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2004年12月

DIARY MAIN

2004年12月31日(金) 大晦日

2004年も今日で終わりですね。予告通り、複数回更新を開始します。ちなみに日記才人の投票ボタンのコメントは変えませんので、クリックしてくれる方は(午前6時過ぎに)1度でOKです。 (0:00)

本当は今日も家庭教師のバイトが有った筈なのだが、色々有って今日のバイトは無し。ヤバイ、一日中サイトを更新できてしまうではないか。ちなみに昨日は家庭教師3件。疲れた……。 (0:12)

家庭教師にとって年末と言えば、“お歳暮”という名の“収賄”の時期である。以前から何度も書いているが、僕は貰える物は有り難く貰っておくが、それで教え方が変わるという事は絶対に無い。ちなみに今回の収穫は、現金3万円・ワイン2本・和菓子詰合せだった。臨時収入として有り難く使わせて頂く。あ、でもワインは最近6本も買い置きしたんだった……。 (0:25)

2004年個人的重大ニュース。1月:3度目の正直で英語の単位を取る。2月:サイト方針を現在の形に転換。3度目の正直で中国語の単位を取る。4月:大学5年目にして3年生になる。5月:彼女に振られる。次の彼女を見付ける為にダイエット開始。6月:自分が鬱病だった事が発覚。8月:オフ会に初参加。9月:父親が失業。サイトを1ヶ月ほど休む。11月:従姉妹が出来ちゃった婚。20キロのダイエットに成功。12月:大幅にリバウンドする。(何キロリバウンドしたのかは明日の日記で。) (0:53)

あぁ、すっかり眠ってしまっていました。……って、3時間ちょっとしか寝てないじゃないか。もうちょっと寝よう……。 (4:24)

ある方が「騎乗位には4つの種類が有る」という話をされていた。男女が向かい合っていて、男性に対して女性が垂直になっているパターンと、覆い被さっているパターンで2通り。さらに女性が後ろ向きになる事で、もう2通り。合計4通り。僕の個人的見解では“騎乗位”と呼べるのは男女が垂直になっている2パターンのみで、男女が向かい合い女性が覆い被さっているのは“女性上位”、女性が後ろ向きで覆い被さるのは最早名称も分からない程にマニアックな体位だと思う。 (5:57)

『google』で「騎乗位」と検索すると、142000件中2件目に「騎乗位推進論」が出て来た。ちなみに1件目はアダルトサイトなので注意。ってか、朝からこんな話で良いのだろうか? (6:56)

同じように「ブルガリア人」と検索したら、7890件中3件目に表示された。『日本ブルガリア協会』『外務省』のブルガリアのページよりも上位で良いのかなぁ……。 (7:58)

大晦日でテレビは特番だらけだが、日テレ21:30からとフジテレビ24:40からのお笑い系番組しか見たいものが無い。取り敢えず今は、ドラマ『ごくせん』の再放送で仲間由紀恵に癒され中。仲間由紀恵は可愛い。 (9:04)

先日「『ろじっくぱらだいす』のワタナベさんと仲が良いんですか?」と訊かれたが、そんな事は全く無い。面識も無い。代打日記に応募してるだけである。今回の代打日記は落選した模様。お題が「2005年を予想する」だったので、「ワタナベさん電撃入籍!!!」としたのだが、ベタベタ過ぎたか。 (10:39)

気付いている人も居るだろうが、昨日から『Amazon』「アソシエイト・プログラム」というのを始めてみた。以前から友人に「やってみろ」と言われていたのだが、仕組みが理解できてなくてやってなかった。ようやく理解できたので、やってみた次第。しかしこれって、僕のサイト経由で最低でも5万円の売上げが無いと、僕に利益は転がり込んで来ないのだが。文庫本1冊500円として100冊。無理じゃない? 取り敢えずHOBBYの各ページに地道にリンクを貼っていくか。 (11:28)

『金田一少年の事件簿 吸血鬼伝説殺人事件』を買ったが、以前と画が違い過ぎないか? 特にヒロインの七瀬美雪は幼くなってるような……。――という訳で早速『Amazon』にリンクを貼ってみた。こんな感じで良いのかな? (13:34)

午前中から雪が降り続けている。東京文京区の自宅付近では、既に数cmの積雪が。家の中なのに息が白い。凄く寒いなぁ。 (14:46)

日本では初性行為の早期化が問題視される事が多いが、Durex社の2004年の調査では、日本人の平均初体験年齢は18.6歳で、これは41ヶ国中5番目の遅さ。世界平均は17.7歳で、最も初体験が早いのはアイスランドの15.7歳。早っ! ちなみに日本より遅い4ヶ国はシンガポール・インド・マレーシア・ベトナムであるが、これは一昨日の日記で取り上げた国際数学オリンピックの上位常連国が多い。――という事で、初体験が遅い程、数学の学力が高くなる傾向が有る、と無理矢理に結論してみる。 (15:25)

日本は初体験は遅いが、性教育を受け始める年齢(12.6歳)は世界平均(13.1歳)より早い。しかし今の小学校では3年生くらいから性教育を始める所も有るそうだから、実際には既に平均10歳くらいになってるかも知れない。ところで僕は小学校・中学校・高校と、性教育を受けた記憶が全く無いのだが。小学校の時は女子にだけ性教育が行われていて、その時間男子は図書室で自習だった。今なら「逆差別だ!」とか言われそう。 (17:03)

「男性用ピルが存在するとしたら利用しますか?」という質問に対し、世界の殆どの国々では過半数が「利用する」と答えたのに対し、日本で「利用する」と答えたのは33%に過ぎなかった。これは41ヶ国中でイスラエル(29%)に次ぐ低さである。何故だろう? 便利だと思うのだが。 (18:43)

「コスプレ好きなブルガリア人」「あなたがセックスをより楽しむ為に行っている事は何ですか?」というアンケートに対し、ブルガリア人の57%が「コスプレ」と回答した事は書いたが、イギリス人の51%とデンマーク人の55%は「目隠しや手錠」と回答している。日本でそのように回答したのは26%、世界平均は22%である。 (19:38)

これまで僕は何度もイギリスのコンドームメーカーDurex社の調査をネタに日記を書いて来たが、それもこれで打ち止め。2005年の調査結果が纏まる来年末まで、もうDurex社をネタに使えない。まぁ何とかなるだろう。多分。 (20:05)

レコード大賞では大塚愛に、紅白歌合戦では後藤真希&松浦亜弥に癒された。次の癒しタイムは、紅白の倉木麻衣かな? あ、その前にもう1回、大塚愛が見れるな。 (20:34)

流石に更新作業に疲れて来た。ホントに今日はずっとパソコンの前に座ってる気がする……。 (21:00)

自分が使用しているノートパソコンのキーボードに大量の髪の毛が絡んでたので、爪楊枝でチクチクと取って行く。なんでこんなに絡まってんだろう。僕の抜け毛か? (22:10)

一昨日は某オフ会に二次会から参加したので、主催者の方から他の参加者の方々に僕を紹介して貰ったのだが、その時の台詞が「鬱病の東大生です!」しかなかった。端的過ぎて、思わず笑った。さらには或る参加者の方から、「サイトで公開している写真は詐欺ですね」と言われた。写真に写っているよりも実物が太っている、という事らしい。考えてみたらあの写真、僕はまだ19歳だった。現在23歳。詐欺と言われても仕方無いな。 (23:02)

日テレのお笑い番組を見た。出演者は出た順に、長井秀和→ドランクドラゴン→レギュラー→陣内智則→パペットマペット→アンジャッシュ→だいたひかる→インパルス→ヒロシ→インスタントジョンソン→スピードワゴン→友近→カンニング。見た事の有るネタが多くて残念。だいたひかるは台詞を噛み過ぎだろ……。 (23:29)

――という訳で、2004年も本当にもう終わりです。この1年、本当に有難う御座いました。来年もヨロシクお願いします。本当は日付が変わってからも更新を続けようかとも思ってたんですが、昨日から殆ど寝ていないので眠る事にします、それでは皆さん、良いお年を! (23:59)


2004年12月30日(木) 2004年BESTテキスト

今年を振り返るという意味で、自分の書いたテキストをランキングしてみようと思う。

【反響の大きかったテキスト】BEST5

上位を性的なテキストで独占するという結果に。ちなみに僕は、このようなテキストを“自由考察”と分類している。とあるサイトから「他では読めないようなエッチなコラムが満載のテキストサイト」という紹介でリンクを貼られた時には、流石に「何時からサイトの方向性を間違ったのだろう?」と思った。多分、3位の「騎乗位推進論」を書いた頃からだろうな。4位の「希少化する処女」は、何故か『2ちゃんねる』の「ニュース速報+」でスレッドが立てられた。そこから色々と派生して、多数の童貞にショックを与えていた模様。5位の「ネット上での親近感」で、ようやく真面目なテキストが入ってホッとしている。

【頑張って書いたテキスト】BEST5 一転して真面目なテキストが多くを占めた。“社会問題”に分類されているテキストが多い。しかし2位の「学力低下論」なんかは、先日の経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査で結論を否定されるような結果が出て来てしまい、非常に悔しい。3位の「殺人についての考察」は、ネット上よりは実際の知り合いからの反響が大きかった。酒を飲みながら、このような事を話し合うのも楽しい。

【自分で気に入ってるテキスト】BEST3 別に気に入っているテキストが3つしか無いという訳ではないのだが、この3つが自分としては断トツにお気に入りなので、BEST3までのランキングとしておく。全てが“論理”に分類されているテキストとなった。1位の「多数決の罠」というタイトルは、漫画『ハンター×ハンター』からのパクリ(コミックス第3巻に収録されている第19話)である。ちなみに内容はパクリではない。念の為。

【今年のまとめ】

頑張って書いたテキストでも反響が大きくなるとは限らないし、そもそも自分ですら気に入らない結果となってしまう事も多い。かと言って自分で「会心の出来だ!」と思ったテキストでも、大きな反響が有るとは限らない。難しい処だ。多分ジャンルが違っても多くのテキストサイト管理人は、似たような想いを抱いているのではないだろうか。しかし努力が必ずしも報われる訳ではないというのは現実の世界では当たり前で、ネットの世界だけ都合良く出来てる筈が無いとも言える。ネットも現実の一部なのだから。


明日の大晦日は複数回更新します。内容は未定。その瞬間に脳裏を掠めたモノを次々とアップして行く予定。さて、どうなる事やら。


2004年12月29日(水) エリート重視教育の妥当性

日本でエリートを重視した教育を行う事は、必ずしも間違っているとは言えない。

関連リンク:「学力低下がゆとり教育の目的」『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々』

Yasさんは「ゆとり教育は学力の低下を狙った国家の教育方針」という過激な書き方をしているが、もう一方で主張している「ゆとり教育=エリート教育」という構図に注目してみた。そもそも学力低下論で取り上げられるのは、学力的に平均的な層の国際順位である。では、日本の天才(エリート)達の学力は、世界でどの程度通用しているのか?

国際数学オリンピック(IMO)という世界大会が、毎年夏に行われている。各国高校生以下の学生6名による国別の数学対抗戦だと思って貰えば良い。制限時間4時間半で3問を解く試験を2日間行い、国毎の全代表選手の総点により国際順位が決定される。ちなみに僕も中学・高校時代に日本代表を決める国内大会に挑戦したが、残念ながら一度も日本代表にはなれなかった。

『数学オリンピック財団』の記録に拠れば、日本が国際数学オリンピックに初参加したのは1990年の中国大会で、その時の順位は54ヶ国中20位だった。お世辞にも“世界トップレベル”とは言い難い。この時の成績は北朝鮮にも劣っていた。(しかし後に北朝鮮は不正が発覚して、メダル剥奪という事件を起こしている。流石、北朝鮮。

日本は1992年のモスクワ大会で、56ヶ国中8位という好成績を収めるが、その後は少し低迷する。後にベスト10に入ったのは、1995年・2003年・2004年の3回だけである。今年2004年のギリシャ大会は85ヶ国中8位で、参加国数を考えると“過去最高”と言って良い成績だった。

しかしこれは確かに“成績上位”ではあるが、まだ“世界トップレベル”とは言い難い。というのも日本は、アメリカ・中国・ロシア・ブルガリア・ルーマニア・ベトナム・韓国・台湾といった国々よりも上位になった事が、殆ど無いからだ。日本はこれら多くの国々に完敗しているのである。(2004年はルーマニア・韓国よりは上位だった。日本が韓国よりも上位になったのは1994年以来、実に10年振りである。)

日本人の学力が低下したとは言っても、通常の学力調査で日本が世界のベスト10から外れるというのは、まず有り得ない事である。しかし、世界の天才少年少女達が集う国際数学オリンピックでは、日本はベスト10に入るのがギリギリの状態なのだ。(「参加国数が違うじゃないか」という意見は有るだろうが、成績上位になるような国々の殆どは、両方のランキングに顔を出している。)

以上より今日の結論。

国際順位だけを見れば、日本は学力的に平均的な層よりも、エリート(天才)層の方が順位は低い。ゆとり教育がエリート教育として役立っているかは定かではないが、エリート層の学力を上げようという考え方は、あながち間違ってはいない。


2004年12月28日(火) 年賀状

今の所、年賀状を1枚も書いていない。今回からは完全に「年賀状が来た人にだけ出す」事にしたからだ。

僕が最も多くの年賀状を送ったのは、高校3年生か大学1年目だったと思う。当時は40〜50枚くらい出していたハズだ。年賀状を出し始めたのが何歳からか記憶が定かではないが、基本的に年賀状を出す枚数は、年齢と共に単調増加して来た。

どのくらい年賀状を出すかは、人によって大きく異なる。高校までは「クラス中の全ての人間に無差別に出す」「そこそこ親しい相手には出す」「かなり親しい友人だけに出しておき、後は来た人だけに出す」「自分からは絶対に送らず、来た人にだけ出す」という4つのパターンが支配的だった。前者ほど送る年賀状は多くなり、後者ほど少なくなる。僕は年に拠って2番目か3番目をウロウロとしていた。だから年賀状を出す枚数は、同年代としては平均的な数字だったと思う。

しかし大学生になって、「例え年賀状が来ても絶対に出さない」というタイプが存在する事を初めて知った。しかも、その割合が結構多いのである。例えば2002年には僕は40枚近くの年賀状を出したハズなのだが、来たのは12枚しかなかった。当時は、少なくとも年賀状が来た相手には返すのが常識だと思っていたので、割とショックだった。

数年前からは年賀状代わりにメールを送る人も多いそうだが、僕の場合そういうメールを受け取るのも2,3人である。全然多くない。やはり僕の周りには、「例え年賀状が来ても絶対に出さない」という信念の人が多くなったのである。

「例え年賀状が来ても絶対に出さない」というタイプが増加すると、「かなり親しい友人だけに出しておき、後は来た人だけに出す」又は「自分からは絶対に送らず、来た人にだけ出す」というタイプを誘発し易くなると思う。年賀状を出しても返って来ない事が頻繁になれば、自分から積極的に送ろうという気は失せて行くだろうからだ。

もしも仮に、ある瞬間から「自分からは絶対に送らず、来た人にだけ出す」か「例え年賀状が来ても絶対に出さない」というタイプしか居なくなったら、年賀状は1枚も出されない事になる。僕としては年賀状という文化には何の愛着も無いので、そうなったらなったで構わない。ただ出しても返って来ないのは寂しいので、「年賀状が来た人にだけ出す」事にしただけである。

こうした現象は他の人にも見られるのだろうか? それとも単に僕が爪弾きにされているだけだったりして……


2004年12月27日(月) 最も役に立った科目

自分の高校生までの人生を振り返ってみて、「学校の授業で最も役に立った科目は何か?」と訊かれたら、恐らく僕は「それは現代文だ」と答えるに違いないと思う。

僕の最も得意な科目は数学だったが、学校の授業が役に立ったかと言うと、そうでもない。授業なんか聞かず、自分で勝手に進めてるタイプだったからだ。だが現代文は違った。特に中学・高校時代では、唯一マジメに聴いていた授業だと言っても過言ではない。

僕が「現代文の授業が役に立った」と思う最大の理由は、様々な作家や哲学者の存在を知らせてくれた事である。例えば中学1年生の時には、星新一のショートショート(確か『愛の指輪』という作品だった)が授業で扱われていて、これが小説を読むキッカケとなった。それまでは活字の本なんか、全く読まない人間だった。中学受験を経験したので、小説やエッセイを読む機会が皆無だった訳では無いが、やはり自発的に読むようになったのは、中学の現代文の授業の御蔭である。

高校に入ってカフカの『変身』なんかを読まされて、当時は「よく分からん話だなぁ」という感想しか抱かなかった気がするが、最近この作品を再読したら、色々と示唆に富んだ話だったんだなと思った。

デカルトやカントなどの哲学者を知ったのも、高校の現代文で扱われた内容に含まれていたからだ。扱う分野こそ異なるが、哲学と数学は必要な思考法が非常に似通っており、言わば“お隣さん”みたいな科目である。やはり高校生時代には何が何だかチンプンカンプンだったが、その存在を知らせてくれただけでも今では充分に感謝している。

これらのような事は現代文で扱わなくても何時かは知る処となっていただろうが、“代替可能だった”というだけで意味が無くなるのなら、この世の殆ど全てのモノには意味が無くなってしまう。だから“代替可能だった”という要素には、何らマイナスの意味は無い。やはり僕にとって学校の授業で最も役に立った科目は、現代文だったのである。

しかし現代文というのは、多くの学生(特に受験生)にとって「勉強しても試験の成績が殆ど上がらないので、やっても意味が無い」とか思われている節が有る。これは非常に残念な事だ。まぁ僕も「現代文の授業をマジメに聴いていて良かった」と思えたのは、高校を卒業して随分と経ってからだったので、他人の事を言えないのだが。

以上より今日の結論。

僕が中学・高校で最も役に立った科目は現代文だった。現代文は後になって「やってて良かった」と実感できる数少ない科目の一つだと思う。


2004年12月26日(日) 冴羽遼に憧れる一人の青年の物語

少年向けストーリー漫画(ギャグ系は除く)の主人公には、大体2つのタイプが有る。何時でも何処でも強くてカッコ良い“スーパーヒーロー”タイプと、普段は情けなかったり三枚目キャラだったりするがイザという時には大活躍する“やる時はやる”タイプだ。

20代前半の僕としては、前者は『ドラゴンボール』の孫悟空、後者は『シティーハンター』の冴羽遼が、代表例に挙げられる。

ところで僕は『ドラゴンボール』も『シティーハンター』も大好きであるが、僕の人間性に与えた影響が大きいのは、圧倒的に『シティーハンター』である。いや、『シティーハンター』の冴羽遼だ。

『ドラゴンボール』は作品としては好きだが、孫悟空を初めとする個々のキャラクターには、それほど大きな魅力は感じていなかった気がする。勿論「頑張って修行すれば、かめはめ波が打てるようになるんだ」というような事を、小学校4年生くらいまで半ば本気で思っていたりした訳で、そういう意味では影響を受けていなくはないのだが、どちらかと言えば『ドラゴンボール』は、その設定に魅力を感じていた節が有る。

しかし『シティーハンター』は、完全に冴羽遼なのである。冴羽遼という主人公キャラクターがカッコ良いから、『シティーハンター』が好きだったのだ。

冴羽遼のカッコ良さは、普段の三枚目的側面(特に女性に対するだらしなさ)を内包しつつも、物語のクライマックスでは必ず活躍する処に有る。最初にも書いたが、“やる時はやる”のが冴羽遼の魅力だ。

ある意味で冴羽遼というのは、僕の目指す人間の目標であったりする。普段から何でも完璧な“スーパーヒーロー”には到底なれそうもないので、せめて“やる時はやる”人間になりたいと思う訳である。

しかしながら『シティーハンター』の冴羽遼に憧れて早15年以上。ふと自分を振り返ってみると、何だか普段の冴羽遼の三枚目キャラばかりが受け継がれ、肝心の“やる時はやる”という要素が受け継がれていない気がするのだった。

以上より今日のイイタイコト。

冴羽遼になりてぇ……。


2004年12月25日(土) 良い人とか悪い人とか

僕は心の何処かで「人間には“良い人度”みたいな尺度が存在して、その数値が高いヤツほど、良いヤツなんだ」というような事を無意識の内に考えていたような気がする。要は個人間の相性とか、そういう人間の評価を不安定にさせるような要素なんか無いんだ、みたいな考え方。

そもそも僕は何に対しても“絶対的なモノ”が在ると信じて止まない傾向が有る。2003年12月31日に、僕はこんな言葉を書いている。

いつでも我々を惑わせるのは“絶対”だ。
“絶対”の罠は世界のあらゆる場所に巧妙に仕掛けられており、しかも余りに強大な“絶対”を前に我々はただ呆然と立ち尽くす以外に他は無い。
しかし稀にその“絶対”を打ち破る者達がいる事もまた事実だ。


何と言うか、人間というのは何らかの絶対的な存在の前では無力で、まぁ極少数の例外を除けば、僕達は常に“絶対”の呪縛に囚われている、という……。これが高じて最初に書いたような考えに至ったりする訳だが。

でもやっぱり個人間の相性って有るんだなー、と思った。いやー、こんな当たり前の結論に至るまでに何年も掛かったよ。長かったよ。長過ぎたね。遅かったのかな。そうかも知れない。

――というような事を、鬱の時は考えたりしてるのでした。支離滅裂さが心地良い。


2004年12月24日(金) ラクリマ・クリスティ

今日はクリスマス・イブである。特にクリスマスっぽい予定は入っていない。そこでイタリアワインの『ラクリマ・クリスティ』(キリストの涙、という意味)を買って来て、それを独りで飲みながらクリスマス・イブを迎えた。何となく、虚しい……。

この虚しさを筆舌に尽くそうかとも思ったのだが、体調不良でその元気も出ない。従って今日の日記は、これで終了。ちなみに『ラクリマ・クリスティ』は日常消費用の安いワインだが、それなりに美味しかった事を付け加えておく。

あぁ、今日か明日、誰か飲みにでも誘ってくれる人は居ないかな?


2004年12月23日(木) プレ・クリスマス・イブ

10日くらい前から体調が優れなかったのに、朝まで飲んだり朝まで飲んだり朝まで飲んだりしていたら、やっぱり体調が悪いままである。しかし今日から大晦日までは全ての日にちにバイトが入っており、何とか頑張って行かなきゃならない。

ところで世間では明日がクリスマス・イブだが、僕の周りにも「クリスマスだから忙しい」人や、「クリスマスだから暇」な人など、色々と居る。家族に彼女が居ない事を知られたくなくて、クリスマスは1日中マンガ喫茶で過ごす、という人(24歳男性)も居た。そういう話を聞くと、クリスマスというのは難儀なイベントであると実感させられる。

しかし、こんな時期にも真面目に生きている人は居るものだ。例えば受験生。僕は今年は家庭教師の生徒を2名しか受け持っていなかったのだが、今月になって急激に増えて、現在6名を見る事になった。増えたのは殆ど受験生である。例えば大学受験でセンター試験を利用する場合は、既に本番まで1ヶ月を切っているワケで、正に最後の追い込みである。中には「今まで随分とサボってたな、オイ」とか思う生徒も居たりするが、まぁギリギリまで頑張って欲しいものだ。

この“最後の追い込み”というヤツは、「とても重要だ」と言う人と、「殆ど意味が無い」と言う人が居る。どちらかと言えば僕は重要だと思うが、今までの家庭教師の経験上、確かに実力が殆ど上がらなかった受験生が居た事は事実である。しかし実力が大幅にアップする受験生も居ない訳ではなく、取り敢えずどちらになるか分からない以上は、勉強を頑張っておいた方が良いと思う。

ちなみに僕が大学受験をした時は、この時期は(センター対策の為に)『政治経済』と『英語』だけやっていた。3週間くらい集中的にやったのだが、20点ずつは上がったんじゃないかな、と思う。多分。僕は二次試験の足切りライン(その大学を受験する為に必要なセンター試験での最低点数)まで15点くらいしか余裕が無かったので、この“最後の追い込み”が利いた事になる。

今日は体調が悪いので、この辺で。体調が回復すれば、バイトの後に赤羽で行われるステージマジックを観に行く予定だが、どうなるかな?


2004年12月22日(水) “言語化”と“認識”との差異

認識の言語化は、必ずしも可能ではない。

今日は昨日の続き。

中学時代の美術教師の「今ココに一匹の犬が居たとする。しかし君達は何を以て、それを“犬”と判断したのだろうか?」という問い掛けに対し、昨日は僕達が犬を“犬”と認識する仕組みは、“特徴列挙型”や“辞書的説明型”などの考え方では、説明不可能であると書いた。

もっと言ってしまえば、そもそも僕達が犬を“犬”と認識する仕組み――即ち“犬”の定義を言語化しようとする事自体に、根本的な無理が有るように思える。多分、例の美術教師は言語の限界を、そして逆に想像力(≒認識力)の雄大さのようなモノを、生徒達に訴えたかったのではなかろうか。(というのも、その美術教師は明確な答えを教えてはくれなかった為、僕は想像するしかないのである。)

となると問題は、対象の“言語化”と“認識”との差異へと議論の場を遷す。

ひとくち飲めば、そのワインが高品質かどうかたちどころに理解できるのに、「高品質なワインとはどういうものか」を定義するのは非常に困難だ。   ――メイナード・アメリン (ソムリエ 第7巻 102頁)

この言葉は、認識の言語化が必ずしも可能ではない事を端的に表している。今回のケースに置き換えさせて貰えば、「一目見れば、その動物が犬であるかどうかたちどころに判断できるのに、『犬とはどういうものか』を定義するのは非常に困難だ」となるだろう。メイナード・アメリンは「非常に困難」という表現をしているが、僕としては敢えて「完全に不可能」と表現したい処だ。

言い換えれば、言語で定義不可能なモノでも我々は認識可能だ、という事だ。実際、僕は“犬”を定義出来なかった。しかし、“犬”を認識している事は確かなのである。

以上より今日の結論。

犬は“犬の定義”を以て、“犬”となるのではない。我々の“犬の認識”を以て、“犬”となるのだ。それは認識の言語化が、必ずしも可能ではないからである。


2004年12月21日(火) “犬”の定義

犬は何を以て“犬”と成り得るのか?

僕が中学生の頃、美術の教師が僕達生徒に対して、「今ココに一匹の犬が居たとする。しかし君達は何を以て、それを“犬”と判断したのだろうか?」という質問を投げ掛けて来た事が有った。

そういう時に必ず出て来る答えの一つに、「足が4本で、尻尾が有り、ワンワンと吠える」というような、“特徴列挙型”の意見が有る。即ち、散々色々と犬の特徴を挙げた後に、「それらの条件を全て満たすモノが“犬”なのだ」と言う訳である。

勿論この答えは間違っている。例えば“犬”の必須要素として「足が4本」という条件が含まれるなら、犬は足を1本でも失ったら最早“犬”ではない――少なくとも僕達は、その犬を“犬”と判断出来ない、という事になってしまう。しかし恐らく僕達は、その犬を“犬”と判断する事が可能であるハズだ。

次に出て来る答えが、“辞書的説明型”だ。何かの辞書で“犬”の定義を調べ、それに拠って僕達は犬を“犬”と判断する、と言う訳である。当然これも間違いだ。

『goo 辞書』に拠れば、“犬”とは「食肉目イヌ科の哺乳類。オオカミを家畜化した動物と考えられている。よく人になれ、番用・愛玩用・狩猟用・警察用・労役用などとして広く飼育される。品種が多く、大きさ・色・形などもさまざまである」という説明が為されている。しかしこれは、「食肉目イヌ科の哺乳類」という第一文はまだしも、それ以降の説明は“犬”の定義とは言い難い。確かに“犬”の特徴ではあるけれども、それが僕達人間にとって“犬”の定義にはならない事は、既に説明した通りである。そして「食肉目イヌ科の哺乳類」というだけでは、余りにも説明不足過ぎる。

一方、『ウィキペディア』“犬”の項では相当に厳密な定義が為されているけれども、ここまで来ると逆に「僕達がそこまで把握して犬を“犬”と判断しているとは思えない」と感じられてしまう。

――以上のような“特徴列挙型”と“辞書的説明型”の意見が否定されると、大抵の生徒はもうお手上げ状態である。実際、中学のその授業では、それ以上の意見は出なかった記憶が有る。

明日に続くが、取り敢えず今日の結論。

僕達が犬を“犬”と認識する仕組みは、“特徴列挙型”や“辞書的説明型”などの考え方では、説明不可能である。


2004年12月20日(月) 内定祝い

サークルの後輩(女性)の内定祝いをやって来た。あぁ、こうやって年下の後輩達は、どんどん社会に羽ばたいて行くんだな。

某先輩(男性)の提案で、サンタクロースのコスプレ衣装をプレゼントする事に。あわよくば飲み屋で着て貰おう、という算段だ。最早その後輩を祝おうという意識が全く感じられないような気がするが、それに気付いたのは全てが終わった後だった。

で、その衣装を買う為、飲み会の前に池袋の東急ハンズへ。すると女性用のサンタクロース衣装は、相当な種類が用意されている事が発覚。しばし――いや、かなりどれにするか迷う。その売場の周りは、女性客かカップルが殆ど。冷たい視線を感じつつも、平然と無視。僕も変な方向へ成長したものだ。

迷った末、割とオーソドックスな衣装に決定。但し、その後輩は170cmを超えていて女性としては長身なのだが、敢えて買ったのはMサイズ。Lサイズも在ったけど、Mサイズ。(後で先輩に「どうしてSサイズにしなかったんだよ!」と怒られた。)

で、飲み会へ。サンタクロース衣装に着替えるのは余裕で拒否られた。当たり前か……。

二次会で『恋のしずく』という居酒屋へ。「和風で落ち着いた雰囲気の店だな」と思ったら、ドリンクメニューが凄かった。“恋人募焼酎”に始まり、“おかまの梅ちゃん”“恋のちちくりまんぼ”、果ては“萬珍珍”なる飲物まで……。やるな、恋のしずく。

結局、午後7時過ぎから飲み始め、午前4時半に解散。9時間ちょっと飲んでいたが、不思議と意識もハッキリしていて、楽しい飲み会だった。次はクリスマス辺りに、彼女が居ない男同士で飲もうかな。


ちなみに16日の日記で僕の素顔(?)を晒した訳だが、後輩から「あれで女性読者の何割かを失ったと思いますよ」と言われた。一方で、「比較的マトモに写っている写真でしたねぇ」と言って来る後輩も居た。お、お前ら……。


2004年12月19日(日) “スキルアップ”に対する考え方の違い

先月の日記で何度か話題にした、出来ちゃった結婚をした看護師である従姉妹の話だが、彼女は来年5月に出産した後、すぐにでも仕事に復帰したいと言っているそうだ。育児休暇が1年貰えるにも関わらず、である。これが彼女の親(つまり僕の叔母)から反発を受けているらしい。「せっかく1年間は働かなくても給料が貰えるのだから、そういう制度を利用しないなんて勿体無い」という訳だ。

看護師2年目の従姉妹としては、ようやく仕事にも慣れ、これからどんどん看護士としてのスキルをアップして行きたい、という事なのだろう。出産前には休まざるを得ないから、育児休暇もフルに利用すると、1年を超える年月を職場から離れる事になる。詳しくは知らないが、看護師暦2年目というのは新米みたいなものなんじゃないだろうか? そう考えると1年以上休む事に対する彼女の抵抗感は、非常に理解できる。

しかし、このような“スキルアップ”の考え方を出来ない人も居るのである。例えば叔母は一般企業などに就職する事無く、高校を出たらすぐに家庭に入った女性である。そのような人間には確かに、「育児休暇を利用しないなんて勿体無いだけ」と思えてしまうのかも知れない。僕の母もすぐに結婚したクチだが、やはり叔母に同調していた。(社会に出ていない人間全てがそうだ、と言っている訳ではない。そもそも僕自身が、まだ社会に出ていない。)

こうなると育児休暇というのは、従来の「取りたくても取れない」という“制度”の問題から離れ、「取りたくないのに取らされる」という(悪い意味で旧い)“人間関係”の問題になって来るのかも知れない。育児というのは、「子供を施設などに預けるのではなく、なるべく親自身が世話をしてやった方が良い」という考え方とも併合し、この問題はさらに複雑化しそうだ。

取り敢えず僕は事態の推移を静観するのみである。(というのも、僕は従姉妹の携帯電話の番号やメールアドレスを全く知らないので、気軽に連絡を取る事が出来ないのだ。)

以上より今日の結論。

育児休暇問題の根源は、“制度”から“人間関係”へ移行しつつ有る。“スキルアップ”に対する考え方の違いが、この問題を顕在化させている。


2004年12月18日(土) ジュンク堂新宿店

今年オープンしたジュンク堂新宿店に行って来た。『ジュンク堂』ではなく『淳久堂』と表記してあり、最初は気付かずに通り過ぎてしまった。伊勢丹の向かい、という事は覚えていたのだが、三越の中だったんだ……。

池袋店とは違いフロアが2つしかないが、その代わりに1フロアが広い。こっちの方が同じフロアで色々と探せるから便利だ。

特に買いたい本が有った訳ではないので、取り敢えず買物カゴを持ち、ちょっと気になった本を適当に入れていく。で、そのままレジへ。会計を見ながら、自分が思っていた以上に本をカゴに入れていた事実に気付く。19冊……?

〆て14000円。財布には15000円しか入っていなかった(これでも自分としては多い方だが)ので、かなり危ない所だった。今度からは、ちゃんと値段を計算しながら買おう。

ちなみに買った本のリストは↓。

以上のリストから分析できる事。

1、星新一が好き。(彼の文庫本はもうすぐコンプリート。)
2、ミステリーが好き。(まだまだマニアとは言えないけど。)
3、流石に数学にも興味が有る。(無かったら数学科としてマズイ。)
4、哲学が好き。(実はあんまり詳しくは無い。)
5、酒が好き。(医者に止められてるけど。)

実は星新一よりもミステリーよりもライトノベルの方が好きなのだが、どうも来年3月までは買いたいライトノベルが出なさそうなので、この期間に一気に他のジャンルの本を消化してしまおうと思っている。しかし、既に家には未読の本が30冊ほど残っており、これが50冊に増えてしまったので、消化し切れる自信が無い。


2004年12月17日(金) 最近のニュースで気になった事

【最近のニュースで気になった事1】

ホンダは15日、二足歩行型ロボット「ASIMO(アシモ)」が、歩いている途中に走り出すことができるようになった、と発表した。最高時速はまだ3キロだが、人間がジョギングするような動きをロボットで実現させたのは世界初という。   ――アサヒ・コムより

時速3キロって、そりゃ歩いてるんだろ――と思ったら、アシモの“歩行速度”は時速2.5キロだそうで。歩く速度と走る速度が殆ど変わらない訳か。

素人からすると、月に行けるロケットを作るよりは、走るロボットを作る方が遥かに簡単なように感じるのだが、現実にはそうでもないようだ。アポロ11号が月に降り立ったのが、今から35年以上も前の1969年7月。一方、ロボットが時速3キロで“走った”事がニュースになる、夢の21世紀……。


【最近のニュースで気になった事2】

自民、公明両党は14日、与党税制協議会を開き、国税の所得税と地方税の個人住民税の定率減税について、05年度に半減することで合意した。   ――アサヒ・コムより

「まだ景気回復しきっていない時期に減税を廃止するのは如何なものか」という主張は筋が通っているが、ニュース番組を見ていると、「この時期に増税するなんて何を考えてるんですかね」とコメントするキャスターが多過ぎる。これを“増税”と表現するのは不適切だと思う。

唖然としたのは、「減税が半分になるという事は、税金が半分増えるという事ですからね。これは家計に大きな打撃ですよね」という発言をしたコメンテーターが居た事だ。この人は税金が1.5倍になると本気で思ってるのだろうか?

例えば所得税は、これまで20%(25万円が上限)が減税されてきた訳なので、来年は減税率が10%になる訳だ。確かに減税額は20%→10%となるから半減だが、徴収される所得税は残りを考えると80%→90%になる訳で、1、125倍である。やはり“税金が半分増える”という表現は不適切だろう。

別に“増税”を促している訳ではない。勿論、消費税とか酒税とかを本当に“増税”する時には、「増税反対!」と謳って構わないと思う。ただ表現の不適切さが、気になって仕方無いんだよなぁ。数学をやってる影響かな。


2004年12月16日(木) 素顔を晒してみる

今まで僕は↓のような顔写真を公開して来た。



目線を隠しているのは、僕が他人に堂々と見せられるような顔をしてなかったからである。僕は自分の顔が嫌いなのだ。だから写真なども殆ど撮らない。考えてみると3年近く付き合った彼女とも、2人で写真を撮った事は一度も無かった。

自分で自分の顔を客観的に見る事に耐えられない。だから鏡を見るのとかも、好きな方ではない。しかし、顔写真でも載せると、親しみがわいてきて書き込みが増えるかもしれませんねという掲示板のアドバイスに従い、僕にとっては苦渋の決断であったが、取り敢えず目線隠しを外してみた。



……えーと、その、親しみ、湧いて来ましたか?

……………………。

ちなみに、この写真はステージマジックを演じている時のモノなので、メイクをしている。だから正確には、“素顔”とは呼べないかも知れないが、まぁ一部の女性のように、「メイクすると顔が別人のように変わる」(=「メイクを落とすと顔が別人のように変わる」)という事は無いので、これが僕の“素顔”という方向で。

しかしこの写真、見ると口が半開きである。今、初めて気付いた。うわ、何か馬鹿っぽい。近い内に他の写真へ切り替えたいが、僕がマトモに写ってる写真なんか、他に有ったかな……?


2004年12月15日(水) 保存料

保存料(食品添加物)の不使用は、必ずしも消費者にとってメリットばかりではない。

生菓子などの包みを開けると、「この製品には保存料を一切使用しておりませんので、開封後は当日中にお召し上がり下さい」というフレーズを目にする事が多い。

保存料(食品添加物)は、危険性が完全には分かっていない場合が有る。と言うか、「危険性が有る」事は証明できても、「危険性が無い」事を証明できる訳が無い。そういう意味では、常に「危険が有るかも知れない」保存料は、日常的な食生活で避けた方が無難なのだろう。

世界保健機構(WHO)と国連食料農業機構(FAO)の合同食品企画委員会残留農薬規格部会は、様々な動物実験の結果、食品添加物の“ADI”を設定している。

“ADI”とは、「人が生まれてから死ぬまで毎日その食品添加物を摂取し続けても、健康に害を与えないと考えられる重さの数値」の事である。通常は動物実験から「大丈夫だろう」と推察される数値を、さらに100分の1にした数値が“ADI”として採用されるらしい。念には念を入れている訳だ。

厚生労働省では昭和55年から『日本人一人当たりの食品添加物の一日摂取量実態調査』を行っており、これに拠れば、日本人の人工食品添加物の摂取量は、全ての物質に関して“ADI”の3%未満となっている。普通の人の30倍以上の保存料を摂取しない限りは、“ADI”の数値を超える事は無いのである。(ちなみに天然食品添加物の中には、摂取量が“ADI”を超えてしまっている物質も存在する。が、天然食品添加物は生鮮食品に元々から含まれている事が多く、あまり問題にはされないようだ。)

以上から「保存料の使用・不使用を気にするなんて無駄だ」と言うつもりは無い。さっきも書いたが、「危険性が無い事は証明できない」からだ。

しかし保存料を使用しない事は、確実にデメリットも産み出している。製品の保存期間を確実に短小化させるし、それは言い換えれば「製品が傷み易い」事も意味している。それに「開封後は当日中にお召し上がり下さい」というのは、何とも不便である。そこまで考えると、「保存料を使わない事は、一概に有益と言えるのかな?」とも思うのだった。

以上より今日の結論。

保存料(食品添加物)の不使用は、必ずしも消費者にとってメリットばかりではない。


2004年12月14日(火) “読者からの反応”の多寡

日記やエッセイを、サイト管理人から読者へ向けられた主張だと解すならば、掲示板やメールは、読者からサイト管理人へ向けられる主張となり得る手段である。この場合、テキストを読んでの感想とか反論とか補足とか、そういうモノを全て纏めて“主張”と言っている。簡単に言えば、“読者からの反応”である。

「“読者からの反応”が無くて寂しい」と書いているサイトは、結構よく見掛ける。しかし、そのような“読者からの反応”は、どれくらい有るのが普通なんだろうか。勿論サイトの規模によって“普通”の範囲も変わってくるだろうが、そこは今回は敢えて無視の方向で。

どうもブログ形式のサイトは、“読者からの反応”が多いように感じる。特定の記事毎にコメントを書ける事が、書き込みの気軽さを産み出しているのだろう。一方で、ココのような非ブログ形式テキストサイトは、“読者からの反応”が少ない傾向が有るようだ。「“読者からの反応”が無くて寂しい」と嘆いているのは、殆どが非ブログ形式サイトなのである。

僕も「“読者からの反応”が欲しいなぁ」と思って、掲示板を設置したりメールアドレスを公開したりしている。以前はメールフォームまで作っていたのだが、こちらは余りにも悪戯が多過ぎて止めてしまった。

僕の掲示板を見て分かるように、平均して1週間に1件(1スレッド)くらいの書き込みが有る。多いのか少ないのか――主観で判断させて貰うなら、どちらかと言えば少ない、という辺りだろうか。

メールに関しては、今年の2月からの約10ヶ月間で30通弱だった。1ヶ月で2,3通程度である。

関連リンク:「孤独なインターネット」『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々』

例えば上記のリンク先を見ると、アクセス数が平均500ぐらいの時は、毎日のようにメールが届き、返事を書いていたとある。僕のサイトの通常時のアクセス数も400〜500なので比較してみると、1割くらいしかメールを受け取っていない事になる。なるほど、僕のサイトは非ブログ形式テキストサイトの中でも、特に“読者からの反応”が少ないのかも知れない。

その原因として考えられるのは、やはりテキストの質だろう。『憂鬱な〜〜』は僕が唯一respectしているサイトであり、とにかく様々な面で敵わないと感じている。僕も精進しないと。

僕が事勿れ主義なのも、大きな要因かも知れない。僕は読者から反感を持たれるのを極度に恐れるので、結局は毒にも薬にもならない結論を書く事が多い。そんなテキストばかりだったら、読者の方々だって何か書こうとは思ってくれないだろう。

以上より今日の結論。

僕のサイトは“読者からの反応”が極度に少ないらしい。文章力の向上と鋭い結論を併せ持つ事が望まれる。

ちなみに読者の方が、自分のサイトで僕の日記の感想を述べてくれる事は多いので、それは大変に嬉しい。無理してメールとかを求めなくても良いのかも。ただやっぱり他サイトの管理人さんが、どれくらいの頻度でメールを貰っているのかは、ちょっと気になる。


2004年12月13日(月) 高校3年生の時の成績

机を整理していたら、高校3年生の時の通知票が出て来た。多分その内に捨ててしまうので、記念に成績を記録しておこうと思う。(それにしても「通知表」と書くのかと思ったら、「通知票」だった。意外。)

ちなみに僕の通っていた高校は、3年生だけ3学期の定期試験は無し。成績の付け方は、体育以外は「100点満点の試験の点数を10で割り、小数点以下を四捨五入する」というもので、要は0〜10の“11段階評価”である。評点が4以下だと“赤点”となり、年間平均で3つ以上の“赤点”が有ると留年である。また、評点が2以下の場合は“青点”と言い、年間平均では1つでも“青点”が有ると留年となってしまう規則だった。

さて、それを踏まえて、僕の成績だが――

× 第1学期 第2学期 年間平均
現代文
古文
漢文
数学α 10 10
数学β 10 10 10
物理 10 10 10
体育
英語1
英語2
平均点 7.1 8.1 7.8
席次/考査人員 29/50 26/50 27/50

1学期終了時点で、“青点”と“赤点”が1つずつという成績。このままだと留年である。特に古文の『』がヤバイ。この時の古文のクラス内平均点は9点近くて、こんな点数を取ったのは僕だけだったらしい。

古文の教師にも組主任にも呼び出された。怒られはしなかったが、本気で卒業を心配された。授業で配布された1枚のプリントを指して、「ここに書いてある事さえ覚えれば80点は取れるから」とか言われたが、「それが出来なかったから1学期は『』だったんですよ」と言いたかった。言えなかったけど。その後、2学期に必死で古文を勉強した成果が、通知票から容易に見て取れる。

そんなこんなで何とか無事に高校を卒業した訳だが、この時の僕には大学で何度も留年するなんて思いもしなかったのである。あーあ。来年で3回目か……。

しかし上の成績、どう見ても理系人間って感じだ。怠惰な理系高校生っぽくて良い。…………いや、良くはないか。


2004年12月12日(日) “善行”と“悪行”と“非悪行”

僕は「俺って割と良いヤツなんではないか」とか思ったりする事が有る反面、逆に「自分はとことん駄目なヤツなのかも知れない」と思う事も有ったりする。他の人はどうだろうか?

余程の悪人でもない限り、普段は“善行”とまでは言わずとも、少なくとも“悪行”は行っていない筈である。言わば“非悪行”で日常生活の大部分が成り立っており、そして時々は“善行”も行う。だからこそ「割と良いヤツ」という自画自賛的な捉え方をしたりする。

しかし全く“悪行”を行わない訳でもない。自分の不手際とか、気付かぬ内にとか、そういう不可抗力的な“悪行”を行ってしまう事も有るし、そして自分の中の悪魔みたいな存在が善からぬ事を僕に囁いて、それに従ってしまう事も全く無いとは言えない。

だから僕の日常生活の幾らかは、“悪行”でも成り立っているのは確かなのである。そしてそういう事をした時、或いはそれに気付いた時、「自分はとことん駄目なヤツなのかも知れない」と落ち込んでしまう。

でも聖人君子じゃないし、全く“悪行”から切り離された生活なんて、僕には出来ない。多分これは僕だけじゃなくて、多くの人も同様なんだと思う。

でも「“悪行”を行うのは自分だけではない。他人だってやっているし、自分が“悪行”に手を染める比率が、他人と比べて高い訳でもない。その“悪行”が決定的に悪い、という程(犯罪とか)の事をやっている訳でもない。だから気にする事は無いのだ」というポジティブな考え方は、僕には出来ないのである。いや、こうやってハッキリと言語化している以上は考えている事は確かなのだが、それを心の底から信じる事が出来ない。だって“悪行”は“悪行”だから。

この辺のモヤモヤとした気持ちに、どうやってケリを付けたら良いのかも、あまり分からない。自分の事を「割と良いヤツ」とか「とことん駄目なヤツ」とか交互に思っている訳で、何だか凄く不安定な地面に立っている感じである。

以上より今日のイイタイコト。

自分が「割と良いヤツ」なのか「とことん駄目なヤツ」なのか、自分でも分からずにモヤモヤとしている。こういう思考って、思春期の時に済ませておくものじゃないの? 23歳にもなって悩んでるのって、どうなんだ?


2004年12月11日(土) 彼女が居ないと

先日、後輩(男)と会話をしていたら、彼は「今年は彼女が居ないから、お金が貯まっちゃって」と言っていた。なるほど、この時期にそういう相手が居なければ、クリスマスプレゼントを買う必要も無いし、外食費とかも掛からない訳だ。確かに相当な金額が“浮く”事になる。

対して僕の場合、殆どお金が貯まっていないのである。独りになったらなったで、漫画・小説・CD・DVD・ゲームソフトの類いに、かなりのお金が消費される。寧ろ彼女が居ない方が、金が掛かっているかも知れない。独り身には独り身なりのメリットが有るハズなのだが、どうも僕はそれを活用しているとは言えないようだ。

(早いけど)以上より今日のイイタイコト。

僕の場合、彼女が居なくても結局お金は貯まらない。

どうして急にこんな事を書いたのかというと、理由が2つ有る。1つは某所で「kasa=ホモ」説が出たので、それを全力で否定したかったから。もう1つはJR田端駅で『週刊少年チャンピオン』の広告に、「別れた彼女にメールするなよ。どうせ次の彼女が見付からなくて寂しいだけだろ」とかいう、僕にグサッと来るフレーズが掲載されていたから。い、いや、“もう”してないですから!


2004年12月10日(金) 自分のテキストを読ませるスキル

テキストサイト作りは、「不特定多数に自分の文章を読ませる」技術を一から養成する為の手段である。

今日は昨日の続きです。

自分の人生を思い返してみると、「不特定多数に自分の文章を読ませる」という経験は、殆ど無かったように思う。「他人に自分の文章を読ませる」程度なら、小学校や中学校の読書感想文とか高校の卒業文集とか有った訳だが、それでも圧倒的に経験不足。

読書感想文は題目である本を読んでいる事が前提となっているし、何より読んでくれるのが先生しかいない。巧い人は表彰されて他の人の目にも触れたりするが、これは極一部の人だけだ。僕にそういう経験は無い。卒業文集ともなると内容は自由だったし、一応“読み手”としては同窓生の数百人とかが考えられる訳だが、これとて全員が読んでくれる訳でもないし、所詮は同じ学校に何年も通い続けたコミュニティである。内輪ネタが多くなるのは必然だ。

こうして考えてみると、日本の教育システムの中では「不特定多数に自分の文章を読ませる」という経験が“殆ど無かった”どころではなく、“全く無かった”のではないか、という気さえする。

そんな処へ突然、ホームページブームである。かなりの人が自分のサイトを持つようになり、大抵は“日記”や“DIARY”というコンテンツを含んでいる。僕を含め、殆どの人が「不特定多数に自分の文章を読ませる」という経験など皆無だったのに、何故かインターネットでは「不特定多数に自分の文章を読ませる」事を目的に掲げたりする訳だ。

だから僕達は、「不特定多数に自分の文章を読ませる」技術を、“不特定多数に自分の文章を読ませながら”養成している事になる。最初は数人から、そして数十人、数百人と読者を少しずつ増やしながら、自分の「不特定多数に自分の文章を読ませる」技術も少しずつ向上させていく。所謂“成功者”になると、1日で数万人の読者を抱えるまでになったりする。

僕はwebで日記を3年以上書いているが、現在では1日400人前後に自分のテキストを読まれる“技術”は身に付いたんだと思う。普段の400というアクセス数には驚かないからだ。しかしこれが1000を超えると少し焦り出し、一昨日のように1万近いアクセスとなると完全にパニック状態。僕の現在の“読ませるスキル”を完全に超えてしまっているからだ。

1万人という人数は、日本の人口の0.01%にも満たない。そう考えると、大した事の無い人数だ。しかしそれでも、まだまだ僕の「不特定多数に自分の文章を読ませる」技術では太刀打ち出来ないのである。

以上より結論。

学校教育で「不特定多数に自分の文章を読ませる」という技術は学べない。従ってテキストサイト作りは、そのようなスキルを一から養成する為の手段である。そのスキルを少しずつ高めていく事によって、自分にとって適切な読者数の上限を高める事が出来るようになる。


2004年12月9日(木) “2万人”という人数の大小

気付いている人も多いと思うが、ここ数日のアクセスカウンターの廻り方が凄い事になっている。12月3日の日記「コスプレ好きなブルガリア人」が、多くのニュースサイトに取り上げられた為だ。

こういう時こそアクセス数の推移をアクセス解析で見たいものだが、自分で設置したアクセス解析は、半日に1回のペースでログが壊れる始末。肝心な時に役に立たないなぁ……。

そこで『Read me!』のランキングを見てみたら、下の様になっていた。



12月2日の443というのが、ほぼ通常時のアクセス数。次の日から急上昇し、12月4日に6108という数値を記録する。これは今までの最高記録の2倍くらい。で、一度は収束に向かうと思われたが、12月7日に再び大手ニュースサイトにリンクを貼られた為、昨日の12月8日には9994までアクセス数が上昇した。1万の大台まで、あと僅かであった。ちょっと残念。

しかし、僕が書いた「コスプレ好きなブルガリア人」というテキストが、この数日間に単純計算で2万人以上に読まれた訳で、これはもう気の遠くなるような人数だ。このサイトを作ってから2年間でようやく10万ヒットに達したのに、それから1ヶ月も経たない内に15万ヒットである。やはりニュースサイトの力は凄い。そして、それを支えている日本人のコスプレ好きも凄い。さらには、その日本人以上にコスプレが好きなブルガリア人は、もっと凄い。(←しつこい。)

しかし冷静に考えて見れば、2万人というのは日本の人口の0.02%にも満たない数値である。そう考えると、2万人というのは大したものではないようにも感じる。では、どうして僕は2万人を「気の遠くなるような人数」と感じたのだろうか? 明日はこれについて考えてみたい。

――という訳で、今日の結論は無しです。ちなみに季節の関係で最近ちょっと朝更新が辛くなって来たので、更新する時間は不定期になるかも知れません。冬は朝早く起きるのが大変で……。少しでも長く布団に包まらせて下さい。


2004年12月8日(水) どうして出来ない?

昨日は夕方から家庭教師のバイトだったのだが、自宅で昼寝をしていたら寝坊。あぁ自己嫌悪。

で、昨日のバイトは生徒の家で指導するのではなく、家庭教師センターの本部で教える形式だった。僕の登録している家庭教師センターでは、本部で個人指導塾のような形式で教える事も出来るのである。昨日は大遅刻をしてしまったので、まずは只管に謝り指導開始。

そこで気付いたのだが、僕が教えているブースの隣から、頻繁に罵声が聞こえて来るのだ。「だから計算は後で良いと言ってるだろ! まずは式を書いて、それを説明しろ! なんでそんな事も出来ないんだ!?」という感じ。かなり声が大きく、正直言って、こっちも迷惑。

チラッと見ると、生徒は小学校4年生くらい。対して教師の方は4,50代くらい。教師の方はどう見ても学生のアルバイトではないから、“プロ”の家庭教師なのだろう。僕の2倍以上の時給を貰っている筈だ。

多分、そのプロ教師が言っている事は正しい。指導を事細かに盗み聞きしていた訳ではないが、まずは式を書かせて、それに至った思考過程を説明させる、という手法は僕も用いる。しかし問題は、その言い方だ。

そのプロ教師も、最初は穏やかに言っていたのだろうと思う。しかし何度言っても、生徒が最初に思い立った式で計算を始めてしまうのを見かねて、声を荒げたのだろう。しかし仮にそうだとしても、そこで声を荒げるべきではないと、僕は思う。

と言っても、教師は常に怒ってはいけない、と言うつもりも無い。例えば、生徒が課せられた宿題を特に理由も無くやって来なかった場合。これは怒るべき時だろう。仮に最初から宿題なぞやるつもりが無かったとしても、生徒の方も「宿題をやらなかった事自体は悪い」という自覚が有るだろうからだ。そこで多少は怒らないと、「あぁ、この先生は甘いな」と思われてしまい、その後の指導に悪影響が出る可能性が高い。

しかし、「どうして〜〜が出来ないんだ!」という言葉は、生徒には相当ツライものだと思う。特に小学生には、かなりの精神的プレッシャーではなかろうか。大人の立場からすれば1回や2回言えば充分だと思えるような事でも、それで何か悪い癖が抜けるなら子供だって苦労しないのだ。

「どうして逆上がりくらい出来ないんだ!?」というような言葉と同じで、子供からすれば「出来ないものは出来ない」のである。無論、それをどうにかして出来るようにするのが教師の役目だが、そこは教師の方も忍耐強くやって行かなければ、新たな“勉強嫌い”を生産してしまうだけのような気がする。

経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した国際的な学習到達度調査の結果が7日、世界同時に公表された。41カ国・地域の計約27万6000人の15歳を対象に、知識や技能の実生活への応用力をみるテストが行われた。
(中略)
テストにあわせて行ったアンケートの結果、数学について「授業が楽しみか」「内容に興味があるか」など関心を聞いた質問項目すべてで、日本の生徒は肯定的な答えがOECDの平均以下だった。「数学を日常生活にどう応用できるか考えている」と答えた生徒はわずか12.5%で、平均の53%にはるか及ばなかった。
   ――アサヒ・コムより

普通の子供は勉強なんか好きじゃない。しかし「嫌いでもない」レベルに持って行く事は、充分に可能だと思う。以上が今日の結論。

ちなみに上記の記事は、「学力低下論」日本の中学生の数学の学力は低下している訳ではないと結論付けた僕にとっては、非常に興味深い。もう少し詳しいデータが入ったら考察してみたい。


2004年12月7日(火) 日記に於ける制約とオリジナル性

関連リンク1:「ネタ切れ」『われ思ふ ゆえに……』

飲み会で早朝まで飲んでいたりすると、「今日も日記を朝に更新できるんですか?」と訊かれる事が有る。僕の場合、「今日の飲みはオールするかも」と予想される場合は、次の日の日記を書いてから飲み会に行く事が多いので、「大丈夫、大丈夫。もう書いてあるから。後はアップするだけ!」と返答する。大抵、笑われる。「そこまでしてるのか!」という笑いだろう。

でも実際、「そこまでしてる」のである。逆に言えば、そこまでしないと続かない。だって朝の5時とかまで飲んで、その日は二日酔いで大学をサボったりしてる訳で、そんな日に日記なんて、そうそう書けない。(だから「今日は二日酔いで……」的な言い訳をしてるのは、大抵はオールする“準備”をしていなかった日である。)

「そんなにしんどい思いしなくても、書くことがあるときにだけ書けばいいのに。所詮、趣味なんだから」と思う人もいるかもしれないが、趣味だからこそある程度の拘束が必要なのだ。プレッシャーや義務感がゼロの環境下ではかえってつづかないものである。だから、多くの人が毎日更新を自らに課しているのだろう。

以前、僕は『(笑)』などを含めない文章を書くという制約を課す事で、逆に日記を書き易くしていると書いたが、このように自らに制約を課す事は、決して無意味ではないのだろう。

関連リンク2:「ネタ」『われ思ふ ゆえに………』

僕の日記は出版物の引用こそ少ないが、webからの引用は非常に多い。メディアが変わっていないので、出版物の引用以上に劣化コピーになり易い。だから、やはり幾つかの制約を課している。

全てに「出来る限り」と入っているのが情けない限りだが、これ以上を望むと僕の能力を明らかに超えてしまう。

しかし、「何処までがコピーで、何処からがオリジナルなのだろう?」という疑問は常に付き纏う。自分の考察を入れたら即オリジナルです、という事にはならないだろう。書いた時には考察のつもりでも、後で読み返してみると「単なる感想だな」と思う事も多い。その辺の境界を判断する事は、非常に難しい。

それこそ書いている僕が著名人なら、第三者が「今日のkasaの日記は、〜〜のパクリだ」とか判断して、某巨大掲示板などで告発してくれたりするのだろうが、残念ながら僕は著名人じゃないので、基本的には自分で何とか判定していくしかないのだ。

以上より今日のイイタイコト。

日記に於いて制約を課す事は、やはり重要だ。しかし「何処までがコピーで、何処からがオリジナルなのか」は、基本的には自分自身で判断していくしかない。

今日の日記なんかも、「考察」なのか「単なる感想」なのか、自分で判断するのは難しいんだよなぁ……。


2004年12月6日(月) もっとコンビニは殺伐とするべき

自宅近くのコンビニ『スリーエフ』では、レジの処に「店員から挨拶が無い場合は代金は頂きません」という貼り紙がしてある。ファーストフード店やコンビニは、しばしば「対応が無機質的」と揶揄されるので、それへの対応という事だろう。

そのコンビニでは、確かに挨拶がある。店内に入る時には必ず「いらっしゃいませ」と言うし、会計の時も同様だ。

しかし、その言い方が如何にも「仕方無く言わされている」感じなのだ。声が極度に小さかったり、レジでは手元の商品を見ながら、一度も客に目線を合わせずに言う。

これなら寧ろ、挨拶なんかしなくても良いんじゃないか? “挨拶”という点に於いては、『マクドナルド』などのファーストフード店にも遥かに劣るレベルだ。挨拶無しの方が、適度に殺伐としていて良いと思う。

以上より今日のイイタイコト。

コンビニってのは、もっと殺伐としてるモンなんだよ。

でも、もしも挨拶が無かった場合、「店員が挨拶しなかったぞ。無料にしろよ」とか言える人って居るんだろうか? 僕は無理だなぁ。

近況1:ドラクエ8をクリア。総プレイ時間は75時間。ドラクエ6とドラクエ7は評判が悪かったが、今回は割と良い出来なのではないか。ちょっと物語に裏設定が多過ぎるような気はしたが、ゲームとしては申し分無し。最後の神鳥の台詞は、思わずニヤリ。今までのドラクエシリーズと少しずつリンクしているのは賛否両論だろうが、僕は好きだった。ドラクエ9は2010年くらいか? その頃には僕は30代目前だが、きっとまた睡眠時間を削ってプレイするんだろうな。で、その次のドラクエ10くらいで、堀井雄二さんは引退するんだろうな。それでもドラクエが続くとなれば、サザエさんやドラえもんの声優が交代する以上のインパクトに違いない。(ゲームファンにとっては。)

近況2:両親が10日間のイタリア旅行から帰って来た。「はい、お土産」と言って渡されたのは、何の変哲も無い普通のパン。…………ギャグなのか、とも思ったが、どうやら大真面目らしい。意図が分からん。別にお土産を期待していた訳ではなかったのに、妙に脱力した気分になったのは何故だろう?


2004年12月5日(日) ドラクエ三昧

今日は、ただの雑記です。

この1週間は正にドラクエ三昧の日々でした。1週間って、24×7=168時間しかないんですよ。それなのに、既にプレイ時間が70時間を超えているってのは、どういう事なんでしょうか。

しかも今は休み期間でもないし、この1週間は臨時のバイトが数件入ったりして、ただでさえ忙しかったハズな訳ですよ。あぁ、それなのに。1週間で70時間。1日平均10時間。

この時間は何処から捻出されたかと言うと、これはもう睡眠時間しかありません。1週間で3回しか寝てません。計15時間しか寝てません。何か、頭痛が。こういう人間が居るから、テレビゲームが社会の目の敵にされるんでしょうね。

後はネットの時間の削減ですよ。「でも普通に毎日更新してたじゃん」とか思われるかも知れませんが、この日記を書いている正にこの瞬間(12月5日午前6時50分)も、しっかり左手ではプレステ2のコントローラを握ってプレイしてます。いや、今日だけじゃなく、ここ数日の日記は全て右手だけで書いてます。(あぁ、言ってしまった!)

…………えーと。で、70時間もやってる割には、まだ終わってないんですよね。普通は40〜50時間程度で終わるそうですが。という訳で、僕のドラクエ三昧の日々は、もう少し続きそうです。何とか今日中には終わらせよう……。

以上より今日の決意

明日からは日記を両手で書こう。

追記:改めて読み返してみると、妙なテンションになってるような気がしないでもないですね。気の所為かな? うん、そうだ。そういう事にしておこう。


2004年12月4日(土) 半一人暮らし生活

僕は自宅から大学に通っているので、一人暮らしをした事が無い。しかし先週から両親は海外旅行に行き、フリーターである弟は殆ど自宅には帰って来ない為、現在は半一人暮らし生活を送っている。

こうなると家事は自分でやらなければならない。普段は、手伝いくらいしかしないのである。ところで家事と言えば、基本は「炊事」・「洗濯」・「掃除」だろう。これらを自分一人でやる事になる。

「炊事」はコンビニで弁当を買ったり、冷凍庫の中の冷凍食品を漁ったりして、何とか食べている。セブンイレブンの鶏鍋が美味しい。この1週間で3回も食べた。

「掃除」もした。最初は「10日間くらい、やらなくても平気だろう」とか思っていたのだが、自分の本棚の整理をしていたら、部屋が埃っぽくなってしまったので、仕方無く掃除機を掛けた。しかし一度始めると、これがなかなか止められなく、結局は家中の部屋全て(←と言っても、たかが知れてるが。)に掃除機を掛けてしまった。凝り性なのかも知れない。

問題は「洗濯」であった。洗濯機の使い方が分からない。そう言えば「洗濯」に関しては、干してある洗濯物を取り込む、くらいしかした事が無かった。いや、そもそも洗剤が何処に有るのかも分からない。

駄目だ。「洗濯」は諦めよう。今日で着るモノが無くなってしまうのだが、明日の夜に両親が帰国するので、明日(日曜日)は外出せずに、家に引き篭もっていれば良いのだ。…………何か自分が、「妻が居ないと、お茶も淹れられない」とか言ってる情けない中年男性と、同類な気がしてきた。

以上より今日の(自分への)結論。

せめて「洗濯」くらい出来るようにしておこう。


「ろじっくぱらだいす」で代打日記が採用されたり、昨日の日記「コスプレ好きなブルガリア人」が「裏探偵ファイル」(←18歳未満閲覧禁止らしいので注意)、「ゴルゴ31」「プリキュア様崇拝日記」など各所で取り上げられたりして、アクセス数が増加中。コスプレネタが、こんなにウケるとは……。やっぱり日本人もコスプレ好き、という事なのか?


2004年12月3日(金) コスプレ好きなブルガリア人

世界で最もコスプレ好きなのは、ブルガリア人である。

イギリスのコンドームメーカーであるDurex社の2004年の調査(41ヶ国、35万人が対象)に拠れば、「あなたがセックスをより楽しむ為に行っている事は何ですか?」というアンケートに対し、ブルガリア人の57%が「コスプレ」と回答した。

これは世界平均の15%を大きく上回る。オタク大国(?)の日本は14%で、世界平均と大して変わらない。「コスプレ」と回答したのが2番目に多かったイギリスでも27%を占めるに過ぎなく、ブルガリア人のコスプレ好きは断トツである。

ブルガリアが変わっているのは、それだけではない。同調査の「子供達に対して、誰が性教育を教えるべきか?」というアンケートでは、殆どの国で、「両親・保護者」又は「学校」と回答する割合が8割前後に達していた(日本は80%、世界平均は74%)が、ブルガリアでは13%に過ぎなかった。特に「学校」と答えたのは、僅か1%である。(日本は29%、世界平均は27%)

代わりにブルガリアで多くを占めたのが「雑誌・本・ウェブサイト」で、これが58%にも昇っている。日本では一般的に、雑誌やインターネットの性情報は信頼されていない。事実、日本で「雑誌・本・ウェブサイト」と回答したのは2%に留まっている。また、多くの他国も同様なのか、世界平均も6%だ。

この世界平均の6%という数値も怪しいもので、41ヶ国の調査なのに、「雑誌・本・ウェブサイト」と回答したのが6%を超えている国は、ブルガリアを含めても9ヶ国しかない。特に、10%を超えているのはインド(21%)とタイ(13%)だけだ。ブルガリアの58%という数値は、世界平均を2%近く押し上げているんじゃないか? 恐るべし、ブルガリア人。

以上より今日の結論。

世界で最もコスプレ好きなのは、ブルガリア人である。これは、性教育の適切な情報源として「雑誌・本・ウェブサイト」を挙げる人が異様に多い事と、何か関係が有るのかも知れない。


2004年12月2日(木) 殺人についての考察4(完結)

B:それでも僕は、他人を殺しません。

A:恐らく君は、「誰かを殺した処で、それによって自分が殺される確率の減少値など、極めて小さいに違いない。それだったら、自分の良心が痛む、というデメリットの方が大きい筈だ」とか考えているんじゃないのかな? しかし実の処、君のその決心なんてものは、どうでも良かったりするんだなぁ。重要なのは寧ろ、殺人が功利的な行動と“成り得る”――そう、“成り得る”という可能性なんだ。

B:どういう事でしょう?

A:君がどのように決心しようが、他人が同じように考えるとは限らない、って事さ。現在、地球上には60億もの人間が居るんだよ。60億人全員が君のように考えてくれたら、確かに殺人なんかは起こらないんだろうけどねぇ。しかし「他人を殺してはいけない」というルールが敷かれている現在でさえ、昨年は日本国内だけでも、1452件もの殺人事件が発生している。これで「他人を殺しても良い」となったら、一体どうなるかは目に見えてるじゃないか。

B:殺人事件の大量発生……。

A:その通り。まぁ「他人を殺しても良い」世界で、殺人を「事件」と呼べるかどうかは定かじゃないけどもね。

B:しかし、しかしですよ。確かに殺人は急増するでしょうが、それは一過性のものではありませんか? 確かに、内心で誰かを殺したがっている人間は、その人を殺すかも知れません。ですが、それで終わりでしょう? 僕には「人類全てが滅んでしまう」という処まで行き着くとは、とても思えないんですが。

A:一過性ね……それだけでも期待が甘いような気がするが……。それに実は、殺人が止まらない要因となるであろう事項が、一つ有るんだな。

B:殺人が止まらない……。その為には、殺人によるデメリットの減少か、メリットの増加が見込まれなければならないハズですが? 「他人を殺しても良い」世界に於いて、これ以上に殺人のデメリットが減少するとは考え難いですよね。となると、殺人のメリットが増加する、と?

A:そうだ。何故なら殺人が起こる度に、例えば君への危険度が増すからさ。

B:確かに世の中が殺人事件だらけになったら、僕に対する危険度は増すでしょうが……。――そうか! となると、僕が他人を殺す際の「その相手に殺される可能性が無くなる」というメリットが増大する訳か。

A:「人が他人を殺しても良い」世界――そんな悲しい世界では、時が経つと共に、殺人の功利性も加速度的に増していく事になる。この世界では、殺人の功利性は高くなりこそすれ、低くなる事は有り得ないからね。

B:即ち、「人が他人を殺しても良い」世界では、殺人は止まらない。寧ろ加速度的に増加する、と。

A:従って、その世界は「人類全てが滅んでしまう」、又は、極めてそれに近い状態になる事が予想される。拠って「人は他人を殺しても良い」という仮定――つまり、「『人が他人を殺してはいけない』が偽である」という仮定は、「人類全てが滅んでしまう」という矛盾を引き起こす。

B:背理法を用いれば、「人が他人を殺してはいけない」は真である、ですか……。

A:以上が、「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という問い掛けに対する、僕の回答だ。長かったけど、これで終わり。


2004年12月1日(水) 殺人についての考察3

B:なんだか随分と話が肥大化してしまった気がします。「人類全てが滅んでしまう」なんて……。

A:まぁね。しかし、これで背理法を行う準備が整ったぞ。「人が他人を殺してはいけない」が偽である、即ち、「人は他人を殺しても良い」を仮定して、「人類全てが滅んでしまう」という「矛盾」を導こう。

仮定:人は他人を殺しても良い。

B:最初に「『他人を殺しても良い』となったら、君はどうする?」と訊いてきたのは、この為だった訳ですね。

A:そう、やっと分かってくれたか。で、今までの事を踏まえて訊くけど、「他人を殺しても良い」となったら、君はどうする?

B:仮にそうなったとしても、僕は誰も殺さないと思いますよ。まぁ心情的に嫌いな人は居ますけど、殺したいという程の人は居ませんから。

A:ふむ……。しかし、どうして君は殺さないんだ? わざわざ背理法を使っておいてナンだけど、じゃあ例えば、君は確かに今の世界――「人が他人を殺してはいけない」世界で誰も殺してはいない。それは何故なんだろう? 筑紫哲也氏の番組に出演していた若者と、全く逆の問い掛けをしてみる事にしよう。即ち、「どうして君は他人を殺さないんですか?」と。

B:それは……デメリットばかりでメリットが無いからですよ。さっきも言ったように、僕には殺したいと思う人間が居ませんからメリットが有りません。それなのに誰かを殺してしまったら、逮捕されてしまうじゃないですか。これは明らかに僕にとってデメリットでしかない。

A:なるほど。実に合理的な説明だ。「殺人はメリットよりもデメリットが上回る。だから殺さない」と、こういう訳だね。となれば、「殺人のメリットがデメリットを上回る」という状況に置かれれば、君は誰かを殺すかも知れない訳だ。

B:え、と……うーん……確かにそうかも知れないです。でも、「他人を殺しても良い」という世界だって、デメリットは殆ど消えるかも知れないですけど、メリットが大きくなる訳じゃありませんよ。さっきも言いましたけど、特に殺したいという人間も居ませんしね。だから、殺人はしません。

A:それは果たして本当かな? 確実なメリットが一つ存在すると思うがね。

B:何ですか、それ?

A:君が、その相手に殺される可能性が無くなる。これは立派なメリットじゃないか?

B:……そういうものですか?

A:だって、もしも君が相手に殺されたら、それはとてつもなく大きなデメリットだろう?

B:そりゃ、そうですが。

A:大きなデメリットの可能性が消える――これは君にとってのメリットだ。だから、「他人を殺しても良い」世界では、殺人が功利的な行動と“成り得る”。


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