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2005年1月

DIARY MAIN

2005年1月31日(月) 色々と報告

アッと言う間に1月も終わりです。という訳で、ダイエットの途中結果報告を。ルールの詳細は元日の日記を参照して貰うとして、今月は2キロ減量しなければいけなかった訳ですが――結果は2.2キロ減。

いや、クリアはクリアなんですけど、去年ダイエットした時よりも確実に痩せ難くなってます。去年は最初の3週間くらいで、4キロ落ちましたからねぇ……。これはあれですか、噂の「リバウンドすると痩せ難くなる」というヤツですか? 身を以て実感するハメになるとは思いませんでしたが。

ダイエットのノウハウみたいなモノは、蓄積されてるハズなんですけどね。まぁ僕の場合、「間食しない」「食べ過ぎない」「なるべく歩く」という3つを基本としてるだけなんで、世に言う“ダイエット”とは異なるのかも知れませんが。

今が冬だってのも大きいかも知れません。僕の場合、暑いと大量に汗を掻くんですよ。オタク必須のスキルですね。昨年ダイエットを行ったのは、5月〜11月――主に暑い季節が中心だった訳です。今回は1月からですから寒い。幾ら僕でも、殆ど汗を掻きません。よって消費カロリーも抑えられてしまっているのかな、と。

僕は別に大食漢ではないので、摂取カロリーを減らす方向ではなく、消費カロリーを増やさなくちゃいけませんね。しかも2月は日数も少ないですし、大学も試験日以外は休みですし、少しは頑張らなきゃいけません。って訳で、来月はジョギングをしてみようと思います。主に午前中、東京都文京区本駒込3丁目付近を走っている怪しげな太った男性を見掛けたら、高確率で僕だと思います。

さて、話は変わり。今年から始めた『Amazonアソシエイト』ですが、こちらについても毎月末に報告して行こうかと思います。

これは、ココのサイトを介した『Amazon.co.jp』の売上げに応じて僕に紹介料が転がり込む、という仕組みになっています。今月の売上げ合計は、全12商品で12930円でした。紹介料は522円だそうです。買ってくれた方々には感謝。しかし友人に「月に何百円かは儲かるよ」と言われて始めたのですが、本当に“何百円”ですねぇ。

しかし紹介料を1日当たりに換算してみると約17円です。そう考えると、何となく日記の原稿料みたいに思えて良いですね。「多少なりとも原稿料が出る」と思えば、日記を書くモチベーションも高まりますし。

何となく金に目が眩んで来たので、売上げアップを目指して、トップページ左側に近日購入予定orお奨め商品リンクを作ってみました。取り敢えず無節操にリンクを貼ってしまいましたが、近い内に整理(少なく)します。でもリンク貼ってる商品は、全て僕のお奨めです。(特に小説は。ライトノベルが殆どですけど。)

ちなみに僕の方では「どの商品が幾つ売れたのか?」が分かる仕様になっているのですが、誰が買ったのかは当然ながら分からないですし、購入された商品名を公開する事も絶対に有りません。あくまでも月毎に売上げ合計と紹介料を報告するだけにしますので、何かを購入する際には御安心を。

――という事で、来月からもヨロシクお願いします。


2005年1月30日(日) ダジャレの才能、無いのう

娘至上主義サイトである『エキスパートモード』で、100万ヒット記念の「ダジャレ募集イベント」を開催しているので、家庭教師先に行く道中でダジャレを考えていた。で、その時に頭に浮かんだダジャレ。

「内容が無いよう」、「イランは要らん」、「ラクダは楽だ」、「ハエが速ぇ」、「この帽子、どいつんだ?」「オラんだ」
…………………………「もっと良いシャレを言いなしゃれ!」

――という訳で、僕のダジャレの才能の無さが見事に露呈されてしまった訳だが。

いや、もうベタベタ過ぎ。ベタベタさで言ったら、安田大サーカス並みである。(それにしても安田大サーカスの一番太った人、身長・バスト・ウエスト・ヒップが全て178cm&体重が178kgってのは、幾らなんでも嘘だろ……。ってか身長が僕と同じなのに驚いた。テレビで見ると190cmくらいだと思っていたのが、横幅が長いだけだったのか。)

さて、そんなどうしようもないダジャレばかり考えながら歩いていたら、電信柱に激突するという、さらなるベタベタな展開に。ここでベタベタな漫画だったら、面白いダジャレの一つでも思い浮かぶハズだが、そういう事は一切無し。まぁ世の中って、こんなもんか。

仕方無いのでダジャレの得意な先輩に「何か面白いダジャレは有りませんか?」と訊いた所、「『おはヨン様』なんて、どーよ?」と言われる。「おお流石! とても僕には思い付かないダジャレを、いとも簡単に!」と思ったが、『google』で「おはヨン様」と検索すると、700件以上ヒット。うーん、これじゃあちょっと応募するのは憚られる。ダジャレ界の奥深さを知った思いだ。

かくして、僕のダジャレ探しの日々は、もう少し続く。

追記:さっき『笑っていいとも増刊号』を見ていたら「このセンス、許せんす」というコーナーが有った。そこで、「この扇子のセンス、許せんす」というダジャレを思い付いたが……まぁ僕のセンスは、この程度である。


2005年1月29日(土) 「記号化された死」を認めないRPG

昨日の日記でゲームに於ける“死”には、「記号化された死」と「絶対的な死」という2つの“死”が存在すると書いたが、これを踏まえて今日はロールプレイングゲーム(RPG)に於ける“死”について考察してみる。

好きな人は知っていると思うが、RPGは同一の作品の中で、上記の2種の“死”を混在して扱っているケースが有る。主に通常の戦闘に於ける“死”は「記号化された死」であるのに対し、ストーリー展開上に於ける“死”は「絶対的な死」であると言える。これはRPGというジャンルが、アクションゲームとアドベンチャーゲームを融合して作られた事を示唆している。

ところが同一作品内で「記号化された死」と「絶対的な死」という2つの“死”を扱うと、決定的な矛盾を産み出す結果となる。それは即ち、「戦闘で死んだキャラクターは生き返す事が可能なのに、どうしてストーリー上の都合で死んだキャラクターは生き返らせる事が出来ないんだ?」というものだ。これはゲームをやっていて、誰もが突っ込みたくなる部分だろう。勿論「ゲームだから」という言い訳が絶対に許されない訳ではないが、やはり何となくモヤモヤとした感情が残る。

この矛盾に対し、多くのソフトメーカーでは或る対策を行っている。

「実は多くのRPGでは、キャラクターは生き返らない」と言ったら驚く人は多いのではないか。しかし実際、キャラクターは生き返っていないのだ。正確に言えば、通常の戦闘でキャラクターが“死”ぬ事が無いのである。

RPGに於いて「記号化された死」と思われているモノ――それは多くのソフトに於いて、“戦闘不能”と表現されている。例えば『ファイナルファンタジー』シリーズでは、ヒットポイント(HP)が0になると、そのキャラクターが倒れるが、そこに表示される文字は“戦闘不能”だ。この“戦闘不能”は「魔物と戦えない瀕死の状態」を示すだけで、“死”とは大きく異なる。だからレイズやアレイズといった魔法、或いはフェニックスの尾といったアイテムは、生き返りの効能を持っている訳ではなく、“戦闘不能”状態を解除する効果が有るだけなのである。

その他の多くのRPGも、『ファイナルファンタジー』に追随して“戦闘不能”という表現を用いている。これにより同一作品内から「記号化された死」を取り除き、「絶対的な死」のみを扱う事になる為、2種の“死”が存在するという矛盾を解消している。

この矛盾を放置しているのは『ドラゴンクエスト』シリーズくらいで、こちらは戦闘でHPが0になるとハッキリと“しに”と表示される。仲間内で“死”者が発生すると、フィールド画面では生き残った仲間が棺桶を引っ張って移動する事になり、寧ろ「記号化された死」を出来る限り「絶対的な死」に近付けよう、という意志さえ感じられる。事実、『ドラゴンクエスト』は他のRPGと比べ、HP0状態から復帰させる手段が限定されている傾向に有る。

ただ生死を賭けて戦闘をしているのに、敵が何故“戦闘不能”状態のキャラクターを見逃すのか、という疑問は残る。そこで『サガ・フロンティア』シリーズなどは“戦闘不能”状態のキャラクターにも敵が攻撃を仕掛けて来て、ライフポイント(LP)を削り取って行くというバトルシステムを採用しているが、これはかなり例外的なシステムであると言わざるを得ない。ちなみに『サガ・フロンティア』ではLPが0になると、そのキャラクターは消失し、絶対に生き返る事は無い。つまり「絶対的な死」だ。

そこで多くのRPGは“全滅”という概念を用いる事で、やはり矛盾を解消しようとする。つまり、仲間キャラクター全員が“戦闘不能”となったら、それは「記号化された死」ではなく「絶対的な死」として扱う、という事だ。あくまでもRPGは「記号化された死」を認めないのである。

以上より今日の結論。

殆どのRPGは“戦闘不能”という概念を用いる事により、同一作品内で「記号化された死」と「絶対的な死」とが混在するという矛盾を解消している。『ドラゴンクエスト』のみが矛盾を内包しつつ、しかし「記号化された死」からの生き返りの手段を限定する事で、「記号化された死」を「絶対的な死」としてプレイヤーに認識させようという意図が感じられる。

さらに昨日を踏まえての結論。

ゲーム特有の“死”である「記号化された死」は、アクションゲームやシューティングゲームなど、非常に限定されたジャンルでしか見られない。ゲームに於ける多くの“死”は、小説や映画と変わらない「絶対的な死」である。

昨日の日記で対戦格闘ゲームの例として挙げた『ケルナグール』に対して、「例が古過ぎ(マニアック過ぎ)だろ!」というツッコミが来る事を期待していたのだが、そのような指摘は残念ながら無かった。


2005年1月28日(金) ゲームに於ける“死”

世間では「テレビゲームが“死”を軽く扱い過ぎている為に、子供に悪影響を与えている」とか、「いや、そんな事は無い」とか議論されているが、ここでは「そういう議論とは全く関係無しに」ゲームに於ける“死”について考察してみようと思う。

ゲームに於いて“死”が最も記号化されているのは、『スーパーマリオブラザーズ』に代表されるアクションゲームと、『スターソルジャー』などのシューティングゲームだと思われる。このジャンルのゲームでは、我々プレイヤーが操作するキャラクターに“残り人数”や“残り機数”が設定されており、それが0になるまでは何度でも死ぬ事が出来る。これらは生命を記号化する事が殆ど必須事項になっている一方、映画や小説のようなドラマ性は皆無に近く、操作キャラクターの“死”がプレイヤーに対して悲しみの感情を与えないようになっている。“死”が持つ独特の生々しさを極力排除した造りになっている訳だ。

また『グランツーリスモ』や『リッジレーサー』などのレースゲーム、『実況パワフルプロ野球』や『ウイニングイレブン』などのスポーツゲーム、『いただきストリート』などのスゴロク型ゲーム、『ぷよぷよ』などのパズルゲーム、『ビートマニア』や『パラッパラッパー』などの音楽ゲームでは、基本的に“死”が扱われる事は無い。

意外に“死”と無縁なのが『ケルナグール』や『ストリートファイター』を初めとする対戦格闘ゲームで、これらのゲームでは戦いが“試合”としての形式を採用している事が多く、やはり登場キャラクターが“死”ぬというケースは殆ど無い。例外としては『ブシドーブレード』などが挙げられる。これは対戦キャラクター同士が真剣を使用して戦うゲームで、対戦格闘ゲームに付き物の“体力ゲージ”というシステムが存在しなく、手を切り付ければ手が使えなくなるし、足を切り付ければ足が使えなくなるし、頭を切り付ければ一撃で“死”んでしまうという、極めて異端なゲームであった。その余りの異色さ故か、スクウェア(現スクウェアエニックス)という超大手ソフトメーカーから発売されたにも関わらず、殆ど売れなかった。

逆に“死”という要素が極めて重要視されるのが、『かまいたちの夜』や『逆転裁判』、『街』などのアドベンチャーゲームである。アドベンチャーゲームは小説のようなストーリー形式を為している事が多く、例えば殺人事件を扱うならば登場キャラクターの“死”は必須である。しかしこのジャンルのゲームで扱われる“死”は、アクションゲームやシューティングゲームで扱われる記号的な“死”とは性質が大きく異なり、一度“死”んだキャラクターが生き返る、というケースは殆ど無い。つまり小説や映画など他のエンターテイメントメディアで扱われる“死”と変わりが無い。勿論ゲームを最初からやり直せばそのキャラクターに再び出会える訳だが、それだって小説の再読や映画の再観賞と全く同じ構造と言える。

シミュレーションゲームは“死”の扱いが様々だ。例えば『ダービースタリオン』はアドベンチャーゲームと同様に、“死”が絶対的な物として扱われるが、『アストロノーカ』のように淡々と野菜作りをしていくだけの、“死”とは全く関連性の無いゲームも有る。

以上のように見てみると、ゲームには大別して二種類の“死”が存在している事が分かる。一つはアクションゲームなどの「記号化された死」で、もう一つはアドベンチャーゲームなどの「絶対的な死」である。後者は他のメディアでも扱われる“死”だが、前者はテレビゲーム特有の“死”であると言える。

さて、ゲームに於ける“死”という物について簡単に見て来たが、実は重要なジャンルを残している。それは、ロールプレイングゲーム(RPG)だ。しかしRPGが扱う“死”は、他のジャンルの追随を許さないほど複雑さに満ち溢れている為、これについては明日の日記で考えてみたい。

取り敢えず以上より今日の結論。

ゲームに於ける“死”には、「記号化された死」と「絶対的な死」という2つの“死”が存在する。ゲーム特有の“死”は前者だ。


2005年1月27日(木) 20万ヒット御礼など

昨日で20万ヒット達成しました。読者の方々、本当に有難うございます。内容に統一性の欠片も無く、一貫しているのは怠惰な理系大学生が書いている、という事だけのサイトですが、これからも方針は変えずに、雑多なテキストを殺伐と書き連ねて行こうと思います。

最初の10万ヒット達成までに726日――約2年の歳月が掛かった訳ですが、次の20万ヒットまでは72日――約2ヶ月半での達成となりました。この2ヶ月半の10万ヒットの内、恐らく半数程度は個人ニュースサイトからのリンクに拠るもので、改めてニュースサイトの底力みたいな物の凄さを感じました。

――さて、話は変わり。

僕は昨年6月から、基本的に日記を早朝に更新して来ました。これは様々な面でメリットが見込まれたからなのですが、これからは更新時間を早朝に限らないようにしようと思います。というのも、僕が患っている鬱病の方で“早期覚醒”という症状が有るのですが、「早朝に日記を更新するぞ」という意識が精神的に悪影響を与えているのではないか、と感じるようになった為です。

他にも、朝にパソコンを立ち上げてしまうと、そのままwebを巡回してしまう、というのも大きいですね。これが割と時間を取られるんですよ。どうせ夜にも巡回するので、余計な時間は省こう、という意図です。

「絶対に早朝に更新しない」という訳でも有りませんが、あまり精神に負担の掛からないようなサイト運営をして行くつもりです。要は「まぁ適当に」という事ですね。このサイトで適当でないのは更新時間だけ、と言っても過言ではなかった訳ですが、これからは更新時間も適当です。

――という訳で、これからもヨロシクお願いします。

DVD『爆笑オンエアバトル アンジャッシュ』を鑑賞しました。日常に於けるちょっとした勘違いに、さらに勘違いを重ねて行くという手法が堪らなく好きです。個人的には、上司が部下に赤いブラジャーをプレゼントするネタが、ダイジェストにしか入っていなかったのが残念。でも「息子と部下」や「それぞれの会話」というネタは名作だと思います。見た事の無い方は、是非。


2005年1月26日(水) ザオリクとかアレイズとかシェンロンとか

人が生き返っちゃ、そんなに悪いのか?

長崎県佐世保市の小6同級生殺害事件を受けて同県教委は24日、小中学生約3600人を対象に実施した「生と死」のイメージに関する意識調査の結果を発表した。「死んだ人が生き返ると思うか」の問いに555人(15.4%)が「はい」と回答。一部の児童・生徒は人の死を現実的にとらえられていないことが浮き彫りになった。   ――毎日新聞より

調査方法自体に疑問の声が上がっているが、「人が生き返ると思っている小中学生が、それなりの割合を占めている」という結果に対しては、今の子供達の見識を心配する人が多い。しかし、これは果たして憂慮するべき事態なのか?

例えば人は飛べないが、「飛びたい」という強い意志が、ライト兄弟の成功を産んだ。例えば「地球は不動だ」という天動説全盛の時代に、コペルニクスやガリレオは自らの人生を犠牲にしてまで「地球が太陽の周りを回っているんだ」と主張し、後にそれが認められた。

となれば「人は生き返る」という想いが、将来的に何らかの科学的成功を収める可能性は、無いとは言えない。いや、そんな成功を収められずとも、そもそもどうして「人は生き返る」と考えてはいけないのか?

それが現実を反映していないと言う理由なら、例えばサンタクロースの逸話は全て禁止されるべきである。百歩譲ってサンタクロースの存在を認めるとしても、「プレゼントを置く為とは言え、人の家に勝手に入り込むのは住居不法侵入だから、絶対に真似をしてはいけないよ」という教育が為されるべきである。

「生きている間に良い事を沢山すれば、天国に行って生まれ変わる事ができるけれども、悪い事をすると地獄に行かされて、ずっと苦しい罰を与えられるんだよ。だから、皆さんも良い事をしましょうね」という道徳的説法も危険である。全然、現実を反映していない。

しかしサンタクロースの逸話や、輪廻転生のような“生まれ変わり”の考え方を否定する人は少ない。それらの話には夢が有るし、信じたからと言って、何らかの問題行動を起こす子供は居ない(もしくは極度に少ない)からだ。「僕はサンタクロースだ」と言って、他人の家に勝手に入り込む子供は居ない。「貴方は良い事を沢山したから、死んでも生き返れるよね」と言って、善人を殺す子供も居ない。

ところで「人は生き返る」という話にも夢が有る。少なくとも現代科学の一つの大目標として、生命の長期維持、或いは生命の復活といった類いの到達点が有るのは事実だ。

となれば「人は生き返る」と信じる事で考えられる唯一の弊害は、「まぁ教会には僕が連れて行って、費用も負担してあげるからさ」(※)とか言って、殺人を犯す子供が発生する事である。さて、そんな子供が一人でも現れるかどうか……僕には甚だ疑問だ。

以上より今日のイイタイコト。

「人は生き返る」と考えるのって、そんなに悪い事なのか?

(※)ゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズでは、死者を教会に連れて行き一定の料金を支払う事によって、その死者を生き返させる事が出来る。


2005年1月25日(火) 警察官のプロ意識

一昨日の日記「出会い系サイトのトラブルに於ける警察の対応」に、アクセスが集まっているようだ。一昨日の日記では、僕の見解を全く書かなかったので、今日はそれについて。

先日、「女性医師が患者の悪口(中傷)を自分のサイトに書いて、それが発覚し騒動になった」という事件が有ったが、今回の出会い系サイトのトラブルに於ける中板橋交番の警察官の対応は、個人的にはそれを上回る悪質さだと思う。何しろ被害者に対して直接、しかも法的に誤った事を述べている訳だから。

ただ一方で、女性医師の患者には何の落ち度も無かったのに対し、トラブルに巻き込まれた後輩には「出会い系サイトの画像をクリックした」という、或る種の落ち度が有ったのは事実。そういう意味では、先日の女性医師事件とは性質が異なる。

しかし、患者や被害者に落ち度が有ろうが無かろうが、彼らに対する医師や警察官は“プロ”であり、法律や正しい倫理観を遵守するべきである。

出会い系サイトや迷惑メールに関するトラブルは、後を絶たない。もしかしたら、その警察官は既に同種のトラブルを、何百件と見て来たのかも知れない。それで辟易する気持ちは分かる。

しかし、警察官は“プロ”なのだ。法律を作るのが政治家や官僚、法律と犯罪とを照し合せるのが弁護士や裁判官の仕事なら、法律を守らせるのが警察官の仕事だろう。その警察官が、「クリックした方が悪いんだよ! 知らないサイトにアクセスするなっていってるだろ! 何かやましいものがあるからクリックしたんだろ! そんなのはお金を振り込むしかないよ!」などと、明らかに法律を無視した発言をするのは如何なものか。

知らないサイトにアクセスするなっていってるだろ!は、まぁ良い。これくらいの小言を言われるのは、実際に後輩にも落ち度が有るから仕方無い。しかし、クリックした方が悪いは倫理的に間違っていると言わざるを得ない(業者の方が悪いに決まっている)し、お金を振り込むしかないは完全に法的な誤りを内包している。(画像をクリックしただけでは、利用料などを払う必要は無い。)

以上より今日のイイタイコト。

今回の件に於ける中板橋交番の警察官の対応は、法律を守らせる“プロ”としての自覚が無いようにしか思えない。それは先日の女性医師による中傷事件を上回る悪質さだと思う。

当事者である後輩は、まだトラブル中の模様。さらなる展開が有れば、また日記で取り上げるかも知れない。


2005年1月24日(月) トートロジー

トートロジーは無意味か?

“トートロジー”とは、「特に繰り返したからといって、何の意味も明瞭さも付け加えないような同じ言葉の繰り返し」の事である。(論理学に於いての“トートロジー”では「常に真な論理式」という意味になるが、ここでは無視の方向で。)

例えば長嶋茂雄の発言の多くはトートロジーだと言われる。「えー、彼のバッティングに関してですが、つまり打撃ですね、彼の打撃について――」というような類いの発言を聞いた経験の有る人は多いだろう。『バッティング=打撃』というのは誰もが知っている事であり、この言い換えは無意味である。つまり、トートロジーだ。

ところで僕は家庭教師をやっているが、その指導の中で自分が驚くほど多くのトートロジーを用いている事に、最近になって気付いた。「xは正の数、つまり0より大きいから――」とか、「この図形は正四面体、つまり全ての辺の長さが等しい三角錐だから――」とか。

『正の数=0より大きい』とか、『正四面体=全ての辺の長さが等しい三角錐』とか、これらは普通に数学を学んでいた人にとっては当たり前の事であり、全く無意味な言い換え――即ち、トートロジーに他ならない。(←この表現の言い換えもトートロジー。)しかし僕が教えている相手は、正にその数学を学んでいる真最中の中学生や高校生であり、彼らにとってそれらがトートロジーであるか否かは微妙な問題だ。

実際、「『正の数=0より大きい』くらいは中学生でも明らかだろ」と思ったりもする。少なくとも僕が指導して来た中学生の中で、『正の数=0より大きい』を知らない生徒はいない。(中学1年生の初めは除く。)しかし、『正の数=0より大きい』を知っているからと言って、『正の数=0より大きい』は彼らにとって、無意味な言い換えだろうか? 全ての生徒ではないにしろ、中にはそう言い換えて指導する事によって、内容がスンナリと頭に入って来るという人も居るのではないか?

現実がどうかは分からない。もしかしたら「どうしてそんな当たり前の事を言い換えてるんだろう?」と思う生徒も居たかも知れない。しかし、その生徒にとって『正の数=0より大きい』が本当にトートロジーなのかどうかは、僕の立場からは判断しようが無い。「『正の数=0より大きい』って分かってるよね?」と訊いた所で、「分かってる」と答えられるに決まっているからだ。その言い換えによって多少は理解し易くなっているのか否かは、教える側の僕にも、そして恐らく教えられている生徒側にも判定できないのだ。

どちらか分からないからこそ、僕はトートロジーを多用する道を選んだ。そこに「トートロジーではない」という可能性が有る以上、その方針は変わらないだろう。そう考えると、長嶋茂雄も似たような事を思ってトートロジーを多用しているのではないか、と思ったりするのである。

以上より今日の結論。

自分にとってはトートロジーでも、相手にとってはトートロジーではないかも知れない。その想いがトートロジーの多用へと繋がって行く。


2005年1月23日(日) 出会い系サイトのトラブルに於ける警察の対応

某掲示板に於ける書き込み。投稿者名や太字など、細かい処は改編しています。

【名前:後輩A 投稿日:2005/01/10(月)07:54】
携帯にきたショートメールから出会い系サイトに飛んで、画像をクリックしたら一発で登録されました。さらに、
「3日以内に32000円払ってね。それすぎると64000円!」
「払わないと二人組みが債権回収に行くよ。もしくは少額訴訟しちゃうよ」

って。
……今日が三日目です。テストなのに全然勉強できねー。
消費者生活センターのHPには以下の様に書いてあります。
「電子商取引上では事業者側が消費者の意思の確認画面を設定することが規定されています。相談者のケースはこのような画面が設定されていないことから支払う必要はなく、相手にしないことです。「取扱説明書」を読んで、携帯電話番号で届くメールは受信拒否の設定をする等、対応策もあります。わからない場合は電話会社に相談しましょう。また請求の電話がかかってくる場合はその電話番号を着信拒否しましょう
サイバー警察の主張は、
「最近、クリックしただけで登録し課金するサイト(いわゆるワンクリック料金請求)の ご相談が増えていますが、電子契約法(電子消費者契約及び 電子承諾通知に関する民法の特例に関する法律)という法律では、サイト側は、消費者に対して申し込み内容を再度確認させるための画面を用意する必要があるので、このような確認措置が無いような場合は、その申し込みは無効を主張することができるとしています」
消費者生活センターいかなくていいですかね? レス求む。むしろ携帯の方にレスしてくれてもいいくらいです。

【名前:後輩A 投稿日:2005/01/10(月)07:55】
2ちゃんでまとまったいい書き込みがありました。みなさんも同様のことがあったら参考にしてください。
1:Cメール・スカイメール・ショートメール等にに記載されているURLにジャンプして、クリックするだけで自動入会してしまう場合。記載URLの後ろに自分の電話番号のトラップがついており、自動登録時に自分の携帯番号が記されているので、かなり不安になります。 当然電話にて請求が来る事もあるわけですが、契約の有効性はありません。電子消費者契約法にて、契約時に登録内容の再度確認を義務付けられています。
従って「自動登録もしくは自動契約」は違法で、万が一裁判に発展しても100%勝てます。あとは電話が来ることへの不安ですが、登録番号以外は着信拒否で対応するしかないと思われます。そこは多少不便ですが勉強したと思って我慢です。メールは言うまでもありませんが無視です。Eメール経由で自動登録になっってしまった場合も、無視またはメルアドの変更で対応しましょう。
また、携帯電話番号から住所を割り出すことは不可能では有りませんが、業者はやりません。費用と手間がかかりすぎるし、もともと違法の取立て行為は自分の首を絞めることになるからです。彼らはカモが勝手に振り込んでくれるのを待っているだけです。
2:webサーフィン中に自動登録されてしまった場合。これにより個人情報が知られることは有りません。しかし悪質業者は以下のような情報を提示して、貴方の個人情報を握っているかの様に装い不安を煽ります。
・個体識別番号(次世代IDコード)
  意味は有りません。ただの英数半角の羅列だと思って下さい。
・携帯機種
  携帯はブラウザに正しく読み込む為に、機種情報を相手に送る機能があるので、それを表示させているだけです。機種がわかっても何の問題も有りません。
・IPアドレス
  「IP抜いた」というのは昔からのネット上の脅し文句ですが、ほとんど意味は有りません。
・メールアドレス、位置情報(現在報告例はdocomoのみ)
  「あなたのメールアドレス」「現在地」等のリンクをクリックすると、自分の本メルアドや位置情報が表示されるのでかなりビビりますが、よく画面を見てください。これはdocomoのメルアド確認、位置情報確認のページです。貴方の携帯がdocomoのページを読んでいるだけで、業者が把握しているわけでは有りません。
最近の傾向として、「プロバイダに個人情報の開示を求めて少額訴訟を起こす」というような文章が見受けられますが、プロバイダが詐欺サイトに個人情報をもらすことは絶対無く、ただの脅し文句です。こちら側にも電話番号及び振り込み指定の口座番号がありますので、振込口座の凍結依頼または関係各所への通報などもできます。絶対に入金しないようにしましょう! 業者への問い合わせ・退会希望等も、相手にこちらの情報を与えてしまう恐れがあるので控えましょう!

【名前:kasa 投稿日:2005/01/11(火)07:03】
電話が掛かってくる可能性は皆無じゃないが、相手にしなければ余裕。
取立てに来る事は絶対に有り得ない。

【名前:後輩A 投稿日:2005/01/12(水)14:36】
期日が過ぎて何事もなくてホッとしていたら、今日の朝に「警告」とかかれたメールが来ました。
この勢いだと電話は本当にかかってきそうです。めんどい……。

【名前:kasa 投稿日:2005/01/15(土)18:12】
後輩Aのその後が気になる……。

【名前:後輩K 投稿日:2005/01/18(火)03:41】
気にしなくてもいいと思われますがねぇ。
電話は黙って切って、着信拒否で可でしょう。

【名前:後輩A 投稿日:2005/01/18(火)12:53】
結局電話はかかってこず、メールも「警告」以来ありません。
一番癪なのは、いきなり課金されたときに近くの警察に行ったら(夜で消費者生活センターの電話業務は終わっていた)、
「クリックした方が悪いんだよ! 知らないサイトにアクセスするなっていってるだろ! 何かやましいものがあるからクリックしたんだろ! そんなのはお金を振り込むしかないよ!」
と言われたことです。彼らをいつか制裁します(^_^)

【名前:先輩H 投稿日:2005/01/20(木)00:17】
ひどいな警察。振り込むよう指示するとは。

【名前:kasa 投稿日:2005/01/20(木)21:16】
おお、それは凄い対応だな。日記のネタにして良いか?>後輩A

【名前:後輩A 投稿日:2005/01/21(金)21:54】
ネタにしてください! 中板橋駅前派出所(交番?)ってのも書いていいくらいです。
あとずっと「あんた」呼ばわりされました。

――という訳で、日記になりました。彼らをいつか制裁しますという文面で逮捕……は無いよな、流石に。

ちなみに板橋警察署交番マップに拠れば「中板橋駅前交番」は存在しないので、後輩Aが糾弾しているのは「中板橋交番」の事だと思われます。


2005年1月22日(土) 死の宣告

来年の今頃に中学受験する生徒(つまり現在、小学5年生)の家で、どの辺りの学校を目標にするかの話が出た。

その生徒としては、いわゆる御三家――開成・麻布・武蔵の中の、或る学校に行きたいらしい。生徒の両親としても出来れば御三家で、まぁそれが無理そうならば新御三家――海城・巣鴨・駒場東邦の中の、やはり或る学校に入学させたい、という意向。

その生徒の通う塾は、規模としては中程度だが学力の高い生徒が集まっている事で有名で、その生徒は塾内で“中の中”から“中の上”と言った処だろうか。中学受験生全体の中では、“上の下”くらいだと思われる。だから決して成績は悪くない。しかも受験まで1年以上有るし、これからまだまだ学力は伸びて行くだろう。

しかしながら実際に中学受験をした経験から言わせて貰えば、これから学力が順調に伸びたとしても御三家は厳しい。そして正直に言えば、新御三家も厳しい。

問題は、それを今の段階で話すかどうか、だ。勿論、可能性が0である訳でもないのだ。しかし可能性は非常に低いのも確か。素直に言えば、生徒の学習意欲を削いでしまうかも知れない。

そう考えると、これって「ガンの告知」の構図と似ているな、と思った。命に関わるガンと中学受験を同列にするのは変かも知れないが、でも構図だけは似ていると思う。

ガンは決して不治の病ではないが、末期ガンは未だに治しようがないと聞く。だから或る意味、末期ガンの告知というのは“死の宣告”と言える。告知するか否かは、重大な問題である。ガン告知について、各メディアで熱い議論が交わされたのは記憶に新しい。

同時に、「この学校は君には無理だ」と言うのも、“受験に於ける死の宣告”である。ガン告知と比べて規模は小さいかも知れないが、一介の大学生家庭教師を悩ませるには充分な問題である。言うべきか言わないべきか、それが問題だ。

以上より今日の結論。

「この学校は君には無理だ」と言うのは、“受験に於ける死の宣告”である。構図だけを取り出してみれば、それはガン告知と同じである。


2005年1月21日(金) 対話篇という表現形態

昨日の日記で、小説という表現形態は、“エッセイ”や“コラム”としては書けない考察を書く際に用いられる事が有る。作家は『作家≠登場人物』という常識に護られながら、自分の主張を自由に語る事が出来ると書いたが、対話篇という表現形態でも似たような事が言える。

僕は昨年の11月29日から12月2日までの4日間、「殺人についての考察」というテキストを短期連載した。頑張って書いた割には論理を巧く展開できなかった部分が有って、自分としては不満足な出来だったのだが、意外にも細く長く反響が有り、今では書いて良かったと思っている。

その「殺人についての考察」についてだが、これは僕の日記では初めて、2人の人物の会話で進行する“対話篇”という形式を採用している。(以下、余談。実は高校2年生の時に書いた「束縛の代償」という小説の一部が対話篇だったりするのだが、これは当時の現代文の「“自由”とは何か?」という課題に対する答えとして作成したテキストを元にしている。アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話から台詞を引用しまくって、最終的に「“自由”とは“不安”だ」とか書いて提出した記憶が有る。35点満点中30点だった。以上、余談終了。)

実は最初は「殺人についての考察」を対話篇にする予定は無かった。事実、下書きの段階では、初めの2日分までを通常の日記と同様に書いていた。しかし「殺人についての考察」を書き進める内に、自分が段々と恐怖を感じているのに気が付いた。

その“恐怖”とは何だったのか――その全てを言葉で表現するのは、今でも難しい。しかし、確かに一部分を構成している要素を言い当てる事は出来る。それは即ち――「自分が何処か“偏っている”のではないか?」と思われてしまう事への恐怖である。

恐らく僕は普段から“偏っている”事を書いているし、それを自覚してもいる。だから通常の話題で自分が“偏っている”のは平気だ。しかし“殺人”というのは、道徳・倫理・思想・宗教など、様々な分野が関与してくる事象である。その余りにも大き過ぎるテーマに対し、自分が何処か“偏っている”という事に対して臆病になってしまった、というのは想像に難くない。

そして、もう一つ。そのように僕を“偏っている”と思うのは誰だろうか。勿論このサイトの読者が居る。だが僕が真に恐れていたのは、「僕自身が、自分が何か決定的な部分で“偏っている”と認めてしまう事」だったように思う。

つまり小説と同じような『筆者≠登場人物』という隠れ蓑を着る事により、僕は無意識の内に自分自身に対して自己防衛を図っていたように思うのだ。対話篇を用いる事により「これは主観ではない。客観なのだ!」と他の誰に言うでもなく、内なる自分に対して精一杯叫んでいたのではないか、と。

対話篇という形式は、敢えて一方に反証させ、もう一方にさらなる反証をさせるという手法で、その文章に説得力を持たせる効果が期待できる。有効活用の道が多い表現形態である事は間違い無い。その一方で、書き手である自分を一歩引いて見せる事で、何か呪縛のようなモノから逃れようとしているような気がするのである。

以上より今日の結論。

対話篇という表現形態も小説と同様、自らを安全な立場に置きながら、自分の主張を自由に語る事が出来るというメリットを有している。しかし一方でそれは、「自分が何処か“偏っている”のではないか?」という懐疑を捨て切れない自分の為の自己防衛手段であるようにも感じられる。


2005年1月20日(木) 小説という表現形態のメリット

小説という表現形態は、“エッセイ”や“コラム”としては書けない考察を書く際に用いられる事が有る。

今日の日記は膨大な引用が有る為、非常に長いです。また通常時は引用文を斜体にしていますが、今回は見易さを考え、大部分の引用をノーマルなフォントのままで掲載します。ご了承下さい。

昨日、綾辻行人の作品の魅力は、幻想的な雰囲気・大掛かりな叙述トリック・奇抜な構成だけではなく、登場人物たちが語る物事に対する膨大な考察にも存在すると書いたが、彼の作品の登場人物たちの主張は、何となく作者自身の脳内が透けて見えるかのような印象を受ける。つまり、『「登場人物たちの主張」=「綾辻行人の主張」』という図式が成立するのではないか、と思うのである。勿論それは僕の勝手な想像に過ぎないのだが、やはり幾つか例を挙げながら根拠を示してみる。


殺人は犯罪である、と断言してみても、異論を唱える者は少ない。人並みに社会化された人間なら、それは常識だと考えるだろう。けれども、人を殺すという行為そのものが“犯罪性”なる属性を持っているわけではない、と云ったら、首を捻る者は多い筈だ。一世紀も前に、フランスのエミール・デュルケールっていう社会学者がこんなふうに云っている。『ある行為は、それが犯罪であるから非難されるのではない、我々がそれを非難するから犯罪になるのだ』とね。
つまり、例えば殺人という行為にしてみても、それ自体は『ヒトヲコロス』という単なる行為でしかないというわけさ。善いことでも悪いことでもない。価値として全くニュートラルなものである、とでも云ってしまおうか。当該社会の成員の意識の総体――デュルケームは“集合意識”という名称で括っているが――、これがその行為に対して“犯罪性”というネガティブな価値を認め、それに応じた反応を示すことによって、そこで初めて人殺しは犯罪となる。突き詰めて云えば、“犯罪性”というものは実体としては存在しないってことだね。飽くまでもそれは、社会――集合意識の認識の枠組みであり、反応の仕方に過ぎない。
だからね、これは云ってみれば、犯罪は社会によって作られるものだ、という極端な議論にも繋がっていくわけさ。事実、六〇年代以降になって持て囃されたラベリング論なんていう犯罪理論は、その辺の、ある行為に犯罪という名前が貼り付けられて行くプロセスをクローズ・アップし、分析しようとしたりするんだが。
こんな極論はどうだろう。この世の中から犯罪というものを完全になくす為にはどうすればいいか。答――それは法律をなくすことである。要するにね、こんなふうに考え始めると、僕は痛感せざるを得ないわけさ。探偵という行為、その存在の無粋さ、みたいなものをね。
ミステリは秩序回復のドラマだ、としばしば云われるよね。その通りだ。探偵というものの役割は、そうやってネガティブな価値を与えられた他人の行為を暴き、集団の秩序を回復させることにある。そこには必ず、その集団――この社会の“正義”という、これもまた社会的に作られた価値が拠り所として存在するわけで、更にその背後には、民主的多数という言葉で飾られた無粋な権力構造が控えてるってことになる。探偵自身がそれを意識するしない、好む好まざるに拘らず、だ。嫌な図式じゃないか。
こうして僕自身が探偵の立場に立たされてね、その犯罪を暴こうという時、自分が自動的に、普段からほとほと嫌気の差しているこの社会の権力構造を背景に物を云うことになるのかと思うと……。   ――槍中 秋清 (霧越邸殺人事件 337頁)


綾辻行人はミステリー作家であるにも拘らず、その肝とも言える探偵役の立場や役割を批判するような台詞を、探偵役とならざるを得ない状況に置かれてしまった登場人物を通じて語らせている。

彼の作品に探偵役が存在しない訳ではない。例えば代表作の『館』シリーズには、鹿谷門実という探偵役が居る。しかし、だからと言ってそれは、この槍中秋清なる探偵役の思考と作者たる綾辻行人との思惟とが矛盾している事は意味しない。

というのも、綾辻行人の作品の探偵役は、しばしば殺人犯の責任を追及しないのだ。探偵役は真相に迫ろうとはするが、例えばアニメ『名探偵コナン』のように、ラストが殺人犯の逮捕で終わるという“お約束”が存在しないのである。

つまり綾辻行人が描く探偵は、正に槍中秋清が言うような「探偵の無粋さ」(≒真犯人を見付け出して逮捕に至らせる、という「社会的正義」)を極力排除した存在のように思えるのである。となれば、綾辻行人は自らの理想の探偵像を、槍中秋清という作中の人物に代弁させた事になる。

もう一つ例を挙げてみよう。


自分は近代科学精神の下僕であることから逃れられない人間だと、基本的にはそう思っているんだよ、僕は。つまり、超科学的な現象や神秘主義的な思想には否定的な立場にいる筈なんだ。けれども一方で、その自分の拠り所に対して頗る懐疑的になってしまうこともあるわけでね。
パラダイムっていう言葉は知ってるよね。『科学者たちが共通に活用する概念図式やモデル、理論、用具、応用の総体』――そもそもは、科学史家トーマス・クーンが『科学革命の構造』という本の中で提唱した概念だ。自然科学だけでなく、社会科学においても、研究者は皆、その時代の支配的なパラダイムから自由であることは出来ない。けれども、例えば天動説が地動説に取って替わられたように、あるいは、ニュートン力学から相対性理論、そして量子力学へといった具合に、この枠組み自体が大きく転換されることもある。パラダイム・シフトというやつだね。
更にこの用語は、科学の分野に留まらず、それらを全てひっくるめたレベル――僕らの世界観や意識、日常生活のあり方といったところにまで敷衍して用いられる。この場合、メタ・パラダイムという云い方がされたりするが。
要するに、僕らは常に、その時代や社会を支配する何らかのパラダイムに乗っかって物事を見、考えている――いや、考えさせられている、ということだ。ま、当たり前の話だけどね。で、近代以降、現在に至るまでのそれは何かと云えば、いわゆる近代科学精神――機械論的世界観であり、要素還元主義であるってことさ。“科学性”“客観性”“論理性”“合理性”……僕らはこういった諸々の言葉や概念に“正しい”という価値を前提して、物事を把握し、思考する。オーギュスト・デュパンを初めとして、シャーロック・ホームズにしろエラリイ・クイーンにしろ、古典的なミステリで活躍する名探偵なんていうのは、その権化みたいなものだろ。この中でも、例えば“客観性”などというものは、理論物理学じゃあとうの昔に否定されているらしいが、だからと云ってそれが一般人の世界観、価値観を揺るがすには至っちゃいない。
要は、観測には必ず観測主体としての“私”が存在するっていうことさ。従って、肝要な問題は客体としての実存そのものじゃなくって、主体と客体との相互作用である。もうちょっと砕いて云えば、僕らが見ている世界は取りも直さず、僕ら自身の認識の構造である、と。これは無論、粒子という極小の世界に関しての話なんだけれども、こういった考え方の後を追うようにして、他の学問分野でも同じ方向へとパラダイムが動いて行くんだな。相互作用論とか解釈主義だとか、そっちの方向へね。
例えばね、極端な話こんな考え方も出来るな。幸島の猿の逸話は知ってるかい。有名な話なんだがね。宮崎県の幸島に生息している日本猿に、砂で汚れた薩摩芋を与えたところ、猿たちは最初、それを食べようとはしなかった。ところが、一匹の若い雌猿が、汚れた芋を水で洗って食べることを思い付いたんだ。云ってみれば、そこで、猿たちの社会に“芋洗い”という新しい文化が生まれたわけだね。やがてこの文化は同じ島の猿たちに広がって行く。そうして何年か経って、芋を洗う猿がある頭数に達した時、一つの異変が起こったって云うのさ。
便宜上、この『ある頭数』を百匹ということにする。百匹目の猿が芋洗いを修得した、正にその日の内に、島に棲む猿の全てが芋を洗い始めたんだ。まるで、その百匹目の猿の出現によって何かが臨界点を越えてしまったかのようにね。ロールプレイング・ゲームで云う、『レベルが上がった』ってやつさ。そればかりじゃない。それを境に、この“猿の芋洗い”は、海を隔てた全国の他の場所でも自然発生するようになったって云うんだな。
ライアル・ワトソンの『生命潮流』で紹介された事例だよ。どの程度信頼出来るデータがあるのか、疑問を投げ掛ける声は多いらしいが。
ある事柄を真実だと思う人数が一定の数に達すると、それは万人にとっても真実となる。思想や流行なんかの社会現象においては明らかなことだけれども、これが自然界においても広く存在するというわけだ。ワトソンは“コンティンジェント・システム”という知られざるシステムを想定して、この現象を理論的に説明しようとする。
よく似たもので、『形態形成場の理論』というのもあるね。ルパート・シェルドレイクっていう学者の説だ。同じ種の間には時空を超えたある繋がりが存在し、“形態形成場”という場を通して、種同士の共鳴現象として反復的に現われる――と、彼はこれによって種の進化を説明しようとする。ある種から進化して発生した新しい種は、自分たちの“形態形成場”を持つ。そしてその新しい種の数が一定量に達した時、離れた場所に棲む、未だ進化せざる同種に対して同様の進化を促す、というわけさ。分かるかな。
面白いのは、これが生物だけでなく、物質についても起こるというところでね。ワトソンも触れているが、グリセリンの結晶化に纏わる有名なエピソードがある。
グリセリンという物質は、二十世紀に入るまでは、固体としては存在し得ないものだと信じられていたらしい。結晶化に成功した化学者がいなかったんだ。それがある時、たまたまいろいろな条件が重なって自然に結晶化したグリセリンが見付かってね、これをサンプルにしてあちこちの化学者が結晶化に成功し始めた。そんな中で異変が起こった。ある実験室である化学者が結晶化を成功させた、その途端、同じ部屋にあったグリセリンの全てが自然に結晶化してしまったって云うのさ。しかも、この現象はいつの間にか世界の各地に広まっていたと云う。
シェルドレイクは説明する。『グリセリンは結晶化する』という命題が、その時点で、グリセリンという物質の“形態形成場”において成立したのだ、とね。   ――槍中 秋清 (霧越邸殺人事件 212頁)


ここまで来ると最早ただの“登場人物の台詞”ではなく、“エッセイ”や“コラム”である。僕だったら内容を分割して水増しし、日記5日分くらいにしてしまう処だ。しかし綾辻行人はこれを、途中で僅かなト書きや他の登場人物達の相槌などを挟むものの、殆ど一息の台詞として成立させているのである。

だが綾辻行人は有名な作家とは言え、ミステリー作家である以上はエッセイを書く機会は非常に限られるだろう。彼がエッセイのようなテキストを全く書かない訳ではないが、しかし上記のような内容のエッセイを“エッセイ”として出版するのは難しいと思われる。非常に示唆に富んだ内容ではあるのだが、論点が肥大化していたり一定していなかったりするからだ。

しかしながら綾辻行人は心の何処かで、この槍中秋清の台詞のような内容を信じているのではないか、少なくとも多くの人に知って貰いたいという願望が有ったのではないか、と思うのである。そこで自らのテリトリーたるミステリーという舞台の登場人物たちに、その思想を語らせたのではないか。

そのように考えると小説という表現形態は、少々偏った思想や思考を語るには絶好のメディアであるように感じられる。なぜなら『作家≠登場人物』という常識に護られながら、『「登場人物たちの主張」=「綾辻行人の主張」』という図式を用いる事により、自分の主張を自由に語る事が出来るからだ。

以上より今日の結論。

小説という表現形態は、“エッセイ”や“コラム”としては書けない考察を書く際に用いられる事が有る。作家は『作家≠登場人物』という常識に護られながら、自分の主張を自由に語る事が出来る。


2005年1月19日(水) 綾辻行人の魅力

たまには好きな作家の話でもしてみようと思う。

綾辻行人というミステリー作家が居る。結構売れているので、知っている人も多いだろう。僕の好きな小説家の一人だ。最近では構想から完成までに8年を要した、原稿用紙2500枚にも及ぶ大作である『暗黒館の殺人(上)』『暗黒館の殺人(下)』が話題になった。

綾辻行人が書く推理小説は、現代日本を舞台としていながら幻想的な雰囲気で満ち溢れていたり、読者に対する大掛かりな叙述トリック(それは時に、作中の登場人物まで巻き込む!)を多用したり、全体が奇抜な構成で組まされていたりする事が多い。綾辻行人という作家の魅力の何割かは、そういう言葉で表現される筈である。

勿論そのような点が僕も好きなのだが、僕が綾辻行人の小説で最も好きなのは、彼の作品の登場人物が語る特殊な考察の数々なのである。綾辻行人の代表作『時計館の殺人』から2箇所ほど例を挙げてみよう。

“現実”は決して強固な実体じゃない。極論すればそれは、社会というシステムが人々に見せている一つの巨大な幻想にすぎないわけでね。“現実”という名の巨大な幻想を造り出し、これを確かな実体として万人に認めさせ、信じさせるような圧力を加え続けることが、この社会というものの最大の役割なんだと思う。そうすることによって初めて、人々に安定が供給されるわけだ。古代から現代に至るまで、基本的にこの図式は変わっちゃいない。   ――鹿谷 門実 (時計館の殺人 382頁)

お前にとって時間の本質とは何か、と質問された時、僕はいくらか考えあぐねた末、多分に自嘲的な気分でこう答えざるをえない。つまりそれは、時計の動きであると。この機械によって初めて、僕たち現代人は“時間”を明確な形として捉えることができる。僕らは時計によって時を計り、時を支配しているつもりでいるけれども、実のところは逆に、時計の動きが創り出す“時間”によって肉体と精神を拘束され、支配されているのに他ならない。   ――鹿谷 門実 (時計館の殺人 555頁)

鹿谷門実というのは『時計館の殺人』に於ける主人公なのだが、綾辻行人の作品では主人公に限らず、様々な登場人物が様々な物事に対する独自の見解を語る事が多い。上記の“現実”や“時間”に対する考察などは極めて僕の好みな分野でもあり、このような主張を味わいながら好きなミステリーも読めてしまうというのは、堪らない幸福感に浸る事が出来るのである。

以上より今日のイイタイコト。

綾辻行人の作品の魅力は、幻想的な雰囲気・大掛かりな叙述トリック・奇抜な構成だけではなく、登場人物たちが語る物事に対する膨大な考察にも存在する。


2005年1月18日(火) 読点の打ち方

女性お笑い芸人の“だいたひかる”のネタに、「私だけでしょうか? 句読点の打ち方に、自信が無い」というモノが有るのだが、そう感じている人は割と多いのではないか。僕も自信が無い。いや勿論、句点の方は自信満々なのだが、問題は読点の方だ。

考えてみると読点というのは、小学校で「その文章を読む時に、息継ぎをするべき場所に有る点」とかいう説明をされたように思う。その時は「あぁ、読む時の為の点だから“読点”なのか」と感じた。しかし改めて辞書で調べてみると、“読点”とは「意味の切れ目を示すため文中に施す符号」とある。つまり「人間が読む時の都合」と言うよりは寧ろ、もっと文章の内容に沿った意味合いが強い事が分かる。

この場合の「意味の切れ目」とは、独立した複数の単文が結合した“重文”の区切れなどを指すと思われる。例えば「今日はテニスをした。僕が勝った。」という2つの単文は、「今日はテニスをし、僕が勝った。」と1つの重文に纏められる事が有る。この際、本来の区切れである箇所に読点が打たれる訳だ。

しかし日記を書いていると、それだけでは読点の数が少ないように感じる。そして読点が少ないと、文章が読み難い。だから他の箇所でも読点を打つ事になる。

僕の場合、“或る文節の終わり”と“その次の文節の始まり”とが漢字同士、又は平仮名同士の場合に、読点を打つ傾向が有る。文節の区切れ目がハッキリしていないと、何となく気持ち悪くて嫌なのだ。しかしその全てに読点を打つと、今度は読点が多過ぎて逆に読み難くなってしまったりする。

そこで文節の区切れ目では、なるべく漢字や平仮名が続かないように文章を細工している。例えば上の段落の「文節の区切れ目がハッキリしていないと、何となく気持ち悪くて嫌なのだ」という文は、最初は「文節の区切れ目がはっきりしていないと、何となく気持ち悪くて嫌なのだ」と書いたのだが、それだと“はっきり”の前後が全て平仮名になってしまい、非常に気持ち悪い。かと言って、読点を打つような箇所でもない。そこで“はっきり”を“ハッキリ”と片仮名にする事で、何とか平仮名続きを防いでいる訳だ。

そして最終的に、どうやっても文章に工夫の余地が無く、さらに読点を打つのもオカシイと感じられる時、泣く泣く読点を打たなかったりする。「あぁ、この部分漢字が繋がっちゃったよ。何となく気持ち悪いなぁ」とか思いながら。

以上より今日のイイタイコト。

読点の正しい打ち方が分からない。分からない癖に妙なコダワリを持って、僕は日記を書いている。


2005年1月17日(月) センター試験終了

2005年のセンター試験も終わり、例年通り数学だけやってみた。興味の有る方は、『数学T・A』の問題解答、『数学U・B』の問題解答を参照しながら。

まずは『数学T・A』。近年は平均点が60点を切る事が無く、易化傾向が続いていたが、今年もそれは変わらず。ただ二次関数(第1問)の最初の問題が頂点の座標関連でない、グラフがy軸に関して対称となる場合を求めさせるなど、例年とやや異なる形式の問題が前半で出題された為、そこで躓いた受験生が多いと思われる。

その後は例年よりも簡単な問題が続くが、数列(第3問)の後半の問題でまた珍しいタイプの問題が登場している。こちらは題意が読み取れなくて手が付かなかった受験生が多いのではないか。ただ計算量自体は少なく、実力差が顕れ易い問題だったと言える。

全体的には易化傾向に歯止めが掛かっていないが、以上のように受験生が戸惑う出題が数箇所有った為、昨年のように平均点が70点を超えるという事は無さそうだ。高くても65点、もしかしたら久し振りに60点を割るかも知れない。

『数学T・A』とは対照的に、2年連続で平均点が50点を割る難しさだった『数学U・B』だが、やはり今年も難しい。ただ3つの放物線の位置関係を求めさせる問題(第2問)以外は、『数学T・A』のような受験生が戸惑う類いの出題は無く、計算力の有る受験生なら高得点が取れるようになっている。

しかし比較的簡単と言えるのは三角関数(第1問)と図形と方程式(第2問)の前半だけで、対数(第2問)・ベクトル(第3問)・複素数平面(第4問)は付け焼刃の学力では太刀打ち出来なかった可能性も有る。また微分積分が軽視された出題傾向には、非常に違和感を覚えた。これは完全に推測だが、複素数平面が高校課程から消える影響で、それ以後のセンター試験では微分積分の比重が大きくなると考えられる。それに対する前反動が、今年の出題に現われたのかも知れない。

全体的には難化傾向が続いているが、やや計算量が減った影響で平均点は少し上がるだろう。50〜55点くらいだろうか。ベクトル(第3問)なんかは、もう少し簡単な出題でも充分に選抜試験としての役割を果たせると思う。

『数学U・B』は理系でも必要としない大学が、数多く存在する。『数学U・B』を課すと、受験生が敬遠してしまうからだ。ただ、ここ数年の「数学T・Aは易、数学U・Bは難」というセンター試験の傾向が、その動きに拍車を掛けているようにも思う。ここは思い切って「数学T・Aは難、数学U・Bは易」とすると、少しは『数学U・B』に受験生が戻って来るかも知れない。


最近私生活で嫌な事が多く、ヨドバシカメラでCDとDVDを一気に10万円以上購入し、愛内里菜・鬼束ちひろ・倉木麻衣・大塚愛といった女性アーティスト陣の歌声に癒される日々。取り敢えず所持金は半分以下になった。毎月10日の給料日が待ち遠しい。ヤバイ、給料が出たら、また何か買いそう。買物依存症か……?


2005年1月16日(日) センター試験2日目

センター試験の平均点を6割にするのには、ちゃんとした根拠が有る。

センター試験は各科目で平均点が満点の6割くらいになるように難度調整されている。これには受験者間の点数格差をなるべく広げさせる事によって、各受験者の学力を出来るだけ点数に反映させよう、という意図が有る。(要は簡単過ぎて平均点が80点や90点になったり、逆に難しすぎて平均点が20点やそこらになってしまっては、一部の受験者にしか点数に差が生まれないので“選抜試験”の意味を為さなくなる。)

点数較差を最大にする為には平均点を50%に設定すると良いように感じられるかも知れないが、センター試験はマークシート形式なので、数学以外の科目では0点やそれに近い点数は確率的に有り得ない。(数学はマークシートと言えども0点が有り得る。)例えば全問題が5択であれば、何も分かっていない人間が適当にマークしただけで、100点中20点は取れる計算になる。

つまり実質的な最低点は20点という事になり、最高点の100点との中間が60点になる、という訳だ。よって、平均点が満点の6割になるくらいが、最も点数較差が開き易いのである。

以上より今日のイイタイコト。

センター試験で平均点が6割くらいになるように難度調整されるのは、受験生の実力差を最も顕れ易くする為である。


2005年1月15日(土) センター試験初日

ちょっと自分の中で勉強を頑張るモードに入ったようなので、しばらく日記は手抜きで。

今日はセンター試験初日。教え子が1人受験する。彼には昨年12月から1ヶ月ちょっと指導しただけだが、やはり気になる。1人で、これだ。数十人、数百人の生徒を持つ学校や塾の教師の心労は、相当なものだろう。

日記の過去ログに拠れば、昨年のセンター試験初日は1月17日で、今年同様に雪の日だったようだ。そう言えば昨年のセンター試験は、何処かの女子高生が遅刻しそうになって、警察官がパトカーで試験会場まで送った、なんてニュースが有ったような。美談か職権乱用か、割と賛否が分かれてた気がする。今年も雪だし、もしかしたら同じようなニュースが流れるかも知れないなぁ。

1月15日と言えば、以前は成人の日だった。先日紹介した、数学オリンピックの国内大会予選が行われるのも、この日だった。中学3年から高校2年までの3年間、友人と一緒に早稲田大学まで行って試験を受けた。確かその時も毎年雪が降っていた記憶が有る。もしかして1月15日って、雪が降る確率が高いのか?


2005年1月14日(金) サーストンの三原則

僕は中学1年生の頃からマジックをやっているが、マジックの世界には『サーストンの三原則』という常識が存在する。これは、

というもので、まぁマジックをやらない人でも理解できる内容ではないだろうか。最後のこれから起こる現象を事前に説明してはいけないなんかには、敢えて現象を説明する事でより大きな驚きを得る、というような例外も多く存在したりするのだが、そこはあくまで“原則”でしかない、という事で。

さて、マジックをやる人間は必ずと言って良い程、この『サーストンの三原則』を習うのだが、僕が中学のマジック同好会に入った時に、とある先輩から以下のような事を言われた。

「マジックを行う時は、以上の3つ(サーストンの三原則)を守らなければならない。しかしこれからマジックをやっていく上で、もっと大切な事が存在する。それは、『他人のマジックを見た時には、素直に喜ぶ』という事だ」

これには説明が必要だろう。『他人のマジックを見た時には、素直に喜ぶ』というのは、別に「マジシャン仲間なのだから波風立てずにやって行こう」というような意味ではない。「他人のマジックを見て喜ぶ為には、そのマジシャンの良い処を見付けなければならない。他人の粗探しをするよりは、他人の長所を見付けてそれを盗んだ方が、自分が上達するのが早い」という事なのだ。(その先輩が直接そう言った訳ではないのだけれども、そういう事だと僕は確信している。)

これは普段の生活にも応用できる考え方だと思う。他者の悪い点を見付けるのは、それを指摘する事で相手の為になる可能性は有るが、自分の為になる事はあまり無いのではないか。それよりは自分では気付かないような相手の良い部分を見付け、それを自らに取り入れた方が、“自分の為”になると思う。

ある意味で「相手の良い部分を見付ける」という行為は、極めて利己的だとも言えるのかも知れない。

以上より今日のイイタイコト。

“自分の為”という利己的な理由で、相手の良い部分を見付けよう。


2005年1月13日(木) タイピング・オブ・ザ・デッド

プレステ2の『タイピング・オブ・ザ・デッド ZOMBIE PANIC』を購入。その名の通り、タイピングのソフトである。

僕はブラインドタッチが出来ない。毎日の日記も、キーボードと睨めっこしながら、右手の中指と左手の人差し指の2本で打っている。今までに『ドラえもん』やら『おじゃる丸』やら『北斗の拳』やらのタイピングソフトをやった事があるが、ブラインドタッチが出来るようになる気配が全く無かった。

そんな僕なので、『タイピング・オブ・ザ・デッド』は、難易度最低でプレイ中。でもクリア出来ない。でも面白い。特にミニゲームの“長文タイムアタック”が良い。刑法の条文が出題されるとは。「ひとをころしたものは、しけいまたはむきもしくはさんねんいじょうのちょうえきにしょする。(人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。)」とかの文章が出て来る。それをタイピングしていく。

ちなみに僕のタイピング速度は、1字当たり平均0.30秒らしい。1分で200字か。実際には漢字変換とかも有るから、実質的には1分で100字にもならないだろうなぁ。これを機会に、指2本でどこまで素早くタイピングが出来るようになるかを試してみよう。

まずはキーボードを見ずにタイピング出来るようにしないとな。パソコン暦は今年で11年目だが、未だにキーボードの配列が半分くらいしか記憶できていない。周りの人間は「やってる内に自然と覚えますよ」とか言うが、11年掛かって覚えられない僕にとっては差別発言以外の何物でもない。

ちなみに僕の記憶力は、アルファベットの小文字(ブロック体)を全て覚えるのに3ヶ月掛かった程である。


2005年1月12日(水) 明治時代の塾通い

明治時代にも子供の苛烈な塾通いは存在した。

現代というのは大変な時代である。小学生が中学受験の為、日付が変わる頃まで毎日勉強していたりする。僕も中学受験したクチだが、進学塾が終わるのが午後9時。自転車を飛ばして15分で帰宅し、遅くとも午後10時には寝ていた。ところが彼らは塾が終わって家に帰ってからも勉強するので、そんな遅い時間まで起きている事になるのである。

だが星新一『明治の人物誌』には、以下のような記述が有る。明治13年の話だ。

新政府の教育平等の方針によって、各地に小学校が作られていた。しかし、士族階級はそれだけでは満足せず、子弟をさらに塾にも通わせるのが一般の風潮だった。
すなわち、夜明け前に起きて塾で講義を受け、帰宅して朝食。それから小学校。放課後にまた塾で学ぶのである。まったく、日本人は勉強好きである。そして、それが日本の発展をもたらしたわけだが。
   ――本文329ページより

なんと明治時代の士族の子供は、1日に2回も塾に通うのが常識だった、というのである。学校制度が今と大きく異なるとは言え、正に恐るべし、だ。

しかしココで考えてみる。1回は小学校が始まる前に塾に行っていた訳だ。何時間の講義だったのかは不明だが、恐らく1時間半〜2時間程度だろう。小学校が始まるのが午前8時、朝食を摂るのが午前7時と考えると、士族の子供は午前4時頃には起きないと、早朝の塾には間に合わなかった筈だ。

となれば明治時代の士族の子供達は、早寝早起きが徹底されていたと考えられる。昔の日本人が幾ら勤勉だったと言っても、現代のように日付が変わるまで勉強して、それで午前4時に起きてまた勉強、という生活が(大人ならいざ知らず)子供に出来る訳が無い。

塾通いが大変な現代の子供達。その所為で生活リズムが激しく乱れているとされている。しかし明治時代の子供達は今以上に苛烈な塾通いをしながら、規則正しい生活を送っていたのである。

以上より今日の結論。

塾に通っているから規則正しい生活が出来ない、というのは言い訳に過ぎない。明治時代の士族の子供達は現代以上に苛烈な塾通いをしながら、規則正しい生活を送っていた。


2005年1月11日(火) 塵が積もったら凄い量になった

去年1年間で書いた日記の量を調べてみたら、約800KB(キロバイト)有った。1KBが500文字だから、800KBだと40万文字か。400字詰原稿用紙に換算すると1000枚。改行なども考慮に入れれば、もっと数値は多くなるだろう。

原稿用紙1000枚というのは、我ながら凄い量である。文庫本3冊くらいに相当する。1日当たり原稿用紙3枚――1000文字ちょっとの日記を1年間書き続けると、そういう文字数になる訳だ。

「塵も積もれば山となる」と言うか、「継続は力なり」と言うか、とにかくまぁその手の言葉を実感できる事実である。今年も実行できるかどうか。あまりにも先が長いので、全く予想が付かない。

さて、このサイトは今は完全に日記サイトになってしまっているが、僕としては本当は小説サイトにしたかった。いや、本当に。日記ではなく、小説を書きたかったのである。だから「このエネルギーを小説に注いでいたらなぁ」と思わないでもないのだが、既に日記を書く楽しさを知ってしまったので、そっちを止める訳にも行かない。まぁでも今年は余裕が有れば、「二兎を追ってみようかな」と考えたりもしている。どうなる事やら、だが。

今日から大学が始まる。去年は単位を落としまくったので、今年は頑張らないとな。となると、三兎を追わないといけないのか。大変だ。大変だが、何とか塵を積もらせたいものである。以上。


2005年1月10日(月) “普通”って、何?

僕達は“普通”すら定義できない。だから苦しい。

関連リンク1:『sweetrevenge日記』の「2005年01月09日「生育歴」とゆーやつ」
関連リンク2:『過剰な人々』の「1.9(日)聖なる罪の威信」
関連リンク3:「ありもしないマトモだとか、ありもしない普通だとか」『トリッチ・トラッチ』

“普通”って、何だろう?

人が死んでいる。殺されている。2003年に日本国内で起こった殺人事件は、1452件にも上る。この状態は“普通”なのか、それとも“異常”なのか?

殺人なんて起こらない方が良いに決まっている。では年間の殺人件数が0件という状態が“普通”なのだろうか? 1億3千万もの人間が住んでいる国で、殺人事件ゼロ。これは或る意味で“異常”じゃないか? そもそも殺人事件ゼロが“普通”なら、僕達は日本を永遠に“普通”にする事は出来ないだろう。

凶悪事件が増えているから、今の日本は“異常”と言えないだろうか? しかし例えば1988年の国内の殺人件数は、1476件だった。2003年と殆ど変わらない。この20年近く、日本では殺人事件の件数は大きく変動していないのだ。じゃあ今が“普通”の真最中なのか?

1990年代のアメリカでは、年間2万件程度の殺人事件が起こるのが“普通”だった。アメリカの人口は日本の2倍程度なのに、殺人事件は15倍近くにも及ぶ。では、アメリカは“異常”か?

アメリカに限らない。同人口当たりで比較すると、フランス・ドイツ・イギリスなどのヨーロッパ諸国は、日本の3倍以上の殺人事件が起こっているのだ。今の日本が“普通”なら、世界の他の国々は悉く“異常”なのだろうか? いやいや、今の日本が“普通”か“異常”かも定かではない訳だが。

結局の所、僕達は“比較”する事しか出来ないのだ。仮に何かを“普通”と定めても、それは主観としての“普通”でしかなく、客観としての“普通”ではない。だって、「どのくらいの頻度で殺人事件が起こるのが“普通”か?」なんて質問に、僕達が答える事が出来るだろうか。

以上より今日のイイタイコト。

僕達は“比較”する事でしか、“普通”を定義できない。しかしその“普通”は客観性を失った“普通”であり、普遍的な“普通”ではない。


2005年1月9日(日) インターネットの“日常化”

アナタが必ず毎日する行為は幾つ有るだろうか?

「寝る」、「食べる」、「顔を洗う」、「歯を磨く」、「服を着る(着替える)」、「入浴する」……この辺りは日常生活の基本であり、殆どの人が毎日欠かさず行っている筈だ。まぁたまには徹夜をしたり、お風呂に入らなかったりする日も有るかも知れないが、そういう日は寧ろ例外であって“日常”とは言えまい。

「テレビを見る」という人も多いだろう。僕は一日で全くテレビを見ない日というのは、ほぼ皆無だ。こういう人も割と多い筈である。やはり「テレビを見る」も我々の“日常”の一部だと言えよう。

ところで「テレビを見る」という行為は、テレビ(及び放送局や電波塔など)が開発されたからこそ発生した訳である。そしてテレビが世に出る前は、「ラジオを聴く」というのが一般的だったろう。ラジオとて未だ現役バリバリのメディアではあるが、言わばテレビはラジオに取って代わった存在である事に疑う余地は無い。

ではラジオが開発される前はどうだったかというと、僕には「テレビを見る」とか「ラジオを聴く」に相当する行為が、どうしても思い当たらない。

そう考えると、ラジオやテレビの発明というのは、確実に僕達の日常生活に大きな変化を齎したんだなぁ、という気がする。何しろ今では殆どの人が毎日テレビを見ているのである。その存在が無ければ、人類の生活は大きく変わっていた筈だ。(それが良い方向か悪い方向かは分からないが。)

となれば、僕達は新たなる“日常的行為の発生”に関して、もう少し慎重になるべきなのかも知れない。繰り返しになるが、殆どの人が毎日行うような行為は、社会に多大な影響を与えるからだ。

――さて。実はここで僕が言う“新たなる日常的行為”とは、インターネットの事である。

もうインターネットは随分と普及した。しかも一定金額で使い放題のブロードバンドが主流となりつつある。「ネットに接続する」という行為が、「テレビを見る」くらい“日常化”する日は近いだろう。実際、僕は既にネットに接続しない日というのは皆無に近く、僕にとって「ネットに接続する」のは最早“日常的行為”である。

一方で、僕のように毎日「ネットに接続する」という人は、まだそれほど多くは無い筈だ。少なくとも「テレビを見る」よりはマイナーな行為だろう。携帯電話のメール機能なんかは、かなりの人にとって“日常的行為”となっているかも知れないが、あれは新しい“日常的行為”と言うよりは、「電話をする」の代替行為に近いものが有ると思う。だから「ネットに接続する」は、まだ“日常的行為”とは呼べない。

しかし、である。しかし「ネットに接続する」は、近い内に“日常化”する。「食べる」とか「寝る」とかと、同等の行為になるのだ。それは間違いない。そうなると僕達人間の生活にどのような影響を与えるのか、僕にはそれが気になって仕方ないのである。

以上より今日のイイタイコト。

人間には幾つかの“日常的行為”が存在する。そしてそれまでに無かった全く新しい“日常的行為”が発生した時、人間の生活がどのように変化するのかは想像も付かない。


2005年1月8日(土) 使われない携帯電話

7日が過ぎると「正月が終わった」という感じがする。正確には“正月”というのは、“1月全体”か“元日から3日まで”を指す言葉らしいが、小学校などの冬休みは(雪国以外では)、1月7日までというのが主流である。それで7日が過ぎると「正月が終わった」という感じがするのだろう。

さて、2005年になって1週間が経った訳だが、その間に1度も携帯電話の充電をしていない事に気付いた。僕の現在の携帯はドコモのF504iで、購入してから2年半ほど経つ。既にバッテリーが古くなり、最近は2日に1回は充電しなくてはいけなかった。それなのに、もう1週間も電池が保っているのである。

考えてみたら当たり前であった。だって全然使ってない。どのくらい携帯電話を使ってないか調べてみたら、今年に入ってからの通話料は0円、パケット通信料は13円。このペースだと月に60円も使わない事になる。(流石にそんな事にはならないと思うが。)

ちなみにパケット通信料の内訳は、2通の「明けましておめでとう」メールの受信、そしてそれに対する返信。それから今年は年賀状を10枚用意して“来た人にだけ返す”作戦だったのだが、一昨日になって11人目から年賀状が届いたので、年賀状代わりのメールを1通送信。全部でメール5通。5通で13円。まぁそんなもんか。

ここまで来ると「別に携帯電話が無くても生活できるなぁ」と思う一方で、「最新機種のF901iCが欲しいなぁ」とも思ったりするから不思議だ。これが“物欲”というものなのか?

「取り敢えず携帯電話の新機種を手に入れるより、(メールや電話をするような)友達を手に入れる方が先決じゃないか?」という突っ込みは、禁止の方向で。


2005年1月7日(金) 「受動喫煙と知的能力との関連性」に対する反論について

文章のみで書き手の意図を正確に伝える事は難しい。

昨日の日記「受動喫煙と知的能力との関連性」について抗議の声が寄せられた。同様に感じた読者も多かったのではないかと心配になったので、日記にて意見を述べさせて頂く。

僕は昨日、子供の健康を大切にする家庭の方が子供に上質な教育を行う可能性が高い為、受動喫煙の機会が多い子供の知的能力が相対的に低くなっているとも考えられるという結論を出したが、これに対して「親が喫煙しているからといって、子供にちゃんとした教育を行っていない訳ではない」といった趣旨の反論が寄せられた。これには恐らく2つの誤解が含まれていると思われるので、ここでハッキリとさせておきたい。

まず1つ目は、僕は「喫煙している親が子供にちゃんとした教育を行っていない」という類いの断定は一切行っていない、という事だ。昨日の繰り返しになるが、僕はこれは傾向としての話だが、「家族の健康の為に、敢えて禁煙をしている」という考え方をする家庭なら、子供に対して教育熱心でもある可能性が高い筈だと書いている。つまり両者の相関性の存在可能性を指摘しただけで、それ以上については言及を避けたつもりである。(なので意味が重複するのを覚悟で、“可能性が高い”だけでなく、“これは傾向としての話だが”というフレーズも入れている。)

2つ目は、“十分性を満たしている”事と“相関関係が有る”事との差異についての理解の曖昧さから来る誤解である。分かり易く言えば、「男性は女性よりも体力が有る」という文章は必ずしも正しくない(一般男性よりも体力の有る女性だって沢山いる)が、しかしこのような傾向が存在する事は明らかである。僕は後者のつもりで、子供の健康を大切にする家庭の方が子供に上質な教育を行う可能性が高い為、受動喫煙の機会が多い子供の知的能力が相対的に低くなっているとも考えられると書いた。だから親が喫煙をしている家庭だからと言って、即その子供が劣悪な教育環境に置かれていると主張するつもりはないのである。

この2種の誤解については、いつも頭を悩まされる。昨日のように実際に抗議が来る事は稀なのだが、僕のテキストは昨日に限らず普段から沢山の誤解を生産し続けている事だろう。なるべく誤解を生まないように気を付けて文章を書いているつもりだが、昨日の日記は通常よりも短く纏めてしまったので、より誤解され易かったのかも知れない。これに関しては常に気を付けねば、と思っている。

以上より今日の結論。

文章のみで書き手の意図を正確に伝える事は難しい。そこには書き手が想定していない数々の誤解が生産されている可能性が有る。


もうすぐ冬休みも終わり。「暇な年末年始で一気に未読の本を消化してしまおう!」という計画は既に破綻。あと40冊……。


2005年1月6日(木) 受動喫煙と知的能力との関連性

受動喫煙はダイレクトに知的能力へ悪影響を与えているのか?

受動喫煙の機会が多いと、子供の読解や算数の成績が悪いとの研究を、米シンシナティ子供病院(オハイオ州)のチームがまとめ、4日、米公衆衛生専門誌に発表した。受動喫煙の子供の健康への害は知られているが、知的能力への影響ははっきりしていなかった。今回の研究で、子供がさらされるニコチンが低濃度でも危険なことも示され、たばこを吸う親に禁煙圧力が強まりそうだ。   ――共同通信より

如何にも「受動喫煙に拠って子供の知能が下がる」と言わんばかりの記事である。

この記事に拠れば、「受動喫煙の機会が多い子供の成績は悪い」という事のようだが、「受動喫煙の機会が多い」という事は即ち、「両親の少なくとも一方が喫煙者である」という事だろう。

これは傾向としての話だが、「(子供を含む)家族の健康の為に、敢えて禁煙をしている」という親は、それなりに居るだろう。そういう考え方をする家庭なら、子供に対して教育熱心でもある可能性が高い筈だ。

関連リンク:「DQN再生産のしくみ」『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々』

DQNはDQNとして生まれるのではない。DQNになるのだ。(註:“DQN”とは、不良や反社会的な人を指す言葉。転じて、単に馬鹿な人を指す事も有る。)

リンク先に拠れば、ダメな親から生まれる子供は先天的にダメなのではなく、ダメな親のダメな教育によりダメな子供になる、と指摘している。これは非常に共感できる主張である。これと同じ事が、今回も言えると思う。つまり、受動喫煙そのものが子供の知能を低下させるのではなく、そのような環境では教育的な面で不利を強いられている可能性が高い、という訳だ。

以上より今日の結論。

今回の調査結果を以て「受動喫煙が子供の知能を下げる」と結論付けるのは早計だ。子供の健康を大切にする家庭の方が子供に上質な教育を行う可能性が高い為、受動喫煙の機会が多い子供の知的能力が相対的に低くなっているとも考えられる。


2005年1月5日(水) “怠惰な理系大学生”の作成方法

“怠惰な理系大学生”の作成方法について。

社会人の方々は、そろそろ働き始めだろうか? 怠惰な理系大学生たる僕の場合、冬休みは7日までだが、8日が土曜日、9日が日曜日、さらには10日が成人の日なので、講義が始まるのは11日からである。で、3週間講義が有って、また1ヶ月休み。その後1週間の試験期間を経て、またまた1ヶ月休み。こう見ると、凄く暇そうだな、俺。

工学部や薬学部の人間なんかは「実験、実験、また実験」で休む暇も無いほど忙しいそうだが、理学部数学科は基本的に放置される。そもそもやるべき事と言ったら、「数学書(テキスト)を読んで理解して、最低限の所は覚える」という、何だか高校生の頃と代わり映えのしない作業しか無いのだ。勿論、内容は高校よりも遥かに難しい訳だが。(←というか、ココが大問題。分からん!)

――という訳で、僕は“大学生”というカテゴリの中でも、特に時間に融通が利く人間である事になる。しかしこの「時間に融通が利く」というのが曲者で、少しでも気を抜くと全く中身の無い一日を過ごしてしまいがちである。特に僕は活動的な方ではないので、その傾向が強い。

多分、僕のような状況というのは、自分から何でも積極的に行うような人間には絶好の環境なんだろうが、そうじゃない人間は堕落していくだけである。そんな基本的な事に、最近やっと気付いた。(でも気付くと満足してしまう自分の性格も問題。)

上述のような事情が重なった結果、一人の“怠惰な理系大学生”が作成される訳だ。

以上より、2005年の抱負に追加。

“怠惰な理系大学生”から、“怠惰な”を取り除く。予想達成確率、50%。


2005年1月4日(火) 正月早々、体調不良

正月早々、体調を崩してしまった。昨日の昼近く、急に気持ち悪くなり、起き上がれなくなった。(起き上がると気持ち悪さが増すから。)

何となく3年前の食中毒のイヤな記憶が思い出される。――まさか今度も食中毒か……?

“気持ち悪い”というのは要は吐き気だったのだが、しばらくしても全然治る気配が無かったので、死ぬ気で少し起き上がり、取り敢えず胃腸薬を飲んでみた。僕は幼い頃から薬を不味いと思った事が無かったのだが、その胃腸薬は不味かった。余計に気持ち悪くなった。

両親は出掛けていたので、家で独り本当に「う〜! う〜!」と唸りながら、寝返りを打ちまくっていた。寝返りを打つと、少し気分が楽になる感じがした。その代わり寝返りを打ち続けていたら、頭が痛くなって来た。寝返り打ち過ぎ?

吐き気・頭痛と来たので、「これは、もしかして風邪か?」と思い、体温を測ってみる。36.8度。僕の平熱は36度以下なので少々高いが、それほどでもない。やはり食中毒か? 少なくとも、食べ過ぎではない。ダイエット再開したし。

ふと朝食で天ぷらを食べたのを思い出した。去年の暮れに揚げた天ぷらを。もしかして原因はそれか!?

市販されている天ぷらの消費期限を調べてみると、製造してから3〜5日程度のものが一般的なようだ。消費期限というのは余裕を持って設定されているから、実際には1週間くらいは大丈夫なのだろう。となると、ギリギリセーフな筈なのだが……。

――と、そこへ飛び込んでくる一つのフレーズ。

保存方法:要冷蔵(10℃以下)

あ、ウチの親、常温で保存してた……。

以上より今日の結論。

天ぷらの保存方法は要冷蔵(10℃以下)。(天ぷらが原因じゃないかも知れないけど。)

吐き気との格闘は6時間半にも及び、僕が無事に勝利を収めた。食中毒じゃなくて良かった、ホント。


2005年1月3日(月) お笑い番組に見える残酷な構図

年末年始のお笑い番組が、年々増えて行っている気がする。僕はその手の番組が好きなので出来るだけ見るようにしているのだが、“ギター侍”こと波田陽区や青木さやか、ヒロシなどは最早「目にしない日は無い」どころか、「目にしない時間帯が無い」ほど各局に引っ張り凧である。これは、かつてのテツANDトモ・ダンディ坂野フィーバーを思い起こさせる。

各局の番組を見ていると、かなりのお笑い芸人のネタを既に見た事が有るのに気付く。それも昔の記憶ではなく、「あぁこれって年末にやってたネタと同じだなぁ」という感じ。波田陽区などは比較的頑張ってるように思う(ヒロシはネタの使い回しが多過ぎる。)が、ここまで連続して見掛けると、やはりマンネリ感は否めない。

このようなマンネリ感が彼等お笑い芸人の寿命を縮める事は、昨年・一昨年のテツANDトモやダンディ坂野で実証済みなのに、何時まで経ってもこのような年末年始の現象は変わらない。これは一体どうした事か?

所属事務所も馬鹿ではないだろうから、「敢えて仕事をセーブさせて息の長いタレントにするよりは、このお笑いブームが終わらない内に売れるだけ売ってしまった方が儲かる」という算段なのだろう。となれば、残酷な話である。

取り敢えず、パペットマペットと長井秀和と波田陽区、頑張れ!


2005年1月2日(日) 2005年の抱負と初夢

今年の抱負と、その予想達成確率を。

まずは昨日の日記で宣言したように、「第2回ダイエット計画」を成功させる。成功確率は80%くらいと思われる。今年も都内各地の焼肉食べ放題店に出没しまくると思うが、そこは気合いでカバー。

それから2007年に大学を卒業できる目処を付ける。2006年に卒業できる確率は任意の正の数εよりも小さくなってしまった(つまり0%)ので、目標は2007年卒業。卒業確率は50%くらいか。「2008年まで卒業を遅らせられる」という甘い考えを捨て切れるかどうかが鍵だろう。ってか捨てろ、そんな考え。ちなみに僕が大学入学したのは2000年。時が経つのは早いものよ。

サイト運営も頑張りたい。具体的には、日記の毎日更新。この実現可能性は10%くらいだろう。試験期間など要所々々で休むと思われるので。

ユニークアクセス数は、現在1日500人前後。昨年は1年間で15倍程度まで増えたが、今年はどうなるか。現状維持が50%、1日1000人以上になるのが10%程度と予想。実はサイト方針を意趣変えしようか、という事を考えていたりもするので、どうなるかサッパリ分からない。まぁ変えないかも知れないけど。

ちなみに今年の僕の初夢は、某大手ニュースサイトにリンクを貼られる、というものだった。どれだけ僕がネットに依存してるのかが良く顕れている。


2005年1月1日(土) 第2回ダイエット計画

明けましておめでとうございます! 本年もヨロシクお願いします。

――さて。

昨年5月6日から同年11月26日まで行われた『ダイエット計画』は、20キロの減量達成により無事に成功を収めた。あれから40日弱……僅か1ヶ月ちょっとである。その間、体重の事など殆ど気にせずに飲み食いしていたら、アッと言う間に大幅なリバウンドを経験した。その重さ、実に8キロ以上。40日で8キロ……。

元々20キロの減量を達成した時点でも、本当はさらに10キロ近くは痩せたい処であった。が、その理想体重は遥か彼方へ遠ざかってしまった。そこで2番煎じではあるが、ココに『第2回ダイエット計画』を発表したいと思う。

【『第2回ダイエット計画』の詳細】

前回の『ダイエット計画』は毎月3キロが目標で、しかも貯金制度が無かったので、それと比べると非常に緩いルール設定だが、これでも前回開始時よりは10キロ以上痩せているので、これくらいが妥当と判断した。

――という訳で、今日から再び日記才人の投票ボタンで、最新のダイエット経過状況をお知らせして行く事になりました。日記才人に登録していなくてもメッセージは見れますので、興味が有る方はどうぞ。それでは!


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