムが持つカロリーは、タンパク質と炭水化物が4キロカロリー、脂質が9キロカロリーである。
ここで、それぞれの栄養素を1日に5グラムずつ減らしたと仮定してみよう。全部でたった15グラムの減量だが、それだけで85キロカロリーも摂取を抑える事が出来る。
残りは350−85=265キロカロリーだ。これを運動して消費する事にする。僕の体重だと10000歩で650キロカロリー消費する事になる。となると、265キロカロリーを消費するには4100歩となる。これは30分くらいで達成できる歩数である。
以上より結論。
僕の場合、毎日15グラムの栄養素を我慢し、いつもより30分多くウォーキングするだけで、毎月3キロ痩せる事が出来る計算になる。僕より痩せている人は、体内の水分量が多いから、もっと楽な筈だ。毎月3キロのダイエットなんて簡単だ。
今日の日記は女性読者の反感を買いそうな予感……。
以下は追記分です。
今日の日記は何故か7000×1.5=13500という計算間違いをしてしまった為に、結論に微妙な誤差が出てしまった。日記で計算間違いをしたのは2度目。こんな事では小学生にも笑われてしまう。以後、気を付けます。
ついでに雑記でも。
今日も精神科へ行って来たのだが、担当医師の具合が悪かったようで、逆に僕が心配してしまった。医者は大変だなぁ。その後、採血をする事に。僕は注射が物凄く嫌いなので、女性看護士からの「注射すると気持ち悪くなったりしないですか?」という質問に対して、「いえ、それはないですが、注射は凄く嫌いです」と正直に答えた。すると「まぁ好きな人はいないですよね」と、あっさり返される。まぁいつもの事だ。僕がどれくらい注射が嫌いかを知りたい方は、「生死の境目を彷徨う」というテキストで。(かなり長いです。)
その後、池袋の東急ハンズで買い物をし、そして自宅に到着した途端、意識を失う。どうやら採血した後に暑い中を歩き回ったので、貧血か何かを起こしたらしい。母親に「み、水……」と呟いて倒れたのを覚えている。
気を失っていたのは数分で、それから30分ほどで落ち着いて来たので、こうして日記を書いている。皆さんも暑さには気を付けて下さいね。
誰でも作れるwebサイト。しかし、そこに差別は発生しないのか?
人間は何にでも差別の原因を作る事が出来る。人種・国籍・性別・年齢・学歴・病歴・性癖・家柄……。将来的にはwebサイトだって、差別の原因になるかも知れない。
既にwebサイトにも差別化の動きは広がっている。例えば大手検索サイトであるyahooのカテゴリ検索は、yahooオペレーターがwebサイトを選別し、それにパスしたサイトだけを掲載するようにしている。
yahooだけではない。同じく大手検索サイトのgoogleでは、“Page Rank”という独自の基準を設け、殆ど全てのサイトの重要度を細かく数値化している。googleツールバーをインストールする事で、“Page Rank”を大雑把に11段階(0〜10)に区分けしたランクを見る事が出来る。ちなみに現在の所、このサイトの“Page Rank”は『4』と評価されている。
数多く存在するアクセスランキングの類も、webサイトの差別化を促進していると言って良いだろう。“アクセス数”という尺度によるwebサイトの選別だ。アクセス数が少ないサイトは、ランキングの奥底に埋もれてしまって多くの読者には見られない。
ただ、上で提示したような“差別”は、寧ろメリットの方が大きい。重要なwebサイトが、検索結果の最初に表示されたり、ランキングで上位に表示される事は、読者にとって利用し易くする為の工夫だからだ。
しかしダイナマイトの利用がトンネル工事だけに留まらなかったように、人間は道具や概念に対して、常に新たな利用法を模索し続ける動物だ。この性質こそが正に人間をここまで発展させて来たと言えるが、同時に幾つもの負の産物も発生させた。差別もその一つだろう。
となれば、これからはwebサイトも差別の一因となる可能性は、充分に有るように感じる。
例えば、現在のwebサイトは匿名で作られている事が多いが、将来的には一人一人が自分の公的なwebサイト(これを“個人公式webサイト”と呼ぶ事にする)を持つようになる可能性は高いと思う。個人公式webサイトがどのような形になるかは分からないが、履歴書や戸籍のような存在になる可能性が高い気がする。住基ネットの個人版とでも言おうか。その上で、匿名のwebサイトを持ちたい人は持つ、という世界になっていくのではないか。
そのような個人公式webサイトに、現在のgoogleの“Page Rank”のような重要度を付加されたらどうなるだろうか? それは正に、webサイトによる個人の差別化に繋がらないだろうか?
例えば、就職活動で入社試験を受ける条件として「個人公式webサイトの“Page Rank”が『5』以上である事」とか、「個人公式webサイトの1日のアクセス数が1000以上だと優遇」とか、その程度のレベルの差別化が図られる可能性は、有り得ないとは言えまい。
いや、その程度で収まれば、まぁ良い。現在でも、そのレベルの差別は認められている。例えば高卒と大卒とでは、入社試験どころか入社した後の給料も異なる。
僕が心配なのは、個人公式webサイトによる差別が過剰なまでに発展する事――過去の、そして現在でもなお根強く残っている人種差別に匹敵するくらいの致命的な差別は生み出されないと言えるのか、という事だ。
もしかしたら、今こんな話を聞いても「はぁ? 何そんな非現実的な事を心配してるの?」と思われてしまうかも知れない。しかし、例えばインターネットオークションが初めて出て来た時、これだけ詐欺事件が頻発する事を、どれくらいの人が予想出来ただろうか? 例えばチャットを初めとしたwebサイト上のやり取りの中で、女子小学生が同級生を殺そうとまで憎む事が有る、と想像出来た人がいただろうか?
人間の可能性は無限大だ。良い意味でも、悪い意味でも。
今日のイイタイコト。
将来的にwebサイトが差別の原因にならないという保障は何処にも無い。そうなった時、いや、そうなる前に、我々はどうすれば良いのだろうか?
今日は軽く番組紹介でも。
毎週火曜日深夜11時40分から日本テレビ系列で『生き残り恋愛バトル サバコン』なる番組をやっている。恋人がいない男女4人ずつで合コンをさせて、最終的には1組のカップルを誕生させようという、典型的な素人参加型番組である。ちなみに僕は一度も見た事が無い。
では何故そんな番組を紹介するのかと言うと、正に今日の放送で、僕のサークルの友人や先輩達が出演するからである。(今日は野球で遅れる可能性が有るようだ。)
この番組予告が、なかなか面白い。
▽色男東大生意外な(秘)フェチ発覚で貧乳美女激怒▽天然娘捨て身のバタフライに男くぎ付け
男性は東京大学奇術愛好会チーム、女性は合コンビギナーチームが登場する。日本を代表する頭脳集団である男性陣が、表と裏の顔を巧みに使い分ける女子学生らに振り回される。また、今どきの東大生が意外な一面を暴露する。果たして、彼らの恋は成就するのか。
色男東大生意外な(秘)フェチ発覚というのは、どう考えても細川という先輩の“巨乳好き”としか考えられないのだが、まぁ真相は見てのお楽しみである。
今回出演する4人は、なかなかテレビ慣れしている人が多い。毎週木曜日深夜11時15分からテレビ朝日で放送している『銭形金太郎』に出ていた人もいるし、同じくテレビ朝日系列でやっていた、仲間由紀恵&阿部寛主演のドラマ『トリック』のファーストシリーズで、仲間由紀恵にマジックの演技指導をしていた人もいる。(ファーストシリーズのDVD第5巻を持っている人は、特別収録された“座談会”は必見である。堤監督や主演の2人が彼の事で爆笑している。)
ちなみに僕の友人(同輩)は「彼女いない暦=年齢」として登場するらしい。ふーん、へぇ、そうですか……。
やっぱりテレビって嘘だらけなんですなぁ。
中絶率と“できちゃった”率(避妊の失敗率)とは関係が無い。
今日は少し重たい話。あらかじめ言っておくが、僕は中絶に対して否定的な感情は持っていない。ちゃんとした避妊もせずに中絶をするのは如何なものかと思うが、止むを得ない事情で中絶をした女性も多い筈である。だから今日の日記は絶対に中絶批判ではない。
厚生省の『母体保護・人口動態統計』(1998年)によれば、日本では妊娠した女性の22%が中絶を行っている。年間34万件程度の中絶が行われているのである。
中絶というと、避妊に失敗したカップルが仕方なく行う、というイメージが強い。そうなると中絶は、「ちゃんと避妊しなかったんだろ」という冷たい視線を向けられる事になる。ところが中絶と、避妊の失敗である“できちゃった”率とは、相関関係が無い。
昨日の日記「出産の二極化」では、現在の日本では、4組に1組以上の夫婦が“できちゃった結婚”であると書いたし、一昨日の日記「子供が“できちゃった”」では、日本で生まれた子供の半数は、“できちゃった”子供であると書いた。間違いなく日本では“できちゃった”率が上昇を続けている。
ところが中絶は寧ろ減少傾向に有る。1998年の中絶率は22%で中絶件数は34万件だが、1990年には中絶率が27%で中絶件数は46万件だった。日本では“できちゃった”率は上昇しているのに、中絶率・中絶件数ともに減少しているのである。
この原因の一つには“できちゃった”に対する世論が変化した事が考えられる。以前は未婚女性が妊娠するという事は、あってはいけない事とされて来たが、何年か前に、歌手の安室奈美恵が“できちゃった結婚”をしてから、かなり世論が変わったと思う。
ところが原因はそれだけではない。一昨日の日記で用いた、以下の表をもう一度見て欲しい。
× | フランス | アメリカ | 日本 |
---|---|---|---|
子作りの結果で子供が出来た | 66% | 43% | 36% |
避妊に失敗して子供が出来た | 12% | 19% | 36% |
現在の日本では、4組に1組以上の夫婦が“できちゃった結婚”である。
厚生労働省の『「出生に関する統計」の概況(人口動態統計特殊報告)』によれば、カップルが結婚してから第1子(長男、或いは長女)を出産するまでの平均期間は、長くなり続けている。
昭和50年には結婚してから平均1.55年で第1子が生まれていたが、平成12年には平均1.89年になった。夫婦が第1子を出産するのが4ヶ月ほど遅くなった訳だ。これは第2子や第3子でも、同様の傾向が見られる。
ところが、より詳しいデータを見ると、面白い現象が起きている。下の『第1子出生までの結婚期間別にみた出生構成割合』のグラフを見て欲しい。
これによれば、第1子を出産するピークというのは、2つ有る事が分かる。結婚してから6ヶ月後と、10ヶ月後だ。この2つは「第1子を出産するモデルケース」と言う事が出来るだろう。
ところが、以前は第1子を出産するピークは結婚してから10ヶ月後だったが、現在ではピークが6ヶ月の方に移っている。第1子を出産するまでの平均期間は長くなっているのに、ピークは逆に早まっているのである。
「結婚してから10ヶ月後に第1子を出産する」のは、容易に原因が想像できる。だからまぁ、敢えてここで書く必要は無いだろう。「結婚してから6ヶ月後に第1子を出産する」のは、妊娠が発覚するのが3ヶ月目くらいだから、そこから慌てて……と考えると計算が合う。典型的な“できちゃった結婚”だ。
以上から言えるのは、現在の日本では“できちゃった結婚”が激増している、という事だ。まぁこれは、周知の事実だろう。
ここで“できちゃった結婚”を、「結婚期間が妊娠期間より短い状態で出産した夫婦の結婚」と定義すると、“できちゃった結婚”の比率を算出する事が出来る。やはり厚生労働省の『「出生に関する統計」の概況(人口動態統計特殊報告)』によれば、昭和55年には12.6%だった“できちゃった結婚”率が、平成12年には26.3%にまで跳ね上がっている。“できちゃった結婚”率は、この20年で倍増した事になる。
特に最近では“できちゃった結婚”率の増加傾向が強く、平成9年から平成12年までの3年間で3.7%も増加している。このペースだと、平成15年(昨年)の“できちゃった結婚”率は、30.0%にもなる。もしかしたら“できちゃった結婚”が過半数を占める日も近いかも知れない。
以上より今日の結論。
現在の日本では、第1子を出産するまでの平均期間は長くなっているにも関わらず、“できちゃった結婚”は増加している。これは、「出産の二極化」が進んでいる事を意味する。
昨日は渋谷で午後6時から11時間酒を飲み続け、帰って来たのが今日の午前6時。寝て起きて日記は何とか書いたが、二日酔いが酷い。実は、そもそも酒は医者に止められているのだが……。
しかし何故か体重は昨日より1キロ以上落ちている。謎だ。
日本で生まれた子供の半数は、“できちゃった”子供である。
昨日、避妊には、ピルとコンドームを併用すると効果的であると書いたが、日本では低容量ピルが中央薬事審議会に認可されたのは、1999年6月になってからの事である。そして昨年、2003年の時点でのピルの国内服用者数は、20万人程度と言われている。
これは避妊を望む女性数の2%にも満たない数値だ。他国を見ると、避妊を望む女性に於けるピル使用率は、アメリカが27%、フランスが36%、オランダが60%、イギリスが72%となっている。
ピルメーカーは当初、日本国内で200万人程度が、ピルを服用するようになると予想していたらしい。昨年の服用者数が20万人なのだから、完全にアテが外れた格好だ。何しろ桁が一つ違う。日本では、まだまだピルは浸透していない。
また日本では、定期禁欲法(基礎体温法)や性交中絶法(膣外射精)という、本来は“避妊法”とは言えないような避妊法を行っているカップルも多い。このように極めて失敗率の高い避妊法を行っているカップルは、フランスやアメリカでは5%前後なのに対し、1998年の毎日新聞社の調査によれば、日本では20%を超えているのが現状だ。
日本では失敗率の高い避妊法を行っている避妊希望者が多いのである。
結果として、日本では両親に意図されずに生まれて来た子供が多い。(望まれないで生まれた子供、という意味ではない。あくまでも妊娠を意図しなかっただけ。)
1995年に日本・アメリカ・フランスの3ヶ国で行われた、妊娠した女性を対象にした調査では、「自らの出産は望んだ結果である」(“子作り”をして出来た)と答えた妊娠女性は、フランスが66%、アメリカは43%、日本は36%だった。そして逆に、「自らの出産は意図しない結果である」(避妊に失敗して“できちゃった”)と答えた妊娠女性は、フランスが12%、アメリカは19%、日本は36%だった。
以上を簡単な表にすると、こうなる。
× | フランス | アメリカ | 日本 |
---|---|---|---|
子作りの結果で子供が出来た | 66% | 43% | 36% |
避妊に失敗して子供が出来た | 12% | 19% | 36% |
避妊には、ピルとコンドームを併用すると、実に効果的である。(下の方に追記しました。)
避妊を望む日本人の78%は、避妊手段としてコンドームを使用しているが、コンドームによる避妊は完璧ではない。「コンドームだけでは危険である」というのは有名な話だが、では、どのくらい危険なのだろうか?
一年を通じて、ある特定の避妊法を行っていたにも関わらず妊娠してしまう確率を、“失敗率”と言う。各避妊法の危険性は、この失敗率を用いて比較するのが一般的だ。この数値が高ければ高いほど、「それは妊娠してしまい易い避妊法である」と言える訳だ。
コンドームの失敗率は3%〜14%と言われている。随分幅の大きな数値だが、これは付け方の問題で、正しくコンドームを装着すれば3%、正しく装着しないと14%、という事である。
コンドームに関しては、誤解も多い。例えば、コンドームが破れる危険性を考慮して、(或いは早漏を気にして、)コンドームを二重に装着する男性がいるが、これは反って逆効果で、内側と外側のコンドームが擦れる事により、破ける可能性が増してしまう。実はこのように、正しくコンドームを装着出来ていない男性は、非常に多いので、注意が必要だ。
さて、コンドームの失敗率は3%〜14%である。これは極めて危険な数値であると言わねばならない。男性のコンドームの付け方が下手だったら、7年に1回の割合で、相手の女性は妊娠をしてしまう。
他の避妊方法として有名なのは経口避妊薬(低用量ピル)だが、ピルの失敗率は0.1%〜5%である。この数値も幅が大きいが、正しくピルを服用すれば失敗率は0.1%という事だから、1000年セックスをし続けて、ようやく1回妊娠する確率である。コンドームと比べると雲泥の差だ。しかしピルも正しく服用しないと、失敗率は5%まで跳ね上がってしまい、コンドームと同程度の失敗率になってしまうので、要注意である。
ところで、しばしば「避妊にはピルとコンドームを併用すると効果的」と言われるが、これは確かである。例えば、コンドームの装着が下手な男性と、たまにピルを服用するのを忘れてしまうドジな女性という、避妊に関しては最悪な組み合わせのカップルが、日常的に性交渉を持った時の失敗率は、0.14×0.05×100=0.7%で、男性がコンドームをキチンと装着した場合の失敗率3%を、大きく下回る。
以上より結論。
避妊には、ピルとコンドームを併用すると効果的である。避妊を望んでいながらも、コンドームの装着が下手な男性や、ピルの服用を忘れがちな女性に、特にオススメする。
以下は追記分です。
読者の方から、「女性は1年に10〜12回程度排卵をし、その受精チャンスに一度でも当たれば妊娠するのだから、失敗率0.1%というのは、1000年に1度ではなく、100年に1度ではないか?」という指摘が有った。
結論から言うと、「1000年に1度」で合っている。“失敗率”というのは、あくまでも1年間という期間内での妊娠率の事なので、その間に女性が複数回の排卵を行う事は、折り込み済みなのである。
この辺りの書き方は不明瞭だったので、勘違いをされた方が、他にもいたかも知れない。申し訳ありませんでした。
また、女性の排卵の回数や、そもそもセックス自体の頻度によって、失敗率は大きく変わってくる。だから上記の失敗率はあくまでも「平均的な場合」と思って欲しい。では例えばセックスの頻度は、どのくらいが平均的なのか? この辺りについては後日(明日?)、改めてという事で。
それから、日記を読んでいて気になった箇所(意味が分からない、とか)が有ったら、遠慮せずにメールや掲示板で訊いて貰いたい。読者の方からの指摘は、僕にとっても参考になる。
ちなみに、しばらく前に感想フォーム(匿名でメッセージを送れるヤツ)を廃止してしまった。あれを使ってメッセージをくれる方も居たのだが、悪用される事の方が多かったので……。なかなかネットの世界はシビアだ。
追記分は以上です。
そう言えば、正しくコンドームを装着出来ていない男性は、非常に多いと書いたが、僕は高校2年生の時に「いざという時に、ちゃんと付けられるだろうか?」と(彼女も居なかったのに)心配になり、深夜のコンビニでコンドームをこっそりと購入し、自宅で密かにコンドームを付ける練習をしていたという、懐かしい思い出が有る。あれは簡単そうに見えて、なかなか難しいものだと思う。付ける時のコツとか、未だに分からない。サイズが合ってないからだろうか? 僕のは平均な筈なのだが。
日本はコンドーム大国である。
日本で最もオーソドックスな避妊方法は、男性のコンドーム着用である。1998年の毎日新聞社の調査では、避妊を望む日本人カップルの内、78%がコンドームを着用している事が判明した。
避妊具の代表的な存在であるコンドームは、日本では1950年代からオカモト株式会社により製造され始めた。厚生労働省の「薬事工業生産動態統計調査表」によれば、平成9年の時点では、国内で7つのメーカーが、年間12億4000万個のコンドームを出荷している。世界全体のコンドーム出荷数は約58億個なので、日本は世界のコンドーム市場の20%以上のシェアを占めている事になる。(国外では、世界シェアの26%を占めているイギリスのDurex社が有名。)
日本のコンドーム国内総出荷量12億4000万個の内、国内消費量は5億8000万個である。これは凄い数値だ。世界のコンドーム消費量は、1位が中国の11億5000万個、2位がインドの9億個で、3位が日本なのである。日本の2倍程度の人口を抱えるアメリカでさえ、コンドームの年間消費量は4億個に過ぎない。
そして日本は、残りの6億6000万個のコンドームを輸出している。日本製コンドームの約半数は、海外で使用されているのである。つまり、日本はコンドーム輸出大国であると言えるだろう。
日本は世界第3位のコンドーム消費国であると同時に、コンドーム輸出大国である。これは日本のコンドームの優秀性を示していると言える。
実は、日本のコンドームが優秀なのには理由がある。
先程も書いたが、コンドームは日本で最もオーソドックスな避妊方法だった。これは、この数十年間、変わっていない。従って、コンドームには様々な改良が為されて来た。丈夫さを保ちつつ、違和感無くセックスを楽しめる為の工夫が続けられて来たのである。結果として日本では、薄く、互いの体温を伝え易いコンドームが開発されていった。
ところが欧米では、避妊に対しては以前からピルを使用して来た。欧米に於いては、コンドームは性感染症を予防するだけの役割しか担って来なかったのである。その結果、コンドームを薄くすると使用者の不安を増大させてしまう事になり、欧米のコンドームメーカーは日本のように、コンドームを薄くする技術を重視してこなかったのである。
男性にとっては、コンドームの厚さは重要な問題だ。早漏で悩む男性でない限り、コンドームは同じ丈夫さならば、絶対に薄い方が良い。
以上より結論。
日本はコンドーム大国である。日本のコンドームは優秀だ。