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2004年4月

DIARY MAIN

2004年4月30日(金) 生ハムメロン

メロンとハムを組み合わせた、“生ハムメロン”という料理が有る。



高級料理の代名詞的な存在だが、これを美味しいと感じる人はあまり多くないようだ。僕も1度だけ食べた事が有るが、ハムとメロンを別々に食べた方が美味いのではないかと思った。

メロンには葉酸という成分が含まれており、これにより清浄な造血作用や、動脈硬化や動脈血栓の予防効果が期待でき、食後のデザートとして食べるのには理に適った食品である。妊婦にも良いらしい。
また、メロンには“ククミシン”という蛋白質分解酵素も多く含まれている。ククミシンには肉を柔らかくする効果が有る為、生ハムメロンはククミシンの性質を巧く利用した合理的な料理だとされてきた。

ところが2年程前に発売されたイタリアの健康雑誌『Salute Naturale』が、生ハムメロンは動脈硬化や癌になる可能性があるという記事を掲載したので、注意が必要である。消化不良になり易くなるのが原因らしい。ククミシンの効果で肉が柔らかくなっても消化に悪いのでは全く意味が無い。

但しその記事では、毎日だとマズイが週に1度くらいなら問題無いとも言っている。恐らくは日本に於ける“スイカとテンプラ”のようなモノなのだろう。過度の心配は必要無さそうだ。殆どの人は週に1回も生ハムメロンは食べないだろうし。

結局、生ハムメロンは健康に良いのか悪いのか、よく分からない。(←これが今日の結論。)


昨日の日記で取り上げた、就職活動の最終面接で社長相手にマジックを披露した後輩ですが、見事その第一志望の会社から内定が出たそうです。その後輩は文系私大の女性なので就職活動はかなり厳しかった筈なのですが、いやー、めでたい。おめでとう!


2004年4月29日(木) 素の自分

最近はかなり真面目な話題が多かったので、しばらく肩の力を抜いて行こうと思う。

このサイトを最近から読み始めた方には意外かも知れないが、僕はマジック(手品)のサークルに所属している。激しく疑われそうなので、証拠写真をアップしておく。


↑“四つ玉”という演技をするKASA

そのサークルの一つ下の後輩が先日、就職活動の最終面接で、その会社の社長を相手にマジックを披露して来たらしい。

「凄い」と思った。どういう会話の流れでそのような状況になったのかは分からないが、こういうのは僕には絶対に出来ない事である。なんか、堂々と誤魔化し無く自分を表現している、という感じ。

僕の場合だと、この日記なんかは自分を素直に出している方だが、やっぱり多少は無理をしている。背伸びしている、とでもいうか。自分をそのまま出していると感じられる場面なんて、男だけの飲み会の時くらいしかない。(普段から素だとヤバイ、という話もある。)

就職活動で自分を誤魔化し無く表現する事の難しさは、『honesty』(管理人:カノーシャさん)の「ありのままの自分で良いのか?」を読むとよく分かる。最初は素の自分で勝負しようと思っていても結局は失敗に終わってしまう、というパターンが世の中では大半なのだろう。それくらい素の自分を社会に認めさせる事は難しいんだと思う。

しかしだからこそ、その難しい事をやりつつも最終面接まで残る、という結果を出している後輩は「凄い」と思う。というか、羨ましい。願わくば、最終面接も無事に通過して欲しいと思う。


話題転換。

国民年金未納問題に関連して、「追納出来る期間が2年しかないのがおかしい」という声があるようだが、無制限に認めてしまっては60歳とか65歳とかにまとめて払うのが最も得になってしまう(若くして死ぬ可能性の為)からではないのかな?
まぁ2年を5年くらいに引き伸ばすのは構わないとは思う(もう決定したんでしたっけ?)が、10年くらいにしてしまうと50歳まで払った後に10年くらいは未納しておいて、60歳まで生きてたら10年分払うとかする人が激増しそうな気がする。
これを防ぐ為には利率を高めに設定すれば良い訳だが、こうすると今度は本当に金が無くて払えなかった人が追納したくなった時に、必要以上に大きな負担を強いる事になる。
バランスが難しい問題だ。


2004年4月28日(水) 先日の“医者の倫理”に関する日記について

4月22日・23日に「医者の倫理」について日記を書いたのですが、一部に不適切な表現が有ったり、こちらが意図しない印象を与えてしまった箇所が有ったりして、医学に関する道を進んでいる方々を中心に不快に感じられた人が多く居たようです。

指摘された箇所は主に、

・医学部生が亡骸を前にしても何も心を動かされる事も無く平然と解剖を出来るなんて事は無い。
・“壁に耳あり”という話は逸話としては確かに存在しているが、そんな事を実際に行っている者など見た事が無い。

という2点です。

まず1つ目ですが、これは本当は「医者と一般人が同じ解剖の現場に立ったとしたら、医者の方が一般人よりもずっと平静を保っていられる」程度の意味合いで言いたかったのですが、必要以上に過激な表現を用いてしまい、特に医学関係の方にとっては不快に感じる記述になってしまいました。申し訳ありません。
今回の件でメールをくれた方の文章を一部引用させてもらうと、

ご遺体、すなわち医学生にとって「初めての患者さん」に向かうことで、医学生は生命に対する畏敬の念を抱き、医師の育成・医学の発展のために献体してくださった方とそのご遺族に感謝し、それに報いるべく人体の構造を学ばせていただく。そういった思いを胸に私(他の医学部生もそうであると信じます)は解剖に日々臨んでいました。

との事で、ここまで真摯に医学に取り組んでいる方にとっては、上記のような無意味に過激な表現は非常に辛い物だったろうと思いました。

次に2つ目ですが、これは僕としては医学系学科に所属している複数の友人(それぞれ異なる大学)に聞いた話でして、全くの無根拠という訳ではないのですが、確かに実際に見た訳ではないのは事実です。ですが、あの日記は「医学部生の多くが“壁に耳あり”を行っていたり黙認したりしている」という事を言っている訳ではなく、単純に「“壁に耳あり”を行う或いは行い得るような人間は医者に適さない」という主旨である事は理解してもらいたいと思います。

あの日記はそもそも「医者の倫理」というタイトルがいけなかった気がします。これだと自然と医者全体の倫理観を批判しているように感じられても仕方ありません。が、実際には極少数の不届き者を批判しているだけでして、この辺りで誤った印象をさらに強く植え付けてしまっていたのかな、と感じます。

今回の件で医者或いは医学生の方々の何人かとメールのやり取りをしたのですが、皆さん感情的にならずに非常に冷静かつ丁寧な対応をしてくれて、本当に驚きました。普通は自分の立場を批判されたら、なかなか冷静ではいられないと思うのですが、そうはならずに意見を言えるというのは素晴らしいと感じました。

僕の方は、これから一層、文章の書き方には気を付けなければならないな、と。


2004年4月27日(火) 中学受験に於ける縁起担ぎ

中学受験では男女共に縁起を担ぐが、その心理には微妙な差が存在する。

東京都の多くの私立中学は1月20日が出願初日であり、多くの受験生(の親)はこの日に出願を済ませてしまう。しかし今年は1月20日が仏滅だった為に出願状況に異変が起こった。



まずは男子校を見て欲しい。今年は昨年に比べて初日の出願が鈍り、代わりに2日目の出願が大幅に増えている。これは明らかに出願初日が仏滅で、それを避けたからだ。非常に基本的な縁起担ぎである。大安や仏滅を気にする事は結婚式などでもよく行われている。

次に女子校だが、こちらは寧ろ初日の出願者が増えている。ここ最近の“強気志向”に加えて今年は“サンデーショック”の影響の為、難関女子校の出願者数が激増したという状況は有るものの、全体に対しての割合を考えても決して今年は初日の出願は減っていない。しかしこれは女子校受験者が縁起を担がない、という事は意味しない。(“強気志向”や“サンデーショック”については昨日までの日記を参照。)

難関女子校の多くには面接が有るのだが、実は中学受験界の親達には「受験番号が大きな数字だと面接時に不利だ」という“迷信”(←敢えて言い切ろうと思う。)が広く伝わっている為、面接が有る中学を受験する家庭では「大安や仏滅を気にしてなどいられない」という心理が強く働く。結果としてなるべく若い受験番号を取得しようとして、仏滅でも初日出願が減らないという状況が生み出されるのである。しかしこれも一種の縁起担ぎである事は間違いない。

以上より今日の結論。

中学受験では男子受験生は仏滅を避け、女子受験生は若い受験番号を求める。共に単なる縁起担ぎである事は言うまでも無い。


中学受験に関しては思いがけず4日間も連続で書いてしまいました。今日で一応この話題は終わりです。全部読んでくれた方はお疲れ様でした。
昨日は書き忘れましたが、中学受験に関するアンケートは継続中です。28日(水)のお昼頃に締め切る予定ですので、未回答の方は私見で構いませんので回答お願いします。コメントは無しでもOKです。
アンケートの結果に関しては近い内に日記で取り上げさせて貰います。


2004年4月26日(月) サンデーショック

今日は昨日の続きです。

昨日は首都圏難関中学校の応募者数を紹介しました。

開成 昨年:925人 今年:977人(5.6%増)
麻布 昨年:917人 今年:891人(3.8%減)
武蔵 昨年:470人 今年:482人(2.6%増)
駒場東邦 昨年:728人 今年:752人(3.3%増)
海城(1回目) 昨年:445人 今年:499人(12.1%増)
海城(2回目) 昨年:1123人 今年:1216人(8.3%増)
巣鴨(1回目) 昨年:346人 今年:427人(23.4%増)
巣鴨(2回目) 昨年:758人 今年:762人(0.5%増)
桜蔭 昨年:553人 今年:797人(44.1%増)
女子学院 昨年:695人 今年:1133人(63.0%増)
雙葉 昨年:392人 今年:606人(54.6%増)
(海城・巣鴨は帰国子女枠との合算)

これから「難関校は応募者が増加傾向である」という事を読み取った訳ですが、昨日の日記を読んだ方はもう一つ気付いた事が在るのではないでしょうか? 即ち、「いくらなんでも女子校の伸び率が凄まじ過ぎる」と。これは“サンデーショック”の影響です。

東京都の私立中学は協定により、原則として2月1日〜3日に入試を行わなければならなく、殆どの中学では少しでも早い2月1日に試験を行っています。しかしプロテスタント系中学校(所謂ミッションスクール)の場合、日曜日は礼拝を行わなければならない為、2月1日が日曜日だと試験日を移動する(殆どは翌日の2日に行う)中学が増える事になります。これがサンデーショックです。

男子校の場合は殆どミッションスクール自体が存在しませんが、女子校の場合は女子学院を筆頭に、超難関校であるミッションスクールが数多く存在します。これにより、サンデーショックは女子の中学受験に多大な影響を与えています。

サンデーショックの特徴としては、試験日を「2月1日のまま変更しなかった学校」と「2月1日から2日に移動した学校」の応募者が激増し、「2月2日のまま変更しなかった学校」の応募者が激減する、という現象があります。これは元々2月1日に有力校がひしめいている為、2月2日試験校は2月1日試験校と同日に試験を行われると対抗出来ない、という事情を端的に表しています。

今年の各女子校の受験者数前年比の数値を紹介してみます。

2月1日のまま変更しなかった学校
・大妻 186.4%
・桐朋女子 164.6%
・学習院女子 159.2%
・雙葉 155.3%
・桜蔭 141.4%
・普連土学園 135.3%
・日本女子大附属 133.1%

2月1日から2日に移動した学校
・立教女学院 153.6%
・女子学院 153.6%
・横浜共立A 126.6%
・横浜雙葉 122.8%
・フェリス女学院 110.8%

2月2日のまま変更しなかった学校
・晃華学園(2回目) 42.8%
・鴎友学園女子(2回目) 53.2%
・白百合学園 62.7%
・青山学院 67.7%
・渋谷教育渋谷(2回目) 77.7%

例年は2月1日に試験を行っている中学が軒並み受験者数を伸ばしており、以前から2月2日に試験を行っている中学は苦戦を強いられているのが一目瞭然です。という訳で今日の結論。

サンデーショックは女子中学受験に多大な影響を与えている。この時、2月2日に入試を行っている中学は2月1日に入試を行っていた中学にかなりの受験生を奪われている。


2004年4月25日(日) 中学受験に於ける“強気志向”

今日は昨日の続きです。

中学受験に於ける最近の併願校数の増加には、受験生側の“強気志向”が大きく関係しているようです。

僕は以前、「受験校の決め方」というテキストで、概して皆さん、第一志望校のレベルが高過ぎると思いますと書きましたが、同様の見解を大手学習塾の四谷大塚がしています。『2004年度首都圏中学入試分析』に以下のような記述があります。

また、このところ男女ともに実力以上の学校を志望するチャレンジ志向が強く、難関校の応募者増の割合からすると、かなり強気な学校選択がなされた模様です。

実際に首都圏難関校の代表として、男女の“御三家”及び男子の“新御三家”中学の入試応募者数を調べてみました。

開成 昨年:925人 今年:977人(5.6%増)
麻布 昨年:917人 今年:891人(3.8%減)
武蔵 昨年:470人 今年:482人(2.6%増)
駒場東邦 昨年:728人 今年:752人(3.3%増)
海城(1回目) 昨年:445人 今年:499人(12.1%増)
海城(2回目) 昨年:1123人 今年:1216人(8.3%増)
巣鴨(1回目) 昨年:346人 今年:427人(23.4%増)
巣鴨(2回目) 昨年:758人 今年:762人(0.5%増)
桜蔭 昨年:553人 今年:797人(44.1%増)
女子学院 昨年:695人 今年:1133人(63.0%増)
雙葉 昨年:392人 今年:606人(54.6%増)
(海城・巣鴨は帰国子女枠との合算)

麻布が減少している以外は、全ての中学で応募者(願書提出者)が増加しています。特に男子御三家と駒場東邦以外は10%以上の高い伸びを見せており、確かに受験生の“強気志向”というものは存在しているように感じます。

一方でこれだけ受験者数が伸びても、合格者数が増える訳では有りません。となれば受験者数が伸びた分だけ不合格者数は増えていると言えます。しかしながら、わざわざ長い期間を掛けて中学受験に備えて勉強をして来た訳ですから、「何処かには合格して入学させたい」と(主に親が)思うのは自然な流れです。従って、確実に合格出来るような中学(所謂“滑り止め”)を受験する事も依然として続けられているようです。

つまり、以前から受験していたレベルの中学に加えて、“強気志向”によりさらに上位の中学を受験する傾向が加わった事で併願校数が増加し、それが中学受験を激化させる一因となっていると言う事が出来ます。

という事で今日の結論。

中学受験に於ける“強気志向”は確かに存在している。


中学受験に関するアンケートは継続中です。未回答の方は、是非ともよろしくお願いします。


2004年4月24日(土) 再び激化する中学受験

中学受験熱は1990年代前半をピークに下落傾向だったのですが、ここ数年で再び急激な上昇を見せています。

首都圏小学生の中学受験率は1992年に14%近い数値を記録し、これがピークだと言われていました。その後、1999年には受験率は11.8%にまで落ち込んでいます。意外に思われるかも知れませんが、この間は中学受験熱は冷える一方でした。長い不況の影響であると言われています。

ところが2000年から再び増加に転じ、今年(2004年)には14.7%という史上最高の数値を記録しました。ピークだった1992年を超えてしまった訳です。受験率だけを見るなら、僅か5年で1.25倍にもなってしまった事になります。最初に中学受験が注目され始めた時代ならともかく、ある程度成熟した時代でここまでの伸びを見せるのは異常と言えると思います。

しかも今年は首都圏に限ってみれば、小学6年生の総数が増加に転じる、珍しい年でした。現在では、かなりの速度で少子化が進んでいますから、これは珍しい事です。が、とにかく母集団が増えた上に受験率も大幅増(2003年は14.0%)で、今年の中学受験は相当に厳しかった筈です。

これに拍車を掛けているのが、一人当たりの受験校数(併願校数)の増加です。1998年の併願校数は4.65校、1999年の併願校数は4.84校でしたが、2004年の併願校数は5.97校まで増加しました。こちらは6年で30%近い伸びです。

結果的に、首都圏中学受験の応募者総数(のべ)は、1999年の179000人から2004年には258000人まで増加しました。5年間で40%以上も伸びている訳です。先程も言いましたが、既に広く認知されていた市場が短期間にここまで拡大するのは異常な事です。
取り合えず今日の結論。

中学受験が再び激化しているのは、受験率と共に併願校数も大幅に伸びている為。


中学受験について、トップページの最下段にアンケートを設置しました。質問は「中学受験する事は、その人の人生に対して、メリットとデメリットのどちらが大きいと思いますか?」です。多くの人がどのように考えているかを知りたいので、全くの私見で構いません。コメントは無しでもOKです。
よろしくお願いします。


2004年4月23日(金) “壁に耳あり”に嫌悪感を抱く理由

今日は昨日の続きです。いつも以上に分かり難い表現になってしまったかも知れません。申し訳ないです。
あと、なるべく言葉の正確性を増す為に、今日は括弧を多用しています。

僕達は日常生活の中でゴキブリや蚊を殺す事は躊躇いません。ゴキブリは精神的なダメージを与えてくるし、蚊に刺されれば痒くなる。彼らは人間に害を与える生物な訳で(それが殺される程なのか、という問題は別にして)、そういう生物を殺すのには抵抗感が殆どありません。

割と判断が分かれるのが蟻を殺す場合でしょうか。小さい子供が公園で蟻を踏み潰している光景を見る事があります。これは抵抗が有る人と、無い人の両方がいるような気がします。抵抗感が有ってもあまり強くは感じない、という人も多そうな気がします。僕なんかは蟻もゴキブリ同様に怖い人間なので、殺す事に躊躇いは感じません。

でもまぁ蟻を殺す事に抵抗感を覚えるのは充分に理解できます。普通の人にとっては蟻という昆虫は全く無害な生物ですから、ゴキブリのように積極的に殺す理由が無い訳です。殺す理由が無い生物を殺すのに躊躇いを覚えるのは当然の事でしょう。そこには何か“生命(或いは、死)への冒涜”のような物が感じられます。
しかし僕のように蟻が怖い訳でもないのに、殺すのを躊躇わない人もいる訳です。これは何故でしょうか?

思うに、蟻の死骸には“凄惨さ”が(比較的)少ないからではないでしょうか? これが例えば猫だったら、殺した際の現場は惨たらしい状態になっているでしょう。その死骸はとても凄惨な筈です。そして猫を殺す事に躊躇いを覚えない人間はいません。(偶には居るようですが、それはニュースになるくらいショッキングな事として受け止められています。)

つまり、人間が他の生物を殺す時に感じる躊躇いが発生するのには、2つの段階があるのではないか、という事です。1つ目は、その生物を殺す事で具体的なメリットが有るか無いか。2つ目は、その生物を殺した時に凄惨な状態が発生するか否か。――です。
第1段階では、ある程度の割合の人々が躊躇いを感じ、第2段階では、殆ど全ての人が躊躇いを感じる、と。

僕は、以上の話が昨日の“壁に耳あり”の話に繋がるのではないか、と思いました。

つまり、“壁に耳あり”なんて行為は一般人にとっては(勿論医者にとっても、ですが)全く何のメリットも有りませんし、そもそも人間の体の一部を使用するなんて光景は凄惨以外の何物でも有りません。当然、殆どの人が躊躇い(この場合は嫌悪感と言った方が良いかも知れません)を感じるでしょう。昨日書いた、“壁に耳あり”なんて事をするような人間は「何か違うよなぁ」と思ってしまうってヤツです。

一方で、やはり昨日も書きましたが、解剖をやっている医学部生は亡骸を前にしても何も心を動かされる事も無く平然と解剖を出来るくらいでないと困る訳です。となれば人体の一部を前にしても、凄惨さを感じる度合いは一般人よりも遥かに小さい筈ですし、それが求められてもいるでしょう。つまり医学に携わる人間は、一般人よりも歯止めが1枚少なくなっている訳です。(繰り返しますが、これ自体は仕方の無い事な筈です。)

という事は“壁に耳あり”を行う医学部生は、その行為にメリットが無くても行う事に嫌悪感を抱かない人間、という事になります。これは完全に私見ですが、きっと蟻が怖くなくても殺す事に躊躇いを感じないような人間が“壁に耳あり”をしているのではないでしょうか?

となれば、このような行為を行う医学部生に求められる倫理というのは、蟻を殺すというレベル――凄惨さが見られなくとも人間にとってメリットが無い行為――で歯止めが掛かるような意識なのではないでしょうか? 一般人である我々は、この歯止めが掛からなくても非難される事はあまりありません。その後で“凄惨さ”という歯止めが掛かるからです。しかし医者は“凄惨さ”の歯止めが掛かり難い為に、確実に第1段階である“メリットの無い行為”の歯止めを掛けなければならないのではないか、と。
――僕が言いたいのは、そういう事ですね。


随分長い事書いてしまいました。「医者の倫理」というよりは「“壁に耳あり”なんてやってる奴は考えを直せ!」っていう日記になってしまいました。
念の為言っておくと、僕の周りの医学系の友人達は多分、第1段階の歯止めが掛かっていると思いますし、それ以外の多くの医者の方々も同様だと思います。ただ、一部には第1段階の歯止めが利いていない人間が居るのではないか、と。で、それは一般人ならば問題が表面化しない(問題ではないか、は別問題)けど、医者だと問題になってしまう、と。そういう事ですね。
あー、これだけ補足しても分かり難い。そして医学部の人に怒られそうです。「俺だって“凄惨だ”って思ってるし、それが歯止めになってるよ!」とか。まぁでも歯止めが掛かり難いと書いたように、一般人との相対的な比較では違いが出そうな気がします。



昨日は池袋を中心とした謎の組織『ダラーズ』に加入。会員ナンバーは0534だ。これからは保護色で生きて行こうと思う。池袋では常に携帯を手放せない。意味が分からなければ成田良悟の『デュラララ!!』を読む事だ。
――という訳でさり気無くお薦め。でもまぁ万人受けはしないかな。


2004年4月22日(木) 医者の倫理

東海大学医学部(堀田知光学部長)は「日本版メディカルスクール」を目指し、入試制度の大幅改革に乗り出す。「医師は『偏差値エリート』の集まり」との批判を踏まえ、定員100人のうち40人を社会人や大学在学者らの編入枠にする。
改革は今春から始まった法科大学院(ロースクール)も意識した。1次試験は英語と適性試験のみ、2次試験も面接やグループ討論で、目的意識が高い「医師としての適性」に優れた学生を集めたいとしている。適性試験では一般知識のほか、判断力や謙虚さ、社会問題への関心などを見る。


「医者の倫理観の欠如」って問題がここ数年、大きな問題になっていますね。

何年か前に『金田一少年の事件簿』という漫画で、医者の卵である医学部生達が解剖中に“壁に耳あり”という諺を文字通り行う、というギャグを行うシーンが描かれました。当然、僕を含めた多くの人にとっては“笑えない”と感じると思いますが、このギャグは実際の医学部生にしてみると「自分はやらなくても、クラスに1人くらいそういう事をやる奴はいる」というレベルなようです。

このような話を聞くと、「やっぱり医者は〜〜」と思ってしまいがちですが、果たしてそれで良いのでしょうか? 確かに医者の倫理観と一般人である我々の倫理観とは大きく異なるでしょう。しかし、「倫理観が異なる」事だけを取って、「医者が悪い」という結論を出す事は躊躇われるんですね。というのも僕の倫理観であれば、例えば人間の亡骸の解剖なんてとてもじゃないが出来ません。っていうか、直視する事すら出来そうも有りません。

ところが医学部生がそんな状態だったら話にならない訳ですよ。寧ろ亡骸を前にしても何も心を動かされる事も無く平然と解剖を出来るくらいになってもらわないと困ります。でも、亡骸を前にして何も心が動かされない人間なんて、明らかに僕達とは倫理観が違う訳です。

つまり、医者の倫理観が一般人と違う、というだけでは医者を批判する事は出来ないのではないかという事です。

しかし、やはり“壁に耳あり”なんて事をするような人間は「何か違うよなぁ」と思ってしまう訳ですね。その辺りの事については明日、考えてみます。
取り合えず今日のイイタイコト。

医者の倫理観が一般人と異なる事だけでは、医者を批判すべきではない。



自宅でソファの上に立ち、「とうっ!」と叫びながら思い切りジャンプして飛び降りようとしたら、モロに頭を天井にぶつけた。「大学生(22歳)にもなってガキみたいにヒーローの真似をするな」という天からの声だろうか。


2004年4月21日(水) 見知らぬ相手にメッセージを送る事

一昨日の爆発的なアクセスを受けて昨日の日記で、しかしアクセス数の増加以外には意外な程に何事も無かったですと書いたら、何人かコメントをくれた方がいた。非常に嬉しい。こんな事なら初めから、

気に入ってくれた方は掲示板に書き込んだりとかメールを送ってくれると嬉しいです!

とか書いておけば良かったと思った。そうしなかったのは、こんな事書いてもしも掲示板に1件の書き込みも無かったら恥ずかしかったから。侍魂の先行者くらい万人に幅広く受けるテキストが有るなら良いが、僕がリンクを貼ったテキストは射精時の精子量(他3つ)である。自信を持てという方が無理だ。

上記のようなコメントを書けなかった理由はもう一つ有る。今回メールをくれた方の中に、あまり書き込みやメールを送るタイプでは無いのでという人がいた。実は僕自身そのタイプで、自分から相手にメッセージを送る事は、殆どと言って良いほど無い。偶に送る事も有るのだが、本当に頻度は低い。(返信は必ずするようにしている。もし来なかったら忘れているか事故なので、遠慮なく返信を請求して欲しい。)

自分から見知らぬ相手にメッセージを送るのには多大な(精神的)労力を使う。これは嫌々やっているからではなく、そのサイトの事が好きだからこそだ。好きだからこそ「下手な事を書いて相手の管理人さんに不快な思いをさせてしまってはヤダなぁ」とか思ったり、単にメッセージを送る事自体が何となく恥ずかしかったりするのである。(何か初恋中の小学生みたいだ。)

しかしサイトの管理人の立場からすると、メッセージを受け取る事は単純に嬉しい。今回だって嬉しかった。そもそもココのような、何らかの主張が為されている(事が多い)サイトは、読者から反論や同意が有る事でお互いに高め合って行くのが理想形だと思う。その為にはメッセージのやり取りの活性化は必要不可欠だと言える。

ただ、他人には「メッセージ下さい」という姿勢なのに、自分からは送らないのでは道理に合わない。これからはなるべく自分からもメッセージを送るようにしようと思うが、まずはその前に性格改善からかな……。

今日のイイタイコト。

このサイトでは反論・批判を含めた、あらゆるメッセージを歓迎しています。


2004年4月20日(火) ろじっくぱらだいすの影響

『ろじっくぱらだいす』でリンクを貼って貰えた影響により、昨日のアクセス数は空前の数値を記録しました。一昨日のアクセス数(約100)など、日が変わってから僅か18分で超えてしまうという事態。

しかしアクセス数の増加以外には意外な程に何事も無かったです。正直な話、「つまんないこと書いてんじゃねーよ!」という罵倒が掲示板やメールで数件発生する事を覚悟していたので、ホッとしたというか残念というか。まぁ普通の書き込み等も皆無だったので、好意的な目で見られたと言うよりは、興味を惹けなかったという処でしょうか。そういう意味では残念でした。せっかく色々な人に見て貰える貴重な機会だったのに。

今回『ろじっくぱらだいす』で募集していたネタは「未だに納得がいかないこと」というテーマで、僕は「ハリウッド版エヴァンゲリオンのアスカ」というのを応募しました。これに関しては2ちゃんねるとあるスレッドで1人、僕と同じように考えている人を発見。

ハリウッド版エヴァのイメージ画見てきた。あんなおばさんはアスカとは認めないよ。

今回の騒動(僕にとっては“騒動”でした)で一番嬉しかったのは、この書き込みでした。

以下は記念画像。



いつの日か、この数値を超えられますように。



このサイトのアクセス数の1時間毎の推移。18日以前のグラフの短さに、「今まで僕がやって来たのは何だったんだろう?」としばし呆然。


まだロジパラから来てくれる方が多いようなので、お薦めをリンクしておきます。


2004年4月19日(月) 続・血液型

『ろじっくぱらだいす』から来た方へ。

自己紹介代わりです。


今日の日記は昨日の続き。昨日は血液型の遺伝について一般的な事を書いたので、今日は例外について。

AB型とO型の夫婦からは通常、A型とB型の子供しか生まれない。しかも共にヘテロ限定である。これはAB型の親からはA遺伝子かB遺伝子のいずれか片方が遺伝され、O型の親からはO遺伝子が確実に遺伝されるからである。

ところでAB型にはA型やB型のようにホモやヘテロの区別は無いのだが、実は“例外的なAB型”というのが存在する。それが“シスAB型”と呼ばれる血液型である。

通常、対立遺伝子はA・B・Oという3種類しかないが、AB型の人は稀にAとBの両方の性質を持つ対立遺伝子を1つ持っている事が有る。もう一つはO遺伝子で、このような血液型をシスAB型という。

これにより、本来ならば親の片方がAB型だと絶対にO型が生まれない筈だが、その人がシスAB型の時はO遺伝子を持っている為に、子供がO型になる可能性がある。

という訳で昨日と今日の結論。

血液型で親子関係を疑う必要は無い。

ちなみに昨日の日記には突っ込みが入りました。

「優性遺伝子と劣性遺伝子が共存すると、劣性遺伝子が発現を抑えられてしまう」というのは誤解です。
曖昧な記憶によると、O対立遺伝子は不活性なタンパクしかコードしてないので発現はしてるけど意味が無い、というのがわかりやすいかな。抑えられたりとかするのではなく、はなから純粋に無意味。ごみ。で、
「Aだけある」のがA
「Bだけある」のがB
「AもBもある」のがAB
「両方ない」のがO
この4種類が血液型なのです。


確かにその通りでした。訂正します。


2004年4月18日(日) 血液型

『ろじっくぱらだいす』から来た方へ。

大手テキストサイト『ろじっくぱらだいす』で僕のネタが19日(明日)に掲載されます。初めてこのサイトを見に来てくれる方が多くなると思うので、それに合わせて紹介替わりに。
「こんなテキストを書いてます」はロジパラ読者層を考慮して選んでみました。

では、いつもの日記を。


A型とB型の夫婦からO型の子供が生まれても不安になる必要は無い。

人間の血液型はA・B・AB・Oの4種類が知られている。そもそも血液型とは、その生物が持っている2つの対立遺伝子の組み合わせを表現したものだ。この場合の対立遺伝子とは生物が必ず2つのペアで持っているもので、人間だとA遺伝子・B遺伝子・O遺伝子の3種類の中から2つ(重複可)を持つ事になる。

これによれば血液型はAA・AB・AO・BB・BO・OOの6種類が存在する。そして僕たちは普段、AA・AOを「A型」、BB・BOを「B型」、ABを「AB型」、OOを「O型」と呼んでいるのである。ちなみに2つの対立遺伝子が同じ場合はホモ、異なる場合はヘテロと呼ぶ。(AOはA型ヘテロ)

ところでA型へテロやB型へテロをそれぞれ「A型」や「B型」と呼ぶのはO遺伝子を全く無視している事になる。これはA遺伝子とB遺伝子が優性遺伝子で、O遺伝子が劣性遺伝子な為である。優性遺伝子と劣性遺伝子が共存すると、劣性遺伝子が発現を抑えられてしまう為、A型へテロやB型へテロにはO遺伝子の性質が現れないのである。一方でAB型にはA遺伝子とB遺伝子の両方が現れる。

従って単にA型と言っても、正確にはAA・AOという2種類の対立遺伝子の組み合わせが考えられる。もしもA型へテロとB型へテロの人が子供を産んだとしたら、AO・BO・AB・OOという4種類の血液型になる可能性がある。(確率はそれぞれ25%ずつ)

従ってA型とB型の夫婦からはA型・B型・AB型・O型という全ての血液型の子供が生まれる可能性がある事になる。A型とB型の夫婦からO型の子供が生まれて、妻が夫にあらぬ疑いを掛けられる事がたまにあるらしいが、不倫を不安視する必要性は(血液型の問題からは)無い。


「ランドセルに興奮する」という人が居た。性的嗜好はその人の自由だが、僕は“その場から逃げ出す”という自由が欲しかった。


2004年4月17日(土) 天動説と地動説

ちょっと古い記事で申し訳ありませんが。

小学生の4割は「太陽が地球の周囲を回っている」と思っている――。国立天文台の縣秀彦助教授らが行った調査で、天文現象に対する子供たちの理解の乏しさが浮き彫りになった。
調査は2月、長野市と北海道上富良野町の公立小学校の4、5年生計116人を対象に行った。「地球は太陽のまわりを回っている」「太陽は地球のまわりを回っている」という2つの文章から正しいものを選ばせたところ、41%が“天動説”を選んだ。
この結果について、縣助教授は「現在の学習指導要領が、目で見える事象の観察や実験を強調し、なぜそういう現象が起きるのかを考えさせる仕組みになっていないため」と分析。地球と太陽、月の関係を鳥観的にとらえることなども授業に取り入れるべきだと話している。


この問題は2択形式だったので、不正解者数と同数程度の“たまたま当たっちゃった”小学生がいた筈なんですよね。41%が間違えたので、残る59%の正解者の内、41%は偶然当たっただけ、という事です。つまり答がちゃんと分かって正解したのは全体の18%しかいない、と。

しかし「太陽が地球の周囲を回っている」というのは太陽と地球との位置関係だけから導かれる事実では有りません。宇宙では絶対的な空間座標を考える事が出来ないからです。(もしも何も無い宇宙に自分だけが放り出されたら、自分は動いているのかどうかさえ判断出来ない、という話)
太陽と地球以外の幾つかの惑星の動きを合わせて考えた結果、「どうも太陽の周りを回っていると考えた方が既存の物理法則に即しているようだ」と結論付けられたからこそ地動説が出て来た訳です。天動説だと惑星が下の様な動きをする事になってしまいます。



これは明らかにおかしな動きですね。重力や遠心力以外の不可思議な力が働いているとしか思えません。ここまで来て初めて地動説が支持される訳です。
となると、この理解は小学生のレベルを明らかに超えていると言えます。目で見える事象の観察や実験を強調し、なぜそういう現象が起きるのかを考えさせる事で地動説が導けるならば、コペルニクスやガリレオは苦労しなかったでしょう。

しかし“地動説が妥当である”事を理解出来ないのは仕方ないですが、“地動説が常識である”事を知らないのは小学生と言えども「非常識」と言えるように感じます。このニュースを聞いて多くの人が思ったのは「いくら小学生でも、それくらい知っとけよ」という事だと思いますが、これは全く同感です。

ところがこれは知識詰め込み型教育の典型であるとも言えます。原理は難し過ぎて説明出来ず、結果(事実)だけ教える訳ですから。

今日のイイタイコト。

小学生に対する科学的常識の詰め込み型教育は復活させても良いのではないか。原理は中学以降で学べば良い。


2004年4月16日(金) パソコン組み立てました

金曜日の四限は数少ないコンピュータ関係の講義でして、今日の予定内容は、

でした。僕はパソコンを組み立てた経験など全く無かったので「これが90分でやる内容か、大変そうだな」くらいに思っていました。

いや、大変なんてモンじゃなかったんですけど。

14時40分〜16時10分の講義だった筈が、終わったのが20時。これが学部後期のキビシサってヤツですか。そうですか。(“CPU炎上”なんてハプニングに遭遇した人もいたようです。)

その後は後輩(男。学年は僕より上)の家で、二人きりで熱い夜を過ごしました。『第二次性徴』なる単語が頻繁に飛び交う楽しい一夜でした。


2004年4月15日(木) 巧い検算のやり方

数学の宿題で、簡単な問題ばかり出したのに正解率が低い事が多い。大抵は検算を行わないのが原因である。何故検算を行わないのだろうか?

「問題を解いたら検算をしなさい」と誰もが言われている筈である。しかし実際には殆ど行われていない。これは何らかの理由が有る筈だ。思うに、これは昨日の日記で書いた「何故難しい問題に時間を掛けないか?」と同じような理由ではないか。即ち、「検算をしても間違いが見つかったという経験が少ないから」ではないか?

これは恐らく検算の仕方が下手だからである。

数学でケアレスミスをする場合、その原因の殆どは計算ミスである。論理的なケアレスミスは意外に少ない。(論理的に難しい問題はそもそも解答を書けない生徒が多い、という事情も有る)
ところで計算ミスはもう一度同じ計算をすれば間違いを発見出来るように思えるが、実際にはそうでもない。というのも、計算ミスというのは基本的に「何故か6×8=42と勘違いしてしまった」という類の物が多いが、すぐにもう一度同じ計算をし直しても、同じ勘違いを繰り返してしまう可能性が高いからだ。(時間が経ってからやれば勘違いが直っていたりする。)

次に多いケアレスミスが、“数値の写し間違い・見間違い”の類だ。3乗を2乗と見てしまったりする事が多い。(“x^3+2x+3”を“x^2+2x+3”と見てしまったりとか。)

以上の事から、「同じ計算をもう一度やってみるだけ」という検算は巧くない。全く同じミスを繰り返す可能性が高いし、見間違いなどが訂正される事も無いからだ。では、どのような検算が良いのだろうか?

まずは見間違い等を無くす為、計算部分のやり直しだけでなく、問題文の再チェックや自分の解答内での数値の写し間違いをチェックする事である。字が汚い人は特に2と3の違いに気を付ける。

計算ミスを無くすのは厄介である。勘違いは持続するからだ。
そこで、まずは検算する時には一旦集中力を途切れさせるのが良い。集中力が途切れてリラックスすると勘違いも持続しない事が多いからだ。
そして出来れば、最初に解いた方法とは異なる解法で問題を解くべきである。解き方が変われば出て来る計算自体も自然と変わり、少なくとも同じ勘違いが発生する可能性はグンと減る。同じ間違いを起こさなければ結果も異なるから、少なくとも間違った答を正しいと思い込む事は無くなる。
しかし問題を普通に解くだけでも大変なのに、検算だけの為に2つ目の解き方を考えられる余裕がある生徒は少ない。そこで僕が進めたいのは、足し算と掛け算の交換法則を活用する事である。

足し算と掛け算は、計算の順番を変えても答えは変わらない。そこで、検算をする時には最初にやった足し算・掛け算の順番をワザと逆にしてやるのである。例えば最初に47×79という計算をしたなら検算の時には79×47として計算する。こうするだけで勘違いはかなり減る。例えば6×8=42と勘違いしていても、8×6とすると正しく計算出来る事が多いのである。
ちなみに中学生以降であれば引き算と割り算は存在しないも同然だから、全ての四則演算はこの方法で検算出来る事になる。

以上より最良な検算方法を提案してみる。

まずは一旦集中力を途切れさせて冷静になる。数値の写し間違いに注意する。出来る限り最初とは異なる方法で問題を解く。それが出来なければ足し算と掛け算の交換法則を利用して順番をワザと変えて計算し直す。

これは実際に僕が中学生の時から行っている検算方法で、かなり効果が高いと思う。中学・高校生にお薦めしたい。



最近、読んでいない本が溜まっている。取り合えず今日は1冊消化。ちなみにタイトルは『超天才マジシャン山田奈緒子の全部まるっとお見通しだ!』。このタイトルを書くだけで3頁も使っている。字が大きくて読み易い。


2004年4月14日(水) 続・宿題

家庭教師で宿題を出す時に困るのは、掛かる時間の問題だけではない。(今日は普段以上に勝手な持論が多いのでお気を付け下さい。)

宿題を出した時に僕が願うのは「簡単な問題は正確に解き、難しい問題は少しでも手掛かりを得て欲しい」という事である。僕と同じく家庭教師をしている人や教師の方なら同じように考えているだろう。ところが、この願いは往々にして叶わない。

簡単な問題は取り合えず解いていてくれる。簡単なだけに正答率も良い。しかしそれが充分な確率かと言われると、そうでもない。簡単な(解けて当たり前な、事実上の計算)問題は、欲を言えば100%正解して欲しいのである。いや、ロボットじゃないんだから100%じゃなくても良い。でもやっぱり95%くらいの確率は欲しい。

95%の正解率とは20問中1問不正解という事だ。これくらいの正答率があれば、定期テストなどで“落としてはいけない問題”を落とす問題数の期待値は1問程度となり、許されるレベルである。

ところが、学力的に中の上くらいの高校生がそのような簡単な問題を解いた時の正解率は(個人差が大きいが)経験的に60〜85%程度しかないと思われる。比較的ケアレスミスが少ない生徒でも7,8問に1問は間違えるし、酷い生徒(学力が酷い、という意味ではない)は半分近くの問題を間違える。

これは検算を殆どやらない所為だ。(何故検算をやらないのかは、明日考えてみる。)
結果的に「簡単な問題はより正確に解く」という目標は、なかなか達成されない。

一方、難しい問題は、どの生徒もそもそも最初から解くのを諦めている節が見られる。だからあまり時間を掛けて考えてくれない。

これには2つの原因が有ると思う。
1つ目は「数学の問題を時間を掛けて考えるのは無駄である」という考え方が根強い事。この辺りは相当に意見が分かれている所で「5分考えて分からなかったら模範解答を見て理解しろ」と言う人もいるし、僕なんかは「分からなければ同じ問題を何時間でも考えるべき」だと思っている。(最近は、ここまでしなくても良いかな、と思うようになった。でも30分くらいは・・・)

僕が見た所、同じ問題に“時間を掛けるな”派と“時間を掛けろ”派は拮抗しているように思う。しかしそれならば、時間を掛けて数学の問題に取り組む生徒がもう少し多くても良い筈だ。では何故多くの生徒は“時間を掛けるな”派に流されてしまうのか?

「そっちの方が楽だから」というのも有るだろうが、それ以上に大きいのが「これまでに多くの時間を掛けて考えた問題が、解けた経験が無いから」という事ではないか? これは非常に難しい問題だと思う。

数学を初めとして幾つかの科目は“積み重ねの学問”と呼ばれるが、これは「ちょっと考えただけでは分からない問題を時間を掛けて解く」という能力に関しても言えるのではないか? つまり、分からない問題に対しては幼い頃(小学生くらい)から何とかして解こうとして来ないと、高校生になってからやろうとしても、どう考えて良いか分からない状態に陥ってしまうのではないか、という事だ。――これが2つ目の原因である。

以上のような理由から、生徒は難しい問題を時間を掛けて解こうとしてくれない。当然、「問題を解く手掛かりを掴む」という目標も達成出来ない。

――という訳で宿題を出す時の僕の苦悩は増すばかりなのである。全く、どうしろと言うんだ。

今日のイイタイコト。

「ちょっと考えただけでは分からない問題を時間を掛けて解く」という能力も幼い頃からの“積み重ね”が大切なのではないか? よく「数学は出来るようになっても意味が無い」と言われるが、上記のような思考法を身に付けるというのが数学の意義なのではないか?



一昨日東急ハンズで購入した本棚が届いた。以前から本棚に本が入り切らなくて困っていたので、収納性の良い本棚に変える事にしたのだ。
3時間掛けて組み上げ完成。その後は4時間以上、本の整理整理整理。小説の類は余裕を持って入れられるようになったが、予想以上に漫画が多い事が発覚。200冊くらいだと思っていたら500冊くらいあったらしい。大変だった・・・。
整理の途中で『スターオーシャン3』(PS2ソフト)の攻略本が発見されたのだが、これは非常に奇妙だ。というのも、僕はこのソフトを持っていないのである。謎。


2004年4月13日(火) 宿題

数学の家庭教師をやっていて、宿題を出す時に困る事が有る。

僕は高校生相手であれば毎週90〜120分くらいで終えられる分量の宿題を出す事にしている。1日15分〜20分。本当はもう少し出したいのだが、数学だけやれば良い訳でもない。妥当な処だろう。問題は、どういう意図で宿題を出すか、だ。

実際の指導中には計算問題同然の簡単な問題は時間が勿体無いので扱わない。しかし殆どの生徒は(かなり学力的に上位の生徒でも)計算間違い等のケアレスミスの頻度が酷く、宿題で簡単な問題を出さざるを得ない。
一方で指導中には難しい問題を生徒に考えさせる時間を、そんなに多く取れる訳ではない。やはり時間が勿体無いからだ。従って、生徒に時間を掛けて考えてもらうような問題も宿題に出したい。

しかし、こんな事は無理なのである。易しい問題は多くの数を解いてもらい、難しい問題は少数でも時間を掛けて考えてもらう――時間的に不可能だ。そんな事をしようとしたら毎週4時間程度の宿題を出さねばならない。

家庭教師を雇っている家庭の多くは子供を学習塾にも通わせている。塾のある日は僕の出した宿題なんか出来ない。しかも多くの高校は日常的に宿題を出すらしい。そんな状態で、特に勉強が好きでもない普通の生徒がさらに毎週4時間も宿題が出来る筈が無い。毎週90〜120分の分量というのは、4年間の家庭教師の経験上、限界であると思う。(受験生は別)

という訳で遺憾ながら、結局は折衷案として「総量は増やさずに易難のバランスを考えて」とか「今週は易しい問題、来週は難しい問題と交互に」とかいう宿題内容になる訳だ。無念。


2004年4月12日(月) “イタイ”という言葉は拡大し過ぎではないか?

僕はライトノベルと言われるジャンルの小説が好きだが、大学生にもなってライトノベルを読んでいるのは“イタイ”らしい。

勿論世間にそういう認識が有るのは知っている。そしてそれに対して「ライトノベルと言っても、こういう良い本も有るんだよ」という反論をすると、「そうやって必死(ムキ)になって反論するのがまた“イタイ”」と言われるのも知っている。きっとその事で、こうやって自分のサイトで愚痴愚痴と書いているのも“イタイ”と思われるのだろう。

まぁライトノベルを読む事を“イタイ”と言われるのは別に構わない。“イタイ”と言われればムカつくが、それ以上にどうする事も出来ないし。しかし「ライトノベルと言っても、こういう良い本も有るんだよ」という反論に対して「必死になってるのが“イタイ”」というのは理論がおかしい気がする。冷静に考えて、自分が良いと思っている本を紹介する事の何処が“イタイ”のか?

この「必死になってるのが“イタイ”」という理論はここ数年で激増したような気がする。2ちゃんねるでも「必死だな」というのが流行った。

「必死だな」というのは2典によれば「ちょっと煽られると即レスで煽り返す厨房を嘲る煽り文句」との事だ。通常使われる「必死になってるのが“イタイ”」という言葉も元々は似た様な場面で使われる言葉だった筈だ。

ところが最近では或る程度広く認識されている事に対する反論は全て“イタイ”と断じられてしまっている気がする。本来は「お前は馬鹿だ」と言われて「何言ってるんだ、お前こそ〜〜って事が有ったじゃないか。お前の方が馬鹿だ!」というような幼稚な反論が“イタイ”とされる筈なのに、「お前は馬鹿だ」に対して「俺は馬鹿じゃない」という正当な反論が認められていないのが最近の風潮のように感じる。

僕に対して「大学生にもなってライトノベルを読んでるなんて“イタイ”」と言った人に「君は例えばどんな作家が好きなんだ?」と聞いたら「森博嗣」と言われた。思わず「いてーな」と言ってしまった。この僕の発言こそ“イタイ”と言われてしかるべきだと思うのだが。


一昨日の日記の続きは中止、という事にさせて下さい。


2004年4月11日(日) 日本人解放報道

現在19時。ちょっと混乱してきたので、まとめておきます。

カタールの衛星テレビ局「アル・ジャジーラ」は10日午後10時(日本時間11日午前3時)ごろ、イラクの日本人人質事件の実行グループとされる「サラヤ・ムジャヒディン(戦士隊)」が同日、「イスラム法学者団体の要請に応じ、人質を24時間以内に解放することを決めた」との声明をファクスで送ってきたと報じた。

というニュースが飛び込んで来たのが早朝。その後で誘拐された日本人の家族の会見が行われた。一応「本人たちの無事を確認するまではまだ安心はできない」という発言はあるようだが、楽天的過ぎるのではないか? と思った。相手はテロ組織なのだから、どこで嘘を付くか分からないのだ。ぬか喜びになってしまう可能性がある。

しかし14時頃、「3人の日本人の無事が確認された」というニュースが流れた。普通に良かったと思った。しかし直後に「無事は確認されたが危険な地域にいる為、保護出来ていない」と。この時点で何かおかしい事に気付くべきだった。17時30分頃に、

逢沢外務副大臣はアンマンで記者会見し、イラクで拘束された日本人3人について、解放の事実は確認されていない、と述べた。また、3人の所在や安否も確認されていない、としている。

という報道。「え? じゃあ今までのは誤報だったのか・・・?」混乱が深まる。そして18時30分頃に、その真相と言えるような共同通信の記事が。翻訳ミス・・・?

日本人解放のニュースが錯綜する一方で、自作自演説はヒートアップしている。恐らくそれに油を注ぐのは、以下の記事だろう。

イラク邦人人質事件で、「サラヤ・ムジャヒディン(戦士旅団)」を名乗る犯人グループと、人質となった北海道千歳市のボランティア高遠菜穂子さん(34)との間に接点があった可能性が浮上した。
先月設立されたとされるイラクの反米グループが、設立趣意書の中で「サラヤ・ムジャヒディン」との言葉を使用しており、一方で、高遠さん自身が事件前、このグループに近いとみられる抵抗組織の関係者と偶然出会ったことがあると語っていた。


これをどう判断するかは、その人次第だろう。僕はこれだけでは断定できないと思うのだが、ネット上では「これは決定的」という意見が多数。


何か分かれば、また追記します。
昨日の日記の続きは延期とさせて下さい。


23時40分。なかなか事態が進展しない。もしかしたら解放宣言はやはり嘘(或いはデマ)だったのかも知れない。以下のようなニュースまで出て来た。

中東カタールの衛星テレビ局アルジャズィーラは11日午後5時(日本時間午後10時)すぎ、ファルージャの反米抵抗勢力との仲介役を名乗るイラク人男性へのインタビューを放映、この中で男性はイラクの日本人人質3人の解放条件として(1)24時間以内の自衛隊撤退(2)連合軍によるファルージャ攻撃に対する日本政府の公式な謝罪――の要求が抵抗勢力からあったと述べた。要求が認められなければ、24時間以内に1人目の人質を殺害、その12時間後に2人目を殺すと脅迫している、という。

何が真実なのか。取り合えず自作自演論議は後回しでも良いんじゃないだろうか? 命が助かる可能性自体は有るのだから、そちらを心配する事にする。


2004年4月10日(土) エイズに対する意識

エイズに関しては女性の方が男性よりも意識が低い。

僕が小学校高学年だった頃、偶に男子だけ別の教室(図書室など)に連れて行かされて読書などをさせられる時間が有った。昨年末に当時の同級生たちに会った時に、「あの時、女子は何をしていたんだ?」と聞いたら、「生理用品の使い方を習っていた」と言われた。

一般的に言って、正しい性知識は女性の方が身に付ける機会が多い筈である。女性は早ければ10歳程度で生理が起こり、その際にどうしても或る程度の性知識(生理の際の対処など)を身に付けさせないとならないからだ。一方で男性も11歳くらいから射精を経験する訳だが、それに対する特別な対処は特に必要無い為に、家庭内や学校で性教育が疎かになりがちになる。

ところがエイズに関する知識は女性の方が劣っている事がエイズ治療・研究開発センターの平成8年の調査から読み取れるのである。

例えばエイズに対する基礎的な知識として、以下のような事柄が「危険である」か「危険が殆ど無い」かを回答させた調査で、「危険である」とした男女別の割合は以下の通りである。

  男性 女性
感染者により作られた食事 15.7% 27.1%
公衆トイレで便器にかける 7.1% 11.6%
咳やくしゃみ 11.4% 14.0%
蚊に刺される 2.9% 7.0%
感染した子供と遊ぶ 1.4% 2.3%
一緒の食器を使う 2.9% 3.5%
感染者の近くで働く 1.4% 0.0%

これらの事項は全て「危険が殆ど無い」が正解なので、誤った知識を持った人の割合と考える事が出来る。最後の「感染者の近くで働く」以外の項目は全てで女性の方が誤答率が高い。特に「感染者の調理師のいるレストランで食事」、「公衆トイレで便器にかける」、「蚊に刺される」という3つについてはかなり差が大きい。

明日に続くが、取り合えず結論。

女性の方が正しい性知識を身に付ける機会が多いが、エイズに関しては誤った知識を持っている。



昨日、日本人誘拐事件の日記をアップした後も色々なサイトを見ていたのだが、段々「あんな左翼な奴らは助ける必要なし。見捨てても構わない」という意見が多くなっていっているような気がする。これは意外だった。僕自身、自衛隊撤退反対派だが、これは撤退させる場合より撤退させない場合の方が被害が小さいと見積もられるからだ。「こんな時期に行ったのが悪い」というのは一理有るが、それはもしも助かった場合に文句を言ってやれば良い事であり、命の価値を低下させるような事項ではないと思うのだが。

ところで誘拐した側からすれば、日本が自衛隊を撤退しなくても、3人を殺す事自体は全く無意味な行為である。しかしだからと言って素直に3人を解放してくれる筈が無い。“彼らにとって”(あくまでも“彼らにとって”)最良の方法は、1人だけ殺してしまい、再び日本政府に自衛隊の即時撤退を要求する事だ。万が一こうなった場合、今以上に日本の世論が混迷する事は確かだろう。


2004年4月9日(金) 日本人誘拐(加筆修正版)

イラクに於ける日本人誘拐事件について。午前中にアップした文章を加筆修正しました。

数多くのサイトが日本人誘拐事件を扱っている。各サイトを見る限り、意見は以下の4つに大別されるようだ。

1.「恐れていた事が実際に起こってしまった。早く自衛隊を撤退させて3人を救い出すべきだ」
2.「こんな脅迫に屈してはいけない。自衛隊は絶対に撤退すべきではない」
3.「あんな左翼な奴らは助ける必要なし。見捨てても構わない」
4.「そもそも誘拐されたとされる3人の日本人も含めて自作自演ではないか?」

それぞれの意見が占める割合は1が最も多く、2がそれよりは少し少ないくらい。3はかなり減って、4は僕が見た限りでは一つだけであった。最初は4番目の意見などは度外視しようかと思ったのだが、それなりに根拠が列挙されていた(3人の服装や映像の音声の問題、過剰過ぎる武装など)ので無視できなかった。

この問題についてはアンケートも行われている。『はてな?』『探偵ファイル』によれば、自衛隊に関して撤退賛成派と撤退反対派との比率はそれぞれ4:6と2:8だった。(サンプル数は探偵ファイルの方が圧倒的に多い。)
「自衛隊は撤退すべきでない」という意見の方が多数派のようだ。これは僕も同じ意見(2の意見)である。

ただ「自衛隊を撤退すべきか否か?」という問題は「人命を優先するか否か?」に集約されている感が有るが、それには違和感を感じる。つまり、「人命を優先する」という人でも「自衛隊を撤退させる」という結論が出てこない場合が有るという事だ。これは、ここで脅迫に屈してしまうと将来に渡って今まで以上に日本人が狙われやすくなってしまう、という危険性を高めるからだ。

となれば問題は、「現在誘拐されている3人の人命を助ける事を優先するか? 将来に狙われるであろう日本人の数を増やさない事を優先するか?」という点に移って来るのではないか? こうなると人命同士の価値の対立になる。これは非常に難しい問題だ。僕は功利主義(幸福を計算可能と仮定し、最大多数の最大幸福を追求する考え)の観点に基づいて、「自衛隊を撤退するような態度を見せれば、将来少なくとも3人以上は日本人の被害者が増える」と考えているので自衛隊の撤退には反対である。

しかし恐らく「本当に危険な目に遭うかどうかも分からない人命と、今、現実に危険な状態にある人命とを同価値に扱って良いのか?」という意見は充分に有り得るだろう。というか、上記の1の考えをする人は大抵がこう考えているのではないか?

事態は未だ予断を許さぬ状態だが、取り合えず結論。

今回の日本人誘拐事件に於ける自衛隊撤退論議の焦点は、「人命自体を尊重するか否か?」ではなく、「現在誘拐されている3人の人命を助ける事を優先するか? 将来に狙われるであろう日本人の数を増やさない事を優先するか?」という究極の選択を迫られている事であると思う。


2004年4月8日(木) 歪んだ謙遜

「自分が自らの自由意志で所属している団体の事を悪く言う人間は嫌いだ」という主旨の発言を聞いて「なるほど」と思った。

例えばアニメ研究会みたいなサークルに所属している人が友人に「いやぁ、僕のサークルはホント駄目なトコだから近付かない方が良いよ」みたいな言い方をするのは、どういう心理が働いた結果なのだろうか? 僕も偶にその手の発言をしてしまうのだが、にも関わらずその発言に至るメカニズムはよく分からない。しかし、取り合えずその現象自体は『歪んだ謙遜』と呼ぶ事にしている。
(ちなみに僕がアニメ研究会に所属している訳ではない。)

というのも、これも自らを貶めているという意味で一種の謙遜に近いと思うからだ。しかし何かが通常の謙遜と違う感じがする。『歪んだ』感じがするのだ。同じような感覚を受けるのは、自分のサイトを「自己満足」と言っているのを見た時である。或いは僕の昨日の日記の最後の部分(僕以外のこの4人なら、このサイトよりずっと面白いサイトになる事でしょう。「お前、1人だけレベル下げてんだよー!」と言われない様に頑張ります。)なんかもそう。

一つ思い当たるのは「へりくだり過ぎ」という事だろうか? 必要以上にへりくだった態度は逆に受け手を不快にする、というのはよくある話だ。しかしそれだけではないような気がしてならない。

分からない事だらけなのだが、確実に言えるのは上記のような幾つかの態度には何か共通した特殊事項があり、それを不快に感じてしまう人が少なからず居る、という事だ。詳細な原因が不明な以上、気を付けようがない部分も有るが、この問題に対しては(僕自身が何らかの異常を感じているだけに)出来る限り注意を払わないといけないと思った。



今年の上原は怪我をした所為かスピードはあまり出ていないようだが、その分コントロールには磨きが掛かっているように感じる。元々コントロールは球界一だったが、今年は殆どの投球がコーナーギリギリに行っている。あまり騒がれていないが本当に凄まじい。


2004年4月7日(水) 首相の靖国神社参拝問題

小泉首相の靖国神社参拝が違憲とされたことについて、首相周辺は「あくまでも個人的な立場から戦没者に哀悼の意をささげたものだ。靖国神社参拝は政府のこれまでの見解にのっとったもので問題はない」と反論している。
福岡地裁の判決について細田博之官房副長官は7日午前、首相官邸での記者会見で「(国家賠償請求の棄却で)基本的に国が勝訴したと聞いている。しかし、(判決)理由の中でご指摘のように(違憲と)なっているのは誠に遺憾だ」と述べ、判決内容に不満を示した。
また自民党の安倍幹事長は同日午前、国会内で記者団に「地裁では時たまこういう判決が出るが、(参拝が)違憲とは思わない。政教分離(原則)には目的効果基準があって、参拝は憲法違反にならない範囲だ」と判決を批判した。


靖国神社参拝の問題はかなり根が深い物が有りますね。僕なんかは「私人として行くなら問題無い」という意見にも「首相という立場の人間な以上、公人として扱われる」という意見にも納得出来てしまうんですね。だから僕には、首相の靖国神社参拝を「構わない!」とも「悪い!」とも言えません。今回の判決は後者の意見を支持した、という事ですね。

僕がこのニュースで最も問題だと思うのは安倍幹事長の発言の方です。

「地裁では時たまこういう判決が出るが、(参拝が)違憲とは思わない。政教分離(原則)には目的効果基準があって、参拝は憲法違反にならない範囲だ」

日本は三権分立制であり、立法権・行政権・司法権をそれぞれ国会・内閣・裁判所で分け合っています。司法権は(弾劾裁判などの例外を除き)全てが裁判所に委ねられている訳です。という事は、いくら安倍幹事長が「参拝は憲法違反ではない!」と主張した所で、それは全くの無意味です。それどころか、これは三権分立制度を侮辱した発言ではないでしょうか? 一般人が裁判に負けてテレビで法の不条理さを訴えるのとは訳が違うのです。安倍幹事長は国会議員な訳ですから、立法権を与えられた国会の一員です。ですから彼は、「『首相が靖国神社を参拝しても構わない』という法律を作るぞ!」と言うべきでしょう。
(法律だと違憲立法審査で無効化されてしまうだろうから、憲法改正を訴えるべきかな?)

本当に首相の靖国神社参拝が問題無いと思っている処に今回の判決が出たなら、上のようにするのが国会議員として有るべき姿な筈で、ただ単に「裁判所の判断は間違っている」と発言するのは負け犬の遠吠えに過ぎないと思います。


話題転換。

『ゴールデン・スタンダード』の海上君が新サイト『ポリー・ハッターと賢者の右』を立ち上げてくれました。普通の日記サイトなんですが、担当者が曜日毎に決まってるんです。水曜日(つまり、今日)の担当は僕です。このサイトでは書き難い話題を書いていこうかと思います。良かったら是非。

ちなみに各曜日のレギュラー担当者は、月曜・海上、火曜・吉原、水曜・KASA、木曜・三谷、金曜・橋口というメンバーで、この5人は高校時代の同級生です。僕以外のこの4人なら、このサイトよりずっと面白いサイトになる事でしょう。「お前、1人だけレベル下げてんだよー!」と言われない様に頑張ります。


2004年4月6日(火) ドラクエ5

数日前にドラゴンクエスト5をクリアした。全プレイ時間は30時間ちょっとだった。

ドラクエは記号的なRPGだと言われる。自分や味方が見えない戦闘画面。キャラクターを階段の画に合わせるだけで出来る階層移動などなど・・・。
そして最近はその記号的な部分が崩れて来ているのも周知の通り。3Dの世界になったし、ドラクエ8からは戦闘画面がFF方式になる。今作では階段が立体的に作られてしまった為に、逆側から近付くと階段を昇れなくなった。(←非常に不便)

あまりに記号的過ぎるとゲームとして遊び難いのは確かだ。ドラクエ1ではキャラクターの向きが変更出来ないので、話すコマンドを実行する際には方角も指定しなければならなかった。今のようにキャラクターが向きを変えられる事に対して反対する人は間違いなく居ない筈だ。また、立札を後から“しらべる”と「こっちは裏側〜〜」というメッセージが流れるのも面白い。

しかし、逆に記号的な部分を失い過ぎるのも良くないと感じた。先の階段の例は明らかにデメリットの方が大きい。
他にも、パパスが殺される場面はPS2版ではポリゴン劇になっているのが非常に残念だった。パパスがジャミ達に殴られ続ける光景がポリゴンで描かれているのだが、ここはやはりSFC版のように、従来の戦闘画面で「パパスはじっと耐えている」というメッセージを流し続けてくれた方が、なんとも言えないやり切れなさをプレイヤーに与えられたと思うのである。

――と、こんな風に感じるのはSFC版をプレイしたからなのかな〜? 分からない。以上。



吉野家の豚丼を初めて食べた。正直言って僕には牛と豚の違いすら分からない。ゴボウの軟らかさには驚いた。


2004年4月5日(月) 明日から頑張らないと

昨日の日記で先日、「映画『イノセンス』が面白い」と書いたが、その所為で後輩が僕をオタク呼ばわりしている書き込みを発見。悲しい・・・。と書いたら、その後輩からメールが来た。しかし、

オタクは日本以外ではそこまで差別的な扱いないんで大丈夫ですよ。というより研究対象ですよ!

というフォローの仕方は如何なものか。いや寧ろこれはそもそもフォローなのか? 謎は深まる。(って別に気にしてないぞ。>鮎)

ちょっと忙しいので今日はこれだけで。更新報告はしません。
明日から大学の講義が始まる。多分、付いて行けないんだろうなぁ。


2004年4月4日(日) イマイチな一日

今日はイマイチな一日だった。

昨日から親がスペイン旅行に行ってしまって、食事は自分でどうにかしなければならない。面倒だったので昨日の夜から何も食べないでいたら、今日の夕方には腹が減って来た。家の中には冷凍食品なら有るが、それらは普段から食べ慣れているので今日は他の物が食べたい。

そういえば今日は彼女が会社の研修から帰って来る日だったので「疲れてなければ一緒に晩御飯食べないか?」とメール。返事が無かったが、「どうせ一緒に食べなくても外食はするんだ」と思い、取り合えず新宿へ向かう。駅に着いた時に彼女から電話。台詞から“新宿なんて行きたくねーよオーラ”を大量に放出していた為、「じゃあ○○(←彼女の住んでる地名)でなら良いのか?」と訊くと何故か「でも家には入れないよ」と言われる。さらにその後も「くどいようだけど家に入れないよ」というメールが2通。確かにくどい。

駅を移動して彼女と合流し、回転寿司に行くと結構並んでいる。「どうする?」と訊くと「どうでも良い」(←どっちでも良い、ではない)と投げやりな返答。「は? なに、夕飯食べたくないの?」と訊くと「食べたくない」と言われた。なんだそりゃ。「蹴り殺してやろうか」とも思ったが、自制。

結局、近くの“てんや”へ。研修がどんな感じだったのか訊いたが、マトモに返事をしてくれないので「疲れてるのか」と思ってあまり話し掛けない事にした。しかし黙々と食事をしていたら唐突に「で? 何か喋んないの?」と、如何にも「デート中に面白い話の一つも出来ない男」を見る目で言われた。心外だ。心外過ぎる。なんだそのレッテルは。「こっちはなぁ、お前の事を――」と言ってやろうと思ったが、やはり自制。再び研修の話を訊く。

またしても大した返答をしてくれなかったのだが、何とか「ディスカッションをした」という事を聞き出せたので「へぇ、何について討論したの?」と訊いたら「色々」と言われた。「ふむふむ、で、例えば具体的には?」と訊くと「色々」と言われた。どうやって話を膨らませたら良いのか全く分からない。

「話を訊かれるのは厭なのかな?」と思い、今度は僕の話をする。「今日ココに来る途中でDVD買ったんだよ。でもさぁ本当は『攻殻機動隊』とか『パルプフィクション』とか買いたかったんだけど無くてさぁ」と言うと「ああ、そう」とだけ返される。ここは当然「じゃあ何を買ったの?」とか返す所だと思うのだが、それは僕の期待が大き過ぎるのか?

流石にもう何も言う気が無くなり、そのまま帰途に着く。途中、コンビニで酒とツマミを購入。今、1人で飲んでます。虚しい・・・。

明日、誰か飲み会にでも誘ってくれないだろうか?


P.S.
先日、「映画『イノセンス』が面白い」と書いたが、その所為で後輩が僕をオタク呼ばわりしている書き込みを発見。悲しい・・・。


2004年4月3日(土) 大学進学に於ける性差

米国最古の歴史を誇る私立の名門校、ハーバード大学でこのほど、今年の秋入学試験に合格した者のうち、女性が半数を超えたことが分かった。女性の合格者数が男性を上回るのは、同校の創立以来初めてだという。女性が1016人、男性が1013人でわずかに3人差だった。
1970年代から女子学生の受け入れ促進を展開してきた同大の努力が実を結んだ。ウィリアム・R・フィッツシモンズ事務局長兼学費支援局長は、60年代では全学生のうち女性は4分の1しかいなかったと指摘。今回の結果を受けて「我々が待ち望んでいた日が、とうとう訪れた」と喜んでいる。


日本では考えられない・・・と思ったら、そうでもないようです。平成12年度の時点で日本国内での高校への進学率は女性が96.8%で男性が95.0%。何と女性の方が高いです。大学進学率(短大は除く)では女性が31.5%で男性が47.5%と、まだ男女差はあるものの、圧倒的と言う程ではありません。

ところが一方で東京大学合格者の女性占有率は20%前後です。男女毎の大学進学率を考えるなら40%くらいあってもおかしくない筈なのに、この低さは何故でしょうか?

原因の一つには女性の現役志向の高さが有ると思われます。日本ではまだまだ女性の浪人には厳しい見方をしているようです。例えば今年の東大前期合格者の私立高校別現役率を見てみると、開成・灘・麻布といった男子校は60%台なのに対し、女子校である桜蔭は88%という極めて高い数値を記録しています。

東大は合格現役率が低い大学なので、差が非常にはっきりと現れています。という訳で結論。

日本では大学進学率こそ男女差が消えつつあるが、浪人する事に関してはまだ(恐らく社会的な)性差が大きい。

ところで気になるのは1970年代から女子学生の受け入れ促進を展開してきたという辺りです。男女で合格基準が異なる、とも読み取れるんですが・・・? もしも女性に有利な条件にしているなら、それは逆に女性に失礼なのでは?



昨日は学科のガイダンスが有ったのですが、まず開口一番に「今月からココは国立大学ではなく大学法人だ! 我々は教官ではなく教員であり、公務員ではなくなったのだ!」と喜色満面の笑顔で言われました。何が嬉しいのかよく分かりません。これから「寄付金を取り放題だ。1口10万円で35口以上払ってもらおうか」なんてどこかで聞いたような台詞を語り出すのだろうかとも思いましたが、そうではなくて安心しました。僕の場合、まだ2年生が終わっただけだというのに4年分もの学費を払ってますし・・・。

僕は学生として本当に駄目な人間でして、でも学部を卒業したら就職したいと思ってるので、何かしらのスキルを身に付けないといけません。やはりコンピュータ関係に強いと良いと思うのですが、残念ながら僕はワードもエクセルも使った事がなく、標準的な理系大学生よりも詳しいのはHTMLくらいでしょう。役に立ちそうもありません。という訳でC言語を勉強する事にしました。理由は特に無いですが。もしも夏休みが暇ならば最近はさっぱり止めてしまった経済学も少し勉強して、あわよくば何か簡単な資格でも欲しい所です。ちょっと苦しいかな?


2004年4月2日(金) 消費税の計算方法

消費税の算出方法は6種類も有る。

同じ物を2つ買った時の支払い金額が奇数になって「あれ?」と思った事は無いでしょうか? これは消費税の所為ですが、これからそういう事は減るかも知れません。今日は非常に細かい話。

消費税が導入された事によって国内の商品の価格には1円未満の状態が発生する事になりました。現在では本来価格50円の物には2.5円の消費税が掛かりますね。当然「52円50銭払え」とは言えないので、0.5円という端数をどうにかする必要が出て来ます。

実は消費税3%時代には端数は切り捨てする事に決まっていました。ところが消費税が5%になってからは、端数をどのように処理するかは店側の自由となりました。実際、消費税による端数の処理は店によって「切り捨て・四捨五入・切り上げ」と分かれています。だから同じ本体価格50円でも、端数を切り捨てする店では52円、四捨五入・切り上げする店では53円となっています。1円の差ですね。

ちなみにスーパーでは切り捨て、コンビニでは四捨五入、デパートでは切り上げが多いようです。

話はこれで終わりません。今月からは消費税の考え方が更に変更されているのです。それは「消費税率をいつ掛けるのか?」です。

複数の商品を購入する際、従来は本体価格の合計に消費税を掛けて計算していました。本体価格50円の物を2つ買うと、消費税は5円になりますね。合計105円です。ところが、今月からは一つ一つの商品の本体価格に対して消費税を掛ける事になったんです。そうなると端数切り捨ての店では本体価格50円の商品2つで52×2=104円、端数四捨五入・切り上げの店では53×2=106円となる訳です。

ところが消費税率をいつ掛けるかは2007年3月までは従来方式も認められているんです。なんと現在では端数の処理方法で3通り、消費税をいつ掛けるかで2通り、計6通りもの消費税の計算方法が混在している事になります。これは紛らわしい。

とは言っても、普通に買い物をしている範囲では、気にする程の金額差は発生しません。(10個の商品を買うと最大10円差になります。)本当に1円でも安い物を求める人は気を付けた方が良いと思いますが。あとは1個5円のチロルチョコを切り上げ方式の店では買わない事ですね。価格が20%も上がってしまいますから。

という訳で今日の結論。

消費税の算出方法は2007年3月までは6種類も有って紛らわしい。


セリーグ開幕。僕は巨人ファンなのですが・・・中継ぎが・・・中継ぎが!
井川と上原は絶不調だったのに、あれだけのピッチング。彼らはちょっとレベルが違い過ぎますね。


2004年4月1日(木) エイプリルフールだ、と思ったけど

「エイプリルフールだから何か嘘のデータを持ち出して議論を展開してみよう」と考えていたら、ネタを考えてる内に日付が変わってしまいました。既に4月2日です。仕方ないので普段通りの日記を。

昨日(3月31日)は高校時代のクラブのOB会でした。僕より4歳上から3歳下までの年代が集まって渋谷で飲み。高校時代と言っても半分以上は同じ大学に通ってるのですが、普段から会う人は少ないし楽しい一日でした。2回も留年してると大学に現役で入ったのに後輩に学年を抜かされているという悲劇も。いや、もうとっくに慣れたんですが。

今日から価格の総額表示方式が義務付けられましたが、これは「将来こっそりと消費税率をアップする為の布石だ」という意見が有りますね。言い掛かりにしか見えません。そんな事くらいで消費税率改正に気付かない人がいる訳無いと思うんですけど。そもそも消費税アップを価格に上乗せされる段階になってから反対しても遅いでしょうが。法律を作る段階で反対しないと。

明日は消費税について細かい話。


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