幾つか疑問が有ります。
午前1時:就寝。
午前5時:起床。いたストる。勝率80%以上をキープ。
午前8時:白金付近の高級住宅地に向かう。途中で『不思議の国のアリス』を読み終わる。「へー、こんな話だったんだぁ」――以上、感想は終了。
午前9時:バイト1件目。中学1年生に反比例を教える。
午前12時:バイト1件目終了。生徒宅で焼肉丼が出される。完食。
午後0時30分:埼玉県中部に向かう。途中で『11枚のとらんぷ』を読み終わる。「ランスがぁ!」――以上、感想は終了。
午後2時:バイト2件目。中学1年生に因数分解を教える。と言うかー、中学1年生の授業で因数定理とかパスカルの三角形とか複素数とか扱うのは勘弁して下さいよー。あとxの1億乗とか出して因数分解させるのも、どうかと。>開成の矢木先生
午後5時:バイト2件目終了。池袋へ向かう。
午後6時:池袋着。某書店でHな写真集を眺める。目の保養。漫画とライトノベルを購入。
午後7時:後輩4人(男女2人ずつ)と焼肉食べ放題。直前までHな写真集を見ていた事は秘密にする。今日は焼肉しか食べていない事に気付く。しかし気にせずに食べる。食べる。食べる。
午後9時:食べ終わる。解散。
午後10時:帰宅。体重計に乗って愕然とする。日記を書き始める。
午後11時:「今日は何て多忙だったんだ」と、独り悦に入る。実は試験勉強をしていない事には、気付かないフリをする。多分これから再びいたストる。
昨日から国立大学前期日程入学試験が始まったという事で、毎年恒例の東京大学理系数学の感想。問題と解答は代ゼミから無断拝借。
【第1問】やや易(代ゼミ:標準、河合:標準、駿台:やや易)
大学入試で3回以上の微分をさせるのは珍しい。2回微分までで、グラフの凹凸や変曲点などは全て求められるからだ。10年以上前に、やはり東大で3,4回微分させる問題が在った気がするが、今回はn回。さらに希少な類いである。しかし取り敢えずf(x)を2,3回程度微分してみると、数学的帰納法を用いれば良い事には容易に気付くので、(1)は非常に簡単。(2)はhnの置き方に戸惑ってしまうが、寧ろ漸化式のみに注目すれば、それ自体は基本的パターンのままで解き易い。「hnを用いてanとbnを求めよ」という設問なのに、bnにはhnを用いないのには疑問。一般項が出たにも拘らず、そこから進めなくなった受験生も居たのではないか?
【第2問】やや難(代ゼミ:やや難、河合:難、駿台:標準)
最初の文の意図が読み取りにくいのだが、後半で集合Tが分かり易く書かれてしまったので、難易度が下がっている。「すなわち〜〜」の文が無かったら、かなりの難問になっていたかも。ただ、それでも割と難しい。東大は複素数の問題が難しい傾向が強いように感じる。wとzの関係式を2次方程式と見て、zが指定された範囲内に解を持つ条件を考える訳だが、少し巧妙にやらないと進めなくなる可能性も。これを“標準”とする駿台は、90年代後半の東大入試を基準とした難度設定をしているのだろうか? 確かに1998年の「大学入試史上最強のセット」と呼ばれた問題群などと比較すれば寧ろ簡単な部類に入るが、21世紀に入ってからの流れを考えれば明らかに難問だろう。また複素数平面が高校課程から消えた世代が受験する来年か再来年に、このような出題が続くのかどうかは注目に値する。
【第3問】標準(代ゼミ:標準、河合:標準、駿台:やや易)
(1)は簡単。これは出来なければいけない。(2)は平均値の定理を利用するのが一般的なようだが、数列{Xn}は単調増加するから、上に有界である事を示せば、何らかの値に収束する。その値を1以外と仮定して背理法を利用すると簡単。……と思ったら、「上に有界な単調増加関数(数列)は収束する」というのは、ロピタルの定理のように大学受験では禁忌だった気もする。やはり平均値の定理か。
【第4問】易(代ゼミ:やや易、河合:標準、駿台:標準)
知識面でも思考力面でも、中学受験に出て来ておかしくない問題。文系はまだしも、理系でこのような出題をする意図が不明。aが奇数なのでa−1は偶数。従って10000の素因数の内、2はa−1が、5はaが全て受け持つ事になる。あとは2つの差が1である事に注目すれば、極めて限られた値しか取れない事になる。modで考えるのが最も簡単か。「全て求めよ」形式の問題なのに解は1つだけなので、第1問と同様に、解けたのに不安になった受験生が居たと思われる。文理共通問題だが、整数問題に慣れていない文系には、少し難しかったかも知れない。
【第5問】標準(代ゼミ:標準、河合:標準、駿台:標準)
「要はブラックジャックね」と理解してしまえると、かなり楽かも。そういう意味では多少アンフェアな出題かも知れないが、「勉強ばかりせずに、ちょっとは遊べ」という大学側のメッセージ……って、そんな事は無いか。しかしこのような“一般常識”が、問題の理解を助ける事は割とよく有る。東大ではないが、以前にプロ野球の試合の組合せの問題が出題され、「“セ・リーグ”って何ですか?」と質問した女子受験生が居た、という話を聞いた事が有る。さて、ルールがブラックジャックだと気付けば、後は地道な計算。(1)は極めて容易だが、(2)は大変。慎重に場合の数を考える必要が有る。これも第4問と同様に文理共通問題だが、文系には(2)は鬼門だっただろう。
【第6問】やや難(代ゼミ:やや難、河合:やや難、駿台:標準)
難しい上に計算も大変という、かなり厄介な問題。最後に配置されていたのが唯一の救いか。とにかく、どうやって積分まで持って行くかで一苦労。そこを越えても面倒な計算で、もう一苦労。昨年と同様、僕は図形問題が解けず。特に空間図形の問題は、自分が受験した年くらいしか解けた事が無い気が……。“難”と言いたい所だが、普通の受験生は図形問題には充分な準備をしているハズなので、“やや難”くらい。
【全体】標準(代ゼミ:標準、河合:標準、駿台:標準)
全体の難易度は昨年並。数学勝負でない受験生は、例年通り30〜40点が合格ラインだと思われる。【第1問】、【第3問】(1)、【第4問】、【第5問】(1)が約50点分なので、この中で如何に点数を集めていくかが鍵。理V(医学部)及び数学勝負の受験生は、【第5問】を完答し、【第2問】と【第6問】のどちらかを取りたい。70点が確保出来れば上出来。全体の難易度は昨年並でも、昨年よりは高得点が取り難いようになっていると思う。
関連リンク1:「あなたがデートに誘われて一番イイなと思う場所はどこですか?」(女性限定質問)
1位:水族館(139人)
2位:映画館(78人)
3位:遊園地・屋外(69人)
4位:レストラン(61人)
5位:海・港(46人)
6位:テーマパーク・屋内(43人)
7位:ショッピング(26人)
8位:公園・山(22人)
9位:観光名所(16人)
デートする相手との親密度にも拠るのだろうが、水族館が1位とは困った。と言うのも、僕は「水族館なんて行っても詰まんないよ」とか平気で言う人間だからだ。
しかしながら何人かに聞いてみると、確かに水族館は人気のようである。「ちょっとしたお出掛け気分が味わえる」「ペンギン可愛い」「マンタを下から眺めて和みたい」「鰯の大群とか丸々した鯖とか見て、“おいしそ〜”と思う」などの意見が。理由は異なれど、“水族館は楽しい”という共通認識は存在するようである。
関連リンク2:『日本の水族館』
思ったよりも、ずっと沢山の水族館が有る。水族館の殆どは海に面した地域に分布しているが、関東地方だけは内陸方面にも割と多いようだ。1度くらい行ってみるか。独りで。
僕が通う大学の保健センターの会計所には、「お釣りが不足していますので一万円札での支払いはご遠慮下さい」という文面の張り紙がしてある。他大学ではどうか知らないが、その保健センターでは料金が2桁にしかならない事も多い。風邪を引いて風邪薬を処方してもらったら、たった10円しか掛からなかったという話も聞く。「1割も負担してないんじゃないか?」と思ってしまう。
殆どの患者の料金が数十円、多くても精々数百円程度であるだろう事を考えると、「一万円札での支払いはご遠慮下さい」という注意書きは、容易に理解できる。ただ一方で僕は鬱病で精神科に通い、複数の坑鬱剤などを処方してもらっている訳だが、これは数百円というレベルには収まらない。大体2週間分で3500円くらいになる。仮に1割を負担していると仮定すると、実際には月に8万円近い医療費が掛かっている訳だ。これは学費の倍以上。とても自分のバイト代で支払い切れる額ではない。保険システム万歳。
――さて、昨日も保健センターに行って来た。料金は3300円ほどだった。財布を見ると、一万円札が数枚と、ニ千円札&千円札が1枚ずつ。小銭は100円ちょっとしかなかった。つまり料金を一万円札でしか支払えない状況だった訳だ。
先に書いたように、「一万円札での支払いはご遠慮下さい」という注意書きは、料金が千円にも満たない患者に向けられたものだろう。事実、今までにも僕は何度か一万円札で支払いをした事が有ったが、特に何も言われた事が無い。ところが昨日に限って、何とも不可思議な対応をされた。
会計所の綺麗なオネーサン:3300円になります。
僕:(財布を見て一万円札でしか支払えない事に気付いて)すいません、一万円からで。(一万円札を渡す。)
会計所の綺麗なオネーサン:一万円札での支払いは出来ない事になっているので、これで両替という事にして(――と言いながら、五千円札1枚と千円札5枚を差し出し)、そこから支払いをして下さい。
僕:(かなり戸惑いながら)あ、はい、分かりました。(受け取った内の千円札を4枚、再び渡す。)
会計所の綺麗なオネーサン:はい、700円のお釣りとなります。
かなり意味不明じゃないだろうか? これって最初から僕が一万円札で支払ったのと、何が違うんだ? 「ドリフターズのコントで似たような場面が有った気がする」と思ってしまう程、滑稽な遣り取りだった。
以上より今日のイイタイコト。
きっと大人の世界には、まだまだ子供な僕が想像も付かないような、深い事情が有るに違いない。
ちなみに会計所のオネーサンは、かなり綺麗である。(←くどい。)
『異次元美食空間 ザ・ロックアップ 池袋店』に行って来た。所謂“監獄居酒屋”というヤツである。僕は初めてだったのだが、色々な意味で“凄い”居酒屋であった。何がどのくらい凄いのかは筆舌に尽くし難いものがあるので、ここでは簡単に箇条書きで幾つか。
先日、「出会い系サイトのトラブルに於ける警察の対応」というテキストを書いたが、昨日は僕の携帯に以下のようなメールが来た。完全に詐欺メール以外の何物でもないので、送信元アドレスや記載されていた電話番号もそのまま公開する事にする。
【送信元】
mail-177.593.2781.30@ezweb.ne.jp
【件名】
未承諾勧告
【本文】
貴殿の携帯端末よりご利用されました会員制有料情報サイトの未納料金につきまして、電子契約法違反容疑の為、告訴、及び調査(警察の協力)依頼を出しています。(最終期限2/22)
至急下記管理窓口まで照会、ご相談下さい。
株)プロ・サポート
03-5919-0488
担当 桜井
ご連絡なき場合は、不本意ながら会員様の御自宅、勤務先への通知の上、法的措置を取らせて頂きますので、早急に和解される事をお勧めします。尚、この度ドメイン指定されている為auURLから送信させて頂きました。
まず件名。未承諾勧告って、何でも“未承諾”を付ければ良いってもんじゃないだろうが。ってか、“未承諾”な勧告って何なんだ一体?
一方、この度ドメイン指定されている為auURLから送信させて頂きましたというのは、芸が細かくて良い。(いや、良くはないか。)確かに僕はドメイン指定受信を設定しているが、これは一度パソコンからメールを送ったのに届かなかった等で本当にドメイン指定をしているのを知っていたのか、単にドコモユーザーの多くがドメイン指定をしているという予測の元で適当に書いただけなのか、どちらなのかが気になる。
まぁどちらにしても通常なら速攻で削除してしまう所なのだが、本文中に記載されていた株)プロ・サポートという会社名が気になり、ネットで検索してみた。すると実際に『株式会社プロサポート』は存在した。
しかしサイト内に書かれている東京支社の電話番号はメールに記載されている物と異なるし、この会社はサイト上で全社員を公開しているようなのだが、「桜井」なる社員は存在しない。
そこで念の為、代表取締役の方にメールを送ってみた。内容を簡単に説明すると、「貴社の名前で〜〜な内容の、明らかに詐欺行為のメールが来た。webサイトを見る限り貴社とは何の関係も無いと思われるが、もしも類似行為が多発していて法的措置を取る場合は、情報提供などで協力する」という感じ。
別に返事を期待していた訳ではなかったのだが、何と送信してから僅か30分後に返信が来た。やはり簡単に説明すると、「当該のメールは当社とは全く関係が無い。同様の行為が再発するようであれば、然るべき関係機関に届けた方が良い。当社としては今の段階では実害が無いので、法的処置は考えていない」という内容だった。
僕は万が一の場合(この会社が危険な存在だった場合)を考え、苗字と都内に住む男性である事しか明かさなかったのだが、それに対して実に迅速かつ誠実に対応してくれた。念の為にハッキリと言っておこう。
『株式会社プロサポート』は悪徳詐欺メール業者とは全く関係の無い、非常に健全な企業です!
しかし許せないのは、実在の会社名を語る悪徳詐欺メール業者である。メールに記載された電話番号に、公衆電話から電話を掛けて対決してみようか……。
若年層では頭を使うと痩せるが、高齢層では手遅れである。
2日間に渡り、「学力が高い人間は痩せている」「身長が高いと知能指数も高い」という主張を展開して来たが、読者の方から幾つか反響が有ったので、今日はそれを紹介する。
関連リンク:「過食症は遺伝子のせい――意志が弱いのではなかった」(『日経ヘルス』)
“メラノコルチン4レセプター”という遺伝子に異常が有ると、その人間は過食症になってしまい、結果として肥満になってしまう。リンク先のデータを見る限り、この遺伝子と肥満には強い相関性が有りそうである。過食症の所為で肥満になっている人は、本人の意志の強さが云々という問題ではない可能性が有る。(但し僕は過食症で肥満な訳ではないので、やはり体型管理の意志が弱いのだと思う。)
この場合、肥満と学力との関連性が説明が付かない。“メラノコルチン4レセプター”という遺伝子の異常が、脳などにも悪影響を及ぼすなら話は別だが、調べた限りでは脳などの器官への影響を示唆する記事は見付からなかった。
一方、次のような意見も頂いた。
学力が高いと痩せているのは私の学校の家庭科の先生も言っていました。なんでも脳はエネルギーをたくさん消費するから、頭を使ってる人は痩せているのだとか。
これで思い出したのだが、漫画『デスノート 第5巻』の76ページに、以下のような会話が有った。
L:それよりケーキ食べないんですか?
弥:甘い物は太るので控えてます。
L:甘い物を食べても頭を使えば太らないんですけどね。
弥:あっ! またミサをバカにして。
そこで脳について調べてみた。脳は人間の全臓器の中で最もエネルギーを消費する器官で、それ自身の重量は身体全体の2%程度であるにも関わらず、エネルギー消費量は身体全体の20%も占めるらしい。特に年齢が低い場合はその割合がさらに増大し、赤ん坊の場合は脳のエネルギー消費量が全体の50%にも達するという。
つまり、特に若い年代に於いては脳を如何に多く使うかが、体型と強く関係している訳だ。そう言えば僕は2日前に、「学力が高い人間は痩せている」の反例は非常に少ないと書いたが、高齢な学者の中には太った人も比較的よく見掛ける。これは年齢を重ねると幾ら脳を使っても、身体全体に占めるエネルギー消費量の割合が減少してしまうからではないか。
以上より今日の結論。
若い年代に於いてはエネルギー消費量の多くを脳が占めている為に、結果として頭を使う学力の高い層の体型は痩せる傾向に有る。これは高年齢者には、必ずしも当て嵌まらない。
手遅れになる前に頭を使っておかないとな……。
身長が高いと知能指数も高い。
昨日、学力が高い人間は痩せていると書いたが、これを間接的に裏付けるデータが見付かったので、紹介したい。
1973年のイギリスの調査では、母親が妊娠中に喫煙すると、生まれてくる子供の身長が低くなる傾向が有る事が判明した。妊娠中に全く喫煙しなかった母親の子供の11歳時の平均身長は144.6cmだったのに対し、1日1〜9本の煙草を吸っていた母親の子供の11歳時の平均身長は143.6cm、1日10本以上の煙草を吸っていた母親の子供の11歳時の平均身長は143.0cmだった。妊娠中の母親の喫煙機会が多い程、子供の身長が低くなっている事が分かる。
同様の調査は1984年にアメリカでも行われており、6〜11歳の児童(約9000人)を対象とした調査では、やはり母親が喫煙をする子供のグループの方が、母親が喫煙をしない子供のグループよりも、平均して1cmほど身長が低かった。妊婦の喫煙が子供の出生時の身長や体重に影響を与える事は広く知られているが、実は子供が成長した後まで影響を与えている事が分かった訳だ。
一方、再び1973年のイギリスでの調査に戻るが、この調査では母親の妊娠中の喫煙と、生まれて来た子供の11歳時の知能指数との間にも相関関係が有る事が判明している。妊娠中に全く喫煙しなかった母親の子供の11歳時の平均知能指数は102だったのに対し、1日1〜9本の煙草を吸っていた母親の子供の11歳時の平均知能指数は96、1日10本以上の煙草を吸っていた母親の子供の11歳時の平均知能指数は95だった。妊娠中の母親の喫煙機会が多い程、子供の知能指数が低くなっている事が分かる。
以上を纏めると、こうなる。
何年か前に僕の友人が、「学力が高い人間は痩せている」という持論を展開した事が有る。
その友人や僕が通う大学の学生は、一般的に学力が高いと言われている。大学入学時にクラス内でセンター試験の成績を比較した事が有ったのだが、9割以上の人間が800点満点中700点以上だった。センター試験は得点率60%が平均だから、単純に試験の成績を“学力”と呼ぶのであれば、確かに彼らの学力は高いと言える。(ちなみに僕はクラスで断トツの最下位だった。点数は言えない。)
さて、そういう環境の中に居ると、確かに太った人間を殆ど見掛けないのである。寧ろ痩せ過ぎな人間が非常に多い。“デブ”と呼ばれそうな体型の人は見掛けた記憶すら無いし、“小太り”と言える程度の人間も殆ど居ない。この大学の中で“太っている”というカテゴリに分類される僕は、極めて異色な存在なのである。全く嬉しくないが。
この現象に対して友人は、「体型管理も出来ない意志の弱い人間は、学問に於いても真面目に取り組めないのではないか?」という仮説を立てていた。これは明確なデータこそ無いが、それなりに説得力を持った仮説だと思う。ここで「体型管理が出来ない」=「太っている」、「学問に於いて真面目に取り組めない」=「学力が低い」と読み直すと、「太っている人間は学力が低い」という結論が導かれる。
こうなると全国の太った人達からは苦情が来るかも知れないが、あくまでも傾向の話として聞いて頂きたい。第一この文章を書いている本人も太っているのである。憤慨したいのは、僕も同じだ。しかし先に書いたように、僕は大学内で最低レベルの成績だった上に留年もしており、自分自身を反例として示す事が出来ない。極めて悔しい。
さて、「太っている人間は学力が低い」の対偶を取ってみると、「学力が高い人間は痩せている」となる。(正確には「学力が低くない人間は太っていない」だが、まぁその辺はスルーの方向で。)
ここで気を付けたいのは、あくまでも「学力が高い人間は痩せている」のであって、「痩せている人間は学力が高い」ではない、という事だ。そして少し考えて欲しい。自分の身の回りで「痩せている人間は学力が高い」の反例ならば数多く見付かるが、「学力が高い人間は痩せている」の反例は非常に少ないのではないだろうか。
以上より今日の結論。
体型管理も出来ない意志の弱い人間は、学問に於いても真面目に取り組めない可能性が有る。従って「学力が高い人間は痩せている」という傾向が浮かび上がって来る。
“サイト論”は、ショートショートの悪魔モノに似ている。
最近の僕の日記は、“サイト論”の割合が多い気がする。今日は“サイト論”に関して書くので、『“サイト論”論』という事になる。
日本を代表するショートショート作家である星新一は、自身を選者とした素人対象の『星新一ショートショートコンテスト』を定期的に開催していたが、1982年度のコンテストに於いて次のように書いている。
このところショートショートに悪魔との取引きを扱ったものが、いやに多い。今回の応募のなかにも、何作もあった。ということは、それだけ競争がきびしいことになる。よほどひねらなければならず、ひねりすぎも困る。
「自分でも書いているくせに」と言われるかもしれないが、日本で書きはじめたのは私であり、数にして全作品の一パーセント以下のはずである。悪魔物は既成作家が、案に困ってどうしようもない時に使う手段ではなかろうか。
ショートショートの悪魔モノは、素人にも書き易いジャンルである。「何かのキッカケで悪魔が出現し、願い事を1個〜3個くらい叶えてくれる。しかし願いそのものは叶うが、主人公はその利益以上の不利益を被るという、皮肉な結末となる」というように、ストーリーの骨組みが決まっているからだ。
勿論、上記の形式に当て嵌まらない悪魔モノも、数多く存在する。が、素人が書くショートショートは型に嵌まったストーリーが多いだろうし、星新一が批判したのは、そのような形式に縛られた悪魔モノの事だろう。
要は、ショートショートに於いて悪魔モノは安易なのだ。それなりのオチを考えるのは難しくなく、そして取り敢えずオチさえ有れば、ショートショートとして格好も付く。だから沢山の人が書いている。
しかし悪魔モノは、それまでに誰も考えた事の無いようなストーリーを組み上げられる事が少なく、既存作品の単なる模倣に成り易い。そういう意味で悪魔モノは、そんなに頻繁に書けるモノではないし、書くべきでもない。
テキストサイトに於ける“サイト論”も、これに近い構造を持っている気がする。“サイト論”というのは様々なサイトで、今までに無数に書かれて来た。僕が書いた“サイト論”の中に他サイトを模倣したテキストは存在しないハズだが、それは僕の勝手な意識の中だけの話であり、期せずして模倣となってしまっている可能性は充分に有る。
もっと言えば、このような“サイト論”に関して語った『“サイト論”論』も、何処かのサイトの模倣となっている可能性は充分に有る。“サイト論”同様、『“サイト論”論』も数多く書かれているからだ。
ただ、だからと言って“サイト論”を書くのを躊躇う必要が有るか否かは、微妙な問題だと思う。所謂“パクリ”は絶対にマズイが、ホームページというのは基本的に趣味のレベルだし、結果的に模倣となってしまうくらいは許されて良いのではないか。あまりストイックに考え過ぎると、何も書けなくなってしまう。
以上より今日の結論。
“サイト論”は期せずして他者の模倣に成り易いという点に於いて、ショートショートの悪魔モノに似ている。この『“サイト論”論』も同様だ。しかし結果的に模倣となってしまうくらいは、許されて然るべきだと思う。
「それで良いのか?」と思う事。
大阪府寝屋川市の市立中央小学校で14日、刃物を持ち教職員3人を次々と刺した17歳の少年は寝屋川市立中央小の卒業生だった。「テレビゲームが好きで、おとなしい感じの子」と知る人たちは口をそろえた。最近は人付き合いは少なかったという。
ある小中学校の同級生は、小学校高学年のころ、少年の自宅1階にある3畳ほどの自室はフローリングの床いっぱいにゲームソフトが積み重なっていたのを覚えている。「(たくさん買ってもらい)親からかわいがられているんだ」と感じた。
様々な種類のゲーム機器があり、仲のいい友人たちがゲームをしによく集まった。少年は格闘技ものが好きで「きのうは夜通しゲームをしていた」と話すことがあった。一方で学校を休むことも多かったという。
小学校の卒業文集で少年は「夢」と題し、テレビゲーム情報誌の編集部員かゲームのデザイナーになりたいと記した。「尊敬する人がゲーム業界に、かなりいるし自分がゲームを好きなので」。高校卒業後は東京に住んでゲーム関係の専門学校へ行きたいと具体名を挙げた。さらに名前を列挙してゲーム制作会社に就職したいとしていた。 ――アサヒ・コムより
報道関係メディアというのは“ゲーム嫌い”が多いが、朝日新聞は特にゲームを嫌悪していると思う。上の記事、何と10回も「ゲーム」という単語が出て来ている。最早、何らかの意識を刷り込もうとしているのではないか、と疑ってしまう程だ。
もう何年も前の話だが、朝日新聞が『ファイナルファンタジーZ』や『ゼルダの伝説 時のオカリナ』などのゲームソフトを、紙面1ページ丸ごと使って批判(“批評の広場”というコーナーだったのに、“批評”ではなく“批判”ばかりだった。)していたのを見た事が有る。当時、中学生か高校生だった僕が見ても、「なんでこんな必死になってるんだろう?」と思った記憶が有る。1000万近い発行部数を誇る巨大メディアが、特定のゲームソフトに対して、「音楽が暗過ぎる」とか「主人公の口調が途中で変化する必然性が無い」とか、そういう低レベルの批判を、複数の(自称)文化人を介して行っていたのである。
一方で『ゼルダの伝説 時のオカリナ』は1999年に文化庁メディア芸術祭のデジタルアート部門で大賞を受賞しているし、『ファイナルファンタジーZ』は発売当初こそユーザーからの評価が低かったものの、最近では続編である『ファイナルファンタジーZ アドベントチルドレン』が未完成であるにも関わらずヴェネチア国際映画祭に特別招待されるなど、評価が急速に高まって来ている。(但し『ファイナルファンタジーZ』の再評価は、次作の『ファイナルファンタジー[』の出来が余りにも悪かった、という要素が大きかった可能性が高い。)
現在ゲームはマスメディアの槍玉に挙げられる一方、芸術の世界では評価の対象となりつつある。この乖離は一体どうした事だろうか。思うに、これはゲームが持つ二面性に拠る部分が大きいのではないか。
今回の事件について、ゲームが悪者である可能性は充分に考えられる。一方でそれを論じるならば、ゲームが有ったからこそ事件への衝動を今まで押し留めていた、という可能性も考慮に入れて議論する必要が有るだろう。
世の中のゲームについての議論を見ていると、「ゲームは悪だ」か「いや、ゲームは非悪だ」(「ゲームは悪だ」の単純な否定)という二項対立しか成り立っていなく、純粋にゲームのメリットとデメリットの2つを比較・相対化させた思考をする人が少ないように感じる。
ゲームは悪かも知れないし善かも知れないのだ。なのに「ゲームは悪だ」又は「ゲームは善だ」のどちらかしか主張しないのであれば、両者の立場は平行線を保ったまま終わらない気がする。
以上より今日のイイタイコト。
ゲームの善悪は、一概に決定できる段階には無い。それ故、「ゲームは悪だ」や「ゲームは善だ」という一義的な主張は、意味を為さない。
2月も半分が過ぎたのに、今月の携帯電話通話料が13円にしかなっていない、という事実に気付きました。安っ!
そこでちょっと気になったので、携帯電話の発信履歴を調べてみました。
【1件目】
日時:2005年2月3日22時4分
相手:留守番電話サービス
【2件目】
日時:2005年1月18日12時52分
相手:家庭教師センター本部
【3件目】
日時:2005年1月15日17時45分
相手:自宅
【4件目】
日時:2005年1月13日11時44分
相手:家庭教師の生徒宅
【5件目】
日時:2004年12月24日21時54分
相手:サークルの後輩(男)
……………………。確かに去年のクリスマスイヴは男達だけで過ごしましたが、何か?
まぁツッコミ所は、そこだけじゃない訳ですが。
ついつい試験勉強中に考えてしまう余計な事その2。
「あ、今日ってバレンタインデーじゃん」
「バレンタインデーの翌日に試験だなんて、大学側の横暴だ」
「まぁ試験が有ろうと無かろうと、貰えるチョコの個数の期待値は変化しない訳だが」
「普通はどれくらいチョコ貰えるんだろう。僕は今までの人生で平均すると、1年に1個にも満たない」
「初めてチョコを貰ったのは、高校1年生の時だった気がする。遅くない?」
「まぁ日本人はチョコの消費量が少ないからな」(下の関連リンク参照。)
「そもそも日本人男性の11.8%は、本命チョコを貰いたくないと思っているからな。きっと僕もそのグループだと思われてるに違いない」(下の関連リンク参照。)
「ってか、昔は2月11日がバレンタインデーだと思ってた。素で」
関連リンク:「チョコレート考」
ついつい試験勉強中に考えてしまう余計な事。
「もう試験が終わったヤツは良いなぁ」
「あと○○時間で自由の身だ」(ちなみに最後の試験終了まで、あと500時間くらい。果てしなく長ぇ……。)
「試験が終わったら飲みに行きたい」
「寧ろ今すぐに飲みたい」(いや飲まないけど。)
「そもそもコーシーが頑張り過ぎなんだよな」(コーシーという数学者が残した定理は非常に多い。多過ぎ。そして難しい。)
「10個の定理を覚えると、10個の定理を忘れて行く気がする」
「なんでこんな事、10分で理解出来なかったんだろう?」(5時間くらい掛けて理解した後に。)
「この定理の証明には、致命的な欠陥が有る。僕が理解出来ない」
「今日の日記どうしようか。いいや、さっき考えてた事を日記にしちゃえ」
【試験1ヶ月前】
まだまだ時間が有るので、やたらと基本からやり直そうとする。基本から理解する事は重要だが、その所為で膨大な分量をやろうとしてしまう。1科目当たり、3冊くらい。
【試験2週間前】
当初の計画の無謀さに気付く。余りの先の長さに、現実逃避気味になる。
【試験1週間前】
「1日10時間勉強すれば、残り70時間も有るじゃないか」とか考え始める。実は70時間じゃ終わらない事には、気付かないフリをする。しかも1日10時間も勉強しない。
【試験数日前】(←現在)
「1日は24時間も有る。6時間寝て2時間を生活の為の時間と考えれば、1日16時間も勉強できるじゃないか」とか考え始める。それでも実は終わらない事には、気付かないフリをする。しかも1日16時間も勉強する訳が無い。
【試験前日】(←予定)
「要点だけ理解すりゃ良いんだよ」と、ギリギリになって路線変更。しかし要点だけも理解し切れない事には、気付かないフリをする。
【試験当日】
後悔する。(←確定的)
“オナニー”という語句が示すべき行為は、「自慰」ではなく「膣外射精」だった。
古代社会に於いて、“レビレート婚”という制度が有った。“レビレート婚”とは、夫婦に子供が生まれる前に夫が亡くなってしまった場合、その亡くなった夫の兄弟が、未亡人である妻を娶って子作りをしなければならない、という制度である。亡くなった夫に兄弟が居なければ、なるべく近親の親戚の男が選ばれる。“レビレート婚”の目的は「血を絶やさない事」だったから、新しい夫が近親者から選ばれるのは必然とは言え、想像してみると物凄いシステムである。
この“レビレート婚”はイスラエル民族などが実際に行っていたが、旧約聖書の中にも“レビレート婚”をした人物が登場する。その中の一人が、“オナニー”の語源となったとされるオナンだ。オナンはユダの次男で、ユダの長男はエルと言う。このエルはタマルという女性と結婚したが、エルは子供を残さずに亡くなってしまった。さぁここで“レビレート婚”の登場である。エルの弟であるオナンは、タマルに子供を生ませる事が義務となったのだ。
ところが“レビレート婚”の厄介な処は、例えオナンとタマルとの間に子供が生まれたとしても、その子供は「エルとタマルとの子供」とされてしまう事だった。遺伝子的には父親なのに、戸籍には父として名前が記載されないようなものである。この辺りは気にしない人も居るかも知れないが、オナンは気にする人だった。わざわざ自分の精子で兄の子供を生ませるくらいなら、精子を無駄に消費した方が良いと考えたらしい。
旧約聖書『創世紀』の第38章には、オナンが「子種を地面に流した」という記述が存在する。これが「オナンが“オナニー”の語源である」と言われる所以である。
ところで“オナニー”は一般的には「自慰」を意味するが、ではオナンは「自慰」を行う事で「子種を地面に流した」のだろうか? 作家の阿刀田高は著書『旧約聖書を知っていますか』の中で、オナンが行ったのは「自慰」ではなく「膣外射精」だったのではないか、と語っている。
確かにオナンが兄の為に子作りするのが嫌だったからと言って、そこで「自慰」を行う理由は何も無い。そもそもタマルが黙っていないだろう。きっと「規則に従って私と交わってよ」とか言って、オナンに性交を迫ったに違いない。となるとオナンが本当にすべきなのは、タマルを騙す事だったと考えられる。
子作りを迫って来る女性を騙すには、これは最早「膣外射精」しか考えられない。膣中に精液を出したフリをして、実際には絶妙なタイミングで男性器を女性器から抜き、「子種を地面に流した」のである。
つまりオナンは、「自慰」など行っていない可能性が高い。“レビレート婚”に於いて、この行為は無意味である。恐らくは巧妙に「膣外射精」をする事で、タマルを騙したのだ。となれば“オナニー”の語源がオナンである以上、「オナニー=自慰」という見方は誤っていると言える。本来ならば、「オナニー=膣外射精」だったのだ。
以上より今日の結論。
“オナニー”という語句が示すべき行為は、「自慰」ではなく「膣外射精」だった。これは“オナニー”の語源となったオナンが、“レビレート婚”に対して否定的な態度を取った事が原因である。
いよいよ冬期試験の前半戦が近付いて来た為、日記は出来る限り手を抜きたいと思います。来週木曜日くらいまで。その間、「いつも以上に日記に力が入ってるじゃないか」と思われたら、それは逃避エネルギーが働いたんだと解釈して下さい。
昨日は急に散文詩なんて載せたので、「あれ?」と思った方も居るかも知れません。まぁ、たまには詩でも書きたくなりますよ。って、詩なんて書いたのは小学生以来でしたが。余りにも僕のキャラに合わない所為か、僕を知っている人の中には「実は暗号文にでもなってるんじゃないか?」とか考えた人も居るようです。暗号とか入ってませんから! あと「リセットボタンじゃなくてもソフトリセットが有るじゃん」とか、そういう細かいツッコミも禁止ですから!
―ーさて、本題。
上智大は9日、今月6日、7日、8日にそれぞれ行われた文学部や外国語学部などの入学試験で、国語、世界史の問題に出題ミスが判明した、と発表した。当該科目を受験したのは延べ5523人。同大は受験者全員の回答を正解とした。合否判定には受験科目の選択によって不公平が生じないよう、偏差値法を採用しているため、今回の出題ミスによって有利不利は生じないとしている。 ――アサヒ・コムより
これですね、3日連続出題ミスとか既に恥ずかしいですけどね、まぁそれは置いといて気になったのは、合否判定には受験科目の選択によって不公平が生じないよう、偏差値法を採用しているため、今回の出題ミスによって有利不利は生じないとしているってトコですよ。
「偏差値法」ってのは、「各受験者の偏差値を算出して、その順位で合否を決める」という事だと思うのですが、どうして有利不利は生じないんですかね。
そもそも偏差値自体、ある意味ではデフォルトで不公平を含んでるハズなんですが。例えば100点満点の試験で、受験者全体の平均点が60点で、A君が80点を取ったとする。その時のA君の成績は、1000人中100位だったとしましょう。でも、それだけの情報ではA君の偏差値ってのは確定しない訳なんですよね。具体的に言えば、平均点付近の点数を取っている受験生が多ければA君の偏差値は上がりますし、逆に平均点付近の点数を取っている受験生が少なければA君の偏差値は下がります。偏差値ってのは点数順位などと同様に、他の受験生の学力次第で変動する数値な訳です。(そういう意味では、偏差値のみが不公平を含んでいる訳ではありません。)
しかも「偏差値法」とは、受験科目ごとの受験生の学力に左右される指標を用いてるんですから、寧ろ受験科目の選択によって不公平が大きくなる可能性を含んでいる訳です。では、どのような場合に「偏差値法」で不公平が小さくなるのかと言えば、それは選択科目間の難易度が一定していない場合です。そうでなければ、「偏差値法」は絶対に不公平が大きくなる判定法なハズです。
これは上智大学が選択科目間の難易度を一定にして出題させる能力を持ち合わせていない事を自ら表明しているようなもので、もしかしたら出題ミスよりも、もっと恥ずかしい事かも知れません。
もう一つ言えば、出題ミスに関しても「偏差値法」だから不公平は生じない、とか上智大学は主張しているようですが、何処をどう考えたらそういう結論を導けるのかがさっぱり分かりません。選択科目ごとに偏差値を算出するならば、出題ミスした問題を全員正解にする事で平均点が上昇し、その科目の受験生の偏差値は寧ろ下がる可能性が有るじゃないですか。そしたら他の科目の受験生に対して、益々不利になると思うのですが。
以上より今日のイイタイコト。
「偏差値法」では受験科目の選択によって不公平が生じるし、出題ミスによって有利不利の較差は寧ろ大きくなる可能性が有る。
最初に「手を抜く」とか書いたのに、今日の日記、長いし……。
現実は思ったよりも優しくて 思ったよりも複雑で 思ったよりも隠れてて
でも僕は真実を知りたくて たまには勇気を振り絞り たまには身を潜めてる
不安だというのは言い訳で それは単なる自分の弱さで 時には狡猾な強さだったり
必ずしも正解は無く でも選択を迫られる そんな時の涙は不本意で
諦めるのは簡単でも それを未練が阻んでも 待っているのは未知の世界
リセットボタンが見付からなくても やり直しは不可能じゃないでしょ そんな淡い期待に期待して
無為の昼が過ぎて行き 悲しい夜が過ぎて行き 新たな朝を迎えてる
完全な真円運動じゃなく 歪な螺旋階段を描きたいんだ 昨日とは微分係数の異なる今日が欲しい
僕は“年号の語呂合わせ”というヤツが好きではない。「良い国(1192)作ろう鎌倉幕府」などの事だ。「普通に年号を覚えた方が早いじゃん」とか、「言葉から数字に置き換える時、誤変換の可能性が有るだろ」とか思ってしまうのだ。言葉遊び自体は非常に好きなのだが。
しかし年号ではないが、それに似たような語呂合わせを見て、不覚にも「これは美しい」と思ってしまった。
May I tell a story purposing to render clear the ratio circular perimeter breadth, revealing one of the problems most famous in modern days, and the greatest man of science anciently known. ――『無限論の教室』(野矢茂樹著)96頁より
これを日本語に訳すと、「円周と直径の比を明らかにする話をさせて下さい。それは今日もっともよく知られた問題のひとつで、古代のもっとも偉大な科学者には知られていたものです」となる。“円周と直径の比”というのは、円周率の事だ。
そう、この英文は“円周率を覚える為の語呂合わせ”なのである。どうやって円周率に変換するのかと言うと、例えば最初の単語『May』は3文字のアルファベットから出来ている。次の『I』は1文字、さらに次の『tell』は4文字……。もう気付かれた読者の方も多いと思うが、単語毎の文字数を数字に変換して行くと、円周率になる訳である。
これを使えば円周率を、3.1415926535897932384626433832795と、小数点以下第31位まで求める事が出来る。この語呂合わせの素晴らしい所は、文字数を数値に変換する為に、誤変換の可能性が全く無い事だ。しかも小数点以下第31位まで。スゴイ。
……まぁこれだと「英文を覚えるのが大変じゃん」という問題は、全く解決されていない訳だが。
ちなみに日本語の“円周率を覚える為の語呂合わせ”としては、「産医師異国に向かう。産後厄なく、産婦みやしろに、虫散々闇に鳴く」という、小数点以下第30位まで覚えられる文章が有る。英語と日本語、どっちも覚え難い事に変わりは無い。
目立ったオリジナリティが無いニュースサイトでも無意味ではない。
ネタ元は忘れてしまったが、以前に何処かで「最近はオリジナリティの無いニュースサイトが多過ぎる。無意味だ」という趣旨のテキストを読んだ。「他のサイトで扱っている記事ばかりを羅列しているニュースサイトに価値は無い」というのだ。
確かに現在のネットには、個人ニュースサイトが溢れ返っている。中には「そのニュースサイトでしか取り扱っていない記事」が全く無いニュースサイトも、数多く存在している事だろう。しかしだからと言って、そのようなニュースサイトに価値が無い訳ではないと思う。
例えば『カトゆー家断絶』は、1日3万ヒット以上の超大手ニュースサイトだ。人気の理由の一つには、「膨大な数の記事を1日2回のペースで紹介する」というオリジナリティが有る事が挙げられるだろう。
しかし『カトゆー家断絶』の、あの膨大な量の記事を全て読んでいる人は、一体どれくらい居るだろうか? 定期的読者数を3万人と仮定すると、恐らく1000人は超えないだろう。殆どの読者は見出しだけを眺め、気になった記事だけリンク先に飛ぶようにしているに違いない。僕もそのような一人である。
これは『カトゆー家断絶』に限った話ではない。『カトゆー家断絶』ほど多くの記事を扱っていなくても、そのニュースサイトのリンク全てに目を通す読者は少ない筈だ。
一方で、複数のニュースサイトをチェックしている人は多いと思う。僕は5〜10箇所くらいのニュースサイトを巡回している。それで気付くのだが、例えば或るニュースサイトでリンクを貼られたAという記事が有って、その時は見出しを見ても興味が湧かなかったのでリンク先には飛ばなかったが、別のニュースサイトでも同じAという記事が取り上げられていたりして、その時には「ほう、両方のニュースサイトの管理人さんが注目している記事なのか。じゃあちょっと読んでみようか」と思ってリンク先に飛ぶ事が、しばしば有る。で、その記事が割と面白かったり興味深かったりするのだ。
一種の数の魔力だが、こうした面は多くの人が持っているのではないか。だから他のニュースサイトで扱っている記事を扱う事は決して無意味ではないし、従って「そのニュースサイトでしか取り扱っていない記事」が全く無いニュースサイトにも充分な価値が発生すると思うのである。
以上より今日の結論。
オリジナリティが無いニュースサイトにも意味が有る。「多くのニュースサイト管理人が注目している」という情報に価値が生じるからだ。
僕の周りで浦沢直樹の『PLUTO』という漫画の評判が非常に良いので、僕も読んでみた。手塚治虫の『鉄腕アトム』が原作だそうだが、『鉄腕アトム』は昔のアニメを何話か見た事が有るくらいで、そちらに対する知識は皆無と言って良い。アトムが10万馬力だったか100万馬力だったかすら、記憶がハッキリしない。(10万馬力が途中から100万馬力になったんだっけ?)
さて『PLUTO』だが、読んでみると確かに面白く、「流石は浦沢直樹だ」と思った。まだ『PLUTO』が“名作”と呼べるようになるか否かは分からないが、非常に描き方が巧い。やはり浦沢直樹は一流の漫画家である。
一方で『PLUTO』は、僕の好きなライトノベル作家の一人である上遠野浩平の作品と酷似している箇所が多く見られ、「どういう事だ?」と一人で勝手に悩んでいる。その中の幾つかを、ネタバレにならない程度に挙げてみる。
子供の眼を通した現実世界は、矛盾に満ち溢れて見えるに違いない。
漫画にしろアニメにしろゲームにしろ、そういう子供が好きなメディアでは、「誰かを殺す」或いは「殺そうとする」という行為を極端に忌避する。例え過去に自分の肉親や恋人を殺した犯人が目の前に居たとしても、その犯人を殺す事は許されない行為だと主張する。「死んだ○○さんが、アンタにそんな事(復讐)をして欲しいって願ってるとでも思ってるのかよ!」なんて台詞、金田一少年は何回言った事か。
こういうストーリーを通じて「あぁ、どんな事が有っても殺人はいけないんだな」とか思う子供は多いと思うのだが、ところが少し成長してニュース番組とかを見ると、それまでの価値観と全く違う場面を見せられたりするのである。
例えば幼い子供を殺した殺人犯が死刑を求刑されたのに無期懲役になったりすると、その被害者の両親がテレビに出て来て涙ながらに「死刑になって欲しかった。出来ればこの手で犯人を殺してやりたい」なんて発言をする訳である。そしてテレビキャスターやコメンテーターなど大勢の大人達も、揃って両親に同情したりする。ある時期の子供というのは、(一部の悪人を除いた)大半の大人を“完璧な存在”だと思い込む傾向が有るように感じるのだが、そんな“完璧な大人”が「復讐したい」とか言ってるのだ。一方では「復讐はいけない」とか刷り込まれているというのに。
こういう場面を迎える事で、子供は「どっちが正しいんだ?」とか悩む訳である。で、その内に「大人と言えども“完璧”な人間なんかいないんだ」とか、そういう結論に落ち着く。悩んでる間に自分も段々と大人に近付いていて、それを確信していくようになる。結局の所、「どんな事が有っても殺人はいけない」のは確かだし、けれども子供を殺されて「出来ればこの手で犯人を殺してやりたい」と思う両親の気持ちなんかも理解できたりするようになる。
しかし、さらに子供の受難は続く。基本的には「どんな事が有っても殺人はいけない」として良いだろう。そして、いざ自分が当事者になった時に「出来ればこの手で犯人を殺してやりたい」と思うのも良いだろう。問題は、第三者として見ている限りではどのように感じ取れば良いのか、という事だ。
繰り返しになるが、被害者の両親がテレビに出て来て涙ながらに「死刑になって欲しかった。出来ればこの手で犯人を殺してやりたい」なんて発言をしているのをブラウン管越しに見た、その第三者としての自分はどう感じるべきなのか。基本原則に乗っ取って「殺したいなんて発言は駄目だろ」と思ったり、その逆で完全にその両親に同調して「そうだ、刑務所に乗り込んででも犯人を殺すべきだ」と思ったりする事が考えられる訳だが、どうにもどっちとも“間違っている”ように感じられて仕方なかったりする。
ここまで主観的な文章を書いてしまうと、この文章中の“子供”というのが僕自身の事で有るとバレてしまうかも知れないので、敢えてバラしてしまおう。そう、僕の事である。もう23歳の人間を“子供”と呼称するのもどうかと思うし、僕が子供の頃に『金田一少年の事件簿』なんて漫画は存在しなかったが。
で、まぁその“第三者としての正しい立場”みたいなモノが、どうにも見えて来ないのである。考えられ得る全てのパターンが“間違っている”ように思えて仕方が無い。作家の芥川龍之介は自殺した時に「ボンヤリとした不安」という書き置きを残したそうだが、もしも本当にそういう感情が有るならば、それは何となくこういう気持ちなのかなぁ、と思ったりする。(別に僕が自殺する、という意味ではない。いや、マジで大丈夫なんで、心配しないように。)
ハッキリとせずにモヤモヤとしたままでいる、この独特の気持ち悪さってのは、どうやって処理したら良いのかも正直な所は分からない。何かに打ち込めばそんな不安は吹き飛んでしまうのかも知れないが、このモヤモヤとした気持ちを引き摺ったまま何かに打ち込む事も出来そうも無い。だからせめて、逆に何とか言語化して不安の輪郭だけでも映し出したいと思って今日の日記を書き出したが、その成果は今の所は分からない。何日かすればハッキリとするのかも知れない。
――という辺りで今日の日記は以上。
受験勉強に於いて、志望校の過去問は“限り有る資源”だと考えねばならない。
昨日は中学受験の話をしたので、今日は大学受験について。このサイトを今年の大学受験生が見ているとは思えないけれども。
大学受験に於いて最も重要なのは、まずは教科書レベルの内容を徹底して理解する事だ。これは、どの大学を受験するにしても言える。高校の教科書は中学までと違い、内容がそれなりに充実しているからである。(僕は高校3年生の夏休みまでは、数学と英語以外は教科書しか勉強した事が無かった。)
その後は志望校の合格難度や自分の学力に合わせた問題集を解いていく事になるだろう。一般的には解答が詳しく載っている問題集が“良い問題集”とされているが、これは少し疑問だ。模範解答は少し不親切なくらいな方が、問題を解けなくて解答を見た時に、何とか理解しようと必死になる為に理解力が高まる、という見方も出来るからだ。この辺りは受験生それぞれの資質に拠る処も大きい。
難しいのは、過去問を解き始める時期だ。過去問は「その志望校を受験する為に最も役立つ問題集」だと言っても良い。現在では各問の配点や合格最低点を公表している大学が多く、自分の学力が合格圏内に有るのか否か、かなりの精度で分かるからだ。
それ故、実力が充分に付いていないような余りに早い時期に解いてしまうと、受験直前になって自分の学力が合格圏に達しているのかを計る試金石が無くなってしまう事となる。
この場合、一度やった事の有る過去問を再び解いても意味が無い。勿論、過去問の解き直し自体は学力向上の為に非常に重要だが、既知の問題では正確な学力を測れなくなってしまうからだ。
志望校の過去問は5〜10ヶ年程度やるのが普通だと思うが、少なくとも2,3ヵ年分は受験直前まで残しておくべきである。そして受験本番の数週間前くらいに、時間なども正確に測り、正に自分が受験会場に居る気持ちで過去問に臨むと良いと思う。
以上より今日のイイタイコト。
過去問は自分の学力が合格圏に達しているのかを計る試金石である。それ故、過去問は“限り有る貴重な資源”だと思わねばならない。
今までに書いた数学教育・大学受験に関するテキストを纏めておきます。もしも万が一、今年の受験生がココを見ていたら、最後の追い込みを頑張って下さい。
都内の中学入試が2月1日に集中するのは、高額な入学金が原因である。
気付けば中学受験は、既に終盤を迎えている。今年は中学受験生を受け持っていなかったので、すっかり忘れていた。
現在、日本国内の私立中学は700校にも達し、その内の179校が東京都に集中している。そして、その多くが受験日を2月1日に設定している。
これは受験料収入が学校経営に欠かせない、逼迫した経済状況を抱えている私立校が多い事を考えると、少し腑に落ちない状態である。受験日が分散した方が、受験生が多くの中学を併願できる事となり、受験者数の増加を見込めるからだ。
都内の私立中学校では私学間協定により、入学試験の解禁日を2月1日に設定している。従って都内の私立中は、それ以前に入試を行う事が出来ない。そこで千葉県の私立中学の多くは1月に受験日を設定し、都内の私立中受験者の“練習台”としての役割を担う事で受験者数を大幅に増やし、莫大な受験料収入を得ている。(結果として、募集人数の10倍以上の合格者を出す事も稀ではない。)
ここで2つの疑問が浮かぶ。1つ目は、入学試験の解禁日が2月1日ならば、それよりも受験日を大幅に遅らせる事で受験者数を増やそうとする都内私立中学が殆ど無いのは何故なのか。もう1つは、そもそも何故、入学試験の解禁日を2月1日に設定しているのか、だ。
この2つの問い掛けに対しては、同時に解答する事が可能だ。即ち、入学金に纏わる数々の問題である。
私立中学の入試は、受験日から合格発表までの期間が極端に短い。殆どの学校は受験日の次の日に合格者を発表するし、早ければ即日、遅くても2日後だ。そして合格者に対する入学金の納付期間も、同様に非常に短い。通常は合格発表から数日以内だ。
つまり受験日が遅い中学の合格発表の時期には、受験日が早い中学の入学金納付期限が切れてしまっている可能性が生ずる。
一般的な私立中学の受験料は2万円前後である。この金額は決して安いとは言えないものの、一般的な家庭でも何校か併願する事が可能な金額ではある。
ところが入学金は安くても20万、中学によっては100万円近い事も有り、平均的家庭では複数の学校に入学金を納める事は非常に困難である。入学金に初年度の授業料も加えた“初年度納付金”は、2004年度の平均で99万2000円。最も高いのは慶應義塾湘南中学校で約150万円であった。
さらに多くの私立中学では“寄付金”の名目で、入学時に1口10万円単位の金を半強制的に徴収したりする。私立中学の入学には兎角、金が掛かるのだ。(全ての私立中学が“寄付金”を募っている訳ではないので、誤解の無いように。)
このような状況の中、一般的な家庭が複数の私立中学に対して入学金を払える訳が無い。一昨年から昨年にかけて、大学受験に於いては入学を辞退した場合に、前納した授業料などを返還しなければならないという裁判判例が幾つか有るが、その判例では入学金に関しては大学側に返還義務は無いともされている。これは中学受験の場合も同様だろう。一度納付した高額な入学金は、二度と戻って来ないのだ。
従って、都内の私立中学が受験日を遅くに設定すると、多くの受験生は既に他の中学に入学金を納付した後となってしまう為、充分な受験生を集められない公算が高い。また、私学間協定による入学試験の解禁日を設定しないと、受験日が際限無く前倒しされる結果を招いてしまう。この為に都内の私立中学の多くが、受験日を2月1日にしているのである。
以上より今日の結論。
都内の中学入試が私学間協定による入学試験の解禁日である2月1日に集中するのは、非常に高額で返還される事の無い入学金を、極めて短い納付期間で受験合格者に課している為である。
メールアドレスを各所で公開している所為か、膨大な量の迷惑メール(スパムメール)を受信する。殆どは即メーラーのゴミ箱行きだが、たまに「おや?」と思うようなモノも有ったりする。そんな中から幾つかを紹介。(本文は短く省略。)
【送信者名:misato】
【件名:「未承諾広告※」新規オープンキャンペーン実施中!】
【本文:よりすぐりの女の子が待ってるよ、あなた好みの子がきっと見つかる☆】
最もメジャーなスパム。1日30通くらい来る事も多かったが、最近は減少傾向。
【送信者名:asauka_mitamura】
【件名:アドレス変更のお知らせです。】
【本文:余りにも悪戯のメールが多い為、メールアドレスを変更致しました。】
今年になって増えて来たタイプ。送信者名に拠っては、本当の友人だと思ってしまったり。
【送信者名:夕紀】
【件名:初めまして、】
【本文:突然、メールしてすいません私は夕紀って言います。私は34歳です。良かったらメールしませんか? 色々話してみたいんですがどうですか?】
【送信者名:夕紀】
【件名:いきなりでびっくりですよね?】
【本文:いきなりメールしてビックリしてると思うんですけど、掲示板に載ってて話聞いてもらえるかな?って思ってメールしたんですよ。いきなりメールしちゃってビックリしてると思いますけど、大丈夫ですか? 私は34歳の主婦です。結婚して11年なんですけど、子供は2人10歳と7歳の男の子がいます。なんか突然メールしちゃったんで、驚いてると思いますけど、良かったら話だけでも聞いてもらえると嬉しいです。】
こういう連続モノも最近は多い。あと『夕紀』って名前が、漢字も全く同じ知り合いが居るので、ちょっと焦った。話だけは聞くから、続きを送って来て欲しいものだ。
【送信者名:内田】
【件名:缶コーヒーを毎日2本以上飲む方は、自殺行為です】
【本文:糖尿病先進国アメリカでは、肥満になるお菓子のTVコマーシャルは、全面禁止されています。糖尿病と診断されてからでは遅いのです。】
不覚にも「缶コーヒーに関するコラムなんて書いたっけなぁ?」と思ってしまった。実際は普通の広告メール。でもアメリカでは、肥満になるお菓子のTVコマーシャルは、全面禁止されていますって本当だろうか? 気になる。
【送信者名:pappakapar】
【件名:こんにちは。】
【本文:初めまして。いきなりメールをお送りして申し訳ありません。失礼を承知でお尋ねしますが…「恋人」「彼女」「結婚」「割切り」「不倫」…このキーワードに好奇心をお持ちではないですか? 今回は25歳以上の方にだけ、具体的にこの情報をお教えしたいと思います。もし興味のある方は件名を(教えて)としてメールを返信してください。折り返しメールさせていただきます。但し、かなりエッチな内容になりますので、そういったものに嫌悪感を持たれている方はご遠慮ください。】
何故25歳以上? 僕は23歳だからエッチな内容は教えて貰えないのか。残念!
【送信者名:love】
【件名:hhhhhhhhhhhhhhhhh】
【本文:あなたの股間を直撃する!超H系サイトといえば「H-shot」!!】
そんなに『h』を強調しなくても。しかも『H』と大文字じゃないと、エッチな感じがしなくないか?
【送信者名:あけおめ!】
【件名:ミント】
【本文:恥ずかしいポーズでヤられるのって結構好きかも みんなに見られたらもっと興奮しちゃうかも!!】
取り敢えず、『送信者名』と『件名』を逆にすべきかと。
【送信者名:鈴木清江】
【件名:邪魔する奴は指先ひとつで】
【本文:今すぐ現金が欲しい方へ! 時給5万円への挑戦状。爆裂裏攻略法です。】
件名を見て「殺し屋からのメールか!?」と思ってしまった。
【送信者名:king】
【件名:制服だいすき!】
【本文:萌え萌えな制服に身を包んだ美少女たちが大集合!!あなたのお好みの制服はどれ?】
確かに制服大好き。しかも『萌え萌えな制服で美少女』とは是非見たい。しかし何処にもURLが載ってないよ!
【送信者名:めぐみ】
【件名:お願い。。。】
【本文:真剣なお願いがあります。貴方の精子をください! 子供が出来なくて困ってます。絶対迷惑はかけませんので中出ししてください。一回10万円で、妊娠できたら50万円お礼として払います。詳しくはすぐに連絡先を教えます。出来れば本日中に返事をください。いちよプロフィールも載せておきますね。29歳、157cm、45kg、スリーサイズ<88・60・87>写メ有ります。引き受けて頂けるならここに登録してもらえますか? 掲示板で待ってます。名前はめぐみです。】
そのプロポーションなら、幾らでも相手は見付かりそうなものだが。顔が酷い、とか?
【送信者名:藤堂理沙】
【件名:初めまして、理沙です。こんにちわ】
【本文:はじめまして。藤堂理沙といいます。29歳です。あなたのプロフィールを見たところお近くにお住まいのようでしたし、楽しくお付き合いできる方を探しててメールしました。正直に自己紹介させていただきますと理沙は結婚暦3年の主婦なんです。。。お恥ずかしい話、セックスレスで身体がなんとなく寂しというか不安で。】
【送信者名:藤堂理沙】
【件名:初めまして、理沙です。こんにちわ】
【本文:はじめまして。藤堂理沙といいます。27歳です。あなたのプロフィールを見たところお近くにお住まいのようでしたし、楽しくお付き合いできる方を探しててメールしました。正直に自己紹介させていただきますと理沙は結婚暦3年の主婦なんです。。。お恥ずかしい話、セックスレスで身体がなんとなく寂しというか不安で。】
理沙さん、若返ってる!!
【送信者名:県立白姫女子校保険室】
【件名:白姫女子校保健室からのおしらせ】
【本文:この前の妊娠検査について県立白姫女子高校保健室からのお知らせです。】
最近、各所を賑わしているスパム。僕は妊娠できないし、それを心配する立場でも無いなぁ。『白姫女子校』は架空の学校だと思われるが、『google』で「白姫女子校」と検索すると、4万件以上ヒットする。
「アクセス数=無言の感想」という捉え方をすれば、サイト閉鎖の危機を乗り越えられるかも知れない。
関連リンク1:「終了」(『「いんちき」心理学研究所』)
関連リンク2:「「いんちき心理学研究所」の終了」(『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々』)
関連リンク3:「沈黙のオーディエンス」(『憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々』)
上記リンク全てを簡単に要約すれば、「アクセス数が増えても、読者からのメールが増える訳ではない。読者が増えても反応が少ないという状態は、書き手の孤独感を増して行く。結果として、サイト閉鎖に至る」という事になるだろうか。
「読者からのメールや書き込みが少なくて寂しい。もっと反応が欲しい」という事は僕自身も何度か書いたし、今でも同様に思っている。僕の場合、月に1,2回くらいの割合で“(自分的には)自信作”のテキストが書けたりするのだが、そんなテキストでも反応が一つも無いという事の方が多いし、そういう時は孤独感を味わう事も有る。
ただ孤独は孤独なのだが、だからテキストを書くモチベーションが下がるかと言うと、僕の場合はそうでもない。
思うに、「アクセス数は多いが反応が少ないサイト」と「アクセス数は少ないが反応が多いサイト」とを比較すれば、どちらのサイトが自分にとって好ましいかは人それぞれだろう。しかし、「アクセス数が多いが反応が少ないサイト」と「アクセス数が少なくて反応も少ないサイト」とを比較するとどうだろう? 確かに「アクセス数は多いが反応が少ないサイト」では孤独感を味わうかも知れないが、テキストを書くモチベーションが高くなるのも、僕の場合は「アクセス数は多いが反応が少ないサイト」の方である。
これは“アクセス数”というモノの捉え方に拠る部分が、重要な位置を占める気がする。ココのようなテキストサイトにとって、アクセス数が増える最も大きな要因は、個人ニュースサイトからのリンクである。
関連リンク4:「ネット上での親近感」
関連リンク5:「ネット上での信頼感」
リンク先で書いたように、僕は他サイトの管理人さんに対して親近感や信頼感を感じる事が有る。個人ニュースサイトからリンクされるというのは、例えコメント無しでリンクを貼られたとしても、何らかの親近感や信頼感が存在していると僕は信じている。そして、その親近感や信頼感の結果が、“アクセス数の増加”として顕れているのではないか、と思うのだ。
そうなると『アクセス数』というのは、親近感や信頼感が産み出した『無言の感想』だと考える事が出来る。確かに読者からメールなどを貰わなければ、自分のテキストがどう思われているかは分からない。肯定的に受け取られているのか、それとも逆に否定的に思われているのか、それすら分からない。しかし、そういう区別が付かないという事を除けば、アクセス数は『感想』の一種ではないか? 即ち、『無言の感想』だ。
“アクセス数という名の感想”は無言だが、読者がテキストを読んで何にも感じないという事は有り得ない。その裏には肯定や否定、納得や反感などの様々な感情が隠されている。反応が無いのは寂しいが、その隠れた感情を察知する事で、テキストを書くモチベーションを維持する事は可能なのではないだろうか?
もしかしたら「アクセス数=無言の感想」なんて考え方は詭弁かも知れない。しかし少なくとも僕はそう信じているし、だから孤独を感じたとしても、モチベーションを下げずにいられるような気がするのだ。
以上より今日のイイタイコト。
アクセス数が増加しても読者からの反応が無いと、確かにインターネット独特の孤独を感じる。しかし“アクセス数の増加”を、何らかの親近感や信頼感のような感情が顕在化したモノだと考える事で、「アクセス数=無言の感想」と捉える事が出来る。これにより、サイト運営のモチベーション低下を防ぐ事が可能である。