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2004年11月

DIARY MAIN

2004年11月30日(火) 殺人についての考察2

B:そんな。「人が他人を殺してはいけない」のが正しくないと言うんですか?

A:そうではない。しかし、では君は何故「人が他人を殺してはいけない」のが正しいと思うのだ?

B:そんなのアタリマエじゃ…………あ!

A:そう。今はアタリマエを疑わなきゃいけない。アタリマエな事にも説明を付けなきゃならない。そういう話をしてるんだ。だから、そもそも「『人が他人を殺してはいけない』という事は正しい」というのを前提としては、いけないんだ。

B:つまり、「人が他人を殺してはいけない」というのが正しいのか否か、から考察しなければならない、と?

A:厳密に言えば、正しいか否かを判断出来るのか否か、から考えなければならないだろうね。正しくも間違ってもいない、という可能性が有るからだ。しかしここで、そのレベルまでメタ的な議論を始めると、キリが無くなる。ここは一応、「人が他人を殺してはいけない」は正しいか否かのどちらかである――即ち、「人が他人を殺してはいけない」は命題である、という事を仮定する事にしよう。

仮定:「人が他人を殺してはいけない」は命題である。

B:“命題”というのは、その文章が真であるか偽であるかのいずれかである事を示す論理学用語ですね。

A:その通り。さて、この命題は真なのか偽なのか……。

B:真であって欲しい、というのが正直な所ですね。

A:心情的にはその通りだ。では、この命題が真である事を証明する事にしよう。これが証明出来なければ、偽である可能性が高くなるけどね。

B:しかし、「人が他人を殺してはいけない」が真である事を証明するとは言ったものの、どうやったら証明出来るのか、全く想像が付きません。

A:確かに。そこでね、ここは敢えて、「人が他人を殺してはいけない」が偽である事を仮定して、そこから矛盾を導こうと思う。

B:それって“背理法”とかいうヤツですか? 「『人が他人を殺してはいけない』は偽ではない。従って真だ」という論法ですよね。段々、数学っぽくなってきましたねぇ。

A:その通り、背理法だ。でも背理法というのは、数学だけで用いられる証明法ではないよ。ま、それはさておき……。難しいのは、今回の証明に於いて導かれるであろう「矛盾」とは、どんなものなのだろうか、という事だ。何しろ今の僕達は、通常の数学よりも遥かに抽象度の高い問題に挑戦しようとしている訳だからね。数学みたいに「『無理数=分数』となったので矛盾。よって証明終了」とかいうような明らかな矛盾が出て来る訳ではないだろう。

B:そうですね。となると、どんな場合に「矛盾」と言えるのか……。難しいですね。

A:うん。そこで考えてみる。するとまぁ結局は、「僕達の世界が最悪な状態になってしまう」事が「矛盾」なんじゃないか、と思うんだな。君はどうだい?

B:うーん、「僕達の世界が最悪な状態になってしまう」ってのは、幾ら何でも曖昧過ぎるんじゃないですか? らしくないですよ。

A:そうかも知れないね。じゃあ君が、もっと細かい定義をしてくれよ。

B:えーと……なんでしょう。「世界中が殺人鬼だらけになる」とか、そんな感じでしょうかね。

A:ははぁ、なるほど。確かにそんな世界は嫌だねぇ。でも、それはまだまだ甘い感じがするな。「最悪」じゃない。

B:充分「最悪」だと思うんですけど。

A:「最悪」というのは最も悪い状況――つまり、それ以上は悪くなりようが無い状況の事を指すんだよ。となると、「世界中が殺人鬼だらけになる」程度では最悪とは言えない。

B:では、どんな状況が「最悪」なんでしょう。

A:例えばだね……君は漫画は読むかな? 漫画『ハンターハンター』第13巻で、フランクリンとシャルナークという2人のキャラクターが、次のような会話をしている。

フランクリン:シャル、今オレ達にとって最悪のケースってのは何だ?
シャルナーク:ん――団長はすでに死んでて、ヒソカ、パクノダ、マチ、コルトピ、シズク、ノブナガが鎖野郎に操作されてる。鎖野郎の所在は結局知れず、この2人にもまんまと逃げられる、かな。
フランクリン:そこが間違ってんだよ、お前らは。最悪なのはオレ達全員がやられて旅団が死ぬことだ。


A:人間ってのはね、「最悪」のケースを想定しているつもりでも、実は無意識の内に心の何処かで、防衛線みたいなモノを張ってる事が多いんだな。だから、このシャルナークも「最悪」を見誤った訳だ。

B:つまり、こうですか? 貴方が言いたいのは……僕達にとっての「最悪」というのは、「人類全てが滅んでしまう」事だ、と?

A:その通り。人間にとって、それ以下な状況というのは考えられないからね。


2004年11月29日(月) 殺人についての考察1

A:「他人を殺しても良い」となったら、君はどうする?

B:え? それはどういう事ですか?

A:現在では特殊な場合を除き、人は他人を殺せない事になっている。そういう意識が社会規範となっているのは明らかだし、法律的にも「殺人罪」という罪を設定する事で殺人を抑制している。人は「人を殺してはいけない」と言う。しかし、それは何故だろう? どうして人は他人を殺してはいけないのだろうか?

B:それは……わざわざ説明しなくてもアタリマエじゃないですか? それが道徳とか倫理ってモノでしょう?

A:そこが微妙なんだな。アタリマエ……そう、アタリマエ過ぎて、逆になかなか説明が出来ない。しかしね、パスティーシュ作家として有名な清水義範氏の著書『今どきの教育を考えるヒント』(講談社文庫)に拠れば、何年か前に筑紫哲也氏の番組で識者や若者が何人か集まって、続発する少年の凶悪事件についての討論をした事が有ったそうなんだ。そこで若者の一人が「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という質問をしたら、番組に集まった識者達は一人として、その問い掛けに答える事が出来なかったというんだよ。

B:じゃあその後、番組はどうなったんですか?

A:その時はね、司会役の筑紫哲也氏が「人が人を殺して良い時が一つだけ有って、それは戦争の時だ」という事を言って、次の話題に流れたらしい。まぁこの返し方は巧いと思うけど、実は全然「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という質問の答えにはなっていないんだよね。

B:確かにそうですね。

A:そこで僕は薄ら寒いような感じがしたんだ。「アタリマエ過ぎて誰も説明が出来ない事――そういう事を“アタリマエ”と思えない人間にキチンと納得させる為には、どうすれば良いんだろう?」って。で、僕は思ったワケだよ。それにはやはり、説明をしなくちゃならないんじゃないか、と。どんなに僕達がアタリマエだと思っていても――いや、アタリマエ過ぎて説明出来ないからこそ、説明が出来るようにならなくちゃいけないんじゃないか、って。

B:でも……その若者は「人を殺してはいけないのは何故か?」なんて、本気で考えていたんでしょうか? 僕には単に若者が敢えて、識者達が答え難いような質問を投げ掛けただけのように感じるのですが。

A:その可能性は高いと思う。しかし、その若者が分かっていたとしても――もしも世界で一人でも「人を殺してはいけないのは何故か?」と、本気で考えている人が居たらどうする? そんな人が君の目の前に現れたら、どうする? 例え他人がどうあれ、実は僕達が「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という質問に答えられない、という事実は変わってない訳なんだなぁ。

B:なるほど。確かに僕達は何となくアタリマエと思っていても、実は薄氷の上を歩んでいるのかも知れない、という事ですか。

A:そう、そんな感じだ。

B:だから「他人を殺してはいけない」という質問に対して、何か合理的な回答を考えたい、というワケですね。でも、そんなのは実は簡単だったりしませんか? 例えば「自分は殺されたくない。だから他人を殺してはいけない」とか。

A:それじゃ駄目だね。君は最低でも2つの間違いを犯している。まず1つ目は、「自分は殺されたくない。だから他人を殺してはいけない」というのは、誰もが「自分は殺されたくない」と考えている事が前提となっている事だ。これだと例えば「自分は誰かに殺されても良い」と考えている人物――自殺志願者みたいな人物は他人を殺しても構わない、という事になる。それで君は良いのかい?

B:いや、そんな事はないですが……。

A:つまりね、「人が他人を殺してはいけない」の回答として、「自分が殺されたくないから、他人を殺してはいけない」という因果応報みたいな考え方は、適していないんだな。さっき言ったような例外を認めるなら別だけどね。

B:……もう一つの間違いとは何ですか?

A:それはね、そもそも「人が他人を殺してはいけない」なんて正しいのか、という事さ。


2004年11月28日(日) 携帯破壊

僕は外出中に、携帯電話を軽く放り投げながら移動する癖が有る。繰り返し繰り返し投げるので、たまに落とす。昨日も1回落とした。

…………割れた。

ディスプレイなどは生きていたので、内部は大丈夫なようだった。そこでコンビニでアロンアルファを購入した。

…………直った。(?)
(↑単に、くっ付いただけ、とも言う。)

「あぁ、早く帰ってドラクエ8やりてぇよ」とか思いながら、バイト先に向かった罰でしょうか。そんな気がします。反省します。

ところで明日から4日ほど、今までと趣向を変えた日記を書いてみようかと思います。主題は『なぜ殺人は許されないか?』です。テーマが難しいので、“対話篇”という形を採って進めて行こうかと思います。慣れない事ですので相当に違和感を感じるかも知れませんが、こういう事を論じるのも僕は好きな人間なので、どうかしばらくの間、お付き合い下さい。


2004年11月27日(土) 計算能力の重要性

どうして数学は実力差が顕れ易いのか?

数学は比較的、得意な人と苦手な人との差が出易い学問だと思う。特に試験を行うと、最も偏差が大きくなる(平均点付近の者が少なく、高得点者や低得点者が多い)傾向が有る。

この原因を僕は、計算力の差が大きいと思っている。数学は思考力養成の学問であるが、実際には計算に費やされる時間は膨大である。平均的な高校生が数学を勉強すると、1時間の間で30分以上は何らかの計算に充てられているのではないだろうか。

しかし平均的な高校生が30分で行う計算ならば、訓練次第では3分程度で終えてしまう事も可能である。だから普通の高校生が1時間勉強していて、その内30分は計算で費やされているとすると、思考力養成の為の時間は30分しか残らない事になる。しかしその計算が3分で済むなら、残りの57分を思考力養成の為に使える訳だ。

この時点で既に、同じ勉強量でも実質的な勉強量は大きく異なる、という事になっている。もう潜在的な実力には、両者に差が出ているのだ。

しかも試験となると、計算力が高い学生ならば簡単な問題を素早く解け、残った多くの時間を難しい問題に充てる事が出来る。計算力が低いと、そもそも難しい問題に使える時間自体が少なくなる為、実際の難しさ以上に問題が解けない事になる。また簡単な問題でも、計算力が異なれば、正解率も異なってくる。

この為、数学の試験では本来の実力差以上に、点数に差が出てしまい易いのである。

以上より今日のイイタイコト。

数学を出来るようにする為には、まずは計算力を高めるのが良い。試験の時だけでなく、普段の勉強の効率からして大きく変わってくる。

中学生の生徒を相手に、計算問題10題(文字式の計算)の早解き勝負を決行。生徒は12分掛かったが、僕は50秒で終了。「勝てる訳無いよ!」と、ちょっと半泣きされた。オトナ気が無かったか。


2004年11月26日(金) ダイエット計画、終了

今年の5月6日に始まったダイエット計画は、本日を以て無事に成功し、終了いたしました。

先月末でダイエットは『累計:−19.6キロ』という処まで来ていたので、今月は目標の20キロ減まで、たった400グラム減らせば良いハズだったのですが……毎月々々の月末の追い込み&月初の小さなリバウンドにより、目標達成が今まで伸びてしまいました。まぁしかし、それも今日で終わりです。20キロの減量に成功しました。

未だに知人には、「全然痩せたように見えない」派と、「そういえば痩せた気がするね」派と、「結構痩せたよね」派が混在しているのですが……20キロ痩せても気付かない人って、一体……? それとも僕の身体が特殊なんでしょうか? そう言えば体重が増加している時も、あまり「太ったね」とか言われなかったので、見た目には表れないタイプなのかも知れませんが。

しかし実は今の体重、一番痩せていた頃と比べると、まだまだ重いんですよね。という訳で、もう少し体重を落としたい。でも一応、目標は達成したので、ちょっとはダイエットを中断したくもあり……。

そこで年内はダイエットを中断し、年明けからダイエットを再開しようと思います。もう流石に毎月3キロはキツイので、毎月1キロくらいずつ、ゆっくりと痩せて行こうかと。まぁもしも、それまでに大幅にリバウンドしてたら別ですけど。……リバウンド、しないと良いなぁ。

ダイエット状況を報告していた日記才人の投票ボタンは、これからは何か適当に書いていこうと思います。投票ボタンのメッセージを読まないと日記本文が完結しない、という事は今まで通りやらない予定です。

ちなみにメッセージはボタンを押せば誰でも見る事が出来ますが、出来れば日記才人に登録して貰えると嬉しいです。1回登録して、初めてログインする時に「クッキーに保存」にチェックを入れておけば、次の日からは何もする必要は有りません。是非とも。

では、明日からもよろしくお願いします。


2004年11月25日(木) うつ伏せ寝とヨダレ

僕は小学生の頃から寝付きが良くない時が多く、頻繁に寝返りを打って「その日のベストな寝方」を模索する事が多い。だから日によって仰向けで寝たり、うつ伏せで寝たり、顔を真横にして寝たりしている。

うつ伏せ寝は乳幼児突然死症候群を引き起こす可能性が高い為に、幼児には良くないらしい。でもまぁ大人ならば、自分の好きな寝方で寝れば良いだろう。

しかし何とも恥ずかしい話だが、僕はうつ伏せで寝ると、頻繁にヨダレを垂らしてしまうのである。ほぼ100%に近い。多分、馬鹿みたいに口を大きく開けて寝ている所為だろう。

そこで周りの人達に聞いてみると、そもそも「うつ伏せでは苦しくて寝られない」と言う人が多い事を知った。幼い頃に仰向けで寝る習慣が付いている為だろうか?

でも中には「うつ伏せで寝る事も有る」と言う人も居たし、さらには「うつ伏せでしか寝られない」と言う猛者まで居た。「うつ伏せでしか寝られない」というのは、それはそれで大変そうだ。どうして仰向けだと寝られないのか、理由を訊くのは忘れてしまった。

以上のような「うつ伏せで寝る」グループに属する人は、やはりヨダレを垂らす事が多いようだ。なんか親近感。僕だけじゃ無かったんだなぁ。

今日のイイタイコト。

うつ伏せで寝る人は、ヨダレを垂らす事が多い。まぁそれでも良いじゃん。


2004年11月24日(水) チャイナドレスとストッキング

昨日に引き続き、チャイナドレスの話。

チャイナドレスと言えば、スリットである。スリットと言えば、(現代では)足を魅せる為のものである。足を魅せると言えば、やっぱり生脚だろう。そう、チャイナドレスを着る人は、生脚にすべきなのだ。ストッキングなど、邪道だ。

――というような話を友人達としていた。が、実はチャイナドレスとストッキングとの間には、意外な関係が存在した。

昨日の日記で、チャイナドレスはロングコート代わりに着られていたと書いた。従って元々のチャイナドレスは、脚が全て隠れるようなロング丈の物しか無かった。

ところが1930年頃から中国に西洋文化が浸透してくるようになると、まずは生地が西洋からの輸入品である派手な物に変化した。さらにはミニスカートの流行やストッキングの普及により、女性が脚を魅せる文化が根付いた結果、チャイナドレスも膝上までのミニ丈が作られるようになったのである。

以上より今日の結論。

チャイナドレスのミニ丈が出来たのは、ストッキングの普及の成果である。だからストッキングを目の敵にしてはいけない。

さらに今日のイイタイコト。

だが敢えて言おう。それでもチャイナドレスには生脚が似合う、と。


2004年11月23日(火) チャイナドレスとスリット

チャイナドレスにスリットが入っているのは何故だろうか?

サークルの後輩の女の子が、ステージ衣装としてチャイナドレスを着ていた。そうしたら飲み会で「スリットが短過ぎる!」とか、「せっかくチャイナドレスなのに、どうしてストッキングなんだ!?」(≒「生足を見せろ!」)とかいう意見が続出。しかも何故か僕がチャイナドレスに関する日記を書く事になった。よく分からないが、仕方無くチャイナドレスについて調べてみた。仕方無く。

そもそもチャイナドレスを作り始めたのは、清の時代の満州族らしい。チャイナドレスは中国語で『旗袍』(チーパオ)と言うが、『旗』とは17世紀に漢民族を侵略した「八旗」と呼ばれる満州族の軍隊を意味する。ちなみに『袍』は長い服の意味。

つまり『旗袍』というのは、「満州族の軍隊の服」という意味だが、別にチャイナドレスは軍隊の制服だった訳ではない。地位による多少の規制が有ったものの、チャイナドレス自体は女性に広く着られていた衣服だった。

ところが当時のチャイナドレスは、現在のような女性の身体のラインを見せる、という機能は無かった。というのも、チャイナドレスはロングコート代わりに着られていたからだ。従って、自然と体型が隠されるようなデザインとなる。

これは、満州族が生活していた地域が冬にはマイナス30度にもなるような極寒の地で、どうしてもロングコートを着込む必要が有ったからだ。しかし、満州族は狩りや放牧が中心の生活を行っており、冬でも馬に乗る事が必須であった。

となると一つ、困った問題が起こった。ロングコートを着ていると、馬に乗り難いのである。そこで満州族はロングコートの両脇に切れ込みを入れる事で、この問題を解決した。これがチャイナドレスにスリットが有る理由である。

以上より今日の結論。

チャイナドレスにスリットが有るのは、馬に乗り易くする為だった。別に男に足を見せる為じゃない。


2004年11月22日(月) 数学教育論

昨日・一昨日に引き続き、サイト2周年企画です。今日がラスト。では早速。

「以上より今日の結論」と「以上より今日のイイタイコト」って、どう違うんですか? (捏造)

そもそも日記で「以上より今日の結論」という“締め”を書くようになったのは、以前に「結論が出ていないテキスト(コラム)が多いですね」という意見を受けたからです。それで「じゃあ無理矢理にでも、結論付けてみようじゃないか」と思ったんですね。
すると文章が非常に書き易くなったんですよ。それまでは自分でも途中で何を言いたいんだか分からなくなるような文章になってしまっていたんですが、しっかりと結論を書くようになってからは、少なくとも自分では自分が書こうとしている事を把握出来るようになって来ました。
で、「結論」と「イイタイコト」との違いですが、実は明白な境界線は有りません。一応、客観的な考察が主な時は「結論」、主観的な考察が多い時は「イイタイコト」を使っているつもりですが、そこまで厳密には使い分けていません。その時のノリですね。
なので時々、「以上より」や「今日の」が抜けたりします。勢いで。

キジョウイキジョウイと言ってるけど、そんなにいいですか? (アンチKASAさん)

良いですよ。僕が経験した事の有る体位の中では、最も好きですね。別に正常位とかが嫌いな訳でもないですが。知り合いから「太ってるから自分で動くのが大変なんだろ」とか突っ込まれそうですが、そんな事は有りません。多分。

教え子に手を出してますよね? そのうち出しますよね? (アンチKASAさん)

手を出した事は無いです。残念ながら今の教え子は全て男なので、今後も手を出す予定も有りません。あぁ、教え子に妹が居たりすると、その子には大抵は好かれますね。5歳くらいですが。残念でなりません。(昨日、自分の事を「ロリコンだ」と書いてますが、そこまで真性じゃないです。念の為。)

数学教育の在り方について語ってください☆ (マスダショウイチさん)

難しい質問ですねぇ。以下は数学を専門でやらない人のケースを想定します。とすると、まぁ数学的な思考を養う事により、それを日常生活上で有益な方にフィードバック出来る、というのが理想だとは考えています。
例えば数学では、“場合分け”というのをやったりします。a≠0の時とa=0の時とで分けて考える、とか。で、まぁ最初の内は、a=0の時を考え忘れたりする訳ですね。でも数学をやっている内に、自然とa≠0の時とa=0の時の両方を考えられるようになる。これは「考えられ得る全ての場合を考える」という思考力を養ってる事になる訳ですが、となれば、そこから日常生活上で、「僕は○○○○○という風に考えるけど、相手はもしかしたら△△△△△という風に考えるかも知れない」みたいな考え方が出来るかも知れない。自分の考えだけに固執せず、相手の立場なども考慮した柔軟な考え方が出来るようになるかも知れない。
――ホンの一例ですけど、数学教育というのは、そういう思考力を養成する為に有るのではないか、と思います。割と道徳に近いモノが在るのではないか、と。だから難しい問題を解ける、という事自体は重要ではなく、様々な思考法を身に付けている、という事が重要であり理想である、と。まぁこれは他の多くの科目についても言える事だと思いますけども、科目によって身に付けられる思考法には若干の違いが在り、だからこそ最初は様々な教科を学ぶ必要が有るんではないかなぁ、と考えています。

以上です。質問を送ってくれた皆様、有難うございました!


2004年11月21日(日) 理屈屋は嫌われる

昨日に引き続き、サイト開設2周年企画です。思ったよりも追加で質問が来て、大変嬉しいです。ただ全て一気に答えると長くなるので、さらに回答期間を1日伸ばします。それでは行きます。

そんなにモテないんですか? (捏造)

これまで23年の人生では、3回告白して1回付き合いました。告白された経験は有りません。小学4年生の時にラブレターを貰った事が有りますが、12年後の昨年暮れ、同じクラスの女子のイタズラだった事が判明しました。……以上より判断して下さい。

今、好きな人の名前は? (アンチKASAさん)

「好き」の定義に拠りますね。仮に「どうしても付き合いたい」というレベルだとすると、今は居ません。単純に「好き」って程度なら、多過ぎて名前を挙げきれません。

好きな女の子のタイプを教えてください!! (海上さん)

有名人で言えば、広末涼子です。ダントツです。人妻だろうが子持ちだろうが、関係有りません。中学3年生くらいの頃からずっと好きです。
一般的には、ショートヘアで中性的な感じの女性(≒幼く見える女性)が好きです。要はロリコンです。が、実際に僕が今までに告白した事の有る女性は全て、これに当て嵌まらないですねぇ。まぁ見た目だけじゃないですからね、好きになるのは。

彼女とつきあうのはなんのためですか? (アンチKASAさん)

えーと、今は彼女は居ないんですが、まぁそれを踏まえた上で。自分の独占欲を満たす為です。「付き合う」というのは、その為の契約だと考えています。恋愛に於ける独占欲の必要性については、「『好き』と『愛する』の違い」で書いた事が有ります。

理屈っぽい男性は一般的に女性から敬遠されますが、女性と話す時に理屈っぽくならないよう気をつけていますか? 100%の力で理屈っぽく語ったら、女性は逃げていくと思いますか? (Yasさん)

僕が理屈っぽい事が前提になってる質問ですね。確かに理屈っぽいですけど。
女性と話す時は、理屈っぽくならないように気を付けている訳ではないのですが、でも理屈を使うような話題にあまりならないですね。それで結構、助かってます。ただ身近な女性が相手だと、100%の力で理屈を展開したくなる場面が、どうしても発生します。その結果、母親(専業主婦)には嫌われていますし、離れて行った女性も居ます。(他にも沢山、原因は有ったんだと思いますが。)母親に言わせると、そういう僕は「人間のクズ」だそうです。それを理屈で説明して欲しい所ですが。
よって他に多大なる魅力が有る男性なら別でしょうが、特に外見などで魅力が無い男性が全力で理屈っぽく語ると、多くの女性は逃げて行くと思います。ちなみに僕は、理屈っぽい女性が好きです。逆・裏・対偶を日常生活上で普通に使い分けられない人は、ちょっと勘弁して欲しいです。「言った」「言わない」等の不毛な議論の大半は、ここを理解していない為だと思います。


2004年11月20日(土) トンデモない専業主婦

今日でサイト開設2周年です。――という訳で、14日から記念企画として読者の方々から僕に対する質問を募集していたのですが、応募者総数は2名でした。「最低でも3人、出来れば5人」と密かに思っていた僕の考えは、甘かった事が証明されました。

では気を取り直して、捏造質問を大量に交えながら回答して行きましょう。ちなみに今日と明日の2回に分けます。もしも万が一「あぁ、送るの忘れてた!」という方が居たら、今日中にメールを。大歓迎します。

『KASA』というハンドルネームの由来は何ですか? (捏造)

中学生の頃に「ニコリ」というパズル雑誌に問題を投稿してまして、その時のペンネームが『積木を愛する傘』でした。これは本名のアナグラムに、ちょっと細工をしたものです。
大学に入ってネットをやるようになり、最初は『積木を愛する傘』を使っていましたが、長いので単に『傘』としました。しかし『傘』というのは一般名詞と紛らわしい為、3年半ほど前からは『KASA』と名乗る事にしています。

オタクですか? (捏造)

中学生の頃は声優、高校生の頃はアニメ、そして現在ではライトノベルに没頭しています。一応、段々とオタク色は薄まって来ているのではないかと思いますが、まぁでも充分にオタクでしょうね。

出没スポットを教えて下さい。 (捏造)

渋谷の居酒屋(特に海峡)、新宿西口のヨドバシカメラ、東口の映画館(特にコマ劇場周辺)、池袋西口の芳林堂コミックプラザ及びケンタッキー、東口のマニアな本屋各店、駒込のケンタッキー及び吉野家、田端のブックスミキ、西日暮里の和民、秋葉原の書泉ブックタワー。
何か偏りまくってる気がしますね。まぁオタクですから。

家庭教師をやっていて出会ったトンデモない専業主婦について語ってください。 (Yasさん)

基本的に家庭教師を雇う家庭の専業主婦率は高いです。家庭教師センターによって、生徒のターゲット層が異なるので一概には言えませんが、僕の登録している所では、8割程度が専業主婦でしょう。父親が医者や弁護士、というパターンが多いです。従って様々な専業主婦と出会って来ました。そんな中でトンデモない専業主婦と言うと……。
まずは、しきりに金品を渡してくる専業主婦。意味無いです。何か貰っても、特別に頑張る訳でもなし。「これから、よろしくお願いします」と言って、初回の指導が終わった後に現金10万円を渡された時は、流石にどうしようかと思いました。貰いましたけど。
次に、息子や娘の言いなりな専業主婦。所謂、親バカですね。特に生徒が小学生の時に多いです。大人としての尊厳は無いのか、と思ってしまうくらい、子供の言う事を聞きっ放しです。そういう家庭の子供は、間違い無く我侭です。
後は僕の知人の話ですが、家庭教師が宿題を出す事にクレームを付けて来る専業主婦個人契約で家庭教師をしたら月末に値下げを要求して来た専業主婦家庭教師と男女の仲になろうとして来た専業主婦もいるそうです。どれも理解不能です。
最後に念の為に言っておきますが、多くの専業主婦の方はマトモでしたよ。


2004年11月19日(金) 議論に強くなる為のリスク

どうして「どうして?」と訊いてはいけないのか?

僕は相手の主張に対して、「どうしてそれが妥当だと考えるのか?」とか、「そう考える根拠は何か?」という類いの質問をする事が多い。しかし大抵の場合は、この手の質問というのは煙たがれる事が多い。

僕としては別にケチを付けている訳ではなく、単なる簡単な確認の意味で訊く事が大半なのだが、どうもそう受け取ってくれない人が多いようだ。(本当にケチを付けてる時も有るが。)

これについて哲学者の野矢茂樹氏は、『哲学教科書シリーズ 論理トレーニング』という著書の中で次のように語っている。

老婆心からの忠告であるが、「なぜそんなことが言えるのか」という問いを友人や家族に向かってみだりに発すると人間関係を損ねるおそれがあるので注意されたい。しかし、なぜ、論証を求めると人間関係が悪化するのだろう。おそらく、ある主張に対して論証を求めると、それは、その主張に疑いを表明したものとして受け取られてしまうのである。そしておそらく、自分の意見を共有してくれない相手をつきあいにくいと感じてしまうのだろう。

ここには2つの問題点が含まれていると思う。一つ目は既に書いたように、論証を求めただけで相手の主張に対して疑いを表明していると解されてしまう、という点である。仮に自分が「正しい」と思っていて結果的にもそれが「正しかった」としても、思わぬ所で何らかの見落としをしている事は多い。それを補正する為には、イチイチ論証を求める細かさが必要だ。

もう一つは、自分の意見を共有してくれない相手とは付き合いたくない、という嗜好である。別に「狭量な精神構造のヤツは排除だ!」とか言うつもりは無い。しかし一般的な社会生活を営む上で、自分の意見を共有してくれない人間というのは数多く存在するハズで、そういう人間を相手にした時に絶えずストレスを感じ続けるのは、とても不幸な事だと思う。結果的に損な人生を歩む事になるのではないだろうか?

野矢茂樹氏は議論に強くなる為には、日常的に「なぜそんなことが言えるのか」と訊くべきだ、とも言っている。しかし議論に強くなる為には、人間関係を壊してしまうというリスクを負ってしまうのが現状だ。

以上より今日の結論。

日常的に「どうして?」と訊くと、人間関係を損ねる可能性が有る。しかしそれは、議論に強くなる為に必要なリスクだ。

僕が議論に強いかどうかは分からないが、「どうして?」と訊く癖の所為で、自分の家族との仲はボロボロである。野矢茂樹氏の老婆心は、図らずも見事に当たっている。


2004年11月18日(木) 『電車男』を読む女子高生

昨日は「本屋を5軒ハシゴしよう」と思って外出したのだが、3軒回った処で財布の残金が殆ど無い事に気付いた。「家を出る時には、1万円札が2枚は入っていたハズ……」と思ったら、確かに2万円分くらいは買い物していた。本だけで。仕方無く4軒目は断念。帰途に着いたのだった。

ところで、訪れた2軒目の本屋は池袋ジュンク堂だったのだが、そこでは女子高生(もしかしたら女子中学生)の集団が、書籍化された『電車男』を立ち読みしている光景に出会った。『電車男』については以前、「“電車男”の魅力」で言及したが、あの内容を女子高生が、それも集団で立ち読みしているのは、何とも異様であった。

……と思ったら、『breeze』「『電車男』と『負け犬女』」に拠れば、『電車男』は女性にも、口コミで人気が広がっているようだ。

雑誌『AERA』には30代キャリアウーマンの感想として、「電車男のようなオタク君なら、恋愛対象として悪くないですね」というコメントが掲載されているそうだが、では僕が池袋ジュンク堂で見掛けた女子高生集団は、『電車男』をどう評価するのかが気になった。素直に感動する事は無いと思うのだが。

それにしても、本来は無料で読める『電車男』が30万部を突破。ページを手で捲る感覚を味わえる書籍の魅力は、まだまだ失われていないという事か。僕もネット上で読んだのに、書籍も購入したしなぁ。

以上より今日のイイタイコト。

書籍が持つ“ページを手で捲る感覚”の魅力は、色褪せていない。それとは別に、女子高生世代が『電車男』のエピソードを、どのように受け止めているのかが気になる。


2004年11月17日(水) 14歳以下の少女の出産

「低年齢少女の出産件数」と「性教育の充実」との間には、相関性が無い。

10代前半の少女による出産数が米国で第2次大戦後最低レベルになっていることが、米疾病対策センター(CDC)の全国調査で分かった。早い時期から子供に積極的な性教育をする風潮が功を奏しているものとみられる。90〜02年の13年間、10〜14歳の少女による出産例は約13万7000件あった。94年の年間1万2901件をピークに減り始め、02年は年間7315件だった。この期間に10〜14歳の少女の人口は16%ほど増加したが、出産数は約4割減少したことになる。   ――アサヒ・コムより

10〜14歳と言えば、小学生か中学生だ。確かに出産は個人の権利だが、現実問題として14歳以下の少女の出産は、教育的にも経済的にも、そして母体としての肉体的にも好ましいものではないだろう。となれば、そのような事象には“異常”のレッテルを貼るのが、健全な社会システムの役割だ。

では、「14歳以下の少女が年間1万人弱も出産を経験している」というのは、どのくらい“異常”なのだろうか?

厚生労働省の『人口動態統計』に拠れば、2002年に日本で出産した14歳以下の少女は52人である。アメリカの1%にも満たない。人口差を考慮しても2%弱だ。日本とアメリカとでは、実に50倍以上の差が存在するのである。

となると性教育の効果というのは、甚だ疑問だ。日本の性教育がそんなに優れているとは、とても思えない。寧ろ原因は、貧富の差の大きさではないのか? アメリカよりも日本の方が、圧倒的に貧富の差が小さい。極端に貧しい層が少なければ、低年齢少女の出産件数は減少するだろう。

それを裏付けるのが、日本国内での14歳以下の少女の出生数の変化だ。再び厚生労働省の『人口動態統計』に拠れば、1990年には18人だったのに対し、1995年には37人、2000年には43人、そして2002年には52人と、日本国内での14歳以下の少女の出生数は、増え続けているのである。この間、国内で比較すれば、性教育は充実して来たハズである。にも関わらず、低年齢少女の出産件数は減少していない。

以上より結論。

「低年齢少女の出産件数」と「性教育の充実」との間には、相関性が無い。「低年齢少女の出産件数」と関係するのは、「貧富の差の大きさ」だろう。


2004年11月16日(火) クレオパトラの溜息

「嫌いな人と同じ空気を吸わない」という事は、不可能である。

誰にだって、自分と合わない人間が1人や2人はいるものだ。それが高じると「嫌い」になるし、さらには「コイツなんかと同じ空気を吸いたくない」という事まで考えたりするようになる。しかし、それは不可能である。

例えば、ここに縦横20m・高さ5mの、密閉された大きな部屋が有ったとする。そこで、A君が一回だけ呼吸をしたとしよう。人間の1回の呼吸量は、約500mlだ。そしてA君は部屋を出て行き、充分に時間が経った後に、今度はB君が入って来て、同じく1回だけ呼吸をしたと仮定してみる。

この時にB君が吸った空気の中で、A君が吐き出した空気の分子の数は、3×10の15乗個も存在する。実に3000兆個である。限定された空間とは言え、A君とB君はお互いに1回だけ呼吸しただけなのに、3000兆個もの空気分子を共有しているのである。B君がA君の事を「同じ空気を吸いたくない」とまで嫌っていたとしたら、彼にとっては何とも気味の悪い話だろう。

これは何も“同じ部屋”という狭い範囲だけの話ではない。地球規模で考えても、同様なのである。

有名な話に『クレオパトラの溜息』が有る。クレオパトラが死ぬ直前に溜息をしていたら、それから2000年以上が経過した現在、その溜息は地球上全体に拡散していると考えられる。すると現代の僕達が呼吸している空気の中には、数個〜数十個のクレオパトラが溜息で吐いた空気分子が含まれている、というのだ。

以上より今日の結論。

「嫌いな人と同じ空気を吸わない」のは不可能である。精々、「好きな人と同じ空気を共有している、とも言えるんだ」と思って、我慢するしかない。


2004年11月15日(月) 新潟レポート

今日の日記は悲惨な話とオメデタイ話が混合されていますが、事情が事情ですので御理解ください。

従姉妹の結婚式の為、新潟に行って来た。本来ならば上越新幹線で2時間もすれば着くのだが、未だ完全復旧の見込みが立っていない。何とか高速道路は繋がったらしいので、父親の運転する車で行く事になった。

途中、長岡付近で倒壊した住宅が見られたものの、全体的には屋根瓦が壊れる程度で済んでいる家が多かったようだ。高速道路の一部区間は片側1車線だったが、トンネルでは明らかに強度検査が済んでいないと思われる箇所が数多く存在し、こんなので開通させて良いのかなぁ、という感じだった。

結婚式会場は三条市で、震源地からはそれなりに離れている為、特に地震の影響は見られなかった。が、震度2か3程度の余震は、未だ1日に数回発生しているらしく、不安感は拭えないらしい。僕達は式の2時間ほど前に着いたのだが、その間にも2回ほど有感地震が有った。

僕は結婚式に出席するのは初めてだったのだが、何かちょっと感動してしまった。微妙に結婚してみたくなった。相手がいないけど。でも花嫁に憧れる女の子の気持ちが少し分かった気がする。

従姉妹は僕の1歳下で、7年振りの再会だった。前回会ったのは彼女が中学生の時だったので、随分と時が流れたものだ。ちなみに新郎は僕と同い年。だが見た目はワイルドかつ爽やかで、如何にもモテそうな感じだった。僕とは大違いだ。彼らは今年の2月に出会い、来年の4月に出産予定。まぁ、そういう事だ。

近しい親戚には、「いつ大学を卒業するんだ?」と何人にも責付かれた。すいません、実は3回目の留年も確定的です……。来年は大学6年目で3年生かなぁ。ごめんなさい、2年生を3年間もやったのに、3年生も2年間です。誰だよ「日本の大学は入るのは大変だが、出るのは簡単だ」って言ってるのは。こっちは普通に単位が取れなくて、精神科まで通ってるのに! あぁ親戚の皆さん、心配を掛けて本当にごめんなさい×100。

式が終わり2次会へ移動する最中に、新婦である従姉妹が新郎に放置プレイをされていたので、そこで少し喋る事が出来た。

「呼んだけど、本当に来てくれるとは思わなかった……」
(↑毎年「遊びに来て」と言われてたのに、7年も行かなかったので、結婚式も来ないと思われていたらしい。)
「何言ってんだよ、来るに決まってんじゃんか」
(↑本当は、行くかどうか迷っていた。)
「うん……ホントに有難うね」
(↑本当に嬉しそうに言われたので、ちょっと罪悪感。)

2日前の日記で「別に積もる話など無い」と書いたが、実際に会ってみると色々と話が出て来るものだ。が、数分で新郎が戻って来たので、「それじゃ、おめでと」と言って別れた。ちなみに新婚旅行は山形らしい。新潟から山形って……やたらと近いな、オイ。

叔父(結婚した従姉妹の、ではない)の家に泊まる事になっていたので、車で移動。話を聞くと、下越地方では地震よりも夏の水害の方が被害が大きかったらしく、土砂崩れの痕や寸断された道路などが散見された。ただ「地震の被害は小さかった」とは言っても、叔父の家の壁にはヒビが入っている箇所も有り、あくまでも相対的な話である事が伺えた。

ちなみに叔父の家は、携帯電話など通じない山奥だった。テレビも地上波は、NHKくらいしか映らない。携帯で数々の掲示板をチェックしている人間としては、非常に苦痛な時間だった。

『新潟日報』という地方紙には、連日1面に「地震に負けずがんばろう!」という言葉が大きく掲載されていた。

明くる日の昨日。やはり高速で帰ったのだが、サービスエリアの建物が半壊し、仮説店舗で営業を行っていたり、ガソリンスタンドの給油機が一基しか使えない状態(恐らく全壊し、応急的に一基だけ修理したと思われる)だったりして、まだまだ中越地方は地震の爪痕が深く残っているようだった。

たった1泊して来ただけだが、何だか色んな場面を見た気がする。が、取り敢えずは2人の結婚を祝おうと思う。

本当に、おめでとう!


2004年11月14日(日) 新潟から復帰&2周年記念

新潟から無事、東京の自宅まで戻って来ました。が、今日は疲れたので、詳しくは明日の日記で。

もうすぐ10万ヒットですね。多分このサイトが100万ヒットする事は無いと思うので、20日のサイト開設2周年と合わせて、何か記念にやりたいな、と。

――という訳で月並みですが、読者の方々からの質問に僕が日記で答える、って感じでやりたいと思います。質問は何でもOKです。無礼講です。何でも答え難そうな事を訊いて下さい。1人の質問事項は幾つでも構いませんが、応募多数の場合は僕の独断と偏見により、抽選させて頂きます。逆に応募が少なかった場合、僕が質問事項を捏造します。

質問の応募は、メール限定でお願いします。件名は変更せず、以下の事項を記載して下さい。

締切は日本標準時間で、2004年11月19日23時59分とします。それでは、沢山の応募を、お待ちしています!


2004年11月13日(土) 結婚

今日は従姉妹の結婚式。結婚式に出席するのは初めてだ。

従姉妹は僕より1歳年下だが、既に看護士として働いており、経済的にも自立している。彼女と最後に会ったのは僕が高校1年生の頃だから、7年振りの再会という事になる。と言っても、別に積もる話は無いが。

昔は会いに行く度に、苛められていた気がする。向こうは3人姉妹の長女なのだ。僕は年上とは言え、所詮は男。精神年齢も低い。暴力に訴える訳にも行かず、しかし口で勝てる訳が無い。彼女達にとっては、僕は格好のイジメ甲斐の有るヤツだっただろう。まぁ、そんな想い出も有りつつ、もう結婚かぁ、という感じ。あまりにも僕には縁遠い話で、あんまり想像が付かない。

問題は、彼女達が住んでいるのは新潟だという事。当然、今日の結婚式も新潟で行われる。当初は上越新幹線で行く予定だったが、先日の新潟中越地震の所為で完全復旧していない。仕方無く父親の運転する車で行く事となったのだが、ここ1年で父親は自動車事故に3回も遭っており、あまり車運が良くない。

あぁ、事故も心配だし、余震も心配だ。明日の午前中に帰宅予定なので、明日の夜になっても日記が更新されていなかったら、「何か有ったんだな」と思って欲しい。

では、これから行って来ます。


2004年11月12日(金) 部室の中心で“アイ”を叫んでみた

サークルの後輩(女性)に「数学を教えて欲しい」と呼び出されたので、サークルの部室(みたいな場所)で教えてきた。

『位相』という分野を教えていたのだが、その中で唐突に“区間I”というのが現れ、それが意味不明だったので、思わず「“I”って何だよ、“I”って!」と叫んでしまった。

すると周りのサークルメンバーには、僕達が“愛”について語ってるように見えたらしく、その後輩の女の子は「“I”じゃなくて、“J”にしましょうよ」と、恥ずかしそうに言って来た。

それに対し、僕は平然と「じゃあ“I”じゃなくて、“H”にしよう!」と返したが、その瞬間、明らかに周りからの視線が冷たくなった。別の後輩からは、「最悪ですね、kasaさん」とまで言われた。

「ユーモアの分からないヤツラめ」と心の中では思ったが、それを口にすると「だからkasaさんは、センスがオヤジなんですよ」とか言われそうだったので、口には出さなかった。でもこうやって日記には書いているので、きっと「センスがオヤジ」だと思われる事になるんだろう。

…………ユーモア、だよ、ねぇ?


2004年11月11日(木) テキストタイトルとアクセス数

テキストのタイトルは、アクセス数に大きく影響する。

昨日は『駄文にゅうす』さんにリンクを貼られ、一時的にアクセスが増えた。リンクを貼られたテキストは、「巨乳嫌いな女性」「巨乳は馬鹿じゃない」「日本人に貧乳が多い理由」の3つである。



全て胸に関するテキストだったが、面白い事にテキスト毎のアクセスには、大きな差が生じていた。『Read me!』のアクセスカウントに拠れば、「巨乳嫌いな女性」が150アクセス、「巨乳は馬鹿じゃない」が94アクセス、「日本人に貧乳が多い理由」が254アクセスだった。「日本人に貧乳が多い理由」は、「巨乳は馬鹿じゃない」の2.5倍以上のアクセスが有った事になる。

上の画像を見れば分かるように、3つのテキストのリンクの貼られ方には、特に相違が無い。いや、最も下に配置された「日本人に貧乳が多い理由」は、寧ろアクセスが少なくなるのが自然だろう。しかし実際には、そうではなかった。

となると、3つのテキストのアクセス数が分散した原因は、テキストのタイトルに有るとしか考えられない。

例えば「巨乳は馬鹿じゃない」というタイトルは、「あぁ、『巨乳は馬鹿だ』という認識は誤っている、という事を言いたいんだな」と、読まずとも内容が想像出来てしまう。そうなると多くの人はアクセスすらしてくれない訳だ。

一方、「日本人に貧乳が多い理由」というタイトルは、「ん? そう言えば確かに、どうしてだろう?」と、読者の興味を引く効果が有ったのではないだろうか。よって相対的に、こちらの方にアクセスが集まったと思われる。

勿論、長期的にアクセスを伸ばすには、テキストの内容や質がモノを言うだろう。しかし、その為には取り敢えず読んで貰わないと始まらない。その意味では、テキストのタイトルは重要な意味を持つ。

以上より今日の結論。

テキストに巧妙なタイトルを付ける事には、短期的なアクセスを集める効果が有る。


2004年11月10日(水) 人間は考える葦である

何故、人間が“葦”なのか?

「人間は自然の内で最も弱い一茎の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である」という、あまりにも有名な言葉が有る。哲学者であり数学者でもあった、パスカルの言葉だ。

パスカルは1623年にフランスで生まれ、8歳の頃から数学者の会合に出席するようになり、16歳の時には既に「円錐曲線試論」という本を出版している。有名な『パスカルの三角形』を考案したのは、彼が31歳の時だった。また、『数学的帰納法』という重要な論証法や、物理学や気象学で重要な『パスカルの法則』の発見、計算機の発明など、様々な分野で功績を残している。正に“天才”と称するに相応しい人物である。

そんな彼は、人間を葦に例えた言葉を残した。しかし、どうして“葦”なのか?

パスカルは哲学や数学の分野では有名だが、一方では熱心な宗教者だった事が知られている。少なくとも彼が31歳の時には、「私は神と出会った」という(無宗教の僕から見ると、ちょっとアブナイ)発言をしていたのは確かなようだ。パスカルは39歳という若さで亡くなっているが、彼の最期の言葉は「神が私を捨てたまわぬように」だったという。

そんなパスカルの晩年(と言っても30代だが)は、「宗教を前提としない人間学の立場から、如何に信仰の必要性と正当性を示唆するか」という事に没頭していた。「人間は考える葦である」は、そんな時代の言葉である。

従って「人間は考える葦である」とは、単に「“考える”という事の重要性を説いた」という直截な意味だけでなく、非常に宗教的意味合いの強い言葉だったと考える事が出来る。

大橋良介の『「考える葦」の場合』では、パスカルは新約聖書に於いてイエスが群衆に向かって言った、以下のような言葉を念頭に置いたのではないか、という解釈を紹介している。

「汝らは何を見ようとして野に出て来たのか。風に揺らぐ葦であるのか」

これは群集が洗礼者ヨハネよりも、ただ風に揺らぐ取るに足らない葦を気にしている状態を、イエスが嗜めた場面である。パスカルは、これを意識して“葦”という言葉を使ったのではないか、というのだ。

以上より今日の結論。

「人間は考える葦である」という言葉は、パスカルが熱心な宗教家であったからこそ、そうなった。もしも昔の人間がバラに気を取られていたら、「人間は考えるバラである」という言葉が残されていたかも知れない。


2004年11月9日(火) オタクと秋葉原

昨日、サークルの後輩達がマジックの練習をしている場に、少し顔を出した。1時間ほどして「じゃあ僕は新宿で買い物が有るから」と言って席を立った時、4歳下の後輩に「え? kasaさんって、買い物するなら秋葉原じゃないんですか?」と言われた。

どういう事だ? 「kasaと言えばオタク」+「オタクと言えば秋葉原」=「kasaなら秋葉原で買い物」という三段論法か。確かに秋葉原に行くと、妙に居心地が良いのは事実だが。

しかし4歳も下の後輩に、そんな目で見られていたなんて。ショック極まりない。その後輩は、このサイトもチェックしているらしい。それも原因の一端を担っている気がする。いや、そうに違いない。そう信じたい。

ところで、どうして「秋葉原=オタク」というイメージが形成されたのかが気になったので調べた所、森川嘉一郎さんの『電気街とオタクの力学――秋葉原の考現学』に詳しく出ていた。秋葉原には昔からオタク的要素が多かったが、現在真っ先に思い浮かぶような典型的なオタク文化(ex.メイド喫茶)が蔓延るようになったのは、1990年代後半からのようだ。意外と歴史は浅い。

以上より今日のイイタイコト。

オタクだからと言って、秋葉原だけに生息している訳ではない。「オタクと言えば秋葉原」又は「秋葉原と言えばオタク」は通用しない。オタクと秋葉原との間には、強い相関関係が存在するだけである。


2004年11月8日(月) ブルーマンデー症候群

月曜日は憂鬱だ。

目覚めたら既に講義に間に合わない時刻だった。仕方ないので今日は、午後の演習だけ出席する事にする。それにしても月曜日の午前の授業というのは、気が重いものだ。

このように「月曜日は学校(会社)に行きたくないなぁ」と感じてしまう症状を、『月曜病』または『ブルーマンデー症候群』と言う。人によっては精神的だけでなく、風邪気味になったり胃腸の調子が悪くなるなど、肉体的な害にまで発展する事も有る。

そして『月曜病』が高じると、『出社拒否症』にまで発展する。こうなると登校や出社途中に急激に体調が悪化し、途中で自宅に引き返ってしまう事になったりする。『出社拒否症』は鬱病の症状の一つでもあり、もしかしたら僕も無意識の内に「寝坊してしまおう」という本能が働いていたのかも知れない。……多分、僕の場合は、言い訳。

以上よりイイタイコト。

月曜日が憂鬱なのは、『ブルーマンデー症候群』の所為だ。これが高じると『出社拒否症』となり、心身に異常を来たす。気を付けよう。

ちなみにアメリカでは、「ブルーマンデー・レモン」というジョークが有るそうだ。この場合の「レモン」とは欠陥品の事で、「月曜日に製造された自動車は故障が多いので誰も買わない」という意味らしい。本当だろうか?


2004年11月7日(日) 後悔の話

何の専門的知識を持たずに帰納的結論を導くのは危険である。

今日は後悔の話。

僕は数学科に所属する大学生だ。数学科だから医学とは何の関連性も無い分野を専門としている訳だが、ある程度の医学的常識は知っている。例えば、「薬を飲んだ時にはアルコールを摂取してはいけない」とか。

で、僕は現在、鬱病である為、坑鬱剤を服用している。毎日だ。

となると、ここで一つの結論が導かれる。即ち、「僕は鬱病が治るまで一切アルコールを摂取してはいけない」と。

しかし、この結論を僕の深層心理は認めたがらない。お酒が好きだから。そうして如何にも意志の弱い人間らしく、次のような事を思ったりする。――ちょっとくらいなら、良いんじゃないか?

こうして坑鬱剤を飲んだにも関わらず飲酒もする、という日々が始まる訳である。(←別に、毎日お酒を飲んでる訳ではない。)

最初の内は怖さも手伝ってか、少しだけ飲む。すると案外、平気。段々と酒の量が増え始める。良い気分になる。

そういう日を何日か経験すると、何時の間にか「ちょっとくらいなら」が外れ、調子に乗って「普通に飲んでも平気なんじゃないか?」となってくる。もう読者の方も想像が付いてると思うが、これが危険の始まり。

昨日は1人で日本酒を4合飲んだ。死んだ。

以上より今日のイイタイコト。

日常生活で身に付けた経験は、個々の特殊な事実に他ならない。そこから共通する性質や関係を見出し、一般的な命題や法則を導く帰納法的論法は、専門的知識を持たない人間が行うべきではない。

私信:昨日、僕と一緒に飲んだ方々、大変なご迷惑をお掛けして、誠に申し訳有りませんでした。


2004年11月6日(土) プレステ2、故障

ウチのプレステ2が壊れた。あまりに悔しいので日記に残しておこうと思う。

何回か日記に書いたと思うが、僕はテレビゲームが大好きな人間で、3歳の頃から遊んでいる。今でも大好きだ。プレステ2が出た時(2000年3月)、僕は大学受験の季節で、合否は出ていなかったが試験は終わっていたので、普通に発売当日に購入した。海外のDVDが見れてしまう不具合が有ったりして、色々と話題になった初期ロット(初回生産分)だった。

で、買った当初は1日10時間くらいゲームをやっていた。しかし酷使し過ぎた所為か、半年でCDやDVDを読み込まなくなってしまった。故障だ。ただ保証期間内だったので、その時は無料で修理して貰えた。

あれから4年。4年前に大学1年生だった僕も、今では大学3年生だ。(←自虐。)

実は既に2年くらい前から、何回かに一度は起動時にソフトを読み込んでくれない、という現象が起こっていたのだが、リセットボタンを押して再起動させると、ちゃんと読み込んでくれるので放っておいた。保証期間が過ぎてしまっていたので、プレステ3が出るまでは騙し騙し使っていこう、という判断。

ところが最近では、10回くらい再起動させないと読み込みに成功しなかったりして、遊び始めるまでに余計な時間を喰うようになった。で、一昨日は遂に、最後まで読み込んでくれなかった。ちなみに100回、再起動を繰り返した。

流石にもう駄目だ。修理に出すか、買い換えるしかない。しかし、まるで何かのタイマーで計っていたかのように、3日前から小型化された新型プレステ2が発売されているではないか。完全故障したのは一昨日だから、そのタイマーは恐るべき正確さだ。

しかも当時は39800円もしたプレステ2だが、今度の小型化プレステ2は19800円。如何にも「買い換えろ!」と言わんばかり。躍らされてみるか?

しかし問題が有る。12月には、任天堂とソニーが揃って新型携帯用ゲーム機を販売するのだ。そして、どちらも買う予定。そうなると、近い内に3つもハードを購入する事に……。

今日のイイタイコト。

要は、お金が足りない。

このジレンマ、どうやって解消しよう……。


2004年11月5日(金) 携帯電話でのメール

来るべきメールの返信が来ない時、どうすれば良いのか?

携帯電話でのメールは、何処か日常生活に於ける会話と共通してる部分が有ると思う。文面も(パソコンでのメールよりは)喋り口調に近くなるし、何より気軽さが違う。パソコンでメールを打つ時は、その送信先に関係無く肩に力が入ってしまう。携帯電話でのメールは、気軽さという点に於いて、普段のお喋りに近い。

だから知人とメールをする時は、殆どの場合に携帯電話を使用する。パソコンのメーラーを見てみると、この2年間で知人と交わしたメールは100通に満たない事が分かった。携帯電話でのメールは、少なくともその数十倍には達しているだろう。

携帯電話でのメールは気軽だから、何でも話題になる。大概は他愛無い事だが、時には深刻な内容でも、あっさり言えてしまったりする。

しかし稀に困るのは、深刻な内容のメールを受け取り、それに返信したにも関わらず、何日経っても返信の返信が来ない時だ。明らかに疑問系で返した返信に対して返信が無いのは、どういう事だ? 内容が深刻なだけに、ちょっと心配になる。自分の返信に何か落ち度が有ったのかと、ネガティブ思考を巡らせたりもする。

こういう事態の時、実は相手が返信したつもりだったのに勘違いしていたとか、単に送信を失敗していたのに気付かなかったとか、そういう「なぁんだ」と思わせるような真相である事が多い。こういう場合は、「この前のメールに返信が無いんだけど……」とでも再度メールを送信すれば、事は足りる。

でも何となく、そういうメールは送り難いのである。相手に「積極的に干渉しようとしている」と思われたら(“過干渉”というレッテルを貼られるかも知れない、という意味で)嫌だし、もしかしたらメールに有った深刻な事情により、何か修羅場状態に身を置かれて返信どころの話じゃないかも知れない、とか思ったりする訳だ。

でもやっぱり、何日も返事が無いのは心配である。正にジレンマだ。こういう時、他の人はどうしてるんだろう? 特に気にせずに返信を待つのかも知れないし、さっさと返信を請求するのかも知れない。どっちなんだろう?

以上より今日のイイタイコト。

携帯電話によるメールは気楽だが、だからこそ深刻な内容を語る時は注意が必要だ。


『デスノート』第4巻を購入。表紙のミサは、正直怖い。66ページ右下のコマの、ライトの言葉に動揺している粧裕は、とてつもなく可愛い。感想は以上。


2004年11月4日(木) “手作り”の魔力

年齢が低いほど、“手作り”という魔法に魅せられ易い。

季節外れだろうと何だろうと、再びバレンタインデーの話。このサイトは僕の知り合いも見ているので、時期外れの方が変な邪推をされなくて良いだろう。

『Food's-Foo 推進機構』の2004年の調査では、女性に対する「本命チョコとして贈るなら、どんな物にしますか?」というアンケートで、以下のような結果となった。

意外と「チョコレートケーキ」と答える人が多い。知らなかった。ところが、このアンケートを10代女性に限ると、結果は以下のようになる。 圧倒的に「手作りチョコレート」と答える人が多くなった。10代女性の4人に3人は、「本命には手作りチョコを」と考えている訳だ。ちなみに20代女性も40%が手作りチョコ派で、全体平均よりも大きくなっている。

一方、男性に対する「本命チョコとして貰うなら、どんな物が良いですか?」というアンケートの結果は、以下の通りだった。 「欲しくない」という人が9人に1人も居るとは驚きだ。本命チョコばかり貰うような男性だろうか。確かに幾つも本命を貰えるような立場なら、そう思うかも知れない。(僕には一生、思う機会は無いだろう。)

さて、これも10代男性に限ると、「手作りチョコレート」と答える人は56.1%にもなる。女性ほどではないが、男性も低年齢者ほど、手作りチョコに拘る傾向に有るようだ。

以上より今日の結論。

性別に関係無く年齢が低いほど、手作りチョコレートに価値を感じている。逆に言えば、加齢に伴って手作りチョコは価値が下がって行く。

手作りチョコの価値が下がって行くのは何故だろうか? 多分、市販されているチョコの方が美味しいと気付くからなんだろうな。

よって、さらにイイタイコト。

“手作り”というのは、一種の魔法。一定時間を経過すると、効果は消える。


2004年11月3日(水) チョコレートとバレンタインデー

日本のチョコレート業界に於いて、バレンタインデーの存在は貴重である。

チョコレートの話題が続いているので、季節外れだがバレンタインデーの話を。

バレンタインデーに「女性が男性にチョコレートを贈る」という習慣が出来たのは、日本のお菓子メーカーの戦略だったという話は有名だが、果たしてバレンタインデーはチョコレート全体の売上げに、どのくらい貢献しているのだろうか?

というのも、2日前に書いたように、僕には多くの女性がバレンタインの時期に限らず、年中チョコレートを買い漁っているように見えて仕方ないのである。(←一部は偏見だった事が2日前に判明した訳だが。)実はバレンタインデーなんて無くても、チョコレートは売れてるんじゃないか?

そもそも「バレンタインデーにチョコレートを!」という謳い文句は昭和10年代から行われて来たらしいが、実際に定着したのは1970年頃だと言われている。所謂“義理チョコ”の発生はもっと遅く、1980年代に入ってからだと言う。意外に歴史が浅い。

『日本チョコレート・ココア協会』の「バレンタインデー統計表」に拠ると、チョコレート自体の売上げは1982年から殆ど横ばい状態で、増えてもいないし減ってもいない。

対してバレンタインシーズンのチョコレートの売上げは、1970年の調査開始以降、34年間で6回しか前年の売上げを下回った事が無い。その6回の内、5回はバレンタインデーが土曜か日曜の年で、学校や会社が休みの所為で義理チョコの必要性が低かったものだと考えられる。残る1回は1995年で、この年はバレンタインデーは平日(火曜)だったが、1月に阪神大震災が発生した為に、その影響を受けたと考えられる。

つまり、バレンタインシーズンのチョコレートの売上げは、曜日や国内情勢に左右されてはいるものの、基本的には順調に伸びていると言う事が出来る。実際、1970年と2002年のデータを比較すると、チョコレート全体の売上げは4倍程度だが、バレンタインシーズンの売上げは10倍近くまで増加しているのだ。

以上より今日の結論。

チョコレート業界に於いてバレンタインデーは、益々その重要性を増して来ている。

それにしてもバレンタインシーズンのチョコレートの売上げは伸びているのに、その恩恵を全く受けていない気がするのだが、それは気のせいですか。そうですか。まぁホワイトデーの御返しをしなくて良いのは楽だけどね!


2004年11月2日(火) チョコレートと加工貿易

チョコレートからは、宗主国と植民地との構図の名残を窺う事が出来る。

「2002年版FAO農産物貿易年報」に拠れば、チョコレートの原料となるカカオ豆の最大輸出国はコートジボワールで、世界全体の45%程度を占める。以下もアフリカ諸国が上位となっており、世界のカカオ豆の輸出量の70.2%がアフリカ、16.0%がアジアである。ヨーロッパは7.2%を占めるに過ぎない。

一方、チョコレートの輸出量を見ると、カカオ豆を大量生産している筈のアフリカは僅か世界全体の1.0%でしかなく、一方でヨーロッパは72.7%を占める。

つまり、アフリカはチョコレートの原料であるカカオ豆をヨーロッパに輸出し、ヨーロッパは輸入したカカオ豆でチョコレート製品を作り、それを輸出している訳だ。このように、「原材料を外国から輸入し、国内で加工した物を輸出する貿易」を加工貿易と言う。

そもそも加工貿易とは、産業革命以降にイギリスが植民地であるインドなどから綿花を輸入し、逆に綿糸や布を輸出したのが始まりであると言われている。つまり宗主国が植民地から安く原料を輸入し、それを高価格な製品に加工して、逆に植民地やその他の国々へ輸出するのが加工貿易だ。

宗主国が植民地に対して加工貿易を行うのは、それが確実に利益を生み出すからである。事実、アフリカのカカオ豆の輸出量とヨーロッパのチョコレートの輸出量は、重量で比較すると殆ど同じなのに対し、金額比で見ると2倍以上の差が存在する。

現在の加工貿易は、必ずしも宗主国や植民地といったネガティブな背景を持つとは限らない。例えば日本は、鉄鉱石を輸入し自動車を輸出する、という加工貿易を行っている。しかしカカオ豆とチョコレートの関係は、旧来の植民地時代から続く構図を色濃く残していると言えるのである。

以上より今日の結論。

カカオ豆とチョコレートからは、以前の宗主国と植民地との構図の名残を窺う事が出来る。


2004年11月1日(月) チョコレート

意外にも日本のチョコレート消費量は少ない。

何故だか知らないが、女性というのは常にお菓子を携帯しているイメージが有る。サークルに行くと、休憩時間中に誰かしらお菓子を食べていて、目が合ったりすると「一つ、どうですか?」なんて言って差し出してくる。こっちはダイエット中だ。

彼女達は特にチョコレートの菓子類を好んでいるようだ。実は僕もお菓子好きなのだが、チョコレートの持つ苦味は苦手である。生クリームも駄目なので、どちらかと言えば和菓子が好きだ。まぁそんなに頻繁には食べないが。

ところで、あれだけ日本人女性がチョコレート菓子を食しているのだから、その消費量は相当なものなのではないかと思い、『日本チョコレート・ココア協会』の「世界主要国チョコレート生産・輸出入・消費量(2001年)」を調べてみた。

すると、日本人のチョコレート年間消費量は1人当たり1.9kgで、これは調査20ヶ国中16位だった。年間1.9kgというと、1ヶ月で160gである。こう考えると大した量ではないように感じるが、チョコレートを殆ど食べない小さな子供や老人、そして僕のような男性の存在を差し引けば、実際の日本人女性のチョコレート消費量は、もっと高い数値になるだろう。

しかし世界の壁は厚い。最もチョコレートを食べるのはスイス人で、彼らは1人当たり年間10.6kgもの量を消費している。日本人の5倍以上だ。他にもアメリカは4.9kg、ドイツは8.2kg、イギリスは7.8kgと、先進諸国のチョコレート消費量は、日本の数倍程度にもなっている。

以上より結論。

日本人女性はチョコレートを食べ過ぎだと思っていたが、実はそうでもなかった。まぁ食べるのは自由だが、ダイエット中の人間に勧めるのは勘弁して欲しい。


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