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2004年9月

DIARY MAIN

2004年9月30日(木) ダイエット結果

朝に起きて計った段階では3キロに到達していなかったので、そこから絶食を開始。お昼過ぎに3キロ達成を確認。

これで通算16.6キロの減量にした事になる。目標まで残り3.4キロ。詳しくは後日。


2004年9月29日(水) 象徴的な“死”

“死”を経験した事の無い人間など存在しない。

サイトの更新を休んでいる間、“死”というモノについて考えていた。この場合の“死”とは、所謂「生命が消え失せる」という意味ではない。

僕達は既に何らかの形で自身の一部を失っている。例えば23歳である僕には、もう「未成年の僕」は返って来ない。永遠に戻らない。「未成年の僕」は既に“死”んでしまったと言える。

このような“死”を、便宜的に“象徴的な死”と呼ぶ事にする。世の中を見渡すと、“象徴的な死”は至る所で散見される。そして、その“死に方”は様々だ。

例えば「プロ野球選手」の場合は、自らが死にたくなくても、成績やらチーム事情やらの関係で、死なざるを得なかったりする。それは正に、他者に拠る強制的な“象徴的な殺人”。

一方で、自らが“象徴的な死”を選ぶ事も有る。例えば「携帯電話のメールアドレスを変更する」という行為は、それまでの人間関係の一部を破壊するという意味で、“象徴的な自殺”と呼ぶ事が出来る。その後、大抵の人には新しいメールアドレスを教えるだろうから、多くの場合は“象徴的な再生”を遂げる訳だが、中には今後付き合いたくない人が居たりすると、その人には新アドレスを教えなかったりする。すると、やはり自分の一部を失うという意味では、その人は“象徴的な死”に達していると言える。

面白いのは、このような“象徴的な自殺”は自らをより有利な状況へ導いてくれる、という事だ。他者に拠る強制的な“象徴的な殺人”は嫌なものだが、“象徴的な自殺”は上手に利用すれば有益な結果を齎す。

例えば何か余計なモノに縛られて苦しい時、自身の一部を失う事で“象徴的な自殺”を遂げ、身軽になってみるのも良いかも知れない。「毎日欠かさず日記を更新するサイト管理人」という僕の一部を失った今の僕は、確かに何処と無くホッとした気分になっている。

以上より今日のイイタイコト。

何かで苦しい時、自身の一部を失う“象徴的な自殺”を行うのが良いかも知れない。“象徴的な死”を経験した事の無い人間など存在しないのだから。


2004年9月28日(火) ブロッコリー

後輩(男)と御茶ノ水のパスタ屋へ昼食を食べに行った。僕が食べたのは『帆立とブロッコリーのクリームソース』だったのだが、なかなか美味しかった。僕はブロッコリーが苦手なのだが、普通に食べれた。

その後、「秋葉原のメイド喫茶にでも行くか!」という話になった。知り合いがバイトをしてるのである。しかしデザートもパスタ屋で食べてしまったので断念。ダイエット中だしね。

夕方からバイトだったのだが、物凄い腹痛に襲われた。きっと嫌いなブロッコリーを食べた所為に違いない。これからは無理せず、どんどん好き嫌いをして行こうと思った。


2004年9月27日(月) メガネ作り

来年、数学の教師になる予定の先輩に数学を教えに行く。やってるハズの事なのに出来ないのは、僕の実力の低さの表れか。

大学に入ってから、ずっと視力が落ち続けで困っていたのだが、ようやくメガネを購入する事を決心。コンタクトにしないのは、単に目に入れるのが怖いから。

さて、メガネ屋さんに行くと、取り敢えず目の検査をさせられた。何やら顕微鏡のようなモノを覗き見るようにすると、あっと言う間に検査が終了。あれで大体どれくらい近視が進んでいるとか、乱視が入っているかとかが分かるらしい。今の技術は凄いな……。

僕の視力は0.1有るかないかで、メガネやコンタクト無しでは有り得ない程、視力が落ちていた。初めてという事で、あまり大幅に視力を上げると良くないらしいので、0.8程度になるようなレンズに決定。5年前までは裸眼で視力検査の2.0が余裕で見えたのになぁ……。

その後、フレーム選び。はっきり言って、多過ぎてさっぱり分からん。仕方なく店の人に幾つか選んで貰い、その中の一つをチョイス。その後はレンズの厚さをどうするかとか、そういう細かい所を詰めて終了。〆て40530円というのが高いのかどうかもよく分からない。

4日程度で出来上がるそうで、今から楽しみだ。


2004年9月26日(日) イノセンス、再び

春に映画館で見たのだが、DVDで『イノセンス』を購入して見る。やはり、なかなか面白い。
ちょっと終盤が物語として端折り過ぎな感じは有るが、まぁでも間延びするよりは良かったのかも知れない。

来年の電撃ゲーム小説大賞に何か一つ作品を応募してみようと思うのだが、どうしようか。今の所、何か一つ長編を書くのが夢なのだが、それが来年春までに出来るかどうか……。厳しいなぁ。


2004年9月25日(土) “象徴的自殺”についての考察

またまたサークルへ行く。とっくに引退した身なのに、頻度が高過ぎるな……。で、やっぱり夜は飲む。


僕達は様々な「自分の死」を経験していると思う。例えば極端な話、「小学生だった自分」というのは、“既に死んでいる”と言える。

人間には様々な側面が有り、その幾つかが“死んでしまった”という経験は、誰にでもある筈だ。そして時として人間は、自分の一部分を自ら死に追いやる事が有る。例えば余計な人間関係が煩わしくて携帯電話の番号を変更してしまうとか、そういう“自分の殺し方”は幾らでも存在する。

そういう意味での“死”を効果的に使える人というのは強いと思うし、少なくとも僕には無いスキルなので羨ましいのだが、だが一方で一部分とはいえ自らを殺してしまうという行為は、それだけで“敗者”を決定付けてしまうような、そんな恐怖にも似た感情を覚えるのも確かだ。しかし何かを切り捨てていかなければ、人生は重くなる一方だよなぁ。

上記のように考えてみると、自分は一つではない事に気付く。例えば僕は「webサイトの管理人」だったり「奇術愛好会のメンバー」だったり「数学科生」だったり「kasa」だったりする訳だが、こういう様々な自分の側面の内の幾つかは、殺してしまっても構わない自分であったりする。

このような自分の欠片を殺す行為を、便宜的に“象徴的自殺”と呼ぶ事にしよう。“象徴的自殺”は、自ら身軽になりたいという願望から自発的に行われる場合と、何らかの外圧が働く事によって強制的に執行される場合が存在する。後者はまだしも、前者を如何に有意義に行うかが、人生の分かれ目だ。

さて、僕は今まであまりにも“象徴的自殺”を恐れ過ぎて生きて来た気がする。そういう性格だから仕方ない。しかし、近日中(と言っても、数ヶ月以内くらい)に幾つかの“象徴的自殺”を執り行おうかと思う。“象徴的自殺”によって齎させる“象徴的な死”が、“現実の生身としての生”にどのような影響を与えるのか、それを計る為に。

何事も、経験だ。


2004年9月24日(金) 謎の出血

前日の飲み会から帰って来た時には気付かなかったのだが、どうやら両足の膝下辺りから出血していた模様。どういう事だ?


人だろうが物だろうが、それなりに思い入れの有る存在が失われてしまうとしたら、それは悲しい。この場合の「失う」というのは、ただ「亡くなる」とか「無くなる」というだけではなく、例えば「変質してしまって別モノになってしまう」という意味も含まれる。失ってしまって悲しい思いをして、それで「どうせ失われるなら、もう得たくない」という思いを抱く事は不思議ではない。

でも実際には「もう得たくない」なんて有り得なくて、寧ろ精神的にハードルを高くしてしまって「得たくない」を自分で無理矢理に正当化しようとしている、というのが本当の所だろう。

人間というのは閉塞された世界の中ではしばしば抑制が効かなくなりがちだが、ではそんな世界の中でも自分を制御出来るのは何かと言えば、それは通常の広域的な世界から培って来た意志のようなもの、としか言いようが無い。自分で自分を律するのはアタリマエと言えばアタリマエな話だが、それがどの程度まで効果的なのかは定かではない。


2004年9月23日(木) 飲んでばかり

昨日は大学保健センターの精神科へ行くついでにサークルに寄ったら、午前11時から午後9時半まで練習を見てしまった。10時間半……?

あまりに疲れたので、精神的疲労を癒す為に、強制的に飲み会を決行。男の後輩ばかり4人が来た。会話は卑猥な内容ばかりだったので割愛。

終電を逃すつもりは無かったのだが、気付けば終電4分前。慌てて居酒屋を出て駅まで渋谷を失踪。どうやらそれで一気に酔いが回ったらしく、気持ち悪くて死にそうになる。

何とか帰宅したが、その後も眠いのに気持ち悪くて眠れない。結局、午前5時まで苦しむ事に。

午前9時に起床し、再びサークルの練習を見に行く。二日酔いの癖に、昼食時にコンビニでサワーを購入。後輩達が真剣な相談をしているのを横目に飲む。

良い気分になったので、あまり知らない1年生の練習まで見てしまう。「どうして顔が赤いんですか?」「それは酔っ払ってるからさ!」

さらに午後6時からは先輩達と飲む約束をしていたので、前日に引き続き渋谷へ。なかなか重い話題が有って、社会人は大変だなぁと思った。

帰宅すると、やたらと疲労が蓄積されているのを感じる。明日はゆっくりと静養しよう。


2004年9月22日(水) 天動説と地動説、再び

「太陽は地球の周りを回っている」と思う子供が4割、月の満ち欠けが起きるのは「月が地球の影に入るから」と、月食と混同している子供も4割。国立天文台の縣秀彦助教授や小学校教諭らが20日までに全国の公立小学校4〜6年生を対象に調査したところ、こんなショッキングな結果が出た。   ――時事通信より

国立天文台の縣秀彦助教授は今年の2月にも同様の調査を行っており、4月17日の日記「天動説と地動説」で取り上げさせて貰っている。

当時も書いたが、「地球が太陽の周りを回っている」という地動説は、太陽と地球との位置関係だけでなく、他の惑星の動きなどの関連から導かれる事実である。もしも「太陽が地球の周りを回っている」ならば、他の惑星は以下のような不自然な公転をする事になる。だから「天動説は物理法則に反した動きをしているので、地動説が正しい」という結論が得られる訳だ。



しかしこれは明らかに小学生の理解力を超えている。だから地動説を小学生に“理解”させるのは不可能だ。ところが地動説を“理解”していなくとも、「地動説が世界の常識となっている」事を知らないのは“非常識”と思われる。従って僕は、小学生に対する科学的常識の詰め込み型教育は復活させても良いのではないか、という結論を出している。

詰め込み型教育は批判されがちだが、詰め込みを怠ると今度は今回のような問題が出て来る。一種のジレンマと言えるが、やはり僕は当時と同じ結論を提示したい。

小学生に対する科学的常識の詰め込み型教育は復活させても良いのではないか。原理は中学以降で学べば良い。

ところで今回の試験方法は選択肢問題ではなかったのだろうか? 2月の調査では二択だったので、実質正解率は18%という驚異的な低さだった訳だが……。


2004年9月21日(火) 女性が太り続ける理由

どうして女性は加齢と共に太り続けてしまうのだろうか?

関連リンク:「太り続ける女性」『憂鬱な昨日に猫キック 不安な明日に猫パンチ』

僕の9月17日の日記「太り続ける女性」について、「何故20代を過ぎた女性は太り続けるのか」についてKASA氏自身の考察を聞いてみたいところという事で、ちょっと考えてみた。

まず注意したいのは僕が日記内で指摘しているように、基本的に女性と比べて男性に肥満者が多いのは確かだという事だ。決して女性に肥満者が多い、という訳ではない。それを踏まえた上で、女性が年齢と共に太ってしまう理由を考えてみる。

まず20代〜30代に於いては、“出産”という原因が考えられる。中には出産を経験しても殆ど体型が変わらない女性も居るが、多くの女性は産後に多少は体重が増加してしまうだろう。

次に40代〜50代に関してだが、この年代だと流石に自分の体型を気にする女性が減って来るからではないだろうか。20代くらいでは男性以上に体型を気にする女性が圧倒的多数だろうが、40代・50代では、そこまで男女間に意識較差が有るようには思えない。

以上より今日の結論。

女性が年齢と共に太ってしまうのは、出産の経験や体型維持意識の喪失などの原因が考えられる。

さて、実は一瞬、「専業主婦だ! 加齢と共に専業主婦率は高くなるから、怠惰な専業主婦が太って、女性の肥満率を押し上げているに違いない!」という考えが浮かんだのだが、このサイトの趣旨とは異なる方向へ向かいそうなので、止めておいた。

ちなみにウチは母親が専業主婦だが、体重は僕の半分ちょっとしかない。異様に痩せている。逆に父親は40代になってから太り出した。今では母親2人分より重い。

ウチの家族は、世の中の傾向と真逆なようだ。あれ? じゃあ20代前半にして太っている僕は、これからどうなるんだろう……?


2004年9月20日(月) 希少化する処女

処女率は大幅に下がっているが、童貞率は殆ど下がっていない。

国立社会保障・人口問題研究所の出生動向基本調査に拠れば、20代前半未婚者の性交経験の割合は、1987年には男性52.7%・女性31.9%だったが、2002年には男性60.1%・女性55.7%となった。他の年代も含めて、全般的には男性の方が性交経験率は高いようだ。

しかしこれを「童貞率」・「処女率」という言葉で表せば、この15年間で童貞率は7.4%、処女率は23.8%、それぞれ低下した事になる。つまり、童貞率と比べると、処女率は大幅に下がっているのだ。

これまた、他の年代も同様である。以下の表を見れば一目瞭然。性交経験率は男性が横ばい状態なのに対し、女性は調査年毎に上がっているのが分かる。



この時代、やはり処女は希少化しているらしい。しかし童貞が同じように減らないのは、どういう事だろう。もしかしたら処女が経験豊富な男性に、一極集中しているのかも知れない。
…………羨ましい。

以上より今日の結論。

この15年で処女率は、童貞率の3倍以上低下した。裏では処女の経験豊富な男性への、一極集中している実態が見え隠れしている。

ちなみに“童貞”には、「カトリック教会の修道女」という意味も有るらしい。“修道女”なら、どうして“処女”じゃないんだろう? 不思議だ。


2004年9月19日(日) 風邪気味

ちょっと風邪気味。なので今日は、軽く雑記を。

友人に「最近ラルク・アン・シエルの『Driver's High』ばっかり聞いてるんだよね」と言ったら、「どうせ“ぶっ飛ばして心中しよう”の辺りが好きなんでしょ?」と言われた。僕は自殺願望者だとでも思われているのだろうか。不本意なので、「違うよ、“最高のフィナーレを!”の部分だよ」と言い返したら、逆効果だった。……しまった。

「どっちにしろ、どうして今頃『Driver's High』なんだ?」というツッコミも有った。良いじゃんか、新しくなくても。

その流れで、「どのようにして死を迎えたいか?」という話題になり、僕は「酔っ払って良い気分のままで死にたい」と言ったら、誰にも理解して貰えなかった。残念。

携帯電話のメールの受信件数を見たら、今月に入って(迷惑メールを除いて)31件しか受信していない事が分かった。送信は28件。昔だったら1日分にしかならない量だ。リダイヤルは30件の履歴で、昨年12月3日まで遡る事が出来た。どう考えても、バイト関連と飲み会の誘いくらいにしか使ってないな。まぁ依存し過ぎてない、という意味では良いのかも知れない。

皆から「今月こそサイト閉鎖でしょ」と言われ続けた。「意地でも痩せてやる」と思った。

雑記、終了。


2004年9月18日(土) もしも閉鎖するとしたら

毎日チェックしていたサイトが、立て続けに3つも閉鎖してしまった。何となく、悲しい。

つい先日は、『エキスパートモード』のかじりんさんも、「辞サイトの句を考えておくこと」という日記を書いている。そこで思わず、自分のサイトの閉鎖についても考えてしまった。

このサイトは、今年の2月から他人に読まれる事を意識した日記を書き始めた。「怠惰な理系大学生によるエッセイ風日記&分析系コラムが中心のテキストサイト」を標語にして。それから7ヶ月半が経過した。当然だが、僕が元々から持っている知識などは、既に殆ど全て出し尽くしている。

それでも日記のスタイルを(基本的には)変えずにやって来れたのは、何処からか仕入れてきた事実に自身の考察を交えたテキストを書いたり、身近な出来事で深く考えさせられた事を書いたり、そして適当で怠惰な日常を書いたりして来たからだ。「エッセイ風日記&分析系コラム」になっていない日記も多いのだが、その辺は曖昧に誤魔化してやって来た。多分これからも、そうやって書いていくと思う。だから「書くのに疲れて」とか、「書くネタが無くて」という事が、閉鎖の理由になる可能性は無いと思う。

では、どのような場合に僕はサイトを閉鎖するのか? 考えられるとすれば、「日記を書く時間が無くなる」という場合だ。つまり、僕が“怠惰”でなくなる程、忙しくなった時。これは閉鎖する可能性が充分に有る。そのまま放置して、暇が出来た時にちょこっと更新、という方法も有るのだろうが、僕は妙な所で完璧主義者なので、そういうのは嫌なのである。もしも1日でも日記に空白が出来たとしたら、物凄く嫌な気分になると思う。だから、その時は閉鎖するんだろう。

以上より今日のイイタイコト。

このサイトが閉鎖されるとしたら、それは僕が“怠惰”でなくなった時だ。多分そんな時は、ずっと来ないだろうけど。

――って今になって思い出したが、このサイト、そもそもダイエットに失敗したら閉鎖じゃん。まぁ試験も終わった事だし、怠惰にダイエットに励もうっと。あと12日で4キロくらい痩せなきゃならないけど。


2004年9月17日(金) 太り続ける女性

女性は20代を過ぎると太り続ける。

『平成14年国民栄養調査』に拠れば、BMI(体重を身長の2乗で割った数値)が25以上の肥満者の割合(以下、肥満率)は、基本的に男性の方が高かった。例えば、20代男性の肥満率は17.5%だが、女性の場合は7.0%に過ぎない。僕を含め、男性に肥満者が多いのは確かだ。

一方で男性の肥満率は、30代で31.2%と上昇するものの、その後の40代・50代・60代でも、30%程度の数値を保ち続けている。男性の肥満は、20〜30代で進行が止まる傾向が有るようだ。

ところが女性の肥満率は、年齢と共に上昇し続ける。20代では7.0%だったにも関わらず、30代で11.0%、40代で19.0%、50代で25.6%、60代で33.3%と、正に鰻登りの如く上がり続けるのだ。60代では女性の方が、男性よりも肥満率が高い。

もしかしたら、「最近のダイエットブームで、低年齢層の肥満率が低下しているだけではないのか?」という疑問が浮かぶかも知れない。しかし例えば、昭和57年の20代女性の肥満率は7.2%だったが、その10年後の平成4年の30代女性の肥満率は14.1%、さらに10年後の平成14年の40代女性の肥満率は19.0%である。つまり、同一世代で比較しても、女性の場合は肥満率が上昇し続けているのである。

以上より今日の結論。

男性の肥満は20〜30代で進行が止まるが、女性は20代を過ぎると太り続ける。

一昨日の飲み会(参加者は男ばかり8人ほど)では、「好きな女性の条件」として「痩せている事」を挙げる人間が多かった。好きな女性が今は痩せていても、付き合ってみると太りだすかも知れない。現実は厳しい。(勿論、男女が逆のケースも有るだろうが。)


2004年9月16日(木) “飲み過ぎ”は犯罪

先月末に「禁酒を決意した」と書いたが、その決意は18日目にしてアッサリと崩れ去った。意志の弱さには、自信が有る。しかも明らかに飲み過ぎた。今朝のラッシュ時に、赤ら顔で井の頭線や山手線に乗っていたのは、僕かも知れない。

ところで日本には、「酒に酔つて公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律」という長い名前の法律が有る。この第2条には、

すべて国民は、飲酒を強要する等の悪習を排除し、飲酒についての節度を保つように努めなければならない。

とあり、“節度ある飲酒”を法律で国民に義務付けている。つまり“飲み過ぎ”という行為は、それだけで法律違反な訳だ。知らなかった。気付かぬ内に、僕も犯罪者の仲間入りか。

……まだアルコールが身体に残っている。これからシャワーでも浴びて、証拠隠滅を図るとするか。


2004年9月15日(水) ネット上での信頼感

ネット上では親近感だけでなく、信頼感すら生む可能性が有る。

9月11日の日記「医療器具だったバイブレーター」が『カトゆー家断絶』等にリンクを貼られ、一昨日のアクセス数が過去最高を記録した。「ネット上での親近感」の時と同様、『黒板ぽ〜ぽた〜ん♪』が起点となったようだ。(中の人のきをふしさん、ありがとうございました!)

大手ニュースサイトにリンクを貼られると、普段の何倍ものアクセスが集中する。今回の一件では、通常の10倍以上のアクセスが有った。アクセス解析に拠れば、『カトゆー家断絶』からだけでも3000人以上の人が、このサイトを訪れた。ちょっと怖くなるくらいの人数だ。

ところで、何故「医療器具だったバイブレーター」はリンクを貼られたのだろうか? 「ネット上での親近感」は、基本的には“単なる一個人の考察”であり、内容の真偽は関係無い。しかし「医療器具だったバイブレーター」は僕の考察が有る訳ではなく、“歴史的な事実”として紹介しているのである。もしかしたら、僕が勝手に捏造した事実なのかも知れないのだ。(あくまでも他人の目から見た可能性の話をしているだけであって、あの日記が捏造だったという訳ではない。)

これに関して『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々』のYasさんは「『動画ファイルナビゲーター』からリンク」の中で、
このWebの世界では、正しい情報よりも面白い情報が流通しやすい。そして、それが当たり前の「事実」として定着してしまう恐れがある。
と語っている。なるほど、「医療器具だったバイブレーター」のような性的な話題は、人の興味を引き易い傾向にあるのだろう。

僕は『カトゆー家断絶』のカトゆーさんや、『黒板ぽ〜ぽた〜ん♪』のきをふしさん達と、面識が無いのは勿論、メールすら遣り取りした事が無い。にも関わらず、「医療器具だったバイブレーター」にリンクを貼ってくれた理由は、では「仮にネタ(捏造)でも良いから、面白そうな話題だったから」だろうか? 僕は、ここに違和感を感じる。

カトゆーさんや、きをふしさん達は、「ネタ(捏造)でも良い」とは思っていなかったと、僕は想像する。確固とした根拠は無くとも、「内容は真実である」という前提の上で、「面白そうな話題だったから」リンクを貼ってくれたのではないか。

となると、これはネット上に於いて奇妙な信頼感が生まれている、という事にならないだろうか。全く見知らぬ相手のテキストを「内容は真実である」と考えられるのは、相手を信用している証のように思える。

では何故、見知らぬ相手に対して信頼感を抱けるのか。これは「ネット上での親近感」が大きく関係している気がする。僕は「ネット上での親近感」の中で、好きなサイトの管理人さんに親近感を抱く事が有るのは、そのサイトが『友愛』の構成要素の一部を満たしている為と書いている。つまり、インターネットというヴァーチャルな世界であっても、親近感を抱く事が有るし、さらに親近感を抱いた相手には信頼感すら生まれる可能性が有る、という事だ。

今回の一件は、きをふしさんが僕を信用してくれ、そしてカトゆーさんがきをふしさんを信用した結果のように感じられるのである。

以上より今日の結論。

ネット上で親近感を抱いた相手には、信頼感すら生む可能性が有る。ネット上に於ける、このような奇妙な現象が将来的に、どのように発展していくのかは、想像も付かない。

きをふしさんに「え? 別に親近感すら湧いてないけど?」とか思われてたら、今日の日記は根底から覆されるなぁ……。

ちなみに今日で試験期間は終了。これから今月の後半は、ダイエットに集中する予定。今月は未だに先月末の水準にすら達していないので、本当にサイト閉鎖の危機だ。頑張らなくては。


2004年9月14日(火) 矛盾とパラドックス

「矛盾」と「パラドックス」は同義ではない。

「矛盾=パラドックス」と考えている人が多いようだ。しかし、この両者は意味が異なるので注意したい。

「矛盾」とは知っての通り、「辻褄が合わない事・物事の道理が一貫しない事」の意味である。広義に解釈すれば、「矛盾」とは「間違っている事」となる。

一方、「パラドックス」の和訳は「矛盾」ではない。「逆説」である。これは「通常の把握に反する形で,事の真相を表そうとする言説」という意味だ。簡単に言うと、「パラドックス」とは「一見、間違ってるっぽいけれども、実は合っている事」だ。

つまり、「パラドックス」というのは「真実の一種」で、「間違っている事」である「矛盾」とは殆ど正反対の意味となる。

以上より今日の結論。

「矛盾」と「パラドックス」は同義ではない。それどころか殆ど正反対の意味である。


2004年9月13日(月) 何度目だよ、できちゃった結婚

僕より1歳年下の従姉妹が再来月に結婚するらしい。僕には従姉妹が6人いるが、結婚するのは彼女で3人目である。

ちなみに、その従姉妹は来年4月に出産予定。今から7ヵ月後……? えーと、つまり……所謂“できちゃった結婚”ってヤツですか、そうですか。

僕は「避妊総論」で、現在の日本では、4組に1組以上の夫婦が“できちゃった結婚”であると書いている。今の日本では、できちゃった結婚は全く珍しい事ではない。しかし彼女は看護士だったりするので、「オイ、避妊はどうした?」とツッコミたい気持ちが有るのだが……まぁ、直接は聞けないだろうな。

ちなみに僕には従姉妹が6人いるが、できちゃった結婚するのは彼女で3人目である。なんと現在の所、できちゃった結婚率100%なのだ。どういう家系だ、これは? 流行の最先端を行き過ぎじゃないか?

しかし、こうなると興味が湧くのは、次にできちゃった結婚するのは誰だろう、という事だ。僕としては、フリーターをやってる弟なんかが怪しいと思ったりするのだが。

多分、僕ではない事は確かである。相手がいないから。


2004年9月12日(日) パンドラの箱

ギリシャ神話の中でも『パンドラの箱』の逸話は有名である。パンドラが箱を開けると「病気」「暴力」「嫉妬」など、負の価値観を持つ様々な物が世界に飛び出して行き、慌ててパンドラが箱を閉めた時には、「希望」だけが残されていた――という。

しかし「その解釈はおかしい」という説が有るそうだ。本当に「希望」が箱の中に残されていたなら、この世界に「希望」が有る筈が無いではないか、という訳だ。ではパンドラの箱には何が残されていたのか?

それは「未来予知の能力」だという。もしも人間が未来を予知出来てしまったら、人間は「希望」を持つ事が出来ない。人間にとって、「希望」を持つ事が出来ないというのは最大の不幸だから、「未来予知の能力」が辛うじてパンドラの箱に残ってくれたお陰で、人間は「希望」を持って生きて行ける、という訳だ。

非常に面白い解釈だと思う。未来が分からないからこそ、「希望」は有る、と。しかし、未来が分からないからこそ、人間は「不安」になったり「絶望」したりするのも確かで――それでも「希望」という名の「可能性」が人間には必要だ、という事か。

以上より今日のイイタイコト。

パンドラの箱に残っていたのは「希望」ではなく、「未来予知の能力」だった。その所為で人間は「不安」を持つが、同時に「可能性」も抱ける。

明日から試験だが、「可能性」を信じてみようか。


2004年9月11日(土) 医療器具だったバイブレーター

大人のオモチャの代表格“バイブレーター”は、元々は医療器具だった。

“バイブレーター”と言えば、最も有名な大人のオモチャの一つだと思う。Durex社の調査に拠れば、日本人女性の24%はバイブレーターを使用した経験が有るという。4人に1人の割合だ。

そのバイブレーターだが、実は元々は女性の“ヒステリー”を治療する為の医療器具として開発されたのだという。この場合の“ヒステリー”とは日常的に用いられる意味ではなく、医学用語で「何らかの葛藤やストレス等の心理的異常によって、声が出なくなったり、腕や足が動かなくなったりする状態」の事を指す。現在では“転換性障害”とか“身体表現性障害”と呼ばれる事も有るらしい。要は神経症の一種である。

ヒステリーは19世紀後半に注目され始めた病だったが、当時は原因が不明で治療法が確立していなかった。そこで20世紀初めまでは、専門医が女性患者の性器を愛撫して症状を軽減させていたらしい。

しかし愛撫には相応の技術が必要な上に手間も掛かり過ぎる為、1930年代にヒステリー専用の医療器具が開発される事になった。それがバイブレーターだったのである。

バイブレーターは特殊な技能を有さなくても誰でも簡単に愛撫が可能な為、医療器具としてだけでなく大人のオモチャとしての需要も多かった。その為、現在のように広く普及していったのだ。

以上より今日の結論。

バイブレーターは元々、女性のヒステリーの症状を軽減する為の医療器具だった。


2004年9月10日(金) 選択肢の罠

選択肢が与えられても、その中に正解が有るとは限らない。

僕達は選択肢が与えられた時、その中に正解が有る事を、無意識の内に前提にしていないだろうか? 例えば試験で選択肢問題が出題されたら、その中には必ず正解が与えられている筈であり、僕達は「選択肢の中でどれが正解か?」を考える事になる。(稀に「全てが不正解」という選択肢問題も有るが、その場合は問題文中に、その可能性が示されている筈である。そういう意味では「全てが不正解」も選択肢の一つだ。)

そして正解を選べば点数が与えられ、そうでなければ点数が与えられない。正答・誤答の区別が、これ以上無い程はっきりしている。分かり易い。しかし試験の選択肢問題は正否が分かり易くても、実生活上に於ける様々な選択は、正否が非常に分かり難い。

選択肢が有限な以上、確かに「ベストな選択肢」というのは存在するのだろうが、それが「正解(=有益な選択)」とは限らない。どんな選択肢を選んでも不利にしかならない状況というのが、この世には溢れ返っている。しかし僕達は選択肢が与えられると、そのどれかが正解だと思ってしまいがちだ。

一昨日の日記『森林保護と地球温暖化』の問題が正にそれで、僕達には「森林を保護しようとするか、否か」という選択肢が与えられている。これだけを見ると、どう考えたって「森林を保護しようとする」のが正しい選択肢であり、結果として「木材の代替として他の素材を使おう」という行動に発展していく。

しかし、この選択肢は誤りである。この行動は地球温暖化を促進させてしまう。(詳しくは一昨日の日記を参照。)

実は「森林を保護しようとするか、否か」という選択肢には、完全な正解など存在しない。森林保護の為に木材以外の素材を用いれば地球温暖化を促進させるし、逆に森林を保護しないのは論外だ。僕達には精々「どの選択肢が最もデメリットを小さく出来るか」を考える事しか出来ない。結果、「地球温暖化を抑制する為に木材を使用しつつ、植林を行って森林を可能な限り保護していく」という新たな選択肢を生み出す訳だが、これだって「完全な正解」とは言い難い。

しかし当初の、単なる「森林を保護しようとするか、否か」という選択肢よりは、遥かにマシな選択肢である。正解ではないかも知れないが、「既存の選択肢に正解が存在しない」という事を仮定した上で考えた結果、ベターな選択肢を生み出す事に成功しているのだ。

以上より今日のイイタイコト。

実生活上では選択肢が与えられても、その中に正解が有るとは限らない。完全な正解など、無い事の方が多い。しかし既存の選択肢を全て疑う事で、よりベターな選択肢を生み出す事は可能である。


2004年9月9日(木) オタク狩りと生卵

来週の月曜日から試験なのだが、逃避エネルギーが過剰発生して、買って来た文庫本を3冊も読んでしまった。ちなみにタイトルは以下の通り。

例によって例の如く、全部ライトノベル。(また「イタイ」と知り合いからすらも言われるのか……)

さらに僕は異常なほど汗を掻き易く、オタクの必須スキルを悉くクリアしている。まぁ既に「オタクで何が悪いの?」という域に達してしまっているので、別にどうって事ないのだが。

ところで僕は知らなかったのだが、『オタク狩り』という言葉が有るらしい。おお、怖い。というか、こんな単語が辞書にまで載ってしまうのも凄い。

今日のイイタイコト。

これからはオタク的な買い物をする時には、オタク狩りに気を付ける事にしよう。

ちなみに僕は中学1年生の時に下校途中でカツアゲされそうになったのだが、当時は常に生卵を持ち歩いていたので、それで撃退する事に成功している。何故、生卵を持ち歩いていたのかと言うと、マジックの練習で毎日使っていたから。

さらにイイタイコト。

生卵を持ち歩いていれば、オタク狩りにも対抗できる……かも知れない。


2004年9月8日(水) 森林保護と地球温暖化

「森林を保護すれば地球温暖化が防げる」という下手な森林保護意識は、逆に地球温暖化を促進させる。

その昔、「割り箸などという、木材を用いた使い捨て商品は森林破壊を促進し、地球環境を悪化させる」という主張が為された時期が有ったそうだ。しかし実際には、割り箸は“間伐材”から作られており、寧ろ森林保護に役立っているという。

森というのは放っておくと木が生え過ぎ、結果として森全体が健全な状態でいられなくなってしまう。そこで適度に木を伐採する事で森全体の生長を促す事を“間伐”と呼び、伐採された材木を“間伐材”と言う。

間伐を行わないと木の根付きが悪くなり、大雨による土砂災害や倒木などの被害をもたらす可能性が有る。従って“間伐材”から作られる割り箸は、“間伐”の際に伐採が必要な木を材料にしているだけであり、何ら森林破壊を引き起こしていない、寧ろ資源を有効活用しているとさえ言える、という訳だ。

割り箸は特異な例としても、他にも似たような事実は沢山ある。例えば森林を守るために「木材の代替として他の素材を使おう」となったとする。森林を伐採すれば地球上の炭酸ガスが増え、地球温暖化に繋がる。だから木材以外を使えば地球温暖化を防げる、という考え方だ。

しかし、これは間違っている。例えば木材の代わりに鉄を使用したとすると、鉄の生成過程で、同量の木材を伐採した時の3.5倍もの炭酸ガスの増加に繋がってしまうからだ。プラスチックだと44倍、アルミニウムだと146倍にもなる。木材を使わない事で、その木材が吸収できるよりも遥かに多くの炭酸ガスを発生させてしまう訳だ。

「木材を使用していないので、森林保護になり、環境に優しい」という謳い文句が有るが、木材を使用をしないのは確かに森林保護にはなっているが、代替の材料を用いている以上、地球環境には優しくないのである。

以上より今日の結論。

下手な森林保護意識は、地球温暖化を促進させる。森林保護は大切だが、木材は植林すれば再生産できる資源であり、地球温暖化と引き換えには出来ない。

関連リンク:「地球温暖化の進行は疑いの余地のない事実である」『JIROの独断的日記』


2004年9月7日(火) 食料自給率が低い理由

昨日、日本の食料自給率は低いが、農業に従事する人数が少ない訳ではないと書いた。では何故、農業に従事する人の割合は多いのに、食料自給率は低いのだろうか?

答えは簡単だ。日本は人口が多いのに、国土が狭いからである。日本は人口では世界の2.09%を占めるが、国土面積は僅か0.28%を占めるに過ぎない。

さらに日本の国土は67%が森林で占められている事も大きい。これはフィンランドの76%、スウェーデンの70%に次ぐ第3位の高さであり、日本は森林大国であると言える。森林が多い事自体は素晴らしいのだが、これにより利用出来る農地が減っている事は否めない。

これは農地価格に諸に反映されている。10メートル四方、つまり100平方メートル当たりの農地価格は、日本が約20万なのに対し、ドイツは約2万円、イギリスは6400円、アメリカは1500円でしかない。アメリカの農地など、10メートル四方なら子供のお小遣い程度で買えてしまう。

結果として、日本の農家1戸当たりの農地は1.5ha(ヘクタール)しかなく、ドイツの28.1ha、イギリスの67.3ha、アメリカの189.8haと比較にならない。日本は人口比で他国の2倍程度の農業従事者がいるにも関わらず、1戸当たりの農地面積で数十倍から100倍程度の差が有る為に、食料自給率が低いのである。

以上より今日の結論。

日本の食料自給率が低いのは、人口の割に国土面積が狭い為に、農家1戸当たりの農地が少ないから。森林が多い事も、農業には痛手だ。結果として、日本の農地は異常に高い。(農地じゃなくても日本の土地は高いが。)


試験まで1週間を切ったので、そろそろ本気モードで行かないと……。『デスノート』第3巻を読んでる場合じゃなかったかも知れない。でも、あの漫画は面白い。


2004年9月6日(月) 食料自給率

日本の農業従事者数は少なくない。

2000年度の日本の食料自給率はカロリー換算で40%だった。特に主食となる穀物自給率は28%と低く、世界175ヶ国中128番目、特に経済協力開発機構(OECD)の中では30ヶ国中29番目という低さだ。

穀物自給率が低いのは、日本は米こそ自給できるものの、小麦など他の穀物自給率が著しく低いのが原因である。ただ小麦に関しては、日本の高温多雨な気候が合わないなど、仕方の無い部分も存在する。

ところが2000年の国勢調査に拠れば、日本で第1次産業(農業・漁業・林業)に携わる人口比率は全体の5.3%であり、これは他の先進諸国と比べると非常に高い数値なのである。例えばアメリカは2.6%、イギリスは1.5%、ドイツは2.8%である。

しかし、これらの国々の食料自給率は日本の数値(40%)を遥かに上回る。アメリカは125%、イギリスは74%、ドイツは96%だ。日本は先進国の中では農業に従事する人の割合は高いのに、食料自給率は低いという事態に陥っているのである。

以上より今日の結論。

日本の食料自給率は低いが、農業に従事する人数が少ない訳ではない。

明日は、この原因について考えてみようと思う。


2004年9月5日(日) 若白髪

最近、白髪が多くて困る。一昨日、鏡を見ながら悪戦苦闘して100本くらい切ったのだが、まだまだ目立つ。かなり鬱だ。

このサイトに拠れば、白髪が目立ち始めるのは男性で30代前半、女性で30代後半頃らしいので、20代前半で白髪が目立つ僕は、“若白髪”という事になる。

若白髪の原因としては、『遺伝』、『過度のストレス』、『過激なダイエット』などが考えられるらしい。

まず『遺伝』についてだが、僕の両親は禿げない代わりに、確かに白髪が多い。しかし両親は既に50代半ばだから、それは当然の事だ。(実は親の正確な年齢を、僕は知らない。多分、共に55歳くらいのハズだ。)

次に『過度のストレス』だが、まぁストレス自体は勿論あるが、それが“過度の”と言えるかどうかは分からない。鬱病を患っている辺りと関連性が有りそうだが、初期こそ多少のストレスを感じたものの、それ以降は「鬱病だから」という理由でストレスを感じた事は無い。

最後に『過激なダイエット』だが、これも確かに僕はダイエット中ではあるのだが、それが“過激な”と言えるかというと疑問だ。4ヶ月で13キロちょっと減量した訳だが、僕の元の体重を考えると、大した比率ではないのである。

――という訳で、どれもこれも原因の一端は担っていそうな気もするのだが、「これが諸悪の根源だ!」と言えるような決定打に欠ける。寧ろ上記のような弱い原因が複合しているのが問題なのか?

まぁ原因は分からなくても良い。問題は対処法だ。という訳で先程のサイトを読んでいくと、ただし、現時点では残念ながら、一度、白くなった髪は染めるしかないという衝撃的な一文が。

↑この文章が『過度のストレス』になりそうなんですが。

以上より今日のイイタイコト。

若白髪って結局は染めるか、地道に切ってくしか無いんですね。僕は地道に切ってく事にしますよ。


2004年9月4日(土) バスでの割り込み

電車だとそうでもないのだが、バスを利用する際に自分よりも後から並んだ老人が、バスが来ると当然の如く列の前に割り込んで行くのを見た事がある人は多いのではないだろうか? 僕は、よくある。老人の中の3人に1人くらいは、バスが見えた瞬間に、さも当たり前のように僕の前へ割り込んで来る。

僕は普段、電車でもバスでも座席に座らない人間なので別に構わないのだが、彼らが何を考えて列の前の方に割り込むのかには興味が有る。色々な可能性が考えられる。

取り敢えず僕が思い付いたのは以上の3つだ。

1は幾ら敬うべき年長者と言えども、傲慢な感じがする。2は僕が必死になって座席を確保しようとしていると誤解されている訳で、不本意だ。

個人的には、3のような合理的な考えの下に割り込みを行っているなら許せる。……が、そんなに多くはないだろうなぁ。

以上より今日のイイタイコト。

バスの場合、どうして当然のように割り込みを行う老人が多いのだろう? 理由が知りたい。


2004年9月3日(金) 結婚に対してネガティブな未婚男性

未婚の男性は未婚の女性よりも、結婚に対してメリットが少ないと考えている。

昨日の日記で男性は50歳になっても10人に1人は未婚のままなのである。ちなみに同年齢層(50〜54歳)の女性の未婚率は5.2%で、男性の未婚率の半分程度だと書いた。男性の未婚率が高いのは何故だろうか?

国立社会保障・人口問題研究所の調査では、「結婚には利点がある」と考える未婚男性の割合は、1987年には69.1%だったが、2002年には62.3%にまで低下している。

一方、「結婚には利点がある」と考える未婚女性の割合は、1987年の70.8%から2002年の69.4%まで、あまり変化していない。これらの数値を比較すると、未婚男性の方が未婚女性よりも、「結婚には利点が無い」と考えている傾向が伺える。

さらに、この調査は18歳〜39歳の未婚者を対象にして行われたのだが、「結婚には利点がある」と考える未婚男性の割合は、この10年間で18歳〜19歳では5%程度上昇しているのに対し、35歳〜39歳という年齢層だと10%以上低下している。近年、結婚に関してネガティブに捉えるようになったのは、若年層よりも寧ろ未婚の中高年達なのである。

以上より今日の結論。

近年、未婚男性の中高年達が結婚に対してネガティブに考えるようになった。その為に「50歳で未婚」の男性が増加している。


2004年9月2日(木) 未婚率の上昇

50歳男性の10人に1人は未婚である。

周知の通り、日本人の未婚率は上昇を続けている。国勢調査に拠れば、25〜29歳女性の未婚率は昭和50年代には20%程度だったが、平成12年には54%にまで上昇した。20代後半で結婚している女性は、最早マイノリティなのである。

若年層ばかりでなく、高年齢層の未婚率も上昇を続けている。50〜54歳男性の未婚率は昭和60年に3.1%だったのが、平成12年には10.0%にまで増加した。何と男性は50歳になっても10人に1人は未婚のままなのである。ちなみに同年齢層(50〜54歳)の女性の未婚率は5.2%で、男性の未婚率の半分程度だ。

別に高年齢者の未婚を否定する訳ではないが、「50歳で未婚」というのは世間的に見れば、かなり異様な状況ではないだろうか? 「余程の女性嫌いか、何か性格的に問題の有る人物なのかも知れない」などと、余計な詮索をされかねない。しかし、そんな「50歳で未婚」という状態に、男性の10人に1人は陥ってしまうのである。

以上より今日の結論。

20代後半で結婚している女性は最早マイノリティであり、50歳で未婚の男性も10人に1人はいる。

10人に1人……? 今日の日記を書いていて、自分が「50歳で未婚」の仲間入りをするような気がしてきた。実際にはあと27年の猶予が有るのだが、何となく心配だ。


2004年9月1日(水) 夏休みの宿題

夏休み最後の日曜日となった29日、インターネットの検索サイト「ヤフー・ジャパン」で、「夏休みの天気」「読書感想文」など、夏休みの宿題に絡むキーワードの検索が、大幅に増加したことが、サイトを運営するヤフーの調べで分かった。
夏休み終盤になって宿題に取り組む小中学生らが、手がかりを見つけるために集中的に利用したとみられる。ヤフーでは、これらのキーワード検索は、31日にピークを迎えるとみている。
   ――読売新聞より

『夏休みの宿題』というものに、どれくらいの学習効果が見込めるかの議論は置いておくとして、『夏休みの宿題』を他力本願でやろうという生徒は非常に多い。

僕は家庭教師をやっている為、今までに何人もの生徒の『夏休みの宿題』を見て来た。この時期だけ短期集中で家庭教師を付ける家庭も多い。今年も何件か臨時でやって来た。実は今日と明日にも、その手の臨時バイトが待っていたりする。いくらなんでもギリギリ過ぎると思うのだが。

それにしても通常時から見ている生徒は別としても、夏休み後半の時期だけ家庭教師を付ける生徒の親は、何を考えているのだろうか。時には僅か1,2回(1回2時間程度)の指導で、「夏休みの数学の宿題を全部見て下さい」などという要求を、平気でして来る。

いや、それ自体(数学の宿題を全部やらせる事)は、分量にも拠るが不可能ではない。でも『夏休みの宿題』というのは基本的には“1学期の総復習”であり、1学期に学んだ範囲全体から問題が出される。『夏休みの宿題』が出来ないという事は、1学期に学んだ事が身に付いていない、という事なのだ。

だから本当に学力を付けたいなら、教科書を用いて1学期の範囲の復習からやるのが望ましい。『夏休みの宿題』をやるのは、その後だ。が、当然そこまでは1,2回の指導では不可能である。必然的に、なるべく生徒が疑問を持たずに分かった気にさせるような解法を巧妙に教えていく事になる。

生徒は色々と疑問を持った方が良い、というのが僕の持論なので、普段はわざと生徒を混乱させるような解法を提示したりする。それで何処が合っていて、何処が間違っているのかを考えさせる訳だ。

ところが短期間の契約の場合は、そのような指導方法が取れない。とても残念な事だ。

以上より今日のイイタイコト。

子供が夏休みの宿題を出来ないのは、1学期の授業内容が分かっていない所為だ。しかし夏休み後半だけ家庭教師を依頼する家庭の親は、それが分かっていない事が多い。

しかし今でこそ毎日のように、それなりの分量のテキストを書いているが、小学生の頃は本当に読書感想文の類いには苦労したものだ。他力本願になる気持ちは、分からないでもない。


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