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2005年3月

DIARY MAIN

2005年3月31日(木) 色々と報告&告知

年度の変わり目ですね。いよいよ明日からは2005年度です。いやー、僕もやっと大学4年生ですよ。2006年度も大学4年生である事が決まってる訳ですが。――って、そんな愚痴は置いといて。

取り敢えず、今後のサイト方針について告知を。まぁ基本的には今までと変わり無いんですが、これからは日記やエッセイという枠に限らずにテキストを書いていきたいな、と。前にチラッと言ったように、本当は小説を書きたかったんですよ、僕は。でも日記を毎日書きながら小説も……というのは、いくら暇な人生を歩んでいる僕でも無理な事を悟りました。

一方で書きたい小説のネタは溜まって行くばかりで、どうにかこれを形にしたい、と。そこで思い付いたんですが、小説を“日記”としてアップすれば良いんですね。既に「お前の日記は最早“日記”とは呼べない」と散々に言われてますから、ここで小説を“日記”として書いても何の問題も無いハズです。

という訳で、これからの僕の日記は日常系雑記(所謂、“日記”)や考察系エッセイの他に、小説などのテキストも含む事になります。現在サイトにアップされている尻切れトンボな小説達は、一度撤退させてから再構成して公開します。

それに伴って、現在更新報告をしている4つのサイト(『テキスト庵』『日記圏』『日記才人』『Read me!』)への更新報告はストップしたいと思います。但し完全に撤退する訳ではありません。更新報告をしないだけで、例えば『日記才人』などでは、読者としての参加は変わらずにしていく予定です。

えーと、次にダイエット結果。今月は2.6キロ減でした。先日の急性アルコール中毒で一気に落ちたんですが、幾らか戻ったようです。まぁこれは身体が健康を取り戻したという事で、歓迎すべきなんでしょう。累計で6.6キロ減なので、来月のノルマは1.4キロ減となります。(ルールの詳細は今年元日の日記で。)

さらにさらに今月の『Amazonアソシエイト』ですが、合計46商品139396円の売上げ、僕への紹介料は6153円でした。1日平均198円で、先月の11円や先々月の17円を大幅に超える結果となりました。購入してくれた方々には感謝。この金額には、ちょっとビックリしました。

ではでは来年度もヨロシクお願いします。小説は「詰まらない」と言われても書きますから!(←主に知り合いに対して。)


2005年3月30日(水) 白タイツと黒タイツ

最近の日記は真面目過ぎました。もっと不真面目に行きましょう。

西新宿の某雑居ビル2階にある18歳未満お断りな書店兼DVD店を徘徊していた先日。「あぁ僕の心を癒してくれる広末涼子似かつロリータ系の女優さんは居ないかなぁ」と思いながら雑然と並べられたDVDを見回していた処、女子校生に白タイツや黒タイツを履かせたりするDVDが有ったのです。ちなみにこれは18歳未満お断りなDVDですから、「女子高生」ではなく「女子校生」です。この違いは非常に重要です。「女子校生」なら一般視聴者には出演女優を「高校生」と思わせる事が出来ると同時に、某当局には「大学生」だと主張する事が可能ですからね。

さて「タイツは白か黒か?」という問題は、「ナース服は白かピンクか?」と同じくらいに極めて重大な事項である事は明白です。男性が3人も集まれば熱い議論が展開できる事は間違い有りません。どちらの色がより優れているかは、永遠に真偽が判定できない命題であると言えるでしょう。そう、ゲーデルの不完全性定理によって実在する公理系に於いては証明不可能な命題が存在する事が証明されていますが、その端的かつ平易な具体例が正にコレな訳です。

僕はナース服には(比較的)萌えないタイプなので白でもピンクでも構わないのですが、タイツの色は非常に大切だと思っています。勘違いしないで欲しいのですが僕は別にタイツフェチな訳じゃありません。他に何も着ずにタイツだけを身に付けている女性が僕の目の前に現れたら、完全に何も身に纏っていない時よりも激しい反応を見せるかも知れませんが、これは全裸よりも「大切な部分は隠れてる方が想像力を働かせられる」とか「靴下だけは是非とも履いていて欲しい」みたいな人間として普遍的な感情と共通する物です。決して特別な事ではないハズです。

で、タイツの色の話なんですけれども、僕的には黒タイツはイマイチなのです。萌えない。一方で白タイツには激しく萌えます。繰り返しますが僕はタイツフェチではありません。もしかしたら“白タイツフェチ”なのかも知れませんが、これは“タイツフェチ”とは一線を画すモノだと考えます。どれくらい違うかと言えば、オタクとマニアくらいの差異が有ります。本人達はキッチリと違いを認識しているけれども傍から見ると両方とも同類に見えるという点に於いて、この2つの関係は近似しています。

そのDVDには女子高生に白タイツを履かせるヴァージョンと黒タイツを履かせるヴァージョンが有りました。何と好きな方の色が選べる訳です。流石、AV制作者。視聴者の心が解っています。彼らほど視聴者を意識した映像メディアを作成している集団は存在しないに違いありません。そして僕が迷わず白タイツを履かせるヴァージョンを手に取った事は言わずもがなです。そりゃそうでしょう。やっぱりタイツと言えば純真無垢を表す白ですよ。黒タイツは大人な女性を表現している感じじゃないですか。僕はロリコンなんですよ。

まぁAV女優な時点で純真無垢も何も有ったもんじゃないような気がしなくもないですが、そんなどうでも良い処で僕を夢から醒まさないで下さい。僕を惑わそうったって、そうは問屋が卸しません。実在というのは絶対ではなく相対なのです。対象は自己の内部に於いてのみ存在を許されますから、僕が「彼女は純真無垢なんだ」と思えば彼女は純真無垢になる訳です。哲学って便利ですね。

さて、手に取った女子高生に白タイツを履かせるヴァージョンのDVDですが、僕は致命的な欠陥に気付きました。女優が可愛くないんです。盲点でした。白タイツばかりに目を奪われて、肝心の女優の顔のチェックを怠っていたのです。危うくレジに持って行ってしまう処でした。危ない危ない。再三に渡って注意しておきますが僕はタイツフェチではないので、タイツを履いてりゃ良いって訳ではないのです。やっぱり顔は重要です。

――という訳で、僕は女子校生にタイツを履かせる18歳未満お断りなDVDの購入を諦めました。

――代わりに、『山中りく』(下の画像参照)という女優のDVDを買いました。こういう女性が好みです。



今日の日記で30人くらいは居たであろう女性読者の内、半分は失った気がします。


2005年3月29日(火) 結婚祝い

26日(土)の夜に、サークルの友人(ここでは“友人D”としておきましょう。)の結婚祝い飲みをしました。友人Dは僕より1歳年上とは言え、同年代の人間です。

昨年は僕よりも年下の従姉妹が結婚しましたし、「そういう年代なんだなー」と改めて実感。ちなみに従姉妹は4月2日に出産予定だそうです。子供を見る為に、新潟まで日帰りで行こうかと検討中。極めて短期間で上越新幹線を復旧させたJRには、頭の下がる思いです。新幹線無しでは東京から新潟まで日帰りは無理ですからね。かなり予定の調整をしないといけないので、実際に行けるかどうか微妙なんですが。

さて、友人Dの結婚祝いの話に戻ります。飲み会の1次会が21時からと遅かったので、19時ごろから0次会を決行。何故か「愛・地球博に乾杯!」という掛け声が。しかも最初に話題に上ったのが、「楽天が開幕戦に勝った!」というニュース。友人Dの結婚は何処に行った?

僕の方は僕の方で、勝手に酒を飲み進めていました。いくらワインを飲んでも酔いが回らないので、「今日は調子が良い日だ」と解釈。これが間違いの元でした。この時点で飲酒量は、ワインボトル1本+カクテル2,3杯。

で、場所を変えてようやく1次会。相変わらず調子が良いので、調子に乗って飲みまくり。ワインをグラス2杯+カクテル5,6杯。でもまだまだ意識はハッキリ。「今日はかつてないほど調子が良い」と解釈。今日、二番目の間違い。

途中で友人Dの奥さんが来てくれました。ネットで公開してる写真(↓)は詐欺だと言われました。僕もそう思います。これ、僕が19歳の時の写真ですからね。今は23歳です。



そのまま日付が変わる頃に2次会へと突入。ココでの記憶は殆ど有りません。要は既に飲み過ぎてたんですね。そう言えば0次会の時点で後輩に「この人やばそうだなー」って目で見られてた気がします。後で同席していた友人達に拠ると、以下のような行動を取っていたようです。

以上の行動の結果、困った事。 あぁ、ちょっと困ったな……。


2005年3月28日(月) 不老不死に関する考察7(「不老不死」を捨て去った代償)

B:「不死」を得る事は不可能だとしても、どうして我々人間を初めとする多くの生物達は、「不老」までも捨て去ろうとしたんでしょうか?

A:一つには個体数調整の目的が有るだろう。仮に人間が「不老」になったとする。一部の先進国を除いては現在でさえ人口爆発が大問題になっているのだから、人間が「不老」化したら益々その問題が大きくなる。「不老」となっても種の個体数が一定に保たれる為には、食物連鎖に於いてかなりの下位に位置しなければならない。人間には、それは無理だ。

B:食べられてしまうのは……確かに嫌ですねぇ。まぁ他の生物達も嫌でしょうが。

A:自然界に於いて上位に位置する為には、「不老」は必然的に捨て去らねばならなかった訳だ。

B:でも……よく考えてみると、「不老」となって寿命が大幅に延びたとしても、その分だけ子供を生む周期も長くなれば、人口爆発は防げるんじゃないですか?

A:それは一理有る。確かにその通りなのだが、そうなると今度は別の問題が発生するんだな。これが「不老」を捨て去った二つ目の理由にも繋がる事だが――余りにも長い寿命は、遺伝子の多様化を抑制してしまう。

B:あ、なるほど。有性生殖をする生物にとっては、新規個体の作成は種の保存の他にも、遺伝形質を変化させる目的が大きい訳ですね。

A:その通り。遺伝子を多様化させないと、例えば一種類の新型ウィルスによって人間が絶滅しかねない。それを防ぐ為には常に新しい遺伝配列を組み上げていく必要が有る。それもなるべく短期間サイクルで、だ。

B:「不老」によって人間の寿命が延び、個体数維持の為に生殖の頻度を抑えると、遺伝的に不利な結果となってしまう。だから人間は「不老」でないのだと?

A:そう。誤解を恐れずに言えば、人間はセックスをする為に「不老不死」を諦めたんだ。

B:誤解されそうな言い方ですねー。

A:有性生殖をする生物が「不老」を捨てた理由としては、小説『あなただけのかまいたちの夜2』に以下のような言及が有る。

私は思うんだがね、もしかしたら生物は『不老不死』を諦める代わりに『出会い』を手に入れたんじゃないだろうか。バクテリアは確かに永遠に生きるかもしれない。しかし彼らに出会いはない。彼らは単に分裂増殖するだけだ。しかし、人間は違う。人間には『出会い』がある。巡り会って、そして新しい世代を作り上げていくのが人間だ。
ロマンチックすぎる考えかもしれない。でも、もし私の考えが正しいなら、『出会い』というのはそれだけ大切なものだと言えるんじゃないかな。生き物が『不老不死』を諦めてまで手に入れたもの。『不老不死』と等しいくらい大切なもの。それが『出会い』だと思う。


B:こういう結論を待っていたんですよ! セックスじゃない。出会いです。出会いの為に「不老不死」を諦めた――「不老不死」を捨て去った代償が“出会い”だなんて素敵じゃないですか!

A:しかしなぁ、出会いというのは結局セッ――

B:あー、もう良いですから。という訳で、全7回に渡って連載してきた「不老不死に関する考察」は以上で終わりです。最後まで読んでくれた方々、ありがとうございました!

A:では次回の対話篇で、またお会いしましょう。“中の人”は「対話篇は疲れるから、もうしばらくはやらない」とか言ってるようですが、どうせ口だけの人間ですから問題無いでしょう。それでは!


2005年3月27日(日) 不老不死に関する考察6(「不老」とバクテリア)

A:「不死」が基本的には現実に存在しないのに対して、「不老」という特性を持った生命体は幾つか存在する。単細胞動物など、非常に簡単な身体構造をしている生物は「不老」である事が多い。例えばバクテリアは死なない限り、永遠に細胞分裂を繰り返して自己を増殖させていく。

B:なるほど、それだけを見ても「不死」と「不老」が大きく異なる事が解りますね。

A:「不死」と「不老」のもう一つの違いは、「不老」は結局は死の運命からは逃れられていない、という事だろうね。そういう意味で「不老」は、「不死」ほどには絶対的な特徴ではない。

B:では「不老」の意義とは何でしょうか?

A:「不死」の欠陥の補完だろうな。『火の鳥 未来編』の山之辺マサトが「不死」でありながら長い年月の後に肉体が風化し魂だけの存在になったように、「不死」は所謂「不老不死」を望む者の理想とは異なった形質を持っている。簡単に言えば、死ななくても老いぼれては仕方無い、といった所だろうか。

B:そこで初めて「不死」と「不老」とを組み合わせる事に価値が産み出される訳ですね。

A:まぁ既に議論してきたように完璧に見える「不老不死」も、それが本当に幸福と成り得るかは別問題だけどね。

B:……ここでもう一つ疑問が沸いたんですけど。

A:なんだい?

B:地球上に原始的な生命が生まれた頃――何十億年も前の話になりますけど、その頃の生命体は殆どが単細胞生物で細胞分裂などを行っていた訳ですよね? つまり地球上にはバクテリアみたいな「不老」の生物ばかりが蔓延っていた事になります。そして彼らが次第に進化して現在のような生態系が出来上がった訳ですが、その中には「不老」を持続している生物は多くありません。つまり、多くの生物は進化の過程に於いて「不老」を捨て去った事になる訳です。これは何故なんでしょうか?

A:敢えて「不老」を選択しなかった理由か……。なるほど、興味深い。「不死」は無理でも「不老」は不可能な話じゃなかった訳だから、老いるという事に何らかの価値が存在する事になるハズだね。さて――


2005年3月26日(土) 不老不死に関する考察5(死の恐怖と生の恐怖)

A:山之辺マサト以外の人類全てが滅んだハズの世界で、彼は一つの冷凍睡眠装置を見つける。その装置には以下のような文章が書かれていた。

私は五千年眠る。もし生きているだれかがこの箱をみつけたとしても五千年は開けないでほしい。放射能の危険がなくなったとき、私は自動的に冬眠からめざめるだろう。

A:この言葉を唯一の拠り所とする事で、彼は五千年もの長い時間を孤独と共に生き抜いた。しかし現実は残酷で、五千年後に冷凍睡眠装置を開けた時には、中の人物は既に風化してしまっていたんだ。

B:このエピソードが語りたい事は何なのでしょうか?

A:単純に見れば、「不死」が孤独と切っても切り離せない運命である事を示している、と言えるだろう。この場面で山之辺マサトは再び絶望している。

五千年…わしは待つのが楽しかった!! 次の五千年…その次の五千年………わしはなにを期待して生きればいいのだ?

A:ただ一方で、もう少し穿った見方をする事も出来そうだ。「不死」というのは所詮、絵空事に過ぎない。そういう状態の人間の悲劇を直接的に読者へ訴えかけても、それは読者の心まで届かない。

B:では手塚治虫は何を言いたかったのだと思う訳ですか?

A:恐らく……話し相手の必要性だ。使い古された言い回しを用いるなら、“人は独りでは生きて行けない”と言っても良い。そこまで来て初めて、限り有る生命である僕達は、自己を山之辺マサトに投影できる。

B:つまり、生とは完全なる歓びではない、と?

A:そう。泰然なる生は孤独という恐怖を生み出す。ただ一方で、人間は死も恐怖するという二面性を持っている。これについても『火の鳥 未来編』は言及している。ストーリーはさらに進み、山之辺マサトの肉体は滅び、魂だけの存在となってから数十億年が経過した世界での事だ。一度は滅んだ地球が再び生命を生み出し、神と化した山之辺マサトが新たなる人類を見守ろうという時、何故か地球では哺乳類が進化せず、ナメクジが人間のように直立歩行して凄まじい進化を遂げてしまう。

B:あんまり長い説明を続けないで下さい。僕の発言が無くなってしまうじゃないですか。喋らない僕なんて、存在しないのと同じなんですよ。実体が無いんだから。そうなったら怖いですよ。

A:あぁ、悪かった悪かった。

B:えぇと、では続きを。その進化したナメクジは、しかし嘗ての人間のように人種(ナメクジ種?)差別などが原因で、結局は滅んでしまう事になる訳ですね。そして最後の生き残りであるナメクジが地表に残る僅かな水を発見し束の間の休息を取っている時、そのナメクジと神である山之辺マサトとの会話が始まります。

私はおまえの先祖の下等なナメクジを知っているが、おまえのように未練がましくはなかったし、グチもいわずに死んでいった。はずかしくはないのかね。
イヤダイヤダ。わたしゃそんな下等動物じゃない!! 死ぬのがこわいんだ、助けてくれェ。
助けたいが私にはできない。その水も、もうすぐかれるだろう。この暑さでは三時間ともつまい。
ウフ……ウ。……あなた……聞いてますか……私に最後のグチをいわせてください。なぜ私たちの先祖は、かしこくなろうと思ったのでしょうな………。もとのままの下等動物でいれば、もっとらくに生きられ……死ねた……ろう……に……………進化したおかげ……で……………。


B:このナメクジの最後の台詞で、もとのままの下等動物でいれば、もっとらくに生きられ……とあるのが興味深いですね。死の恐怖だけでなく、生きる事にも恐怖感を抱いているというのが。

A:即ち、進化は生命に恐怖を与える訳だ。

B:ちょっと待って下さいよ。「不死」は確かに生の恐怖を生み出しますが、死の恐怖は排除します。となれば、死の恐怖も生の恐怖も味わう事になる通常の生命よりも、「不死」の生命の方が優れているという事になってしまいませんか?

A:いや、通常の生命の生の恐怖と「不死」の生命の生の恐怖とは全く異質なものだからね。死の恐怖の有無だけで単純に比較する事は出来ないさ。ただ、このような事は言えると思う。即ち――進化も「不死」も、その生命体が持つ恐怖を変質させる。その意味で進化と「不死」は同列なものだ、と。

B:手塚治虫は「不死」を否定していなかった?

A:肯定もしていないけどね。手塚治虫が否定したかったのは、「不老不死」が絶対の幸福である、という幻想だけだったんじゃないかな。しかし絶対の不幸である事は敢えて肯定しなかった。それを肯定する事は、進化を否定する事に繋がってしまうからだ。――さて、そろそろ残りの「不老」についても考えてみる事にしようか。


2005年3月25日(金) 不老不死に関する考察4(「不死」と『火の鳥 未来編』)

A:「不老不死」は、「不老」と「不死」とに分割される。まずは後者の「不死」から見て行こう。やはり手塚治虫の『火の鳥 未来編』から。

B:えぇと、確か山之辺マサトという主人公が、火の鳥に「不老不死」を与えられるんでしたよね。

A:いや、「不老不死」じゃない。山之辺マサトに与えられたのは「不死」だけだ。

B:え? そうなんですか?

A:彼は火の鳥に、新たなる人類の進化を見届けるように命じられる。その為に永遠の命を授かったのだが、当初は若者として描かれていた山之辺マサトも、物語後半では老人として描かれている。永遠の命を持っているにも関わらず。即ち、山之辺マサトに「不老」は与えられていない。

B:なるほど、確かに「不老」ではないですね。一方で山之辺マサトは自分の心臓を拳銃で打っていますが、死にはしませんでしたね。彼が「不死」である事は間違いないようです。

A:その時点で山之辺マサトは、次のような独白をしているね。

ア、ア、ア、ア、アーアアーッ!! ぼくは…ぼくは……な、なんてからだになったんだ!! ぼくは死ねない……どんなにからだをさいなんでも……永久に死ねないんだ!! 助けて……くれ。助けてくれっ! 人類も…動物も……生きるものがひとつ残らず死んでしまったあとで………ぼくだけが生き残って……いったいなんの楽しみがあるんだ? なんの生きがいが? 一千年……一万年……一億年も死なないとしたら………ぼくは、そのあいだになにをしたらいいんだ。生きたミイラじゃないか!!

A:この種の絶望は通常はもっと後半になってから描かれる事が多いと思うんだけれども、手塚治虫は普通の人間が絶望に到るまでの途中経過を全て吹っ飛ばして、いきなり山之辺マサトを絶望させている。今ほど漫画文化が確立していなかった――というよりも手塚治虫が自身で確立させた、と言っても良いかも知れないが――時代に、このように大胆なストーリー展開の飛躍を行ったのは凄い事なのではないか、と感じる。

B:そこまでの主人公の思考展開を、読者が一方的に脳内で補完しなければいけない訳ですからね。現在では割と幅広く使われている手法ですけど。

A:それが出来るのは、読者側にある程度の予備知識が有るからなんだよね。山之辺マサトの例で言えば、読者の多くが「不死」の持つ悲劇性を知っている、という仮定の下で描かれなければならない。そういう予備知識を読者に要求するのは、珍しい事だったんじゃないかと思うんだ。現在は長編ストーリー漫画が主流だけど、昔は一話完結漫画が主流だったしね。となれば当然、予備知識無しで気軽に読める漫画が多かったハズだ。

B:段々と“漫画論”になって来ましたね。

A:あぁ、いけない。そろそろ話を先に進めよう。


2005年3月24日(木) 不老不死に関する考察3(「不老不死」の分割)

B:しかし、どうしてこんなに多くの「不老不死」に纏わる物語が存在するんでしょう? 徐福伝説と非時香菓の話なんかは極めて酷似してますし。

A:それだけ「不老不死」の魅力に捕り憑かれた人間が多かったって事さ。特に権力者にはね。金と権力と女を手に入れた男が最後に求めるのは、“永遠の命”と相場が決まっている。

B:思いっ切り偏見ですねー。

A:そうでもないと思うけどな。少なくとも「長生きしたい」という願望は多くの人に共通しているし、それが高じれば容易に「不老不死」に行き着く。ただ殆どの場合、「不老不死」は人間には辿り着けない高みだと考えられている。だから取り敢えず、手近な欲求を満たそうとするのさ。金とか、権力とか、女とか。

B:はぁ……そうですか。えぇと、そろそろ話を元に戻しましょう。

A:うん、そうしよう。ココまでは「不老不死」が物語に於いて、どのように扱われているかを見て来た訳だが、もう少し「不老不死」そのものについて考察を深めてみたい。そこで注目したいのは、「不老不死」は必ずしも一体となって語られるとは限らない、という事だ。

B:どういう事ですか?

A:「不老不死」は「不老」と「不死」に分割される、って事さ。「不老」と「不死」は全く異なる状態だ。この2つを合わせた物が「不老不死」となる。

B:なるほど。しかし、その2つを分割する事に意味は有るんでしょうか?

A:有る、と思う。「不老」と「不死」は、物語でも区別されて語られる事が多い。例えば手塚治虫の漫画『火の鳥』では、「不老不死」に纏わるエピソードが数多く盛り込まれている。シリーズを通した主役である火の鳥は、その生き血を飲めば「不老不死」になる、という設定だからね。

B:そう言えば『火の鳥』は、「不老不死」を巡る人間の醜い所業を描き、「不老不死」を得た人間の悲劇も描いています。つまり「不老不死」の2つの否定を、どちらも使用している事になりますね。

A:手塚治虫に限った話では無いけれども、一流の芸術家や科学者は世の中を儚む傾向が強いように感じるね。もしかしたら手塚治虫も、人類に対して何らかの負の感情を持っていたのかも知れない。

B:何かに絶望していたんでしょうか?

A:そこまでは分からない。ただ彼に関して書いた文章を読むと、そういう事実は有ったのではないかと思う。そして『火の鳥』では、「不老」と「不死」とが分割されて描かれてもいるんだな。これは注目に値すると思う。


2005年3月23日(水) 不老不死に関する考察2(『徐福伝説』と“非時香菓”)

A:さて、秦の始皇帝から「不老不死」の秘薬を持ち帰る事を命じられた徐福は、最終的には日本に定住する事になった訳だが、途中で富士山に立ち寄った事が知られている。

B:何故、富士山に?

A:そこに「不老不死」の秘薬が有ると考えられていたからさ。かの有名な『竹取物語』に、そのような記述が有るらしい。さらに富士山は音から“不死山”――“死なない山”とも書け、これが富士山に「不老不死」の秘薬が有るという根拠となったようだ。

B:コジツケですねー。

A:昔の人は言葉に力が有ると考えていたからね。“言霊”ってヤツだな。このような同音異義語には、隠された強い力の結び付きが有ると思われていたのだろう。現代人には想像も及ばないが。

B:そう言えば秦の始皇帝はどうなったんですか? 徐福は秦に帰らなかった訳ですから、待ちぼうけですか?

A:そんな事は無い。始皇帝は徐福だけを信じて「不老不死」を求めていた訳じゃない。見事に「不老不死」の秘薬を持ち帰った家臣も居たんだ。しかし、その秘薬の正体は単なる水銀だった、と言われている。水銀は温度計などにも利用され割と身近な物質だが、人間にとっては毒でしかない。始皇帝は水銀を飲んで、大幅に寿命を縮める結果となった。

B:なんか始皇帝って……哀れですね。……あっ、そうか、それで良いのか!

A:そう。物語に於いて「不老不死」は否定的に扱われる。この始皇帝のエピソードは、見事に「不老不死」を巡る人間の醜い所業を描いている。

B:そう言えば「不老不死」の扱われ方には、もう1つ有るんでしたよね。「不老不死」を得た人間の悲劇を描いた物、でしたか。これはショートショートなんかで頻繁に用いられますよね。

A:悪魔物ショートショートの典型だな。悪魔に「不老不死」を望むと、確かにその願いは達成されるが、代わりにそれ以上の苦痛を味わう事になる。しかし死にたくても死ねない、というオチだ。この手の話には際限が無い。徐福伝説に似ているが、蜜柑が「不老不死」の薬だと考えられていた、という話も有る。

B:蜜柑が、ですか? 何故……?

A:日本に初めて蜜柑――正確には橘の木だが――を持ち込んだのは、田道間守(タジマノモリ)という人物なのだが、彼は元々は第十一代天皇の垂仁天皇に「不老不死」の薬を探すように命じられ、中国に渡っていたんだ。

B:うわー、徐福伝説と丸っきり同じ展開ですね。日本と中国が入れ替わっただけで。

A:導入部はね。徐福と違い田道間守が偉かったのは、ちゃんと祖国に帰って来た事だ。しかも“非時香菓”(トキジクノカグノコノミ)という「不老不死」の薬を持って。ところが田道間守が中国に居た十年程の間に、垂仁天皇は亡くなってしまっていた。その後の詳細な経緯は不明だが、田道間守は非時香菓を地面に植える事にした。これが結果的には橘の木となった訳だ。

B:当たり前ですけど、非時香菓は「不老不死」の薬なんかじゃなかったんですね。

A:当たり前だ。ただの蜜柑だからね。人魚の肉を食べると「不老不死」になる、なんて話も有るが……どういう発想なのかは全く不明だ。そもそも人魚なんて存在しないし。ジュゴンか? ジュゴンの肉を食べるのか!?

B:逆に寿命が縮まりますよ!


2005年3月22日(火) 不老不死に関する考察1(秦の始皇帝の『徐福伝説』)

B:「殺人についての考察」以来、2度目の対話篇です。……って、これシリーズになるんでしょうか?

A:対話篇第2弾は「自殺についての考察」の予定だったらしいんだが、「どうしても自殺を否定する論理展開が思い浮かばない!」という嘆きの声が、何処からか流れて来たらしいよ。で、第3弾に予定していた「不老不死に関する考察」が繰り上がった、という訳だ。

B:嘆きの声って、ど、何処から……?

A:“中”から、かな。

B:“中”? “中”に誰か居るんですか?

A:“中”には“中の人”が居る。

B:“中の人”……?

A:まぁそれはさておき。古今東西、「不老不死」という題材は至る所で使われている。その中でも最も多いのが“物語”だろう。

B:そうですね。「不老不死」が扱われる事が多い媒体――小説、昔話、漫画、ゲーム、伝奇、伝説、神話など、これらは全て“物語”にカテゴライズされます。

A:うん。そして物語に於いて「不老不死」は、常に否定的に描かれて来た。

B:「不老不死」は人間の手には余る、という事でしょうか?

A:恐らくそうだろう。少なくとも「不老不死」を扱っている物語の多くは、そういう意図が込められている筈だ。さて、常に否定され続ける「不老不死」だが、その否定のされ方は大別すれば主に2通りしか存在しない。1つ目は、「不老不死」を巡る人間の醜い所業を描いた物。2つ目は、「不老不死」を得た人間の悲劇を描いた物だ。

B:確かにそうですね。前者だと秦の始皇帝のエピソードが有名でしょうか?

A:所謂『徐福伝説』というヤツだね。始皇帝が統一王朝を築いた後、徐福という人物から現在の日本に「不老不死」の秘薬が有ると聞き、数千人にも及ぶ集団を渡航させたらしい。

B:確か始皇帝を唆した徐福自身も日本に渡ったんですよね? 結局、彼はどうなったんでしたっけ?

A:これは諸説有る。日本各地に徐福に纏わる逸話が残っていて、どれが本当かは判らない。最終的には日本の何処かに定住した、というのが一般的な見解のようだ。

B:「不老不死」の秘薬が見付からなくて、逃げたって事でしょうか?

A:その可能性は高いだろうね。ちなみに山梨県富士吉田市には“鶴塚の碑”というのが存在し、これが“徐福の化身”だと考えられている。


2005年3月21日(月) 「不老不死に関する考察」のプロローグ、或いは言い訳

実は現在「不老不死に関する考察」という長文テキストを書いていまして、これを今日から連載するハズだったのですが、当初の予定の5日分を書いても終わらない事に気付きました。途中までは書いてある訳で、連載しながら残りを書けば良さそうなものですが、僕の文章力では後半を書くに当たり、前半を適宜書き直していかないと破綻するのが目に見えていますので、連載開始を1日遅らせたいと思います。

――という訳で今日はプロローグ代わりに、日記タイトルの予定を。

現在は5日目分を書いている最中です。明日までに書き終わるかな……?


2005年3月20日(日) 数学の才能

「数学というのはワケが分からなくて嫌いだ」と言う人は、数学の才能が有る。

最近、至る所で「どうして『1×(−1)=−1』や『(−1)×(−1)=1』になるのか?」という疑問を提示している人が多いようです。ここ1週間で5回くらい、そういうサイトを見た気がします。このような疑問を持たれる事は、数学に携わっている人間として嬉しいのですが、ただこれを以て「こんなものは証明できる事じゃない。定義だ。だから数学というのはワケが分からなくて嫌いだ」という主張をされる人も居て、それはちょっと誤解を受けているように思います。例えば『1×(−1)=−1』というのは、以下のように証明できます。

0=1×0=1×(1−1)=1×1+1×(−1)=1+1×(−1)。
故に右辺の1を左辺に移項して両辺を入れ替えれば、1×(−1)=−1。
以上、証明終わり。


『(−1)×(−1)=1』も似たような方法で証明できる訳ですが、問題はこんな小手先の証明方法を知っているか否かなんかではなく、どうして自分が証明できないと思う事を普遍的に証明できないと思うのか、という事です。勿論これは一般的に拡張できる事ではありません。例えば『フェルマーの大定理(最終定理)』を知っている人は割と多いと思うのですが、これは1995年にワイルズが証明するまで、誰も証明する事が出来ませんでした。(それまでに何回も「証明できた」と宣言した数学者は居ましたが、その全てに誤りが含まれていました。)

しかしワイルズが証明する以前に、誰も証明できなかった『フェルマーの大定理』を「これは定義だ(証明できない)」と思った人は居ないと思うのです。もしかしたら中には居たかも知れないですけれども、まず99%以上の人間はそう思っていなかったでしょう。

『1×(−1)=−1』と『フェルマーの大定理』との最大の違いは、前者が余りにも身近な公式であるという事でしょう。『1×(−1)=−1』は中学1年生で学びますし、そして何度も利用していく公式です。一方で後者は、その定理自体を知っている人は多いと思いますが、『フェルマーの大定理』を利用して何かを証明する、という事は殆ど無いハズです。

恐らく「どうして『1×(−1)=−1』や『(−1)×(−1)=1』になるのか? だから数学というのはワケが分からなくて嫌いだ」と主張する人は、「当たり前に使っている公式なのにも関わらず、どうしてそれが成立するのか分からないのが気持ち悪い」という感情を持っているのではないか、と思います。この「分からない(根本から理解できない)から気持ち悪い」という感覚は、科学者にとっては必須の素養のように感じます。

ただ、そこで真剣に「どうして『1×(−1)=−1』や『(−1)×(−1)=1』になるのか?」を考えずに、すぐに「だから数学というのはワケが分からなくて嫌いだ」という帰結をしてしまう人が多い――ココが非常に残念な事だと思うのです。その一歩手前で踏み止まり、自分で考えるなり、せめて教師などに聞いてみる事で、その独特の“気持ち悪さ”を解消できるのにな、と思う訳です。(でも中学や高校の数学教師のどの程度が『1×(−1)=−1』を証明できるのかは不明ですが。)

以上より今日のイイタイコト。

「数学というのはワケが分からなくて嫌いだ」と言う人は、「当たり前に使っている公式なのにも関わらず、どうしてそれが成立するのか分からないのが気持ち悪い」という感情を持っているが故に、数学の才能が有る。


2005年3月19日(土) 赤字

ある事に気付いた。現在の我が家の収入と支出の状況について。

生活費を入れなくても赤字じゃん。明らかに。大幅に。あまりにも愕然。そして呆然。

早く卒業しないとなぁ……。


2005年3月18日(金) 信号機の“系統制御”

「押しボタン式信号機」がボタンを押してもすぐに青にならない事が有るのは、その信号機が“系統制御”されているからである。

今日は昨日の日記の続きです。

信号機は3つの役割を担っている。1つ目は、当然だが交通事故の防止。2つ目は、自動車の流れをスムーズにする事。3つ目は、なるべく自動車の停止回数を減らす事だ。3つ目は「何故?」と思う人も居るかも知れないが、自動車の停止回数を減らす事で排気ガスや騒音などの公害を減せる、という訳だ。

この2つ目と3つ目の役割を果たす為、信号機には様々な細工が施されている。例えば十字路交差点では、自動車の交通量が多い通りと少ない通りが交差している場合、信号機が青になっている時間を敢えて変化させている。例えば交通量が多い通りの信号機は60秒間も青になるが、交通量が少ない通りは40秒間しか青にならない、などの調整を行っている。このような時間配分を“スプリット”と呼ぶ。

また大通りの場合は、隣接する信号機が青になる時間を、その信号機間の距離に合わせてズレを持たせている。こうする事で、そこを走る自動車が通過する信号機が次々と青になり、スムーズに進めるようになる訳だ。このような仕組みを“オフセット”と呼ぶ。

以上のような“スプリット”や“オフセット”というシステムは、信号機が導入された当初は全く行われていなかった。信号機は予め決められたサイクルで、青→黄→赤→……と変わるだけだったのである。が、現在では信号機にコンピュータを内蔵させ、さらにそのコンピュータを隣接する信号機と接続する事によって、時間や交通状態に応じて“スプリット”や“オフセット”を変更出来るようになった。これが“系統制御”である。

現在では都市部を中心に、“車両感知器”を要所要所に散りばめる事によって、多くの信号機を状況に合わせてコンピュータで制御している。この“系統制御”の為に、「押しボタン式信号機」のボタンを押したからと言って、すぐには信号を青には出来なくなったのである。その1つの信号機は、他の多くの信号機に影響を与えているからだ。

以上より今日の結論。

信号機はコンピュータにより、複雑な“系統制御”をされている。この為に「押しボタン式信号機」のボタンを押しても、すぐに青にならない事が有る。


2005年3月17日(木) 「押しボタン式信号機」の不思議

自動車が普及した社会に於いては、信号機は欠かせない存在である。交通事故での死亡者数は年々減少して来ている(関連リンク参照)が、これはエアバックなど自動車自体の安全性が向上した為で、交通事故件数そのものは未だに増加傾向である。しかし信号機というシステムが無かったら、交通事故は現在の数十倍、数百倍にも膨れ上がっていたに違いない。

関連リンク:「交通事故の死者数の推移」

信号機の中には“押しボタン式”というのが存在する。歩行者がボタンを押すと歩行者側の信号が青になる信号機だ。たまにボタンに気付かなくて、5分くらい立ち往生したりする。また、“夜間のみ押しボタン式”の信号機も存在する。

平成13年の時点で、日本には約18万基の信号機が存在した。信号機は短期間で増減する物ではないから、現在も同程度だろう。個人的には数百万基くらい有るんじゃないかと思っていたので、割と意外だった。この錯覚は恐らく東京に住んでいる所為だろう。東京は地方よりも、明らかに信号機が多い。

さて、その18万基の信号機の内、約2万6千基が押しボタン式信号機である。全体の約15%。結構、多い。ただ、この押しボタン式信号機には、以前から疑問が有った。

これは僕の経験的な話だが、押しボタン式信号機の中には、「ボタンを押すとすぐに青に変わる」、「ボタンを押して一定時間が経過してから青に変わる」、「通常はすぐに青に変わるが、赤になってからすぐにボタンを押した場合にのみ、一定時間が経過してから青に変わる」という3つの種類が存在するような気がするのだ。

如何にも全国共通な基準が有りそうに思えるのだが、経験的にはそうなっていない。押しボタン式信号機は利便性に優れたシステムだと思うのだが、青に変わるまでの基準がマチマチでは、歩行者が勘違いしてしまうケースが想定されるのではないだろうか? それは非常に宜しくない事態だと思う。

――という事で、押しボタン式信号機について調べてみた。

『財団法人 日本交通管理技術教会』に拠れば、一般的な押しボタン式信号機は、ボタンを押せば直後に信号が青になるようになっているそうだ。しかしこれには例外も有り、その一つが“系統制御”が行われている路線の信号機だという。が、これについては長くなるので、続きは明日に。

以上より今日の結論。

押しボタン式信号機は、原則的にはボタンを押すとすぐに青に変わる。但し例外も存在するので、「ボタンを押せばすぐに横断歩道を渡れる」という思い込みは危険である。


2005年3月16日(水) 大した事は書いてませんが……

誰にでも経験が有ると思うのだが、過度の謙遜は他人を不快にさせる。例えば偶然に行き当たったサイトのトップページに、「大した事は書いてませんが、良かったら見てやって下さい」とか書いてあったとしたら、多くの人は見に行く気が失せるに違いない。

これは恐らく、一種の自己防衛が働いた結果だと思われる。つまり、何の予備知識も持たないでサイトを見られるよりは、「あまり面白くない」と思いながら見られれば、それだけサイトを見た時の失望感が薄れる。従って、「詰まらない」と思われる可能性が減少する訳だ。

似たような話は沢山有る。「凄く面白いよ!」と薦められた小説は、そこそこ面白くても拍子抜けしてしまう、とか。逆に暇潰しの為に観た映画が、意外と面白かったり、とか。事前の期待の大きさと事後の印象の良さとは、基本的に比例しないのだ。

では事前の期待は、小さい方が良いのだろうか? ここは難しい問題だ。上記の「大した事は書いてませんが、良かったら見てやって下さい」の例では、恐らくサイトを見てくれた人の印象は注意書きを読まなかった場合と比べて、大小の違いは在れど良くなっていると考えられる。しかし、その前の時点で多くの人間に対して、相応の悪印象を与えている事は否めない。

僕のサイトはどうだろうか。僕は一応、不特定の他人が読む事を前提にして日記を書いているが、しかし「殆どの読者は興味無いだろうなぁ」という内容の日記を書く事も多い。寧ろ、そっちの方が多いかも知れない。

しかしそういう日記の冒頭に、「今日の日記は多くの人にとって興味の無い事が書いてあります。それでも良かったら読んで下さい」とか書いてあったら、どうなるだろうか。良心的に解釈をしてくれる読者であれば、「興味の無い事って何だろう?」と逆に興味を持ったりするかも知れないが、普通なら「そんな詰まらないって分かってる事なら書くなよ」と、心の中でツッコミを入れるのではないか。

これは人の好みの問題だと思うが、僕は読まれて失望されるよりも、読まれもせずに嫌悪感を抱かれるのが嫌である。だから詰まらなそうな内容でも、なるべく言い訳を書かない事にしている。(たまに書いたりするが。)

僕とは逆の考え方の人も多いだろう。もしかしたら、そっちの方が主流かも知れない。自分の書いたテキストを読んで「詰まらない」と思われるのは、確かに辛い事だ。非常に理解できる。

以上より今日の結論。

「大した事は書いてませんが、良かったら見てやって下さい」という事前の言い訳は、サイトの印象を好転させる。但し、その時点で読者に一定の不快感を与えているというデメリットも存在する。

良いテキストを書けば全く問題無い訳だが、それが一番難しいんだよなぁ。


2005年3月15日(火) サイト名、変えました

サイト名を変更しました。新しい名称は『complex fraction』です。

『complex』は、「複雑な」「理解し難い」「複合の」という形容詞や、「集合体」「劣等感」「固定観念」「恐怖感」「錯体」という名詞を表す多義単語です。精神分析用語の『コンプレックス』には、「強い感情や拘りを持つ内容で、普段は意識下に抑圧されているもの」という意味も含まれます。

『fraction』は、「断片」「少部分」「分数」「留分」という名詞を表し、「ほんの少し」と副詞的に使われる事も有ります。

そして『complex fraction』は、「繁分数」を表します。『繁分数』というのは、「分子や分母が分数で構成されている分数」の事です。

何となく理系っぽい雰囲気が出せたと思います。あと自分がコンプレックスの強い人間なので、その辺もダブルミーニングで表せたのが良い感じです。『complex fraction』は、『こんふら』と略すと良いと思います。多分。

という訳で、このサイトは今日から『complex fraction』です。内容は変わりません。ノリも変わりません。サイト名だけが変わりました。これからもヨロシクお願いします。

【リンクして下さっている方々へ】

リンク名称の変更は、面倒ならば必要有りません。わざわざ変更してくれる方は、有難うございます。もうこれで、少なくとも2年間くらいは変更しません。


2005年3月14日(月) 数学的なホワイトデー

後輩(文系):「“関数”とか“ε‐δ”とかって言うと、頭良さそうですよね。“ε‐δ”って意味が分からないですけど」
僕:「“ε”は必ず前に、“任意の正の数”と言わないと駄目だ。そして“関数”よりは“写像”と言った方が、頭が良さそうに聞こえるに違いない。もっと言えば、“体K上で定義された線形写像”とか言うと、もっと無意味にハッタリが効くだろう」

しばし後。

後輩:「女の子はチョコを上げれば、自動的にホワイトデーに返って来るんだから楽ですよね。しかも3倍になって」
僕:「まぁ確かに、男にプレゼントする相手を選別する自由は無いな。バレンタインデーでチョコを貰ってない相手に、お返しをする事は出来ないからな」
後輩:「チョコを上げれば自動的にお返しが来るっていうのは……xを代入したらf(x)が出て来るという構図ですよ。」
僕:「写像だな。もしかしたらf(x)は3xどころじゃなくて、xの2乗くらいを期待されているかも知れない。xをチョコの金額と仮定するなら、x≧1だから必ずxの2乗≧xだしな」


恐らく、この世には以下のような全単射写像fが存在するに違いない。

f:{バレンタインデーのチョコレート}→{ホワイトデーのお返し}
  x→3x

但しfは数学的には逆写像が存在するが、現実的には逆写像は存在しない。


蛇足1。

後輩:「じゃあkasaさんは、所謂“3倍返し”とかするんですか?」
僕:「いや、そもそもチョコの値段が判らないから、どうなってるか不明」

蛇足2。

後輩1:「そう言えば“ゴディバ”って、何処のメーカー?」
後輩2:「スイスじゃない?」
後輩3:「え? フランスじゃないの?」
後輩4:「ベルギーでしょ?」

ベルギーだそうで。


2005年3月13日(日) 後輩宅で

12日の夜から後輩宅で、ドラマ『世紀末の詩』の上映会を行った。これぞ恋愛ドラマの決定版。山崎努が格好良い。「荒ぶる魂が――」という台詞が、参加者の間で流行語になりそう。上映会は今日の午前6時頃に終わったハズ。僕は午前5時頃にダウンしたので定かではない。

午前7時に起床。何時の間にか『世紀末の詩』は終わっていたので、お笑いコンビ『アンジャッシュ』のDVDを見る。アンジャッシュ嫌いな後輩も居たが、敢えて無視。

「お腹空いたねー」とか言いつつ、『THE 地球防衛軍』というゲームをやる。巨大蟻や怪獣、UFOなどから地球を守るのだが、地球防衛軍の方が敵よりも余程、地球を破壊している。ビルを破壊するわ一般市民を撃ち殺すわ、「地球を守る為には多少の犠牲は止むを得ない」という事を実感させられるゲームだ。特撮ヒーロー番組『ウルトラマン』などでは描かれなかった、地球を防衛する者の業の深さが明らかにされる。

「お腹空いたねー」とか言いつつ、麻雀を全く知らないのに麻雀漫画『アカギ』や『天』を読む。相変わらず麻雀は、さっぱり解らない。

「お腹空いたねー」とか言いつつ、13年振りに喫煙してみる。駄目だった。次に喫煙するのは13年後かも知れない。ちなみに現在の僕の年齢は23歳。某タレントのように、過去の犯罪を暴露。でも活動自粛は行いません。

「お腹空いたねー」とか言いつつ、「お腹空いたねー」と言い合う。不毛。ようやく重い腰を上げたのが午後10時。歩いて45分ほどの所の、美味しい(らしい)ラーメン屋まで歩く事に。

「お腹空いたねー」と言いながら、ラーメン屋に辿り着く。日曜日は午後9時で閉店だった。仕方無いので後輩宅の近くのラーメン屋まで引き返す。

ラーメンを食べ終わる頃には、既に午後11時40分。帰宅する。月曜日の午前0時30分に自宅に到着。「おお!? 今日は日記を書いてない。書かなくては!」と思い書き始めるが、眠いので諦める。就寝。

月曜日の午前11時に起床。日記を書き始める。そう言えば、土曜日の昼から今までの丸2日間、食事をラーメン2回しか摂っていない。こういう生活を続けていたら、簡単に痩せそう。あぁ、でもそろそろお腹が空いたな。


2005年3月12日(土) “一般的マナー”と“自分ルール”

世の中には沢山のマナーが有る。「エスカレーターでは片側を空ける」とか、「食事中に汚い話はしない」とか、別に法律や条例などで縛られている訳ではないのに、それを守るのが常識だという事項が存在する。このような“一般的マナー”は無数に有る。

“一般的マナー”は、例えば「エスカレーターで空けるのは右側か左側か?」など、文化の違いで多少の喰い違いが出て来る事も有るが、基本的には守れていない者に対して守らせるだけの強制力を有している。社会生活を円滑に送る為に必要だからだ。

一方で個人が勝手に決めて、自分だけが守っているという“自分ルール”が有る人も多いのではないだろうか。例えば僕は、「日記で『(笑)』を使わない」という“自分ルール”を定めている。

関連リンク:「意味の在る無意味な制約」

これは僕のポリシーのようなもので、他の人が守っていないと不愉快だとか、益してや強制したりするようなものではない。自分だけのちょっとした制約。それが“自分ルール”だ。

以上を纏めると、こうなる。

世の中の“規則”というのは、上記の3つのどれかに集約されると思う。例えば「校則」なんかは、“法律や条令”にカテゴライズされるだろう。この3つはそれぞれに特徴が異なる訳だが、中でも“他者への強制力の有無”に着目すれば、“自分ルール”は特別である。

ところが稀に、「どう考えても“自分ルール”だろう」という規則を他人に強制してくる人が居る。そういう人は恐らく、“自分ルール”を“一般的マナー”だと解釈しているのだろう。

“自分ルール”と“一般的マナー”との間の差異が明確でない場合というのは、確かに存在する。例えばネット上でのリンク報告などは微妙な問題だ。僕はリンク報告について、「基本的には必要無いが、そのサイト管理人の意志に準じる」と思っている。ちなみに当サイトでは、
全てのページに関してリンクフリーです。リンク報告も必要有りませんが、これは「リンク報告をするな」という意味ではありません。
という方針だ。これは僕がリンク報告を“自分ルール”の問題だ、と考えているからだ。

しかし「リンク報告は義務だ」と言う人も居るし、逆に「リンク報告なんか絶対するなよ」と言う人も居る。これは他人に規則を強制させているという意味で、リンク報告を“一般的マナー”と考えている訳だ。(真逆の考え方が両立しているのは興味深い。)まぁいずれにせよ、リンク報告は捉え方に個人差が大きく、“自分ルール”なのか“一般的マナー”なのかは一概には言えない。そういう意味で、この類いの規則を他人に強制してくるのは理解できる。

問題はもっと明らかな場合だ。恐らく90%を大きく超える割合の人が“自分ルール”だと思っていると考えられるような事項を、さも“一般的マナー”であるかのように扱い、他人に強制してくる人――そういう人は問題だ。と言うか、迷惑だ。困る。非常に困る。「君が決めたルールでしょ。こっちに押し付けないでくれ」と思ってしまう。そういう思いを経験した事が有る人は、割と多いのではないだろうか?

以上より今日の結論。

“自分ルール”を“一般的マナー”であるかのように扱い、他人に余計な規則を強制させてくるのは迷惑なので、辞めましょう。


2005年3月11日(金) vs 鬱病その2

精神障害は何を奪い、何を齎すのか?

僕は鬱病になって、集中力や精神的持続力が急速に落ちた。これが割と辛かった。今でも辛い。最悪の時期(昨年の5月〜6月)と比較すれば回復基調ではあるが、日本の景気と同様に本格的な復調の兆しは見えない。

一方で、計算能力など単純作業の瞬間的速度は上がったように感じる。精神的持続力が無いので長くは続かないのだが、ある程度のレベルまでの数学の問題を解いたりするのは、異様に早くなった。例えば今年のセンター試験だと、『数学T・A』が9分、『数学U・B』が13分で完答できた。これは例年と比較して、半分近い時間しか掛かっていない。

僕は中学生時代に「数学は問題文を読めば、その瞬間に自動的に解答が浮かび上がって見えてくる」という何とも傲慢な発言をした事が有るが、今の状態はそれに近い気がする。集中力が落ちて頭はモヤモヤとした状態が常に続いているのだが、それとは別にもう一人の自分が脳の一部を効率的に利用し、それを本体である僕に結果だけ渡している――そういう感覚なのである。

僕とは逆に、精神障害に拠って集中力が急激に高まるケースも多い。デカルト、ヴィトゲンシュタイン、カント、ニュートン、アインシュタインといった名だたる偉人達は、何らかの精神障害を患っていたと考えられている。

イギリスの精神医学者アンソニー・ストーは、分裂気質あるいは抑鬱気質であっても、創造的な人間はその能力を自衛の為に用いる事が出来ると述べている。上記の天才達は科学的創造性を、自らを自衛させる為に促進させた、というのだ。彼らが遺した数々の発見は、彼らの自己同一性を保つ為の手段だった可能性が有る。

ただ彼らには、もう一つの共通点が有る。それは極度の人間嫌いだった、という事だ。これについてもアンソニー・ストーは次のような分析をしている。

人は大抵、他者との交流を通して、人生の意味と価値を見出す重要な手掛かりを得る。しかし分裂気質の場合は事情が異なる。創造的行為こそが自己表現に極めて適した方法であり、その行為は孤独なのだ。

このような特徴こそが、精神障害に対する差別意識の温床となってしまっている事は否めない。彼らは社会性あるいは社交性を代償として、何らかの超人的な能力を発揮したケースだと言える。

再び自分に立ち戻ってみると、僕は彼らのように社会性を放棄してはいない(と、自分では思う)。その代わりに残念な事に超人的な能力を得てもいない。集中力や精神的持続力が無くなり、計算能力が向上しただけだ。

恐らく精神障害というのは、人から何かを奪い、そして人に何かを与えている。何を失い何を得るのかは、人によって違うだろう。程度も人それぞれに違いない。

例えば「精神障害者は危ない」という認識は間違っていると同時に、「精神障害者は危なくない」という認識も間違っていると思う。失う物と得る物がランダムに選択されるのだとしたら、それは“ニュートラル”という事に他ならない。

以上より今日のイイタイコト。

精神障害は“何か”を奪い、別の“何か”を齎している。


2005年3月10日(木) vs 鬱病

僕は精神障害者だ。それが何か?

鬱病と診断されて坑鬱剤を服用し始めてから、既に9ヶ月以上が経過した。処方される坑鬱剤の量は広義単調増加を続けており、一度として減っていない。

僕は自分が鬱病であるという事をweb上で公開しているが、実は友達付き合いの中でも特に隠していない。これは想定されるデメリットが特に無かった為だが、実際に自分が鬱病である事を公表したのが原因で何らかの被害を被った、という経験が全く無い。中には内心ちょっと“ひいている”知り合いも居るのかも知れないが、少なくとも表面上に顕れている人は思い当たらない。

友達付き合いの中で自分が鬱病である事を隠す必要を感じないというのは、多分恵まれている方なんだと思う。隠さなきゃ日常生活を送れないような環境だったら、余計にストレスを抱え込んで鬱病を悪化させていたに違いない。

精神科で医師の診察を受けている時も、僕は待合室との境に有るドアを閉めない。閉める必要を感じないからだ。ドアを閉めるか閉めないかは患者の自由で、閉める人も居れば閉めない人も居る。半々くらいかな。他の患者の様子も様々だ。男性患者は普通に見えるか、攻撃的な雰囲気を醸し出している人が多い。女性患者は酷く落ち込んでいるか、常に泣いている人が多い。

僕の通っている大学のキャンパスには7000人程度の学生が居るが、精神科の予約表を見ると100人近い人数が通っているようだ。少なくとも1%ちょっとの人間が、鬱病を初めとする何らかの精神病を患っている事になる。(当然だが予約表から患者の名前は分からないようになっている。初診の際に与えられるID番号が書いてあるだけ。)実際には大学外の医療機関を利用している人も居るだろうから、精神病に罹っている学生はもっと多い筈だ。そうなると2%くらいだろうか。

『平成15年版障害者白書』に拠れば、日本に於いて治療を受けている精神障害者数は204万人と推計されている。これは日本の人口の1.6%に相当する。思春期前の14歳以下人口を除けば1.9%となり、これは大学内で精神病を患っていると思われる学生の割合(僕の勝手な推計だが。)と、ほぼ一致する。

低年齢者を除けば、日本人の50人に1人は鬱病や躁鬱病、統合失調症などの精神病を患っている。このような状況は他国と比べても大差無い。精神病は決して稀有な病ではないのだ。

しかし世間でよく言われている、「精神病患者は沢山いる。だから何も気に病む事は無い」という論理は、何かおかしい。では精神病が稀有な病だったら、気に病まねばならないのか? この“多くの同類が居るから”という極めて希薄な理由によって精神病患者が保護されているのだとしたら、それは正に差別に他ならないのではないか、という気さえする。

日本では一年間に数百万件の犯罪が起きているが、それだけ頻繁に犯罪が起きているからと言って犯罪が持つ罪悪性が薄まる訳ではないように、精神障害者が多い事は精神障害者にとって何の慰めにもならないのではないか。“数が多い”というだけの消極的な寛容は、逆に“本質を見え難くする”という実体を伴って表出する――そんな気がする。

だから僕は敢えて開き直っている。いや、開き直らなければいけない気がするのだ。「僕は精神障害者だ。それが何か?」――と。


2005年3月9日(水) 恋愛の効能

恋愛をするのは、自分が特別である事を再確認する為である。

昨日の日記で紹介した土屋賢二のエッセイ集『ツチヤの軽はずみ』だが、同書の「特別な存在」というエッセイの中で恋愛について面白い考察が有った。再び引用しようかと思ったが、それだと長大になってしまうので、掻い摘んで紹介する。

多くの人は「誰も自分を正当に評価してくれない」という不満を持っている。人は多かれ少なかれ「自分は特別な存在だ」と思い込む傾向が有るが、他人と接触する内に「自分は特別な人間なハズなのに、そういう人間を相手にしている割には扱いが杜撰ではないか?」という疑念を抱くようになる。これにより「自分は特別ではないのだ」という自然な帰結をする人も居るが、大抵の人は「自分は特別な存在だ」という意識を完全には捨て切れずにいる。従って「誰も自分を正当に評価してくれない」という不満を持つ結果となる。
この不満を解消する一つの方法として“恋愛”が有る。恋愛の中では相手が特別な存在になる。これはあくまでも当人同士の世界観である為に、他人には何処がどう特別なのかは分からない。実際、当人達にとっても具体的に相手の何処が特別なのかを、明確に説明できる事は少ない。何の正当性も無いのに相手を特別視しているのだ。では何の為に、そんな事をするのか?
これは自分が相手を特別視する事で、その相手から自分を特別視して貰える――少なくとも、そう自分で思い込む事が出来るからである。つまり恋愛とは、「こっちも特別扱いするから、そっちも特別扱いしてくれ」という取引のようなものだ。だから愛する人に愛されたいと思う。我々は、このような無理なやり方をしてまで、自分を特別だと実感しようとしている。

僕は以前、「『好き』と『愛する』の違い」の中で独占欲は恋愛の構成要素の一つであると書いたが、上記の恋愛観は独占欲の必要不可欠性を示してくれそうだ。

つまり恋愛相手を独占していない状態――即ち浮気されている状態というのは、少なくとも自分と同等以上の人間が存在する事になり、「自分が特別である」という意識を激しく揺さぶる結果となる。それは恋愛のメリットを著しく損なう為に、そのような状態は出来る限り排除しなければならない。即ち恋愛相手を独占する事は、恋愛に於いて必要不可欠である。

これには反論したい人も多いだろう。「独占欲が有るなんて、“愛”とは呼べない」と思う人も多いかも知れない。ただ僕が言いたいのは、あくまでも“恋愛”には独占欲が必要という事で、それを“愛”全体に拡張しようとは思っていない。例えば“家族愛”は、家族全体に向けられるべき“愛”である。これを独り占めしようとする心理は、明らかにおかしい。

同様に「お互いに独占欲なんて持っていない」と主張する恋人同士が居たとしたら、その間に存在するのは既に“恋愛”ではなく、もっと昇華された“普遍的な愛”だと考えれば良い。それを踏まえて言い切りたい。独占欲は恋愛の必要不可欠的要素の一つである、と。

以上より今日の結論。

恋愛とは「こっちも特別扱いするから、そっちも特別扱いしてくれ」という取引である。それにより独占欲が満たされ、「誰も自分を正当に評価してくれない」という不満が解消される。つまり恋愛をするのは、自分が特別である事を再確認する為である。


2005年3月8日(火) 「危険はあるが、ま、いいか」という心理

人は基本的に“低リスク容認論者”だが、時に“似非ゼロリスク論者”へと変貌する。

後輩に薦められて、土屋賢二の『ツチヤの軽はずみ』というエッセイ集を読んだ。ジョークが少々ワンパターンだが、気軽に読めるのは確かである。

さて、その中の「『ま、いいか』の論理」というエッセイで、次のような一節が有る。(長いので普通のフォントで。文中にO‐157が流行した昨年という表記が有るが、これが書かれたのは1990年代後半だと思われる。)

ほとんどの人は、やがて地震が来ると信じている。だが、「地震が来るのは今日明日のことではない」と、毎日、何の根拠もなく思っており、「地震はずっと来ない」と信じているのと同じ結果になっている。
もし今日明日のうちに来ると思っていたら、食料を確保し、家具を固定し、懐中電灯やラジオを入れたリュックを背負って避難場所で寝起きしているところだが、実際には家具に囲まれた狭い部屋でビールを飲みながらテレビを見ているのだ。
これを見ると、「いつ来てもおかしくない。今日来てもおかしくない」→「いつ来るか分からない。今日来るかどうかは疑問だ」→「今日来る可能性はほんのわずかだ」→「いくらなんでも今日は来ないだろう」→「今日来るはずがない」→「今日は絶対来ない」と無茶な推論をしているとしか思えない。
われわれが物事に動じないのなら話は分かる。だが一万円落としただけでも顔色を変えるのだ。もしかしたら一万円には執着するが生命には執着しないのかもしれないが、一方では、ちょっとでも生命の危険があれば極端な拒否反応を示すのだ。
たとえばバンジージャンプのロープが一万回に一回は切れる、ということが分かったら、だれもジャンプしようとしないだろう。O‐157が流行した昨年、寿司屋の売り上げが大幅に減ったし、エイズが日本に上陸したとき、風俗店では閑古鳥が鳴いたのである。
それほど生命の危険には敏感に反応するものなのだ。それが、何も問題が解決していないのに、時間がたったというだけで、何事もなかったかのように寿司屋や風俗店に再び客が集まるようになっているのである。
喉元すぎれば熱さを忘れるというが、O‐157の力は依然として衰えず、地震の危険性はいっそう高まり、エイズも増加の一途をたどっている。むしろ事態は悪化しており、心配がつのっても良さそうな状況なのだ。
地震のことを忘れているわけではない。現に転倒防止器具を買いに行ったりしているのだ。
また、覚悟を決めたわけでもない。相変わらず生命は惜しくてたまらないのだ。
やけになっているわけでもない。きちんと会社に出勤し、税金も納めているのだ。
「危険はあるが、ま、いいか」という心理だとしかいいようがない。これを論理的にどう分析できるのか、不可解でならないが、ま、いいか。

この「危険はあるが、ま、いいか」という心理を分析してみようと思う。僕が最初に思ったのは、数年前に始まり現在も収束していないアメリカでのBSE問題だ。僕は昨年2月に「BSE問題」というテキストを書いているが、この中で“ゼロリスク論者”と“低リスク容認論者”との対立について触れている。以下、再び通常フォントで引用する。

最近しばしば言われるのは「“安全”と“安心”は違う」という事だ。吉野家の社長も言っている。そして叩かれている。再び吉川泰弘氏の『BSE牛の発生から1年、原因究明はどこまで進んだか?』を引用させてもらうが、彼も次のように書いている。
ここ1年間、BSE問題を大学以外で説明する多くの機会に恵まれた。リスク・コミュニケーションとして一般の人に説明する時、最も戸惑ったのが安全と安心感の相違であった。
吉川教授によれば、「安全」とは、個々に起こる事象の危険率の積を1から引いた数値である、という。これも僕の言葉で言い換えさせてもらうと、「安全」とは「総合的に危険でない事」であるとなる。一方で「安心」とは、個々に於ける安全率の積である、という。これを言い換えると「安心」とは「個々に於いて危険でない事」であるとなる。
これらを分かり易く言うと、例え何処かで危険な可能性が在っても、他の手法で危険性が否定されれば「安全」であるが、例え他の全てで安全であっても、1箇所でも危険性が否定されなければ「安心」は得られないとなる。従って「安全なのに不安」という事が有り得る。「安心なのに危険」という事は有り得ない。(但し、必要な情報が秘匿された場合に限り、「安心なのに危険」も有り得る)
一般に専門家は「安全」を重視し、一般消費者は「安心」を重視する。だからこそ両者には決定的な意見の食い違いが生じている。BSE問題のような環境リスクに関する世界では、前者のような結果的に低いリスクを見逃すことに繋がり現状肯定的な態度を「低リスク容認論」と呼ぶのに対し、後者のような「安心」をより重視する態度を「ゼロリスク探究症候群」或いは「ゼロリスク論」と呼ぶのだが、この両者の間の溝は想像以上に大きい。
「低リスク容認論者」は基本的に次の命題を仮定している。
世間には、その存在が広く知られたリスク、発見されているリスクに満ち溢れている。そしてまだ誰も指摘していないリスクもそれ以上にたくさんあることだろう。これらすべてを避けることは不可能である。
しかし「ゼロリスク論者」は、この命題を否定する。そしてそんな「ゼロリスク論者」に対して「低リスク容認論者」の中には「社会的に不当な差別の域に達している」とまで評する人も居る。
分かり易い例を挙げよう。例えば数年前に問題になったダイオキシン問題では、「低リスク容認論者」は徹底して「ダイオキシンの対策など、するだけ無駄だ」という理論を展開した。横浜国立大学教授の松田裕之氏は自分の著書の中で、環境問題の危険は,個人が被る危険に比べて桁違いに高額の費用をかけて避けるよう努力されている.ダイオキシンを取り締まるくらいなら,喫煙を禁止したり、自動車のエアバッグを取り付けたり、自転車専用道路を作る方がはるかに低い費用で多くの人命を救うことができるだろうと書いている。ところがこれに対して「ゼロリスク論者」から反発があったらしい。「人命を金銭で評価するとは何事か」という訳だ。これに対して同氏は次のような感想を述べている。
私が言いたいのは、何が優先されるべきかということであって、この本でも明記したとおり、金を払えば人を殺してもよいということではない。たしかに、すべてのリスクを削減できれば、それに越したことはない。しかし、物事には優先順位があると主張した。喫煙が本人だけでなく、周囲の人の健康を害することが統計的に証明されているにもかかわらず、禁止されてはいない。少なくとも喫煙者を登録制にし、新たな喫煙者を禁止することは可能である。自転車専用道路を作ることは、大気汚染を減らす上でも有効であり、交通事故回避だけでなく、環境にもやさしいだろう。これらの点は、ゼロリスク論でも異論はないと期待する。優先順位をつけないということは、結果的に現実に存在する不合理な優先順位を肯定することになる。
ダイオキシンを規制する金が有ったら使い方次第でより多くの人命が救えるが「ゼロリスク論者」はそれに反対する、という訳だ。
思うに、「ゼロリスク論者」は一つ新たな問題が起こるとそれに固執し、従来からの問題との重要性を比較しようとしない。「そんな事よりも今、問題になっているのはこちらだ」と言わんばかりに発生時期を最重視する。
池田正行氏によれば、「ゼロリスク論者」の問題点はもう一つある。彼は「ゼロリスク論」を「ゼロリスクを求めるあまり,その行動が大きな社会問題を起こすことに気づこうとしない心理」と定義している。これについて松田裕之氏は、以前問題になった所沢の農家にせよ、BSE騒動で閑散としている焼肉業界にせよ、彼ら自身が犯罪者ではない。ホームから転落した人を自らの命を省みずに助けようとした人が美談とされるのに、なぜほとんど無視できるダイオキシンやプリオンのリスクを避けるために、社会の一員が破産するようなことを避けないのだろうか。BSEの失政については、日本政府の責任は重い。しかし、牛肉を食べなくなっても彼らが失業するのではない。失業するのは関連業者である。彼らのことを可哀想だとは思わないのだろうかと述べている。
この話を聞いた「ゼロリスク論者」は間違いなく「しかしBSE騒動が起きた時に“牛肉を食べない”権利はある筈だ」と言うだろう。全くその通りだ。しかし、それこそが、ゼロリスク論は自分が悪いことを一切していない、あるいは一切すべきではないという崇高な誤解から生まれるという事実を示している。『一つの人命を助ける為にホームに下りる』という極めてリスクの高い行動は賞賛されるのに、『数多くの焼肉業界関係者(中には自殺した人もいただろう)を助ける為に危険部位を取り除いた焼肉を食べに行く』というリスクの低い行動は避けられるのは、矛盾している。

当時の僕は、その是非は別として、多くの日本人が“ゼロリスク論者”であると考えていた。しかし土屋賢二のエッセイ「『ま、いいか』の論理」を読んで、その考えは改めるべき所が有るように感じた。

まず日本人に限らず、人間は基本的に普段は“低リスク容認論者”である、という事だ。と言うのも、例えばスポーツをすれば骨折などの怪我をする確率が高まる。飛行機に乗れば墜落する危険性が発生する。もっと言えば、外出すれば交通事故に遭うかも知れないし、逆に建物の中に居れば、それこそ地震で建物が崩れて圧死するかも知れない。人間は生きている以上、そのような危険から離れる事が出来ない。

しかし殆どの人間は、そうした危険をそこまで心配せずに、安心して暮らしている。危険発生確率が低いからだ。つまり人間は、或る程度のリスクを日常的に容認している事になる訳だ。即ち、彼らは“低リスク容認論者”である。

ところが“低リスク容認論者”が、いつまでも“低リスク容認論者”であるとは限らない。時に彼らは“ゼロリスク論者”へと変貌する。

阪神大震災が起こった時、「次は近い内に関東大震災が来るんじゃないか?」と不安に思った関東在住者は多かった筈だ。実際には阪神大震災が起こったからと言って、関東大震災が起こる確率が高まった訳ではないにも関わらず、である。(もしかしたらプレートの関係などで、危険性が高まったという事実が有るのかも知れないが、そういう話は聞いた事が無い。)

関東大震災が本当に発生確率の低い“低リスク”か否かは別問題として、それまで多くの人が“低リスク”と考えて容認してきた関東大震災を、阪神大震災をキッカケに“低リスク”として容認出来なくなってしまった訳だ。先に書いたように関東大震災の発生確率が変化した訳ではない以上、この変化は人間の心理的変化に拠るものである、と言う事が出来る。つまり、それまで地震に関しては“低リスク容認論者”だった人達が、“ゼロリスク論者”へと変貌した訳である。(繰り返すが、この変化が悪い事だとか、そういう事を言うつもりは無い。)

ところが「『ま、いいか』の論理」に書かれているように、それが、何も問題が解決していないのに、時間がたったというだけで、何事もなかったかのようになっているのだ。関東大震災はまだ起きていない以上、阪神大震災が起こった頃よりも確実に危険性は増している筈である。にも関わらず、あれだけ阪神大震災で心配になった“ゼロリスク論者”の多くは、(新潟中越地震が起こるまでは)そんなに関東大震災を心配していなかった。“低リスク容認論者”に戻ってしまった訳だ。

「BSE問題」で僕は、「ゼロリスク論者」は一つ新たな問題が起こるとそれに固執し、従来からの問題との重要性を比較しようとしない。「そんな事よりも今、問題になっているのはこちらだ」と言わんばかりに発生時期を最重視すると書いたが、これは微妙に誤りだった。少なくとも普通に暮らしている人の中に“低リスク容認論者”は居ても、本来の意味での“ゼロリスク論者”は存在しない。そう呼ばれる彼らの多くは、何か問題が起こると一時的に“ゼロリスク論者”へと変貌する“似非ゼロリスク論者”だった訳だ。

以上より今日の結論。

人は基本的に“低リスク容認論者”だが、時に“似非ゼロリスク論者”へと変貌する。“似非ゼロリスク論者”とは、本来の意味での“ゼロリスク論者”ではなく、何か問題が起こると一時的に“ゼロリスク論者”へと変貌し、時が経過すると再び“低リスク容認論者”に戻る人間の事である。「危険はあるが、ま、いいか」という心理は、彼らが保有している特殊な思考だ。


2005年3月7日(月) 答えの無い算数の問題

試験期間だから10分以内に日記を書いちゃおうシリーズその5。今日でラスト。

昔、小学校の算数のテストで、以下の台形の面積を求めさせる問題が有ったのを覚えている。



この模範解答は、『(上底+下底)×高さ×0.5=台形の面積』という公式を用いて、(2+10)×1.5×0.5=9(平方センチメートル)とする事である。計算上は必要が無い両脚の長さをわざわざ2cmと設定しているのは、数字を適当に組み合わせただけでは正解にならないように、という配慮だろう。

しかし当時の僕は、「このような台形は存在しないので、面積を求める事は出来ない」と書いて提出した。実際、上底と台形の両脚の長さを全て足しても6cmにしかならなく、下底の10cmに及ばない。これは台形をどんなに平べったく引き伸ばしても、他の3辺が下底に追い付けない事を意味している。従って上図のような図形は、一般的な平面内では存在し得ない。(空間内では存在し得るが、それは曲面となってしまい、最早“台形”とは呼べない。)

ちなみに返って来たテストを見ると、僕の答案には×が付けられていた。

このような不条理は、小学校のテストだと数多く存在する。例えば社会科で「茨城県」の読み方を答えさせる問題が有って、僕やクラスの数人は「いばらきけん」と書いて不正解とされた。模範解答は「いばらぎけん」になっていた。

関連リンク:「“茨城”の読み方」

この時は流石に地図帳を見せるなどして「いばらきけん」が正しい事を証明し○を付けて貰ったが、僕としては「最初の採点時に濁点の有る無しで正解・不正解を区別していた以上、“いばらきけん”が正しいと判明したからには“いばらぎけん”という答案は×にしなければ道理が通らないのではないか?」と主張したが、その主張は通らなかった。今にして思えば、随分と狭量な事を言っていたように思う。

この時期になると大学入試での出題ミスが話題になるが、実は小学校のテストや中学入試などではそれ以上にミスが多いのが実情である。問題文が複数通りに読み取れたり、深く考察すると“解無し”に行き着いてしまったりする。家庭教師をやっていると、「〜〜という事で、本当は答えが2つ出て来るんだけどね、恐らく出題者は〜〜な可能性を考慮していないから、こっちを正解にしていると思うよ」という教え方をしなければならなく、とてもウンザリする。

以上で10分以内に日記を書いちゃおうシリーズは終了。じゃあこれから試験に行ってきます。出題ミスが有って、「この問題は全員正解とする」という事態になると良いなぁ。


2005年3月6日(日) 実験結果報告その2

試験期間だから10分以内に日記を書いちゃおうシリーズその4。

今日は2月28日、3月1日の日記の続きです。

「他のリンクから跳んで来る事を呼び掛ける事によって、どれくらいの効果が有るのか?」という疑問について、『テキスト庵』ランキングシステムを利用して実験を行ってみた訳ですが、その結果報告です。


(↑先週のランキング)


(↑今週のランキング)

一番右の“○○ポイント”というのがランキング用の数値です。『テキスト庵』では“ポイント(スコア)”について、アクセス数カウントのプログラムの実装およびランキングスコアの計算方法についてはテキスト庵運営者の恣意的一存で決まるものであり、また、公表もされないということを御了承くださいと書いていますが、恐らくは単純に“ポイント=『テキスト庵』経由のアクセス数”だと思われます。

さて、となると“呼び掛け”とは関係無く、更新報告などに拠ってリンクを跳んで来た人数が先週と同じ42人だと仮定すれば、“呼び掛け”に応じてリンクを跳んで来てくれた人数は、延べ68人だと考えられます。先週比にすると約2.6倍で、かなりの効果が有った事になります。

また一般の読者が「“ボタンを押す”とか、“リンクを跳ぶ”とか、そのようにサイト管理人に対して直接的ではないアクションを起こす事に対しては、どの程度の心理的抵抗が有るのだろうか?」という疑問も提示していましたので、それについても考えてみます。

このサイトのアクセスカウンターは1日1000近い数値が回っていますが、これはサイト全体をカウントしている上に、同一IPなども弾いて居ません。通常時の日記の読者数は400人前後です。その内、わざわざ“リンクを跳ぶ”という読者にとっては面倒でしかない行為を、1日平均10人が行ってくれていた事になります。

これは全読者の2.5%であまり多くないように見えるかも知れませんが、僕は極めて高い数値だと思います。例えば“メールを送る”という、サイト管理人に対して直接的なアクションを起こす読者が現われるのは、10日に1人くらいです。延べで計算すると4000人に1人。全体の0.025%に過ぎません。つまり“メールを送る”行為と比較すると、100倍の読者が“リンクを跳ぶ”行為をしてくれた事になり、明らかに“メールを送る”と“リンクを跳ぶ”という2つの行為の間には、心理的抵抗感の違いが有ると判断されます。

以上より今日の結論。

「他のリンクから跳んで来る事を呼び掛ける」という行為には一定の効果が有る。また、そのようなサイト管理人に対して間接的なアクションは、直接的なアクションと比較すると、読者の心理的抵抗感が大きく異なる。

最後に。今回の一連の実験に協力してくださった方々、どうも有難うございました。


2005年3月5日(土) 準三大欲求

試験期間だから10分以内に日記を書いちゃおうシリーズその3。

人間の三大欲求と言えば、「食欲」「睡眠欲」「性欲」じゃないですか。で、これらが満たされると新たな欲望が湧き出て来るのが、人間ってモノじゃないですか。まぁ僕の場合は三大欲求の内、二つしか満たされてなかったりする訳ですが、それでも新たな欲望ってのには限りが無い訳です。ここで、三大欲求を除いた内で最も大きな三つの欲求を、“準三大欲求”と呼ぶ事にしましょう。

で、ですね。試験勉強に追われている今の僕の準三大欲求と言えば、「ゲームがしたい」「漫画が読みたい」「小説が読みたい」だったりする訳です。この3つのエンターテイメントさえ有れば、僕は一生を楽しみ続ける事が出来ると思います。思いっきり俗物っぷりが露呈されてますね。

そこでふと思ったんですが、僕が小学生の頃の準三大欲求は、「ゲームがしたい」「漫画が読みたい」「テレビが見たい」だったんですね。なんと10年以上経っているにも関わらず、「テレビが見たい」が「小説が読みたい」に変化しただけなんですよ。衝撃的でした。これってもしかして、小学生の頃から精神構造が殆ど変わってないって事なんでしょうか。

でも他の人の準三大欲求って、どんなのなんでしょうか。「豪華で美味い料理が食べたい」とか、「素晴らしい異性(別に同性でも良いですが)と、あんな事やこんな事をしたい」ってのは、三大欲求に含まれますよね。やっぱりゲーマーなら「ゲームがしたい」は入るでしょうし、読書家なら「小説(とかエッセイとか)が読みたい」は入るでしょうし……。こうなると意外と準三大欲求ってのも限定されてくるのかな、と思ったり。他には「スポーツをしたい」とか、「音楽を聞きたい」とか、「ショッピングをしたい」くらいしか思い付きません。僕の発想が貧困なんでしょうか。

「悟りを啓きたい」とか、良いかも知れませんね。何か高尚な感じじゃないですか。でもそれが「空中浮遊して信者を集めたい」とか、そういう方向に行っちゃうと危険極まりないですね。割と身近に新興宗教関係者が居るので、念の為これ以上のツッコミは控えますが。

何となく纏まりが無くなって来たので、この辺で終わり。試験は明後日ですよー。死ぬー。たーすーけーてー。


2005年3月4日(金) サイト名の由来

試験期間だから10分以内に日記を書いちゃおうシリーズその2。

このサイトは『kasa's legitimate square』という名称ですが、最近になって無性に変更したくなって来ました。理由は現サイト名の由来に有るんですが、今までサイト名の由来については語った事が無かった気がするので、今日はそれについて。

まず“kasa”は、僕のハンドルネームですね。自分のハンドルネームをサイト名に入れるのは、そんなに珍しい事ではないですから、まぁこれは良い。(無くても良いですが。)

次に“legitimate”ですが、実はこれは英和辞典を適当にペラペラと眺めて、何となく語呂が良いように感じたので採用したんですよ。本当にそれだけの理由。「正統な」って意味だという事も、その時に初めて知りました。

最後に“square”ですが、これは“kasa's legitimate”までが決まり、「kasaの正統な……正統な……広場?」という、これまた適当なノリで決定したのでした。あとスクウェア(現スクウェアエニックス)が好きだった、というのもあります。

――という訳で、現在の『kasa's legitimate square』というサイト名は、余りにも適当に決めてしまったんですね。結果、何のセンスも捻りも無く、内容すら想像が付かないという代物に。これを何とか打破する為には、サイト名の変更しか有りません。

問題は、どういう名称にするか、です。今の所、思い付く条件を挙げてみましょう。

この辺を考慮しつつ、年度が変わる頃にサイト名を変更しようと思います。一応、自分の中で候補が幾つか有るんですけど、もしも「こんなんどーよ?」という方が居たら、是非ともメールを。採用された場合は、僕がとても感謝します。採用されなくても、案を送ってくれた事に感謝しますが。


2005年3月3日(木) 眼精疲労対策

試験期間だから10分以内に日記を書いちゃおうシリーズその1。

昨日の日記で眼精疲労に対するオススメの方法などを知っている方が居れば、メールか掲示板で知らせてくれると嬉しいですと書いた所、沢山の方々から情報が寄せられました。有難うございます!

せっかくなので寄せられた方法を紹介しておきます。やってみた感想も合わせて。

・眼精疲労にはブルーベリーが良いとききます。ウチではブルーベリージュースでとってます。目が疲れている時に飲むと、心なしか楽になります。試してみてはどうでしょうか。

何故か自宅の冷蔵庫にブルーベリーが大量に有ったので、食べてみました。いきなり「目が楽になった」という実感は流石に無かったですが、持続すると効果が有りそうですね。ブルーベリーが目に良い事は科学的にも証明されているようです。

関連リンク1:「ブルーベリーの効果と働き」

・眼精疲労に限らずなのですが、疲れやコリというものは血行をよくすると大抵は回復します。ですから局所の対応として、蒸しタオルをしばらくまぶたの上においておくというのが効果的だと思います。僕の個人的な感じではかなり気持ちいいです。それなりにやる気にもなりますし、勉強の合間にリフレッシュするという意味でも適しているんじゃないでしょうか。小さめのタオルを熱めのお湯に浸してもいいし、ぬらしてレンジで暖めたものを使用してもいいでしょう。ぜひお試しあれ。

お湯に浸したタオルでやってみました。「あー、気持ち良い〜」という感じです。お風呂に入って気持ち良いのと同じ感覚ですね。取り敢えず即効性が有るのが良いです。

・眼精疲労についてですが、上瞼につぼがあるそうですが、強く揉まないで軽くタッチする程度で十分だと何かで読みました。

やはりツボが有るんですか。恐らく押し過ぎはマズイと思われるので、軽くやってみました。これも気持ち良いです。あと何故か、眉毛の辺りをグニグニ揉んでも気持ち良かったです。この辺にもツボが有るんでしょうか。

・瞼の上から押すのは、「圧迫法」といって一般的に使われます。けど、揉むのはあまりオススメしません。

なるほど、揉むのはNGですか。軽く押すだけにするのが吉のようですね。揉んだ方が気持ち良い気がするのですが、危険なようなので控えようと思います。また、この方には以下のサイトも紹介して貰いました。

関連リンク2:「疲れ目・眼精疲労のツボ」

皆様、数多くの情報、本当に有難うございました!


2005年3月2日(水) 負ける前から負け惜しみ

僕の学科では夏学期は9月に、冬学期は2月下旬〜3月上旬に試験が有ります。何度も書いているように、次は3月7日が試験です。それで最後です。

この試験日程だと夏学期は問題無いんですが、冬学期は家庭教師をやっていると少し困ります。生徒(中学生〜高校生)の試験期間と被っているからです。普段であれば1回くらい日にちを変えて貰う事も可能ですが、試験期間は普段以上に多くの指導を望む家庭が多く、今の時期は通常時以上に忙しいのが現状です。

家庭教師センターからは、3日に1回くらいの割合で「臨時で何回か指導出来ませんか?」という電話が掛かって来ますが、全て断っていても忙しいです。例えば7日の試験までに家庭教師が無いのは前日の6日だけで、前々日の5日は午後に2件入っています。7日の試験が終わっても、その1時間後には家庭教師です。

同じ大学に通う友人(学部は違う)には「あと1科目くらい余裕だろ」とか言われるのですが、全然余裕じゃないんです。と言うか、とても大変です。

それでふと思い出したのですが、大学の講義ってのは、普通は1科目に対して週1コマ(90分)ですよね。ところが僕の学科は違うんですね。例えば7日の試験の科目は週3コマです。それが1科目として扱われている訳です。

つまり友人の言う「あと1科目くらい余裕だろ」という言葉には、重大な誤認が有ると思われる訳です。いや、週に1コマの講義だったら楽勝ですよ。範囲が1/3になる訳ですからね。でも違うんです。実際は、その3倍なんです。つまり他学科にとっては、3科目分に相当する訳です。その試験を1日で一気に行う訳です。この実情を知れば、きっと友人も「あと1科目くらい余裕だろ」なんて言えなくなると思います。

――という訳で、今日の日記で言いたかった事は、「試験や家庭教師で大変だから再び縮小更新になりますよ」というお知らせと、「範囲が1/3だったら何とかなるかも知れないのに」という負け惜しみなのでした。まだ負けてない(単位を落とすと決まった訳ではない)ですけど。

ところで試験勉強の時に一番の敵となるのが眼精疲労です。誰か眼精疲労に効果の有る手軽な方法は知りませんか。ツボとか。僕は怖くて目薬を注せない人なので、それは不可です。目蓋を閉じてその上から指先で眼球を揉む感じで動かすと気持ち良いんですが、これは問題が有るんでしょうか。

眼精疲労に対するオススメの方法などを知っている方が居れば、メール掲示板で知らせてくれると嬉しいです。科学的根拠は無くて良いです。個人的な経験的知識で構わないので是非とも教えて下さい。


2005年3月1日(火) 実験結果報告その1

今日は昨日の日記の続きです。日記才人での実験結果について。

まず僕のサイトは、先月1日〜27日の間は毎日更新を続け、日記才人経由では1日平均56アクセスが有りました。また同様に、得票数は1日平均26票でした。アクセス数に対する得票数の割合は、約46%です。但し実際には日記才人経由でアクセスせずに、投票だけ行ってくれている読者も居ると思いますので、このパーセンテージは必ずしも現実に即していない可能性が有ります。

さて昨日の日記に於いては、なるべく普段との差異がハッキリと現われるように、幾つか疑問が有りますと書いた直後に、1つ目の疑問はというボタンを設置するという、かなり悪辣なボタンの設置をしています。昨日の日記に書いたように、僕としてはボタンの設置の仕方で得票数に大きな変化が齎される事は無いのではないか、という事を示したかったので、これで得票数が通常と余り変わらなければ、僕の仮説を裏付ける根拠となるでしょう。

――さて、昨日の結果です。



お、多い……。マジですか。こんなに違うもんなんですか。これって僕が覚えてる限りでは、自己最高なんですが……。

こうなると投票ボタンの設置方法次第では、日記才人のヘルプに書いてあるように、「日記自体の評価ではなくなってしまう」可能性は充分に考えられる訳ですね。しかし一方で、アクセス数に対する得票数の割合は約46%で、通常時と全く変わっていません。これは見逃せない事実のように見えます。

ただ僕のサイトの場合は、日記才人経由のアクセス数が増加しても得票数は余り変わらない傾向に有る(つまりアクセスが増えると得票率が低下する)ので、やはり投票ボタンの効果が大きかったと考えられます。僕の持論は外れました。

以上より今日の結論。

投票ボタンは設置の仕方次第で、得票数に大きな変化が生じる。

上のような結論に達した訳ですが、僕としては疑問が氷解しただけで満足したので、これからは今まで通り、ダイエット状況のみを日記才人の投票ボタンでお知らせする事にします。テキスト庵での実験結果の報告は日曜日くらいに。(月曜日が試験なので、状況に拠っては遅れる可能性も有ります。)


今日今日のアクセス数/昨日昨日のアクセス数/累計累計のアクセス数
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